黒船来航を通訳した人々|堀達之助・ラナルド・マクドナルドから見る幕末英語史

黒船来航というと、巨大な軍艦が浦賀に現れ、日本が大きな衝撃を受けた出来事として語られます。

けれども、黒船来航は「軍艦の事件」であると同時に、「言葉の事件」でもありました。

ペリー艦隊がやってきたとき、日本側は何語で話したのでしょうか。英語が通じたのでしょうか。それとも、別の言葉を介して交渉したのでしょうか。

その答えを追っていくと、堀達之助、森山栄之助、ラナルド・マクドナルド、音吉、中浜万次郎といった人々が、一本の線でつながって見えてきます。

この記事では、幕末の通詞・辞書編纂者である堀達之助を入口に、黒船来航の裏側にあった「英語・通訳・漂流民・辞書づくり」の歴史を、初心者向けに整理します。

30秒でわかる結論

  • 江戸時代の日本は、英語ではなく、主にオランダ語を通じて西洋と向き合っていました。
  • 幕府の通詞は、現代の通訳だけでなく、外交・貿易・翻訳・情報収集を担う専門職でした。
  • 1808年のフェートン号事件以後、長崎の通詞たちは英語学習の必要に迫られました。
  • 1832年の宝順丸漂流、1837年のモリソン号事件、1839年の蛮社の獄は、幕末の対外意識を変える重要な前史でした。
  • 1848年に日本へ来たラナルド・マクドナルドは、長崎で森山栄之助ら通詞に英語を教えました。
  • 1853年のペリー来航時、堀達之助は通訳として対応しましたが、交渉ではオランダ語が重要な役割を果たしました。
  • 1862年の『英和対訳袖珍辞書』は、開国後の英語学習を支える大きな成果でした。

つまり黒船来航の裏側には、「突然、外国に驚いた日本」ではなく、漂流民、密入国者、長崎通詞、幕府官僚、辞書編纂者が関わる、もうひとつの幕末史がありました。

全体像の年表|フェートン号事件から英和辞書へ

出来事 言葉の歴史としての意味
1808年 フェートン号事件 英語を話せる通詞の必要性が意識される
1832年 宝順丸が漂流し、音吉らが海外へ 漂流民が日本と世界をつなぐ存在になる
1837年 モリソン号事件 漂流民送還と通商要求が、幕府の排外政策と衝突する
1839年 蛮社の獄 海外情報をどう扱うかが政治問題になる
1848年 ラナルド・マクドナルドが利尻島方面から来日 長崎通詞が英語母語話者から学ぶ機会を得る
1853年 ペリー初来航 堀達之助ら通詞が黒船対応に関わる
1854年 日米和親条約 森山栄之助らが交渉通訳で重要な役割を果たす
1862年 『英和対訳袖珍辞書』刊行 英語学習を広げる基礎的な辞書が生まれる

黒船来航は「言葉の事件」でもあった

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが率いる黒船艦隊が浦賀沖に現れました。

艦隊は、蒸気船サスケハナ号、ミシシッピ号、帆船プリマス号、サラトガ号の4隻でした。蒸気船が黒煙を上げて進む姿は、当時の人々に強い印象を与えました。

ただし、ここで注目したいのは大砲や蒸気機関だけではありません。もっと切実だったのは、「相手が何を求めているのかを、どう読み取るか」でした。

外交交渉は、言葉を間違えれば国の方針そのものが変わりかねません。相手の要求を聞き、文書を読み、返答をつくり、幕府の考えを伝えるには、語学と政治実務の両方が必要でした。

その最前線にいたのが、長崎で育った通詞たちです。

江戸時代、日本は何語で外国と話していたのか

長崎通詞とは何か

通詞とは、江戸時代に外国語の通訳・翻訳を担った専門職です。長崎には、中国との関係に関わる唐通事と、オランダとの関係に関わる阿蘭陀通詞がいました。

現代の感覚では「通訳」と聞くと、会議や観光案内で言葉を訳す人を想像しがちです。しかし、江戸時代の通詞はそれだけではありません。

彼らは、貿易実務、外交文書、商館長とのやりとり、海外情報の翻訳、学問や技術情報の受け入れにも関わりました。オランダ商館からもたらされる情報や書物は、通詞を通じて日本語に置き換えられ、蘭学の土台になっていきました。

つまり通詞は、「言葉を訳す人」であると同時に、「海外情報を日本社会へ運び込む人」でもありました。

なぜ英語ではなくオランダ語だったのか

江戸時代の日本は、長崎を窓口としてオランダや中国と限定的に関係を保っていました。そのため、西洋について知るための基本言語は英語ではなく、オランダ語でした。

オランダ語は、医学、天文学、地理、兵学、世界情勢を知るための入口でした。蘭学という言葉が示すように、江戸時代の日本にとってオランダ語は、単なる外国語ではなく、世界を理解するための制度そのものだったのです。

そのため、ペリー来航時にも、最初から英語だけで交渉が進んだわけではありません。英語を話すアメリカ側と、オランダ語を基礎にしてきた日本側の間で、通訳の仕組みをどう組むかが大きな問題になりました。

英語が必要になる前史|フェートン号事件から漂流民の時代へ

フェートン号事件と英語学習の必要性

英語への関心が幕府の実務上の問題として強まるきっかけの一つが、1808年のフェートン号事件です。

この事件では、イギリス軍艦フェートン号が長崎に不法入港しました。日本側はオランダ語を通じた対応には慣れていましたが、イギリス船への対応には大きな不安を抱えました。

事件後、幕府は英語の通訳を用意する必要を意識し、長崎のオランダ通詞たちに英語学習を命じました。ここで重要なのは、英語学習が「学校教育」から始まったのではなく、危機管理と外交実務の必要から始まったことです。

尾張の宝順丸漂流と音吉

次に登場するのが、尾張国知多郡小野浦村の船乗り、音吉です。音吉は、乙吉とも表記されます。

1832年、音吉らが乗った宝順丸は、江戸へ向かう途中で嵐に遭い、太平洋を長く漂流しました。生き残った音吉、岩吉、久吉は、北米側に漂着し、その後イギリス系の人々に保護され、ハワイ、ロンドン、マカオへと運ばれていきます。

ここで音吉は、単なる遭難者ではなくなります。マカオで宣教師ギュツラフの日本語訳聖書づくりに協力し、やがて漂流民送還の試みに関わることになったからです。

幕末の海外交流は、政府や大名だけで動いたわけではありません。遭難し、帰国できず、海外で生きることになった日本人漂流民もまた、日本と世界をつなぐ媒介者になりました。

モリソン号事件と蛮社の獄|海外を知ろうとした人々への圧力

1837年、アメリカ船モリソン号が日本へ来航しました。目的の一つには、日本人漂流民の送還がありました。音吉らもこの流れに関わります。

しかし当時の幕府は、異国船打払令のもとで、オランダ・中国以外の船への警戒を強めていました。モリソン号は浦賀や鹿児島で砲撃を受け、漂流民を上陸させることができないまま退去します。

この出来事をめぐり、渡辺崋山や高野長英らは幕府の対外政策を批判的に論じました。1839年、彼らは処罰されます。これが蛮社の獄です。

この事件は、「海外を知ること」が学問だけでは済まなくなっていたことを示しています。外国船が近づく現実、漂流民をどう扱うかという人道問題、通商をどう判断するかという政策問題が、ひとつに絡み合っていたのです。

ラナルド・マクドナルド|日本に来た北米出身の英語教師

なぜ日本へ来たのか

ラナルド・マクドナルドは、1824年、北米太平洋岸のフォート・ジョージ、現在のアメリカ・オレゴン州アストリアにあたる地域で生まれました。父はハドソン湾会社に関わるスコットランド系の人物、母はチヌーク族系の女性コアレクソア、またはレイヴンとされています。

彼については、かつて「日本人にルーツを持つと信じていた」といった説明が広まったこともあります。しかし、この点は資料の扱いに注意が必要です。この記事では、彼を「日本人の血を引く人物」とは断定せず、北米太平洋岸で生まれたチヌーク系とスコットランド系の背景を持つ人物として説明します。

1848年、マクドナルドは捕鯨船プリマス号から小舟で離れ、利尻島方面を目指しました。利尻島野塚に上陸したのち、彼は身柄を移され、宗谷、松前を経て長崎へ送られます。

長崎で通詞たちに英語を教える

長崎でマクドナルドは自由に活動できたわけではありません。監視下に置かれた身でした。

それでも、彼の存在は長崎通詞たちにとって大きな機会になりました。資料では、森山栄之助ら14名の通詞が、マクドナルドから英語を学んだとされています。

マクドナルドはしばしば「日本で最初期の英語母語話者の教師」として紹介されます。ただし、これは制度化された学校教師という意味ではなく、鎖国下の長崎で、拘束された外国人から通詞たちが英語を学んだという、きわめて特殊な状況でした。

彼が教えたのは、単語の置き換えだけではありません。発音、会話、イントネーションなど、オランダ語の書物だけでは身につきにくい「生きた英語」でした。

マクドナルドはのちに、日本での経験を回想し、日本人の生活や法律、習慣、教え子の様子を書き残しました。そこには、日本を単なる「未知の国」や「未開の社会」と見るのではなく、秩序と人間関係を持つ社会として観察しようとする姿勢が読み取れます。

この経験は、のちにペリー来航時の交渉で力を発揮する森山栄之助につながっていきます。

ペリー来航|黒船を前にした幕府の通訳たち

黒船とは何だったのか

1853年、ペリー艦隊の来航は、幕府にとって軍事的な圧力であると同時に、情報処理の危機でもありました。

相手が差し出す文書を読み、意図を見抜き、幕府上層部に報告し、返答を準備しなければなりません。しかも、現場には浦賀奉行所の役人、通詞、船で接近する役人、見物に集まる人々、そしてアメリカ側の士官たちがいます。

浦賀周辺には多くの見物人が集まり、現場の緊張と好奇心は一気に高まりました。しかし黒船来航の場面は、軍艦と大砲だけでなく、文書・翻訳・口頭交渉が同時に動く現場でした。

堀達之助の「I can speak Dutch!」が象徴するもの

この場面で有名なのが、堀達之助がサスケハナ号に近づき、「I can speak Dutch!」と発したと伝えられるエピソードです。

この言葉は、面白い逸話として消費されがちです。しかし、ここで大切なのは、「英語を話せない日本人が慌てた」という単純な話ではありません。

むしろこの一言は、当時の日本がオランダ語を介して西洋と向き合っていたことをよく表しています。堀が伝えようとしたのは、「英語ではなくても、交渉できる言語がこちらにはある」ということでした。

国立公文書館の解説でも、ペリー初来航時に堀達之助が日本側の通訳を務め、その後の交渉も主にオランダ語で行われたと説明されています。

森山栄之助と日米交渉

堀達之助と並んで、幕末の英語通詞として欠かせないのが森山栄之助です。

森山は長崎通詞の家に生まれ、オランダ語を基礎にしながら英語も学びました。ラナルド・マクドナルドから英語を学んだ通詞の一人としても知られています。

1854年、ペリーが再来航し、日米和親条約の交渉が行われた際、森山は通訳として重要な役割を果たしました。英語に通じていた森山であっても、交渉の場ではオランダ語がなお重要だったとされます。

つまり幕末の通訳は、「英語ができる人がいれば解決」という単純なものではありませんでした。現場では、英語、オランダ語、日本語、外交文書、幕府の儀礼、相手国の要求が複雑に絡み合っていました。

堀達之助とは何者か

幕府通詞としての出発

堀達之助は、1823年、長崎に生まれました。もとはオランダ通詞・中山家の出身で、のちに堀家の養子となります。

弘化2年、オランダ小通詞末席となり、通詞としての道を歩み始めました。通詞の家に生まれ、長崎の制度の中で育った人物だったからこそ、ペリー来航時のような緊急の場面で幕府の実務に関わることができたのです。

ただし、堀達之助を「黒船に英語で立ち向かった天才通訳」とだけ見ると、かえって実像を見失います。彼の強みは、オランダ語・英語・幕府実務・辞書編纂をつなぐところにありました。

吉田松陰との文通

ペリー来航後、堀は下田詰めとなります。その後、プロイセン関係の通商要求書簡の処理をめぐる事件で入牢しました。この件はリュードルフ事件とも呼ばれ、冤罪と見る説明もあります。

獄中で堀は、吉田松陰と交流したと伝えられています。

吉田松陰は、黒船来航後に海外渡航を企て、幕府に捕らえられた人物です。一方の堀は、幕府の通詞として外国との交渉実務に関わった人物でした。立場は異なりますが、二人はどちらも「外の世界をどう理解するか」という幕末の根本問題に向き合っていました。

この関わりは、幕末の知識人と実務官僚が、同じ時代の圧力の中にいたことを示しています。

蕃書調所・開成所・箱館奉行・開拓使へ

出獄後の堀は、幕府の洋学・翻訳機関に迎えられ、対訳辞書の編集主任となります。

蕃書調所、洋書調所、開成所と続く幕府の教育・翻訳機関は、海外情報を組織的に処理するための中枢でした。ここで堀は、単なる通訳ではなく、辞書をつくり、外国新聞を翻訳し、英学教育を支える側へと移っていきます。

さらに慶応元年には箱館奉行所通詞として箱館に赴任し、英語稽古所や箱館洋学所に関わりました。明治維新後も箱館・函館に残り、開拓使の一等訳官、大主典として働きます。

堀は1872年に開拓使を依願退職しましたが、亡くなったのは1894年です。ここは誤って「1872年没」とされることがあるため、注意が必要です。

『英和対訳袖珍辞書』|日本の英和辞書史に残る仕事

「袖珍」とは何か

堀達之助の代表的な仕事が、1862年に刊行された『英和対訳袖珍辞書』です。

「袖珍」は、袖に入れて持ち歩けるほど小さい、という意味を含む言葉です。英語書名の “A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language” に対応しており、現代風に言えば「ポケット英和辞典」に近い感覚です。

立教大学図書館の解説によれば、この辞書は堀達之助を編集主任とし、西周助、千村五郎、竹原勇四郎、箕作貞一郎らの協力を得て、幕府洋書調所から刊行されました。収録語数は約35,000語とされます。

辞書づくりは、開国後の日本を支えるインフラだった

辞書は、ただの本ではありません。言葉の対応関係を社会全体で共有するためのインフラです。

開国後、日本には外交、貿易、軍事、科学、法律、教育など、あらゆる分野で新しい言葉が流れ込みました。誰かがその言葉を訳し、定着させ、学べる形にしなければなりません。

『英和対訳袖珍辞書』は、英蘭辞書をもとにし、蘭和辞書の訳語や英華字典などの成果も取り込みながら作られました。ここには、蘭学から英学へ移っていく幕末日本の知的な橋渡しが表れています。

堀達之助の意義は、黒船の現場にいたことだけではありません。黒船後の日本が英語を学び、外国語を制度として扱うための言語インフラを整えたことにあります。

中浜万次郎とは何が違うのか

幕末の英語史を語るとき、中浜万次郎も欠かせません。

万次郎は漂流によってアメリカへ渡り、現地で生活しながら英語や航海術を身につけた人物です。帰国後は幕府に召し出され、英語や海外事情を伝えました。

一方、堀達之助や森山栄之助は、長崎通詞という幕府の制度の中で育った人物です。彼らは個人的な漂流経験で英語を身につけたのではなく、通詞制度、蘭学、幕府の外交実務の延長上で英語に向き合いました。

人物 英語との出会い 特徴
中浜万次郎 漂流後、アメリカで生活 現地経験に基づく実用英語と海外知識
森山栄之助 長崎通詞として学習、マクドナルドからも学ぶ 日米交渉で活躍した幕府側通訳
堀達之助 長崎通詞制度と幕府実務の中で学ぶ 黒船対応、辞書編纂、英学教育をつないだ人物

この違いを見ると、幕末の英語史は一人の天才物語ではなく、漂流民、通詞、学者、官僚、外国人教師が交差する歴史だったことが分かります。

人物・組織・制度の関係を整理する

要素 役割 次につながったこと
長崎通詞 オランダ語を中心に外交・貿易・翻訳を担う 英語・ロシア語など複数言語対応へ
音吉ら漂流民 海外に渡り、日本語・日本情報の媒介者になる モリソン号事件、日英交渉などへ
ラナルド・マクドナルド 長崎で通詞に英語を教える 森山栄之助らの英語力向上へ
森山栄之助 ペリー再来航時の交渉通訳 条約交渉の実務を支える
堀達之助 黒船対応、辞書編纂、英学教育 『英和対訳袖珍辞書』と開国後の英学へ
蕃書調所・洋書調所・開成所 海外情報の翻訳・教育機関 近代的な語学教育・専門教育へ

よくある誤解

誤解1:黒船が来るまで日本は海外情報を何も知らなかった

実際には、オランダ語を通じて海外情報を得る仕組みがありました。もちろん限界はありましたが、幕府や知識人は、蘭書、風説書、漂流民情報、外国船来航への対応を通じて世界情勢を把握しようとしていました。

誤解2:ペリー来航時の交渉はすべて英語で行われた

英語は重要になりつつありましたが、ペリー来航時にはオランダ語を介した交渉がなお大きな役割を持っていました。堀達之助の「I can speak Dutch!」という伝承は、その状況を象徴しています。

誤解3:ラナルド・マクドナルドは日本人の血を引く人物だった

そのように語られることもありますが、出自については慎重に扱う必要があります。現在確認しやすい資料では、父はスコットランド系、母はチヌーク族系の人物と説明されています。この記事では「日本人にルーツを持つ」とは断定しません。

誤解4:堀達之助は1872年に亡くなった

1872年は開拓使を退職した年です。堀達之助は1894年に亡くなっています。

現代とのつながり|散歩や展示で見る幕末英語史

このテーマは、資料館や現地散歩とも相性がよい分野です。

長崎では、出島や唐通事・阿蘭陀通詞に関する展示を通じて、言葉が貿易と外交を支えた歴史をたどれます。利尻島の野塚展望台には、ラナルド・マクドナルドに関する顕彰碑があります。愛知県美浜町小野浦には、音吉・岩吉・久吉を記念する碑があります。

また、立教大学図書館のデジタルライブラリでは『英和対訳袖珍辞書』の画像を閲覧できます。国立公文書館や国立国会図書館のデジタル展示も、幕末の語学熱や辞書の歴史を知る入り口になります。

黒船来航の史跡を見るときは、軍艦の大きさだけでなく、「この場で誰が、何語で、何を訳したのか」と考えてみてください。幕末の景色が、少し違って見えてくるはずです。

FAQ

黒船来航のとき、日本側は英語を話せなかったのですか?

英語を学んだ人物はいましたが、幕府の対外実務の基礎は長くオランダ語にありました。そのため、ペリー来航時の交渉でもオランダ語が重要な役割を果たしました。

堀達之助はラナルド・マクドナルドから直接英語を学んだのですか?

資料によってはそのように説明されることがあります。ただし、確認しやすい資料では、マクドナルドが長崎で森山栄之助ら通詞に英語を教えたことが中心に説明されています。この記事では、堀とマクドナルドの直接の師弟関係は断定しません。

『英和対訳袖珍辞書』は日本初の英和辞書ですか?

英和辞書としては、1814年の『諳厄利亜語林大成』など、より早い成果があります。一方で『英和対訳袖珍辞書』は、印刷された本格的な英和辞書として非常に重要な位置を占めます。

森山栄之助はなぜ重要なのですか?

森山は、長崎通詞としてオランダ語と英語を学び、ペリー再来航時の日米和親条約交渉などで通訳として大きな役割を果たしました。堀達之助だけを見ると見落としやすい、幕末外交の実務を支えた重要人物です。

まとめ|黒船来航の裏側には、言葉をつないだ人々がいた

黒船来航は、軍艦が来て条約が結ばれた事件であるだけではありません。

それは、言葉をどう訳し、相手をどう理解し、どの情報を幕府の判断につなげるかという事件でもありました。

江戸時代の日本は、オランダ語を通じて西洋情報を受け入れていました。しかし19世紀になると、イギリス、アメリカ、ロシアなどが日本近海に近づき、英語を含む複数言語への対応が必要になります。

その過程で、フェートン号事件、宝順丸漂流、モリソン号事件、蛮社の獄、ラナルド・マクドナルドの来日、ペリー来航がつながっていきました。

堀達之助は、「黒船の通訳をした人」としてだけでなく、通詞制度、幕府の翻訳機関、辞書編纂、箱館での英学教育をつないだ人物です。森山栄之助は、長崎で培った語学力を日米交渉の現場で生かしました。音吉や中浜万次郎のような漂流民は、制度の外側から世界の情報を持ち帰りました。

黒船来航の裏側には、言葉をつないだ人々がいました。幕末の英語史とは、その人々の知識、経験、失敗、努力が重なって生まれた「開国の言語インフラ」の歴史なのです。

参考文献・参考サイト

  1. 国立公文書館「激動幕末 -開国の衝撃- Ⅴ.語学熱と海外情報の収集」
  2. 国立公文書館「激動幕末 -開国の衝撃- Ⅱ.アヘン戦争の戦慄」
  3. 国立国会図書館「外国語への道しるべ ―幕末・明治の辞書類―」
  4. 国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流 第2部 3. オランダ語の学習」
  5. 立教大学図書館「堀達之助『英和対訳袖珍辞書』デジタルライブラリ 解説」
  6. 函館市文化・スポーツ振興財団「堀 達之助〜函館ゆかりの人物伝」
  7. 函館市地域資料アーカイブ「函館市史 堀達之助 関連検索」
  8. 利尻富士町教育委員会「利尻の近世史III ラナルド・マクドナルド」
  9. The Oregon Encyclopedia “Ranald MacDonald (1824-1894)”
  10. Dictionary of Canadian Biography “MACDONALD, RANALD”
  11. 愛知県美浜町「にっぽん音吉漂流の記」
  12. 慶應義塾「漂流人 山本音吉」
  13. 長崎市「唐通事と阿蘭陀通詞」
  14. 横須賀市「ペリーの黒船」
  15. 奥州市「高野長英 6.蛮社の獄」