銀座はなぜ時計の街になったのか|時計塔と高級時計店を歩く

銀座四丁目交差点に立つ和光本館の時計塔

銀座四丁目交差点に立つ時計塔は、待ち合わせ場所であると同時に、日本の時計産業と銀座の商業史が交わる場所です。周辺にはセイコーの発信拠点、時計博物館、国内外の時計専門店、複数ブランドを一棟に収める建築が集まっています。

銀座が「時計の街」になった出発点は、1881年の服部時計店創業と、1894年の初代時計塔です。時計を売る店、国産時計を作る企業、高級品を買う市場、ブランドを象徴する建築が140年以上をかけて重なりました。

銀座が時計の街になった理由

服部時計店が銀座四丁目へ進出し、時計塔を掲げたことが始まりです。国産時計を支える製造技術、和光本館のランドマーク性、百貨店と高級専門店の集積、海外時計ブランドの旗艦店建築が重なり、銀座は「時計を作る技術」「時計を売る市場」「時計を見せる建築」がそろう街になりました。

銀座を読み解く街歩きシリーズ

銀座を「時計」「高級ブランド」「建築」から読み解く3記事のシリーズです。

銀座が時計の街になった五つの理由

銀座と時計の結び付きは、次の五つの流れから生まれました。

  1. 服部時計店が銀座で成長し、銀座四丁目に時計塔を建てた
  2. 時計塔が街の時刻と景観を担うランドマークになった
  3. 百貨店と高級専門店が集まり、時計を買う市場が育った
  4. 国産時計メーカーと海外ブランドが発信拠点を置いた
  5. 店舗建築そのものがブランドの広告になった

時計店が多いという現在の姿は、明治の文明開化、昭和初期の百貨店街、戦後の復興、海外ブランドの旗艦店戦略が積み重なった結果です。

銀座時計史の年表

出来事銀座との関係
1872年銀座大火後、煉瓦街の整備が進む銀座が文明開化を象徴する通りになった
1881年服部金太郎が服部時計店を創業銀座の時計産業史の起点になった
1887年服部時計店が銀座の表通りへ進出販売とブランド発信の中心が銀座へ移った
1892年精工舎を設立し、掛時計の製造を始める輸入時計販売から国産時計製造へ進んだ
1894年銀座四丁目に初代時計塔が完成時計店の看板と街の時刻表示が結び付いた
1895年初代時計塔の建物で新店舗が開業銀座四丁目が服部時計店の象徴的な拠点になった
1921年初代時計塔を解体新社屋建設へ向かった
1923年関東大震災で建設計画が中断仮店舗も焼失し、復興後の再建を待つことになった
1932年二代目時計塔が竣工現在の和光本館・SEIKO HOUSEの原型が完成した
1947年和光が設立服部時計店の小売部門を継承した
1952年接収解除後、和光が現在地で営業再開戦後銀座の復興を象徴する店舗になった
1954年時計塔のチャイムが始まる街に時を告げる役割が強まった
1969年セイコークオーツアストロン35SQを発売国産時計の技術力がブランドの信用を支えた
2007年ニコラス・G・ハイエックセンターが完成海外時計ブランドの建築的な発信拠点が加わった
2022年SEIKO HOUSEとして再整備時計塔がセイコーブランドの発信拠点として位置づけ直された

明治東京では時計塔が文明開化の象徴だった

明治以降の東京では、西洋建築の導入とともに時計塔が建てられました。時計塔は時刻を知らせる設備であり、輸入時計を扱う時計店にとっては目立つ看板でもありました。鐘の音、塔の高さ、四方から見える文字盤が、近代的な街の印象をつくりました。

明治期の時計塔は官庁や学校だけでなく、時計店にも多く見られました。服部時計店の初代時計塔もこの流れの中にあります。銀座四丁目の角地に時計塔を掲げたことで、店名、時刻、街の景観が一つの場所に集まりました。

1881年、服部時計店が京橋采女町で始まった

1881年、21歳の服部金太郎はっとり きんたろうは京橋采女町に服部時計店を創業しました。当時の国内市場では輸入時計が中心で、仕入れは横浜や神戸の外国商館に依存していました。

服部は代金の支払期限を守り、外国商館から信用を得ました。1887年には銀座の表通りへ進出し、1892年には本所に精工舎を設立して掛時計の製造を始めます。輸入時計の販売と修理から出発した商店が、国産時計の製造へ進んだ時期です。

服部時計店の創業地と生産拠点は別でしたが、販売とブランド発信の中心は銀座に置かれました。時計を「作る産業」と「売る街」が、服部時計店を通じて結び付きました。

1894年、銀座四丁目に初代時計塔が立った

1894年、服部金太郎は銀座四丁目交差点角の朝野新聞社屋を買い取り、伊藤為吉いとう ためきちに増改築を依頼しました。屋上には初代時計塔が設けられ、翌1895年1月に新店舗が開業します。

初代時計塔は約30分ごとに鐘を鳴らし、腕時計や携帯電話が普及する前の街で時刻を伝えました。3階建ての建物に時計塔部分を増築し、3階以上の増改築部分は総高50尺、約15.15メートルに達しました。

1904年ごろの銀座通りに見える路面電車と初代服部時計塔

1904年ごろの銀座通り。出典:Library of Congress/Wikimedia Commons(Public Domain)。

銀座四丁目という目立つ場所に時計そのものを掲げたことで、服部時計店の商標と街の景観が一体になりました。初代時計塔は1921年、建て替えのために解体されます。新社屋の工事は1923年の関東大震災で中断し、仮店舗も焼失しました。

1932年、二代目時計塔が銀座の基準点になった

現在の建物は、渡辺仁わたなべ じん建築工務所の設計、清水組の施工で1932年に完成しました。緩やかな曲面が銀座四丁目交差点へ向き、上部の時計文字盤はほぼ東西南北を向いています。外壁には天然石が使われ、窓や時計塔には唐草文様の金属装飾が施されました。

服部時計店本社として開業した建物は、空襲をくぐり抜け、戦後は連合国軍のP.X.として接収されました。1947年には小売部門を継承する和光が設立され、接収解除後の1952年に現在地で営業を再開します。1954年の「時の記念日」からはウエストミンスター式チャイムが鳴るようになりました。

2022年、建物はSEIKO HOUSEと名付けられ、セイコーブランドと日本のものづくりを発信する拠点として再整備されました。和光の店舗とセイコーの発信機能が同じ建物に重なっています。和光を含む銀座の建築を歩く視点は、銀座建築散歩|和光・エルメス・ミキモト・GINZA SIXを歩くでも紹介しています。

戦災直後の銀座と和光周辺の姿は、米軍写真で歩く占領期の東京|焼け跡の街はどう変わったのかでも確認できます。

国産時計の技術が銀座の信用を支えた

服部時計店は1892年に精工舎を設立し、掛時計の製造を始めました。1913年には国産初の腕時計「ローレル」、1924年にはSEIKOの名称を使った腕時計、1969年には世界初の市販クオーツ腕時計とされるセイコークオーツアストロン35SQを発売します。

銀座四丁目の時計塔は小売店の看板でありながら、その背後には製造、精密加工、計時、電子化の技術史がありました。国産時計の品質とブランドの信用が高まるほど、銀座の拠点が持つ意味も大きくなりました。

時計製造から半導体、プリンター、ロボットへ技術が展開した経緯は、セイコーエプソンの歴史|時計会社はなぜプリンター・半導体・ロボットを作れたのかで詳しく紹介しています。

百貨店と高級専門店が時計を買う市場を育てた

関東大震災後の銀座には、1924年に松坂屋、1925年に松屋、1930年に三越が開店しました。大規模百貨店が新しい客を呼び、既存の専門店は品ぞろえと接客を磨きました。百貨店と専門店が並ぶ構造が、高級時計や宝飾品を比較して選べる市場をつくりました。

銀座四丁目の和光は、時計、宝飾品、服飾品、美術工芸品を扱う専門店としてこの市場の中心にあります。服飾、宝飾、工芸、飲食、芸術が近接することで、時計も銀座の高級消費文化の中に位置づけられました。高級ブランドが銀座に旗艦店を置く背景は、世界の高級ブランドはなぜ銀座に集まるのか|旗艦店と商業史を歩くでも扱っています。

海外時計ブランドは建物ごと銀座へ進出した

2007年、銀座七丁目の中央通りにニコラス・G・ハイエックセンターが完成しました。設計は坂茂ばん しげるです。スウォッチ グループの複数ブランドを一棟に収め、各ブランドのショールーム自体が油圧式エレベーターとして上階へ移動する仕組みを備えています。

銀座のニコラス・G・ハイエックセンター入口と時計ブランドの表示

ニコラス・G・ハイエックセンター、2018年。撮影:Jean-Pierre Dalbéra/Wikimedia Commons(CC BY 2.0)。

同センターは地下2階・地上14階の建物で、中央通りに面した「アベニュー・ドゥ・タン」とガラス張りのエレベーターが特徴です。商品を並べる売場と、ブランドの理念を表す建築が一体化しています。

いま銀座で見られる時計スポット

銀座の時計スポットは、博物館、老舗専門店、ブランド体験施設、海外ブランド建築に分かれます。買い物を目的にしない街歩きでも、外観、入口、ショーウインドー、展示空間から違いを読み取れます。

場所見どころ読み取れること
セイコーミュージアム 銀座和時計、服部金太郎、国産時計、クオーツ技術時計産業の歴史
SEIKO HOUSE・和光本店1932年の時計塔、曲面外壁、ショーウインドー老舗専門店と都市景観
セイコードリームスクエアセイコーブランドの体験型ショールーム銀座から世界へ発信するブランド拠点
グランドセイコーブティック 銀座グランドセイコーの専門店国産高級時計の見せ方
グランドセイコーフラッグシップブティック 銀座並木通り組子細工、白木、ブランド哲学を反映した内装日本らしさを店舗空間で表す方法
ニコラス・G・ハイエックセンター複数ブランド、ガラス張りエレベーター、公開通路海外ブランドの建築広告

1時間・2時間で歩く銀座時計散歩

コース歩き方目安
外観中心の1時間コースSEIKO HOUSE・和光本店、銀座中央通りの時計・宝飾店、ニコラス・G・ハイエックセンターを外から見る約60分
博物館込みの2時間コースセイコーミュージアム 銀座を見学し、和光本店、セイコードリームスクエア、銀座七丁目方面へ進む約2時間
建築も見る半日コース時計塔、ブランド建築、百貨店、GINZA SIX周辺まで広げる2〜3時間

四丁目の時計塔から七丁目のハイエックセンターへ進むと、明治の時計商から現代の国際ブランド集積までが一本の通りにつながります。東京の歴史散歩全体を探す場合は、東京歴史散歩おすすめコース集|江戸・明治・昭和を歩く街歩きガイドも参考になります。

街路から分かる時計店の違い

時計店の外観には、扱う商品の位置づけが表れます。

  • 時計塔や大型サインは、街の遠景からブランドを認識させます。
  • ショーウインドーは、製品の大きさに対して広い余白を取り、高級品の希少性を演出します。
  • 単独の旗艦店は、外壁素材や照明までブランドの世界観に組み込みます。
  • 複数ブランドを収める建物は、入口や動線で各ブランドの独立性を保ちます。
  • 博物館や展示空間は、価格より技術、歴史、製造工程を伝えます。

同じ「時計の店」でも、販売、展示、修理、企業発信、建築広告という役割が異なります。

よくある質問

銀座はなぜ時計の街と呼ばれるのですか?

服部時計店が銀座で成長し、1894年に銀座四丁目で時計塔を掲げたことが大きな理由です。その後、国産時計の技術発展、和光本店のランドマーク化、百貨店と高級専門店の集積、海外時計ブランドの進出が重なりました。

和光の時計塔は初代の時計塔ですか?

現在の時計塔は1932年に完成した二代目です。初代時計塔は1894年に設けられ、1921年の建て替えで解体されました。

銀座で時計の歴史を学ぶならどこから歩くとよいですか?

セイコーミュージアム 銀座から始めると、服部金太郎、精工舎、国産時計、クオーツ技術をまとめて学べます。その後、SEIKO HOUSE・和光本店、セイコードリームスクエア、ニコラス・G・ハイエックセンターへ進む流れが自然です。

購入目的のない街歩きでも楽しめますか?

外観、ショーウインドー、入口のつくり、展示空間を見るだけでも、時計店ごとの役割の違いが分かります。銀座では時計が商品であると同時に、建築、広告、都市景観の一部になっています。

まとめ

銀座と時計の関係は、1881年の服部時計店創業、1894年の初代時計塔、1932年の二代目時計塔を軸に始まりました。百貨店と高級専門店が市場を育て、国産時計の技術発展がブランドの信用を支え、海外ブランドが旗艦店建築を加えました。

銀座四丁目から七丁目まで歩くと、時計塔、国産時計史、ショーウインドー、海外ブランド建築が連続します。銀座が時計の街になった理由は、一社の歴史と都市の商業史が同じ場所で積み重なったことにあります。

関連記事

参考文献・外部リンク

  1. セイコーミュージアム 銀座「服部金太郎物語 第二話 服部時計店を創業する」
  2. セイコーミュージアム 銀座「セイコーのあゆみ」
  3. セイコーグループ「セイコーと時計塔の歩み」
  4. セイコーミュージアム 銀座「SEIKO HOUSEの時計塔」
  5. 和光「和光と時計塔の歴史」
  6. 銀座公式ウェブサイト「ヒストリー」
  7. スウォッチ グループ ジャパン「ニコラス・G・ハイエック センター」
  8. Shigeru Ban Architects, “Nicolas G. Hayek Center”
  9. セイコーミュージアム 銀座「アクセス」
  10. セイコーウオッチ「Seiko Dream Square」
  11. グランドセイコー公式サイト「グランドセイコーフラッグシップブティック 銀座並木通り」
  12. Wikimedia Commons “Tokyo ginza street 1904”
  13. Wikimedia Commons “Le Nicolas G. Hayek Center”