享保・寛政・天保の改革まるわかりガイド|江戸幕府はなぜ何度も改革したのか

江戸時代の政治を勉強すると、必ず出てくるのが「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」です。

学校では「徳川吉宗=享保」「松平定信=寛政」「水野忠邦=天保」と暗記することが多いかもしれません。しかし、それだけでは、なぜ幕府が何度も似たような改革を繰り返したのかが見えにくくなります。

江戸幕府は、戦国時代を終わらせ、全国の大名を統制し、長く平和を保った政治体制でした。一方で、その仕組みは米を年貢として集め、武士へ俸禄として配る「米中心」の制度に支えられていました。ところが、時代が進むにつれて、町では商品とお金が動き、商人の力が増し、武士も現金で暮らすようになります。

つまり江戸三大改革とは、「米で支配する幕府」が「お金で動く社会」に何度も追いつこうとした試みだったのです。

江戸三大改革を30秒で理解する

まず、結論から整理します。

  • 享保の改革は、8代将軍徳川吉宗が、幕府財政と行政制度を立て直そうとした改革です。
  • 寛政の改革は、老中松平定信が、天明の飢饉後の社会不安と武士の生活苦を抑えようとした改革です。
  • 天保の改革は、老中水野忠邦が、飢饉・物価高・都市化・対外危機のなかで幕府権力を強めようとした改革です。

三つの改革に共通するのは、倹約、武士の引き締め、農村の立て直し、物価対策です。ただし、同じ「倹約」でも、時代背景は大きく違います。

享保の時代は、まだ幕府が自分で制度を整え直せる力を持っていました。寛政の時代になると、飢饉と田沼政治への反動のなかで、社会秩序を回復する色合いが強まります。天保の時代には、幕府の力そのものが弱まり、都市・商人・大名・民衆を一気に抑え込もうとして反発を招きました。

改革 中心人物 時期の目安 主な課題 代表政策
享保の改革 徳川吉宗 18世紀前半 幕府財政の再建、法と行政の整備 上米の制、目安箱、公事方御定書、新田開発、倹約
寛政の改革 松平定信 1787〜1793年ごろ 天明の飢饉後の社会不安、武士の借金、田沼政治への反動 棄捐令、人足寄場、囲米、寛政異学の禁、倹約
天保の改革 水野忠邦 1841〜1843年ごろ 天保の飢饉、物価高、都市流入、対外危機、幕府権威の低下 株仲間解散、人返しの法、上知令、倹約令、風俗取締

なぜ江戸幕府は改革を繰り返したのか

江戸三大改革を一本の物語として読むなら、最初に見るべきなのは「幕府が怠けたから改革が必要になった」という単純な話ではありません。

むしろ問題は、江戸幕府が作った仕組みが成功した結果、社会が変わり、その変化に幕府自身が苦しむようになったことです。

米で支配する幕府と、お金で暮らす社会

江戸幕府や大名の財政は、基本的に年貢米に支えられていました。武士の収入も、知行や蔵米という形で米を基準に考えられます。

ところが、江戸・大坂・京都などの都市が発展し、街道や海運が整うと、生活に必要な物は市場で買う時代になります。武士も米だけを食べて暮らすわけではなく、衣服、住居、交際、教育、儀礼、江戸屋敷の維持などに現金が必要でした。

ここで起きたのが、いわゆる「米価安・諸色高」です。米の価値が相対的に下がり、暮らしに必要な品物やサービスの費用が上がると、米を収入源とする武士や幕府は苦しくなります。商人は流通と金融を通じて力を増し、武士は札差などから借金をするようになりました。

平和な時代ほど、支出は増える

戦がない時代は、一見すると支出が減りそうです。しかし、江戸時代の武家社会では、平和だからこそ儀礼、格式、屋敷、参勤交代、城下町、寺社、教育、文化への支出が増えていきました。

参勤交代は大名統制に役立ちましたが、藩にとっては江戸藩邸の維持費や行列の費用が重い負担でした。幕府も城下町江戸を支え、災害復興や行政機構を維持しなければなりません。

一方、幕府の収入を増やす方法は限られていました。年貢を上げすぎれば農村が疲弊し、一揆を招きます。貨幣を改鋳すれば一時的な収入にはなっても、物価や信用に影響します。商業を利用すれば、武士の道徳を重んじる人々から「政治が金に汚れた」と批判されます。

この板挟みのなかで、幕府は何度も改革を迫られました。

飢饉と都市化が、改革を急がせた

享保、寛政、天保の各時期には、飢饉や凶作が改革を強く後押ししました。米不足は物価の急騰を招き、都市の貧民は生活できなくなります。農村では年貢の負担や借金が重くなり、村を離れて都市へ出る人も増えます。

幕府にとって、農村人口の流出は重大問題でした。なぜなら、年貢を納める農民が減れば、幕府や藩の財政基盤が揺らぐからです。江戸三大改革で農村復興や人返しが繰り返し出てくるのは、道徳論だけでなく、財政と治安の問題でもありました。

享保の改革|吉宗は何を立て直したのか

享保の改革の中心人物は、8代将軍徳川吉宗です。吉宗は紀州徳川家から将軍となり、将軍自身が政治の前面に立って幕府の再建を進めました。

享保の改革は、江戸三大改革の中ではもっとも「制度を作り直す」性格が強い改革です。倹約だけでなく、財政、裁判、行政、農政、都市政策、学問・技術の導入まで広い範囲に及びました。

上米の制|大名から米を出させ、参勤交代を緩める

吉宗の財政再建策として有名なのが、上米の制です。

これは、各大名に石高1万石につき100石の米を幕府へ献上させる代わりに、参勤交代で江戸に在府する期間を短くする制度でした。山口県文書館の解説では、上米の制は1722〜1730年に実施され、江戸在府期間を従来の1年から半年にした制度として紹介されています。

この制度の面白いところは、幕府が大名から米を受け取るだけでなく、大名側にも経費削減の利点を与えている点です。参勤交代は大名統制の仕組みでしたが、藩財政を圧迫する要因でもありました。吉宗は幕府の収入を増やしつつ、藩の負担も少し軽くする形で、政治的な妥協を作ったのです。

新田開発と年貢の安定

吉宗は、新田開発も進めました。農地が増えれば、幕府や藩に入る年貢米も増えるからです。

ただし、新田開発は単に「米を増やす政策」ではありません。村の開発、用水、治水、農民の移住、地域の利害調整を伴う政策でした。幕府にとっては財政政策であり、農村を再編する政策でもありました。

吉宗は年貢の取り方でも、収穫高に応じて毎年変える検見法より、一定期間の平均で年貢を定める定免法を重視しました。これは幕府にとって収入を安定させやすい一方、不作の年には農民の負担が重くなる場合もありました。

目安箱と大岡忠相|声を集める政治

享保の改革のなかで、初心者にも覚えやすい政策が目安箱です。庶民の訴えや意見を将軍へ届ける仕組みとして知られています。

目安箱は、現代の民主主義の制度ではありません。投書できる内容や運用には制約がありました。それでも、将軍が町人や庶民の意見を政治情報として集めようとした点は重要です。

江戸町奉行の大岡忠相は、享保期の都市行政や裁判でよく知られます。大岡忠相を「名裁きの人」とだけ見ると物語が単純になりますが、実際には江戸という巨大都市を管理する行政官でした。火事、訴訟、物価、貧困、治安といった問題に向き合う都市官僚として、享保改革を支えた人物と見ると理解しやすくなります。

公事方御定書|裁判を経験則から法典へ近づける

吉宗の改革で特に重要なのが、1742年成立の公事方御定書です。

国立公文書館のデジタル展示「将軍のアーカイブズ」では、公事方御定書について、それまで幕府が単行法令や慣習法、判例で処理していたものを、複雑化する社会と犯罪に対応するために整えた法典として説明しています。上下2巻からなり、上巻には重要法令、下巻には刑罰規定が収められました。

ここから見えるのは、享保の改革が単なる節約運動ではなかったことです。吉宗は財政を立て直すだけでなく、裁判と行政の基準を整え、幕府が複雑な社会を統治できるようにしようとしました。

吉宗の改革は成功だったのか

享保の改革は、一定の財政再建と制度整備に成果を上げました。法典整備、都市行政、新田開発、学問・技術への関心など、後の幕政にも影響を与えました。

一方で、米中心の財政そのものを根本的に変えたわけではありません。年貢強化や倹約は農民や町人に負担をかけ、米価の安定も簡単ではありませんでした。

つまり享保の改革は、「幕府がまだ制度を作り直す力を持っていた時代の改革」だった一方、江戸社会が貨幣経済へ進む流れを止めることはできなかったのです。

寛政の改革|松平定信は何を恐れたのか

寛政の改革の中心人物は、松平定信です。定信は徳川吉宗の孫にあたり、白河藩主として藩政改革を行ったのち、1787年に老中となりました。

国立国会図書館の「蔵書印の世界」では、松平定信について、1787年6月に30歳で老中に任ぜられ、1793年に退くまで幕政の立て直しに努めた人物として紹介されています。

定信が改革を始めた背景には、天明の飢饉、都市の打ちこわし、田沼意次の失脚、商業化への不信がありました。寛政の改革は、財政再建であると同時に、「このまま商業と欲望が政治を動かしてよいのか」という不安への答えでもありました。

田沼政治への反動

定信の時代を理解するには、田沼意次の政治を避けて通れません。

田沼意次は、商業や流通を利用して幕府収入を増やそうとしました。株仲間を認めて冥加金を取る、長崎貿易や鉱山開発に関心を持つ、印旛沼の開発を構想するなど、米だけに頼らない政治を試みました。

しかし、田沼政治は賄賂や縁故のイメージと結びつき、飢饉や社会不安のなかで強い批判を受けました。埼玉県立文書館の古文書講座資料でも、田沼意次の失脚後、田沼政治が風刺や狂歌の題材となり、松平定信の台頭によって否定された様子が紹介されています。

ただし、田沼政治を単純な悪、定信の改革を単純な善と考えるのは危険です。田沼は商業化した社会に幕府財政を合わせようとし、定信は商業化が生む腐敗と格差を抑えようとしました。どちらも、米中心の幕府が貨幣経済に向き合うための別々の答えだったのです。

棄捐令|武士の借金をどう処理するか

寛政の改革で有名なのが、1789年の棄捐令です。

棄捐令は、旗本・御家人が札差から借りた借金を帳消しまたは軽減する政策でした。札差は、旗本や御家人の蔵米の受け取りや換金を扱う商人で、金融業者でもありました。武士が現金で生活するようになると、札差への借金は膨らんでいきます。

棄捐令は、困窮した武士を救う政策でした。しかし、貸した側の札差から見れば、幕府が強制的に債権を削る政策です。短期的には武士の負担を軽くしても、長期的には札差が貸し渋り、武士の資金繰りがかえって難しくなる面もありました。

ここに、寛政の改革の難しさがあります。武士を救わなければ幕府の支配層が崩れます。しかし金融を強く押さえれば、貨幣経済の現実とぶつかります。

人足寄場|罰するだけでなく、社会へ戻す

寛政の改革には、治安政策と社会政策の側面もあります。その代表が人足寄場です。

國學院大學の記事では、1790年に設けられた人足寄場を、無宿人を社会復帰させるための施設として紹介しています。背景には、天明の飢饉後の治安悪化や、故郷を離れ戸籍から外れた人々の増加がありました。

人足寄場は、単に人を閉じ込める施設ではありません。労働や職業訓練を通じて、無宿人を社会へ戻そうとする発想を含んでいました。吉宗期の公事方御定書に見られる更生の考え方が、定信の時代に別の形で発展したともいえます。

寛政異学の禁|学問を統制する理由

定信は、学問や思想にも強い関心を持っていました。寛政異学の禁は、幕府の学問所で朱子学を正学とし、それ以外の学派を抑える政策として知られます。

この政策は、単なる「勉強の禁止」ではありません。幕府が武士を統治するうえで、どのような倫理を正統とするかを決める政策でした。政治の乱れや商業化への不安があるなかで、定信は武士に質素、忠義、秩序を求め、その基盤として朱子学を重視したのです。

ただし、学問を一つの正統に絞ることは、自由な知的活動を狭める面もあります。寛政の改革は、秩序回復のための改革である一方、文化や出版への圧力を強める改革でもありました。

定信の改革はなぜ長続きしなかったのか

定信の改革は、飢饉後の社会不安を抑え、倹約や備蓄、武士救済を進めようとしました。しかし、厳しすぎる統制や理想主義は、町人文化や幕府内部の反発を招きました。

国立国会図書館ギャラリーの蔦屋重三郎に関する展示では、寛政の改革期に華美な風俗の取締りや武士の綱紀粛正が図られ、改革を風刺する黄表紙も人気を集めたことが紹介されています。政治改革は、江戸の出版文化や笑いの対象にもなっていたのです。

定信は1793年に老中を退きます。寛政の改革は、田沼政治への反動として幕府の道徳と秩序を立て直そうとした改革でしたが、すでに江戸社会は、倹約だけでは抑えきれないほど商業と文化の厚みを持っていました。

天保の改革|水野忠邦はなぜ失敗したのか

天保の改革の中心人物は、水野忠邦です。12代将軍徳川家慶のもとで老中首座となり、1841年から急進的な改革を進めました。

天保の改革が行われた時代は、三大改革のなかでもっとも幕府の危機が深刻でした。天保の飢饉、大塩平八郎の乱、物価高、都市への人口流入、外国船の接近が重なり、幕府の権威は揺らいでいました。

享保の改革では、幕府はまだ制度を整える余裕がありました。寛政の改革では、飢饉後の秩序回復が目的でした。天保の改革では、幕府が弱まりつつある状況で、強い命令によって社会を一気に巻き戻そうとしたのです。

株仲間解散|物価を下げようとして流通を混乱させる

水野忠邦の代表的政策が、株仲間解散です。

株仲間は、同業者の組合です。田沼時代には、幕府が株仲間を認め、冥加金を得る政策が進められました。水野は、株仲間が流通を独占し、物価を高くしていると考えます。そこで株仲間を解散させ、自由な取引によって物価を下げようとしました。

考え方だけを見ると、物価対策のように見えます。しかし実際には、株仲間は商品の流通、信用、品質、取引関係を支える仕組みでもありました。これを急に壊すと、流通が滑らかになるどころか、取引の秩序が崩れます。

天保の改革の難しさは、ここによく表れます。水野は商人の力を抑えようとしましたが、すでに江戸社会は商人の流通網なしに動かない社会になっていました。

人返しの法|都市へ出た人を農村へ戻す

天保の改革では、農村から都市へ流れ込んだ人々を故郷へ戻そうとする政策も行われました。これが人返しの法です。

幕府にとって農村は年貢の基盤です。農民が都市に出てしまえば、年貢を納める人が減り、村の共同体も弱まります。水野は、都市の過剰人口や治安問題を抑え、農村を再建しようとしました。

しかし、人が都市へ出たのは、怠けたからではありません。飢饉、借金、農地不足、現金収入の必要、都市の働き口など、移動には理由がありました。命令で村へ戻しても、村に食べていける条件がなければ、根本解決にはなりません。

上知令|幕府の直轄地を広げようとして反発を招く

天保の改革最大の失敗として知られるのが、上知令です。

上知令は、江戸や大坂周辺の大名・旗本領を幕府直轄地に組み替えようとする政策でした。目的には、財政増収、都市周辺の支配強化、海防や軍事上の対応がありました。

しかし、これは大名や旗本の領地を動かす政策です。幕府が強大だった時代ならともかく、19世紀半ばの幕府にとって、広い範囲の領主層を敵に回すのは危険でした。反対は強く、上知令は撤回され、水野忠邦は失脚へ追い込まれます。

上知令の挫折は、幕府がもはや命令だけで大名・旗本・都市・商人を一体的に動かせなくなっていたことを示しています。

倹約令と風俗取締|生活文化を押さえ込む限界

水野忠邦は、倹約令や風俗取締も徹底しました。贅沢品、芝居、出版、娯楽などが規制の対象となりました。

もちろん、飢饉や物価高の時代に浪費を戒める考え方には理由があります。しかし、江戸後期の都市文化は、すでに人々の生活と経済に深く結びついていました。芝居、出版、見世物、流行品は、単なる贅沢ではなく、職人、版元、役者、商人、観客をつなぐ産業でもありました。

それを道徳の名で一気に押さえ込めば、反発だけでなく経済の停滞も招きます。天保の改革が短期間で失敗したのは、水野が時代の変化を力で戻そうとしたからです。

三大改革の違いを比較する

ここで、三大改革を改めて比較してみましょう。

視点 享保の改革 寛政の改革 天保の改革
時代の位置 江戸中期。幕府にまだ再建力がある 江戸後期の入り口。飢饉後の不安が強い 幕末前夜。内外の危機が重なる
中心人物 徳川吉宗 松平定信 水野忠邦
目標 幕府財政と行政制度の立て直し 武士の秩序回復、飢饉後の社会安定 幕府権力の回復、物価・都市・農村の統制
経済への姿勢 米財政を立て直しつつ、市場にも介入 商業化を警戒し、倹約と道徳を重視 商人組織を壊して物価を下げようとする
代表政策 上米の制、新田開発、目安箱、公事方御定書 棄捐令、人足寄場、囲米、寛政異学の禁 株仲間解散、人返しの法、上知令、倹約令
成果 制度整備と一時的な財政改善 飢饉後の備え、武士救済、社会政策 危機感を示したが、多くは短期で挫折
限界 米中心財政の根本問題は残る 統制が強く、文化・商業と衝突 強権的で反発が大きく、流通を混乱させた

こうして見ると、三大改革は「同じことを三回繰り返した」のではありません。

享保の改革は、制度を整えて幕府を作り直そうとした改革です。寛政の改革は、田沼政治と飢饉後の混乱への反動として、秩序と道徳を回復しようとした改革です。天保の改革は、幕府の力が弱まるなかで、強い統制によって社会を立て直そうとした改革です。

田沼時代と三大改革を対比すると見えること

江戸三大改革を理解するうえで、田沼意次の時代はとても重要です。

田沼政治は、商業、流通、金融、貿易、開発を利用して幕府財政を支えようとしました。つまり、貨幣経済の発達を前提にした政治でした。

一方、吉宗、定信、水野の改革は、どれも程度の差はありますが、米、農村、倹約、武士の規律へ戻ろうとする傾向を持っています。

ここで大切なのは、田沼政治と三大改革を「商業重視か、倹約重視か」という対立だけで見ないことです。

  • 田沼政治は、現実の貨幣経済を利用しようとしたが、腐敗や利権への批判を招きました。
  • 享保の改革は、米財政を立て直しながら制度を整え、市場にも一定の関心を示しました。
  • 寛政の改革は、商業化が生む格差と風紀の乱れを恐れ、道徳と備蓄を重視しました。
  • 天保の改革は、商人組織や都市文化を力で押さえようとして、かえって社会の抵抗を招きました。

つまり、江戸後期の政治は「古い米の制度」と「新しいお金の社会」のせめぎ合いでした。幕府は商業を無視できません。しかし商業に頼りすぎれば、武士の政治理念が揺らぎます。この矛盾を解けないまま、幕府は幕末へ向かっていきました。

徳川15代将軍と右腕で読むときの位置づけ

江戸三大改革は、徳川15代将軍の流れの中で見ると、さらに分かりやすくなります。

享保の改革は、8代将軍徳川吉宗本人が主導した改革です。将軍が政治の中心に立ち、官僚や町奉行を使いながら制度を整えました。

寛政の改革は、11代将軍徳川家斉の初期に、老中松平定信が主導した改革です。将軍本人よりも、老中という「右腕」が政治の方向を決める色合いが強くなります。

天保の改革は、12代将軍徳川家慶のもとで、水野忠邦が進めました。ここでは、老中が強力に改革を進めようとしても、大名、旗本、町人、都市文化、対外情勢をまとめきれない幕府の限界が見えてきます。

将軍だけを見ると、江戸時代は人物名の暗記になりがちです。しかし、将軍と老中、側用人、町奉行、勘定奉行、商人、農村、都市文化を一緒に見ると、幕府政治は「一人の名君物語」ではなく、多くの制度と利害が絡み合う歴史として見えてきます。

よくある誤解

誤解1:三大改革は全部、質素倹約だけだった

倹約は三大改革に共通しますが、それだけではありません。享保の改革には法典整備や目安箱、新田開発があります。寛政の改革には棄捐令や人足寄場があります。天保の改革には株仲間解散や上知令があります。

倹約は、支出を抑え、身分秩序を引き締める象徴的な政策でした。しかし、改革の本質は、財政、農村、都市、商業、治安、思想をどう立て直すかにありました。

誤解2:田沼政治は悪で、改革政治は善だった

田沼政治には賄賂や利権の問題があり、批判を受けました。しかし、商業と貨幣経済を利用して幕府財政を支えようとした点では、時代の変化に向き合った政治でもありました。

一方、改革政治にも限界があります。倹約や統制は、都市文化や商業活動を抑え、生活実態とかみ合わないことがありました。善悪で分けるより、「幕府がどのようにお金の社会へ対応しようとしたか」で見る方が、歴史の流れが見えます。

誤解3:天保の改革は、水野忠邦が無能だったから失敗した

水野忠邦の政策には強引な面がありました。しかし、天保の改革の失敗を水野個人の能力だけで説明すると、時代の構造を見落とします。

天保期には、飢饉、物価高、農村の疲弊、都市化、外国船の接近、大名・旗本の利害が絡み合っていました。幕府が命令すれば社会が動く時代ではなくなっていたのです。

現代とのつながり

江戸三大改革は、現代の政治や経済を考えるうえでも示唆があります。

第一に、財政再建は「支出を減らす」だけでは成功しません。収入の仕組み、経済の実態、社会保障、地域の暮らしを一緒に見なければ、生活にしわ寄せがいきます。

第二に、制度は成功している時ほど古くなります。江戸幕府の米中心の仕組みは、戦国後の平和を作るには有効でした。しかし、都市と商業が発達すると、その成功した制度が現実と合わなくなりました。

第三に、文化や経済を上から押さえ込む政策には限界があります。天保の改革が示すように、人々の生活や市場がすでに複雑につながっている社会では、命令だけでは物価も人口移動も文化も思い通りには動きません。

資料や現地で見られる場所

江戸三大改革は、教科書の中だけの出来事ではありません。資料館、図書館、史跡、街歩きの視点からもたどることができます。

東京の街歩きで見るなら、江戸の商業と流通を感じる日本橋、寺社と門前町の文化が残る浅草、古地図から武家地・町人地を読む視点も役立ちます。

このテーマを続けて読む

FAQ

江戸三大改革とは何ですか?

江戸幕府が財政や社会秩序を立て直すために行った、享保の改革、寛政の改革、天保の改革の総称です。一般に、享保の改革は徳川吉宗、寛政の改革は松平定信、天保の改革は水野忠邦が中心人物として扱われます。

三大改革はなぜ何度も行われたのですか?

幕府の財政が米中心だった一方で、江戸社会は貨幣経済と都市文化を発展させたためです。米価、物価、武士の借金、農村の疲弊、飢饉、都市化などが繰り返し問題となり、そのたびに幕府は改革を迫られました。

享保の改革で一番大事な政策は何ですか?

一つに絞るなら、財政では上米の制、制度面では公事方御定書が重要です。目安箱や新田開発も含め、享保の改革は単なる倹約ではなく、幕府の行政制度を整える改革でした。

寛政の改革はなぜ厳しい印象があるのですか?

天明の飢饉後の社会不安と田沼政治への反動のなかで、松平定信が倹約、風俗取締、思想統制を重視したためです。一方で、棄捐令や人足寄場のように、武士救済や社会復帰を目指す政策もありました。

天保の改革はなぜ失敗したのですか?

株仲間解散、上知令、倹約令などが強引で、商人、大名、旗本、町人の反発を招いたためです。さらに、飢饉、物価高、都市化、対外危機が重なる時代には、命令だけで社会を動かすことが難しくなっていました。

田沼意次と三大改革はどう違いますか?

田沼意次は商業や貨幣経済を利用して幕府収入を増やそうとしました。三大改革、とくに寛政・天保の改革は、商業化が生む腐敗や物価高を警戒し、倹約や統制によって秩序を回復しようとしました。どちらも、米中心の幕府が貨幣経済に向き合った試みです。

まとめ|三大改革は「幕府が時代に追いつこうとした歴史」

享保・寛政・天保の改革は、暗記用の三点セットではありません。

享保の改革では、徳川吉宗が幕府財政と行政制度を立て直そうとしました。寛政の改革では、松平定信が飢饉後の不安と田沼政治への反動のなかで、武士の秩序と社会の安定を回復しようとしました。天保の改革では、水野忠邦が幕府の力を取り戻そうとしましたが、商業化・都市化・対外危機が進んだ社会を力で戻すことはできませんでした。

三大改革を通して見えるのは、江戸幕府の弱さだけではありません。むしろ、長く続いた平和が社会を豊かにし、都市と商業を成長させ、その結果として幕府の古い仕組みが現実に合わなくなっていく過程です。

江戸三大改革とは、米で支配する幕府が、お金で動く社会に何度も向き合った歴史でした。その試行錯誤を追うと、江戸時代の中期から幕末へ向かう大きな流れが見えてきます。

参考文献・参考サイト

  1. 国立公文書館「将軍のアーカイブズ|棠蔭秘鑑」
  2. 山口県文書館「享保の改革(上米の制)」
  3. 国立国会図書館「松平定信|蔵書印の世界」
  4. 國學院大學「手厚い“更生”施設、松平定信の『人足寄場』」
  5. 国立国会図書館ギャラリー「時代の風雲児・蔦屋重三郎」
  6. 国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流|蘭学の興隆」
  7. 白河市公式ホームページ「松平定信を知ろう」
  8. 白河市公式ホームページ「国指定史跡・名勝 南湖公園を歩こう!」
  9. 高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』国立国会図書館サーチ
  10. 藤田覚「天保十四年御料所改革について」国立国会図書館サーチ
  11. 『徳川実紀』国立国会図書館サーチ