1853年、ペリー艦隊が浦賀沖に現れたとき、日本側は何語で交渉したのでしょうか。
答えは、主にオランダ語です。日本側の通詞が日本語をオランダ語に訳し、アメリカ側の通訳アントン・ポートマンがオランダ語を英語に訳しました。外交文書では英語・日本語だけでなく、オランダ語や漢文も使われました。
この通訳体制は黒船来航の場で突然生まれたものではありません。長崎通詞の制度、1808年のフェートン号事件後の英語学習、漂流民がもたらした海外経験、ラナルド・マクドナルドによる英語指導が重なり、堀達之助や森山栄之助の外交実務へつながりました。
30秒でわかる結論
- 江戸時代の日本では、オランダ語が西洋情報を受け取る基本言語でした。
- 1853年のペリー初来航では、堀達之助らが日本側の通訳を務め、口頭交渉は主に日本語・オランダ語・英語を介して進みました。[1]
- アメリカ側ではアントン・ポートマンがオランダ語通訳を担い、サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズが漢文・中国語文書の作成に関わりました。[16][17]
- 1848年に来日したラナルド・マクドナルドは、長崎で森山栄之助ら14名の通詞に英語を教えました。[13]
- 1854年の日米和親条約交渉では、森山栄之助が重要な通訳を務めました。[1]
- 1862年刊行の『英和対訳袖珍辞書』は、蘭学から英学への移行を支えた本格的な印刷英和辞書です。[5]
- 1858年の安政五カ国条約以後、外国語教育は通詞個人の技能から幕府の組織的な人材育成へ移りました。[1]
年表|フェートン号事件から幕府の語学教育へ
| 年 | 出来事 | 幕末英語史での意味 |
|---|---|---|
| 1808年 | フェートン号事件 | 長崎のオランダ通詞に英語学習が命じられる |
| 1814年 | 『諳厄利亜語林大成』完成 | 約6,000語を収めた初期の本格的な英和辞書が生まれる |
| 1832年 | 宝順丸漂流 | 音吉ら漂流民が海外の言語と知識を身につける |
| 1837年 | モリソン号事件 | 漂流民送還と通商要求が幕府の異国船政策と衝突する |
| 1839年 | 蛮社の獄 | 海外情報と対外政策への批判が政治問題になる |
| 1848年 | ラナルド・マクドナルド来日 | 長崎通詞が北米出身者から英語の発音と会話を学ぶ |
| 1853年 | ペリー初来航 | 堀達之助らがオランダ語を軸とする通訳実務を担う |
| 1854年 | 日米和親条約 | 森山栄之助らが条約交渉と文書作成を支える |
| 1858年 | 安政五カ国条約 | 各国語による交渉に備え、通訳の組織的育成が急務となる |
| 1862年 | 『英和対訳袖珍辞書』刊行 | 印刷された本格的な英和辞書が英語学習を広げる |
| 1865年 | 横浜に語学所を開設 | 幕府による寄宿舎付きの外国語教育が始まり、のちに英語も教えられる |
江戸時代、日本は何語で外国と話していたのか
長崎通詞は通訳・翻訳・外交実務を担った
通詞とは、江戸時代に外国語の通訳と翻訳を担った専門職です。長崎には、中国関係を扱う唐通事と、オランダ関係を扱う阿蘭陀通詞がいました。
職務は口頭通訳に限られません。貿易実務、外交文書、オランダ商館長との交渉、海外情報の翻訳、学術書や技術書の受け入れまで担いました。通詞が訳した情報は蘭学の基盤となり、医学、天文学、地理、兵学へ広がりました。[4][13]
蘭学における翻訳の実際は、『蘭学事始』の解説でも詳しく紹介しています。
オランダ語が西洋との共通言語になった理由
江戸幕府は長崎を窓口として、オランダや中国との関係を維持しました。西洋の学問と国際情勢を知る基本言語はオランダ語となり、通詞の家では語学と外交実務が世代を越えて継承されました。
英語圏の船が来航しても、日本側の実務者が最も確実に使える西洋語はオランダ語でした。アメリカ側がオランダ語通訳を用意したことで、両者は既存の言語資源を使って交渉できました。
英語学習の始まり|フェートン号事件と初期英和辞書
1808年、イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港へ侵入し、オランダ商館員を人質に取りました。長崎の通詞はオランダ語には通じていましたが、イギリス船への対応力が不足していました。
事件後、幕府はオランダ通詞に英語学習を命じました。オランダ商館長ヤン・コック・ブロンホフの指導を受け、本木庄左衛門正栄らは英語研究を進めます。その成果として1814年に『諳厄利亜語林大成』が完成しました。長崎市の解説では約6,000語を収めた最初のまとまった英和辞書と位置づけられています。[13]
日本の英語学習は、欧米文化への憧れより先に、港湾警備と外交危機への対応から始まりました。
漂流民が運んだ英語と海外情報
宝順丸の漂流と音吉
1832年、尾張国知多郡小野浦村の宝順丸が江戸へ向かう途中で遭難しました。生き残った音吉、岩吉、久吉は北米側に漂着し、ハワイ、ロンドン、マカオへ移送されました。
音吉はマカオで宣教師カール・ギュツラフの日本語訳聖書づくりに協力しました。漂流民は海外で言語を身につけ、日本語と日本事情を外国側へ伝える媒介者にもなりました。[11][12]
モリソン号事件と蛮社の獄
1837年、アメリカ船モリソン号は音吉ら日本人漂流民の送還を目的の一つとして来航しました。当時の幕府は異国船打払令を運用しており、モリソン号は浦賀と鹿児島で砲撃を受けて退去しました。
渡辺崋山や高野長英は、外国船を一律に砲撃する政策を批判しました。1839年に両者らが処罰された事件が蛮社の獄です。漂流民送還、通商要求、海外情報の評価が一つの政治問題として結びつきました。[15]
ラナルド・マクドナルド|長崎通詞に英語を教えた人物
北米太平洋岸から利尻島へ
ラナルド・マクドナルドは1824年、北米太平洋岸のフォート・ジョージ、現在のオレゴン州アストリアにあたる地域で生まれました。父はハドソン湾会社に関わるスコットランド系の人物、母はチヌーク系の女性コアレクソアとされています。[9][10]
1848年、捕鯨船プリマス号から小舟で離れ、利尻島の野塚に上陸しました。その後、宗谷、松前を経て長崎へ送られ、大悲庵で監視下に置かれました。[8]
14名の通詞が牢格子越しに学んだ
長崎では森山栄之助ら14名の通詞がマクドナルドから英語を学びました。長崎市の解説には、牢格子を隔てて向かい合い、音読を交えながら英会話を学んだことが記されています。マクドナルドが残した語彙記録には長崎の方言や発音の特徴も含まれ、授業が綴りの暗記だけでなく、声を聞き分けて再現する学習だったことがわかります。[13]
森山はこの経験を既存のオランダ語能力と結びつけ、ペリー再来航時の交渉で力を発揮しました。
堀達之助がマクドナルドから直接学んだかについては資料が分かれます。長崎市の複数の解説には堀も学んだとする記述がありますが、14名の確定的な名簿に堀を含めない説明もあります。両者を直接の師弟と断定せず、堀と森山が同じ長崎通詞の語学環境から出た点を押さえるのが安全です。[13]
黒船来航の通訳経路|日本語・オランダ語・英語・漢文
口頭交渉は三つの言語をつないだ
ペリー艦隊の公式記録には、日本側の発言を通詞が日本語からオランダ語へ訳し、アメリカ側のアントン・ポートマンがオランダ語から英語へ訳した場面が記されています。[16]
| 話し手 | 通訳の流れ | 担当 |
|---|---|---|
| 日本側役人 | 日本語 → オランダ語 | 堀達之助、森山栄之助ら日本側通詞 |
| 両者の中継 | オランダ語 ↔ 英語 | アントン・ポートマンらアメリカ側通訳 |
| アメリカ側士官 | 英語 → オランダ語 → 日本語 | ポートマンと日本側通詞 |
この経路には二段階の通訳が入ります。一語ずつ機械的に置き換える作業ではなく、外交上の要求、役職名、儀礼、数量、期限を両国の制度に合わせて伝える仕事でした。
外交文書は口頭通訳と別の工程だった
交渉の発言を訳す口頭通訳と、条約・国書を作る文書翻訳は別の工程です。1854年の日米和親条約では、英語・日本語に加えてオランダ語版と漢文版が作られました。
アメリカ側のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズは中国語に通じ、漢文版の調整に関わりました。ブラウン大学の資料では、ウィリアムズと日本側の漢文担当者が文案を照合し、ほぼ同じ漢文を作成した経緯が紹介されています。[17]
| 仕事 | 目的 | 主な言語 |
|---|---|---|
| 口頭通訳 | 会談、要求、回答、日程調整をその場で伝える | 日本語・オランダ語・英語 |
| 文書翻訳 | 国書、回答書、条約文の内容を固定する | 日本語・英語・オランダ語・漢文 |
| 照合 | 複数言語の文面で意味の差を減らす | 各言語版を相互に比較 |
堀達之助の「I can speak Dutch!」
1853年、堀達之助はサスケハナ号へ近づき、「I can speak Dutch!」と発したと伝えられます。『ペリー艦隊日本遠征記』に由来するこの言葉は、日本側がオランダ語を交渉の入口として選んだことを端的に表します。[1][18]
英語の一言が有名になりましたが、実際の交渉を支えたのは長年蓄積されたオランダ語の制度と人材でした。
森山栄之助と1854年の条約交渉
1854年、ペリーが再来航すると、森山栄之助が日本側通訳の中心となりました。森山は長崎通詞の家に生まれ、オランダ語を基礎に英語も学びました。マクドナルドから英語を学んだ経験もあり、日米和親条約の交渉と文書調整を支えました。[1]
堀達之助|通訳から辞書編纂へ
中山家に生まれ、堀家を継ぐ
堀達之助は1823年、長崎のオランダ通詞・中山家に生まれました。堀家を継いだ経緯は資料によって表現が異なります。長崎市や函館の人物資料は堀家の養子になったとし、立教大学図書館は堀儀左衛門政信の娘・房と結婚して堀家を嗣いだと記します。共通するのは、通詞の中山家から同じく通詞の堀家へ入り、堀家の職務を継承した点です。[6][13][19]
1845年、オランダ小通詞末席となり、長崎の通詞制度で外交・翻訳実務を身につけました。この経験が1853年の黒船対応につながります。
入牢と吉田松陰との交流
ペリー来航後、堀は下田詰めとなりました。その後、プロイセン関係者リュードルフの通商要求書簡をめぐる事件で入牢します。獄中では吉田松陰と交流したと伝えられています。[6][7]
蕃書調所・開成所・箱館での仕事
出獄後、堀は幕府の洋学・翻訳機関に入り、対訳辞書の編集主任となりました。蕃書調所、洋書調所、開成所と改称された機関で、辞書編纂、外国新聞の翻訳、英学教育に携わります。
1865年には箱館奉行所通詞として箱館へ赴任し、英語稽古所や箱館洋学所に関わりました。明治維新後も函館に残り、開拓使の一等訳官、大主典を務め、1872年に退職、1894年に亡くなりました。[6]
『英和対訳袖珍辞書』|語数が資料によって違う理由
堀達之助を編集主任として1862年に刊行された『英和対訳袖珍辞書』は、英語書名を “A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language” といいます。「袖珍」は携帯できる小型本を表し、英語の pocket に対応します。[5]
西周助、千村五郎、竹原勇四郎、箕作貞一郎らが編集に協力し、幕府洋書調所から初版200部が刊行されました。英蘭辞書を底本とし、『和蘭字彙』などの蘭和辞書やメドハーストの『英華字典』も利用しています。[5]
約35,000語と約60,000語は数える対象が違う
| 数字 | 資料 | 数えている対象 |
|---|---|---|
| 約35,000 | 立教大学図書館 | 本文の見出し語数 |
| 約60,000 | 長崎市の解説 | 派生語を含む訳語数 |
数字の差は、見出し語を数えるか、派生語を含む日本語訳まで数えるかによって生じます。「収録語数は約35,000語」とだけ書くより、「見出し語約35,000、派生語を含む訳語約60,000」と区別すると実態をつかみやすくなります。[5][13]
本書は写本ではなく印刷物として流通し、1866年の改正増補版、1867年版、1869年の薩摩辞書などへ受け継がれました。英語学習の需要に対し、共通の訳語を大量に供給した点に大きな意義があります。
中浜万次郎・森山栄之助・堀達之助の違い
| 人物 | 外国語を学んだ経路 | 主な役割 |
|---|---|---|
| 中浜万次郎 | 漂流後、アメリカで生活 | 英語、航海術、海外事情を幕府へ伝える |
| 森山栄之助 | 長崎通詞の家でオランダ語を学び、マクドナルドから英語を学ぶ | 1854年の条約交渉で口頭通訳と文書調整を担う |
| 堀達之助 | 長崎通詞制度と幕府の翻訳実務で学ぶ | 1853年の黒船対応、辞書編纂、英学教育をつなぐ |
万次郎は海外生活による実践知、森山と堀は通詞制度による専門知を持っていました。幕府は両方の経路から得た人材を外交と翻訳に活用しました。
1858年以後|語学が家業から国家的な教育へ変わる
1858年の安政五カ国条約は、英語、フランス語、オランダ語、ロシア語などを扱う人材の不足を鮮明にしました。条約では一定期間後、各国が自国語で公文書を送る仕組みが定められ、幕府は通訳と翻訳官を急いで育成する必要に迫られました。[1][20]
当初は江戸の外国公使宿所で英語やフランス語を学ばせ、1865年には横浜に寄宿舎付きの語学所を設けました。最初はフランス語を中心とし、のちに英語教育も行われました。長崎通詞の家で継承された語学は、幕府が学校と官僚組織で育てる技能へ変わっていきます。[1]
開国後の海外使節と留学生については、幕末・明治の海外使節団ガイドで流れを整理しています。開港後の港湾・通商実務は、小栗忠順の解説もあわせて読むと理解が深まります。
よくある誤解
黒船が来るまで日本は海外情報を持っていなかった
幕府と知識人は、蘭書、オランダ風説書、漂流民の証言、外国船来航の報告を通じて海外情勢を集めていました。黒船来航は情報収集の始まりではなく、蓄積した知識を外交交渉へ投入する局面でした。
ペリーとの交渉は英語だけで進んだ
口頭交渉では日本語・オランダ語・英語が使われ、文書には漢文も加わりました。オランダ語は日本側とアメリカ側をつなぐ中継言語でした。
ラナルド・マクドナルドは日本人の血を引いていた
父はスコットランド系、母はチヌーク系とされます。本人は先住民と日本人のつながりを想像して日本へ関心を持ちましたが、日本人の血統を示す史料は知られていません。[9][10]
『英和対訳袖珍辞書』が最初の英和辞書だった
1814年の『諳厄利亜語林大成』など、より早い英和辞書があります。『英和対訳袖珍辞書』の特徴は、約35,000の見出し語を収め、印刷によって広く利用された本格的な英和辞書である点です。[3][5]
現地とデジタル資料でたどる幕末英語史
- 長崎:出島、阿蘭陀通詞・唐通事に関する展示、マクドナルド顕彰碑
- 北海道利尻富士町:野塚展望台のラナルド・マクドナルド上陸記念碑
- 愛知県美浜町小野浦:音吉・岩吉・久吉を記念する碑
- 立教大学図書館:『英和対訳袖珍辞書』初版のデジタル画像
- 国立公文書館・国立国会図書館:幕末の語学、外交文書、辞書のデジタル展示
FAQ
黒船来航時、日本側に英語を話す人はいましたか?
英語を学んだ通詞や中浜万次郎がいました。ただし、幕府の対外実務はオランダ語を中心に整備されていたため、ペリーとの交渉でもオランダ語が中継言語となりました。
堀達之助はラナルド・マクドナルドの教え子ですか?
資料によって記述が分かれます。森山栄之助が14名の受講者に含まれたことは広く確認できます。堀については直接学んだとする地域資料がある一方、確定的な受講者名簿に含めない説明もあります。
アントン・ポートマンは何をした人物ですか?
ペリー艦隊に加わったオランダ語通訳です。日本側通詞が日本語をオランダ語へ訳し、ポートマンが英語へ中継しました。のちにアメリカ公使館でも通訳を務めました。[16][20]
サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズは何をした人物ですか?
中国語に通じた宣教師・外交官で、ペリー艦隊では漢文・中国語関係の通訳と文書作成を担いました。日米和親条約の漢文版を日本側担当者と照合した人物として知られます。[17]
『英和対訳袖珍辞書』の収録語数は35,000語ですか、60,000語ですか?
立教大学図書館は見出し語を約35,000と数え、長崎市の解説は派生語を含む訳語を約60,000と数えています。対象の違いによる数字の差です。
まとめ|黒船を通訳したのは一人の英語名人ではなかった
黒船来航時の交渉は、日本語、オランダ語、英語、漢文を扱う複数の通訳者と翻訳者によって支えられました。
堀達之助は1853年の初動対応と辞書編纂をつなぎ、森山栄之助は1854年の条約交渉を支えました。アメリカ側ではポートマンがオランダ語を英語へ中継し、ウィリアムズが漢文文書に関わりました。その背後には、長崎通詞の制度、フェートン号事件後の英語研究、漂流民の海外経験、マクドナルドの英語指導がありました。
1858年以後、外国語は通詞の家業から幕府の組織的教育へ移ります。黒船来航は、日本の英語史における出発点ではなく、江戸時代の語学蓄積が外交の現場で試され、近代的な外国語教育へ組み替えられた転換点でした。
参考文献・参考サイト
- 国立公文書館「激動幕末―開国の衝撃― Ⅴ.語学熱と海外情報の収集」
- 国立公文書館「激動幕末―開国の衝撃― Ⅱ.アヘン戦争の戦慄」
- 国立国会図書館「外国語への道しるべ―幕末・明治の辞書類―」
- 国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流 第2部 3.オランダ語の学習」
- 立教大学図書館「『英和対訳袖珍辞書』について」
- 函館市文化・スポーツ振興財団「堀達之助」
- 函館市地域資料アーカイブ「函館市史 堀達之助 関連検索」
- 利尻富士町教育委員会「利尻の近世史III ラナルド・マクドナルド」
- The Oregon Encyclopedia “Ranald MacDonald (1824–1894)”
- Dictionary of Canadian Biography “MACDONALD, RANALD”
- 愛知県美浜町「にっぽん音吉漂流の記」
- 慶應義塾「漂流人 山本音吉」
- 長崎市「長崎発!辞書のススメ」
- 横須賀市「ペリーの黒船」
- 奥州市「高野長英 6.蛮社の獄」
- Brown University Library, “Perry In Japan: Narrative of the Expedition”
- Brown University Library, “Samuel Wells Williams”
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「ペリー来航時のオランダ語交渉」
- 立教大学図書館「堀達之助について」
- U.S. Department of State, Office of the Historian, “Mr. Pruyn to Mr. Seward, June 21, 1862”

