冬の白藤江(Bạch Đằng)では、海から押し上げられた潮がやがて向きを変えます。満ちていた水が引き始めると、広く見えた水面の下から浅瀬や障害物が姿を現し、船が自由に向きを変えられる範囲は急速に狭まっていきます。
938年、海から北部ベトナムへ進入した南漢(Nam Hán)の水軍は、この潮汐河口で進路と退路を制限されました。後世の史書は、呉権(Ngô Quyền)が水中に杭を設け、軽船で敵を誘い、潮が引いたところへ伏兵を投入したと伝えます。南漢軍の指揮官劉弘操(Lưu Hoằng Tháo)は戦死し、後方から支援していた南漢皇帝は残兵を収めて退きました。
しかし、この勝利を杭だけで説明すると、呉権が本当に成し遂げたことを見失います。白藤江の勝利は、唐末以来の自立化、国内政変への対処、侵攻路の予測、地域勢力の動員、河口地形と潮汐の利用が重なって生まれた政治的・軍事的転換でした。
- 呉権と白藤江の戦いを30秒で理解
- 簡易年表|905年から1288年まで
- 1.938年以前、ベトナムはすでに動き始めていた
- 2.呉権はどのように台頭したのか
- 3.楊廷芸暗殺と矯公羨の賭け
- 4.南漢は何を狙っていたのか
- 5.なぜ白藤江が決戦の場所になったのか
- 6.杭・満潮・干潮――有名な戦術を分解する
- 7.白藤江の一日――戦闘はどう進んだのか
- 8.現在の杭列は938年のものなのか
- 9.勝利は何を終わらせ、何を始めたのか
- 10.なぜ呉権は大羅ではなくコーロアを選んだのか
- 11.白藤江はなぜ三度、決戦の川になったのか
- 12.現在に残る呉権と白藤江の記憶
- よくある誤解とFAQ
- まとめ|938年は、長い自立化が王権へ変わった転換点
- 参考文献・史料
呉権と白藤江の戦いを30秒で理解
- 938年、呉権は白藤江で南漢水軍を破りました。
- 発端は、矯公羨(Kiều Công Tiễn)が楊廷芸を殺して権力を奪い、南漢へ救援を求めたことでした。
- 呉権は南漢軍の到着前に矯公羨を排除し、侵攻軍から国内の協力拠点を失わせました。
- 『資治通鑑』や『大越史記全書』は、杭、満潮時の誘引、干潮時の反撃を伝えます。
- 劉弘操は戦死し、南漢皇帝は撤退しました。
- 翌939年、呉権は王を称し、古螺(Cổ Loa)を都としました。
- 勝利は、曲氏・楊廷芸から続く自立化を、外部王朝の官号に頼らない王権へ転換しました。
- 現在知られる主要な杭列は主に1288年戦と関連づけられ、938年の杭列そのものは確定していません。
北部ベトナムの長い政治史を先に見渡したい方は、コーロアからタンロン、D67司令部までハノイ約2200年の歴史をたどる記事もあわせてご覧ください。
簡易年表|905年から1288年まで
| 年 | 出来事 | 意味・注意点 |
|---|---|---|
| 905年ごろ | 曲承裕が権力を掌握 | 唐の官号を利用しながら、在地勢力による統治が始まる |
| 907年 | 唐が滅亡 | 中国南部を含む各地に地域政権が並立する |
| 930年 | 南漢が侵攻し曲氏政権を倒す | 現代通史で広く用いられる年。史書の年次整理には異同がある |
| 931年 | 楊廷芸が大羅を奪回 | 南漢の占領を短期間で覆し、自立を回復 |
| 937年 | 矯公羨が楊廷芸を殺害 | 国内政変が外国介入の入口になる |
| 938年 | 呉権が矯公羨を討ち、白藤江で南漢軍を破る | 侵攻軍の指揮官劉弘操が戦死。日付の細密な西暦換算は避けるべき |
| 939年 | 呉権が王を称し、コーロアを都とする | 節度使の枠を離れた独自王権を形にする |
| 944年 | 呉権が死去 | 呉朝は短命だったが、独立王権の先例を残す |
| 981年 | 黎桓と宋軍の白藤江戦 | 同じ水系が再び海上侵攻への防衛線となる |
| 1288年 | 陳興道が元軍を白藤江で破る | 現在発掘される主要杭列の多くはこの戦いと関連づけられる |
1.938年以前、ベトナムはすでに動き始めていた
唐の衰退が生んだ「自立できる余地」
938年以前の北部ベトナムを、「千年間、同じ形の直接支配が途切れず続いた地域」と捉えるのは正確ではありません。漢代以後、北方王朝の統治は王朝交代、地方反乱、南詔の侵入、行政制度の変更を経験し、支配の密度や実態は時期によって変化しました。
唐末には中央政府の統制が弱まり、静海軍(Tĩnh Hải quân)と呼ばれた北部ベトナムの軍政地域でも、在地豪族の役割が増しました。905年ごろ、曲承裕が実権を握り、その後を継いだ曲顥(Khúc Hạo)は、行政区画や租税、戸籍を整える改革を進めたと伝えられます。
曲氏は唐・後梁などから節度使の官号を受ける一方、現地で独自に人事と徴税を動かしていました。これは近代的な主権国家ではありませんが、外部王朝の任命を形式として利用しつつ、実質的な自治を広げる政権でした。
南漢の侵攻と楊廷芸の奪回
広州を中心に成立した南漢は、唐崩壊後の華南で海上交易と旧唐の行政基盤を継承した地域国家です。漢王朝そのものでも、現代国家でもありません。南海交易の要地と交州への影響力を確保しようとし、930年に曲承美の政権を倒して大羅を占領しました。
ただし、この年には史料差があります。ベトナム国立歴史博物館の通史的解説は930年としますが、『大越史記全書』の年次配置からは923年と読める箇所もあります。本記事では現在広く用いられる930年を本文の基準とし、年代整理が完全に一枚岩ではないことを付記します。
931年、愛州を基盤とする楊廷芸が軍を起こし、大羅を包囲して南漢勢力を追い出しました。彼も節度使を称しましたが、実態は在地勢力を束ねた自立政権です。938年の勝利は、この曲氏から楊廷芸へ続く約30年の政治的蓄積を前提としていました。
2.呉権はどのように台頭したのか
呉権は楊廷芸の部将であり、娘婿でもありました。愛州を任されていたという後世史書の記述は、彼が単なる一武将ではなく、地域を統治し兵力を集められる立場にあったことを示します。楊廷芸の死後に北へ進軍できたのは、婚姻関係だけでなく、軍事指揮、地方豪族とのつながり、愛州の人的基盤があったためでしょう。

出生地「唐林」は現在のドゥオンラムなのか
『大越史記全書』は呉権を「唐林の人」と記し、現在のハノイ西郊ドゥオンラムでは出生地として顕彰されています。しかし、古代の「唐林」を現在のドゥオンラムに比定することには研究上の異論があります。したがって、「現在のドゥオンラムに呉権廟と陵がある」ことと、「そこが歴史上の出生地として完全に確定した」ことは分けなければなりません。
同書が記す、背中の三つのほくろ、虎のような歩き方、鼎を持ち上げる怪力といった描写も、15世紀にまとめられた英雄像です。人物の評価史としては重要ですが、10世紀の目撃記録ではありません。
3.楊廷芸暗殺と矯公羨の賭け
937年、楊廷芸は配下の矯公羨に殺害されました。政変の具体的な動機は史料から十分には分かりません。権力奪取を狙ったことは明らかでも、単なる性格的な「裏切り」だけで説明すると、地方豪族が競合していた政治構造を見落とします。
矯公羨は楊廷芸の地位を奪ったものの、呉権をはじめとする旧部将や地域勢力をまとめきれませんでした。呉権が愛州から北上すると、矯公羨は南漢へ救援を求めます。ここで内戦は外国介入と直結しました。
南漢にとって、この要請は単なる同盟支援ではありません。『資治通鑑』は、南漢皇帝が「その乱に乗じて取ろうとした」と記します。つまり南漢は、矯公羨を助ける名目で静海軍への影響力を回復しようとしました。
呉権は南漢水軍が到着する前に矯公羨を討ちました。処刑の細かな時期や場所は後世の叙述に差がありますが、戦略的意味は明確です。侵攻軍は、現地で城門を開き、兵糧や水先案内を用意するはずだった協力者を失いました。
4.南漢は何を狙っていたのか
南漢は917年に広州で建国され、華南沿岸と南海交易圏を基盤とした五代十国の一政権でした。皇帝劉龑(Liu Yan。史料では劉龔など異名あり)は、皇子劉弘操を交王・静海軍節度使に任じ、水軍を派遣しました。自身も海門方面に進み、後方支援に当たったと史書は伝えます。
南漢の作戦は、海路から白藤江水系へ入り、大羅へ向かうものでした。船は兵員と物資をまとめて運べる一方、河口へ入れば水路、潮位、浅瀬、支流の選択に左右されます。『資治通鑑』では、崇文使の蕭益が「長雨が続き、海道は遠く険しい。慎重に進み、多くの水先案内人を使うべきだ」と進言しました。これは南漢側も航路の難しさを認識していたことを示します。
南漢軍の兵数については、後世史書に「百万」といった誇張的表現があり、近現代の一般解説には一万、二万、数万など異なる数字が並びます。比較的早い中国側記録は確定兵数を示しません。本記事では、艦隊規模を一つの数字に固定しません。
5.なぜ白藤江が決戦の場所になったのか
白藤江水系は、現在のハイフォン市とクアンニン省の境界付近で海へ開く潮汐河口です。ナムチエウ河口から内陸へ入る水路は、紅河デルタと大羅へ接近する海上ルートの一つでした。海から来る侵攻軍にとって入口であると同時に、防衛側にとっては進路を限定できる関門でした。
「広い川」ではなく、変化する河口
河口部には支流、浅瀬、泥地、島状の高まり、山地に近い狭窄部が組み合わさります。チャンケイン周辺の石灰岩山地は、見通しを遮り、伏兵や陸上部隊を配置しやすい地形をつくります。潮が満ちると航行可能域が広がり、引くと浅瀬と障害物が露出します。
ここで重要なのは、938年の河道と現在の地図を重ねないことです。堆積、河道移動、干拓、埋立、海岸線の変化により、河口景観は大きく変わっています。国際的な水中文化遺産調査でも、この一帯は700~1000年前には現在より広い河口だった可能性が示されています。戦場を現代の観光施設前の一点に固定することはできません。
外洋船の強みを、河川で弱みに変える
南漢の戦艦は海上移動と兵員輸送に強みを持ったはずですが、複雑な河口に入ると、大型・深い喫水・隊形の長さが制約になります。これに対し、地域の小船と水路を知る兵は、浅い支流への退避、偵察、誘導、側面攻撃で有利でした。
呉権が選んだのは、敵船を杭に「突き刺す場所」だけではありません。海上侵攻軍の機動力を、潮汐、浅瀬、狭い航路、伏兵で段階的に奪える戦場でした。
6.杭・満潮・干潮――有名な戦術を分解する
『資治通鑑』は、呉権が海口に先端を鋭くして鉄を被せた大杭を多く植え、満潮時に軽舟で挑戦して偽装退却し、南漢艦隊を誘い込んだと記します。潮が落ちると艦船は杭に妨げられて戻れず、南漢軍は大敗したという叙述です。『大越史記全書』もほぼ同じ骨格を伝えます。
ただし、どちらも戦いと同時代に書かれた現場記録ではありません。『資治通鑑』は11世紀、『大越史記全書』は15世紀の編纂です。両者が共通する伝承を保存していることは重い一方、杭の本数、長さ、間隔、施工場所、鉄の形状まで確定する材料にはなりません。
杭の役割は「船底を貫く」だけではない
- 船底や舵を損傷させる
- 通過可能な航路を狭める
- 船団の隊形を崩す
- 浅瀬への座礁を促す
- 退路を塞ぎ、方向転換を難しくする
- 伏兵の射撃・接舷攻撃を受けやすい場所へ船を止める
実際の効果は、杭単体ではなく、浅瀬、潮流、船の混雑、陸上と水上からの攻撃が重なって生じたと考える方が合理的です。「全艦が一斉に杭へ刺さって沈んだ」という映像は、史料の射程を超えます。
潮汐を「現代の時刻表」で説明しない
史書は満潮時の誘引と干潮時の反撃を伝えます。しかし、938年の特定日の潮位や時刻を、現在の潮汐表からそのまま逆算することはできません。河口形状、海岸線、水深が変われば、潮の伝わり方も変わるからです。
呉権側が潮の周期と局地的な水位変化を熟知していた可能性は高いものの、現代的な計算表で分単位の予測をしていたと描くべきではありません。地域住民、漁撈民、船乗りの経験知が軍事判断へ組み込まれたと見るのが妥当です。

白藤江勝利を支えた六つの条件
- 南漢軍到着前の矯公羨排除
- 海上侵攻路の予測
- 河口地形の選択
- 潮汐の利用
- 杭・浅瀬・伏兵による退路制限
- 地域住民と水軍の動員
7.白藤江の一日――戦闘はどう進んだのか
戦闘の細部は分単位では再現できません。ここでは史書に共通する骨格と、地形から合理的に考えられる流れを分けて整理します。
- 南漢船団の接近:劉弘操の水軍が海から白藤江水系へ入り、大羅方面を目指しました。
- 前衛による確認と誘導:呉権側の軽船が接触し、敵の進入速度と進路を調整したと史書は伝えます。
- 満潮時の進入:水位が高い間、杭や浅瀬の一部は見えにくく、南漢船団は奥へ進みました。
- 船団の伸長と混雑:河口の複数水路へ大部隊が入れば、先頭と後尾の距離が伸び、命令伝達と方向転換は難しくなります。これは地形に基づく復元です。
- 潮位低下:水深が減り、杭、浅瀬、泥地が航行を妨げました。
- 伏兵と主力の反撃:呉権側が水上・岸辺から攻撃し、後退しにくい敵船団へ圧力を集中しました。
- 南漢船団の混乱:衝突、座礁、杭への接触、狭い航路での船同士の干渉が重なったと考えられます。
- 劉弘操の戦死:中国側・ベトナム側の史書はいずれも指揮官の死を伝えます。
- 南漢皇帝の撤退:劉龑は敗報を受け、残兵を収めて退きました。
この流れのうち、杭、潮汐、偽退却、敗北、劉弘操の死、皇帝の撤退は史書に見えます。一方、船の正確な配置、伏兵の人数、戦闘開始時刻、何隻がどの杭に当たったかは分かりません。
8.現在の杭列は938年のものなのか
白藤江流域では、イエンザン、ドンヴァンムオイ、ドンマーグア、カオクイなどで木杭群が確認されています。これらは、潮汐河口で杭を用いた軍事施設が実在したことを示す重要な考古資料です。
しかし、ここが最も混同されやすい点です。クアンニン省の公式資料は、イエンザン、ドンヴァンムオイ、ドンマーグアの杭列を1288年の陳朝対元戦と結びつけています。文化スポーツ観光省の資料も、カオクイ杭列を1288年戦関連とする初期判断を示しています。国際的な戦場考古学プロジェクトも、主な調査目的を1288年戦の船と戦場景観の解明に置いています。
放射性炭素年代と配置が示すもの
発掘杭の一部には放射性炭素年代測定が行われ、13世紀を支持する結果が報告されています。杭の密度や向きも、単純な一直線の「柵」ではなく、支流や浅瀬を利用した複合的な障害帯だった可能性を示します。
一方で、938年の杭列は未発見、または発見済み資料の中で確定できていません。木材が腐朽した可能性、河道変化で深く埋没した可能性、後世の戦場施設と重なった可能性があります。
したがって、現在の結論は次の四点です。
- 後世史書は938年戦の杭戦術を明確に伝える
- 同じ白藤江水系で後代に杭戦術が使われたことは考古学的に確認できる
- 発掘済みの主要杭列を、そのまま938年の物証とはできない
- 938年の正確な杭列位置・構造は研究課題である
これは戦いの存在や勝利を否定する話ではありません。南漢水軍の敗北、劉弘操の死、南漢皇帝の撤退は、中国側史料とベトナム側史書の双方が伝えています。慎重さが必要なのは、勝敗ではなく戦術細部の復元です。
史料・伝承・考古学は何を語れるか
| 資料の層 | 確認できること | 注意点 |
|---|---|---|
| 中国側の比較的早い編年史 | 矯公羨の救援要請、南漢派兵、杭と潮汐、劉弘操の死、撤退 | 『資治通鑑』も11世紀編纂で同時代記録そのものではない |
| 後世のベトナム史書 | 政治的系譜、呉権の人物像、戦術、称王、コーロア遷都 | 英雄化や後世の国家観が加わる |
| 地域伝承・祭礼 | どの地域が呉権や戦勝を記憶してきたか | 938年以来同じ形で続いたとは限らない |
| 考古学 | 杭群、木材、配置、古環境、後代戦場の実在 | 年代と戦役の対応を個別に検証する必要がある |
| 現代軍事史研究 | 地形・船・潮汐・障害物の機能を合理的に復元 | 史料にない細部は仮説である |
9.勝利は何を終わらせ、何を始めたのか
白藤江の勝利は、南漢による再占領を阻止しました。しかし、意味は単なる国境防衛にとどまりません。曲氏と楊廷芸の政権は、なお節度使という旧唐由来の官号を使っていました。呉権は勝利後、その枠を越えて王を称します。
939年、呉権は節度使号を捨て、王を称し、王妃を立て、百官を置き、朝儀と服制を定めたと『大越史記全書』は記します。制度の実態を細部まで復元することはできませんが、「外部王朝に任命された地方長官」ではなく、「自ら秩序を制定する王」という立場を示したことは重要です。
ここで938年は、「独立が突然生まれた年」ではなく、「長く続いた自立化が後戻りしにくい王権へ変わった年」と理解できます。呉朝は944年の呉権死後に不安定化し、やがて十二使君の争いへ向かいます。それでも、外部王朝の再直接支配を当然としない政治原理は、丁朝・前黎朝以後へ受け継がれました。
10.なぜ呉権は大羅ではなくコーロアを選んだのか
呉権は勝利後、唐以来の行政都市大羅ではなく、古代甌雒の王都と伝えられるコーロアを都に選びました。『大越史記全書』は簡潔に「螺城に都した」と記し、後世には安陽王の国統を継ぐ選択と評価されました。
ただし、呉権本人の内心を直接示す文書はありません。象徴面では、旧中国行政中心から距離を取り、北部ベトナムの古い王都を再利用する意味が考えられます。実務面では、コーロアは紅河デルタ北縁の水陸交通を押さえ、環状土塁と水濠を利用できる拠点でした。象徴と軍事・地理の両方が重なった選択と見るべきでしょう。

コーロア遺跡管理機関は、呉権が939年に王を称し、百官・朝儀・服制を整えたと紹介しています。遺跡では呉権期に修築された可能性のある土塁部分も指摘されますが、現在見える城壁全体を939年当時の姿とみなすことはできません。
11.白藤江はなぜ三度、決戦の川になったのか
白藤江水系では、938年の呉権対南漢、981年の黎桓対宋、1288年の陳興道対元という三つの大きな戦いが記憶されています。共通するのは、海上侵攻軍が北部ベトナムの政治中心へ近づく入口であり、潮汐と複雑な水路が防衛側に利用できたことです。
しかし、三戦を同じ戦術の反復と考えてはいけません。敵の国家、艦船、兵站、政治状況、河道、戦闘範囲は異なります。1288年戦では元軍の撤退と兵糧問題が大きな要素となり、発掘杭列の多くもこの戦いに結びつけられています。
それでも、後世の指導者が白藤江を「侵攻軍を河口で止める場所」として認識した可能性はあります。地形の知識だけでなく、938年の勝利の記憶自体が軍事文化の資源になったのです。
12.現在に残る呉権と白藤江の記憶
現在のハイフォンには、呉権を祀るトゥールオンシャム遺跡群や寺廟があり、地域の祭礼で戦勝と建国が顕彰されます。クアンイエンでは白藤江戦場の供養、陳興道信仰、杭列遺跡が結びつき、複数時代の記憶が同じ景観に重なっています。
ドゥオンラムには呉権廟と陵があり、出生地としての地域記憶が形成されています。コーロアでも呉権の称王・遷都が顕彰され、2025年からは呉権を祀る新たな施設整備が進められています。これらは10世紀そのままの景観ではなく、後世の国家・地域社会が呉権をどう記憶してきたかを示す史料です。

東湖版画や博物館模型は、戦いの理解を助ける一方、938年の同時代記録画や完全な復元図ではありません。像も本人の容貌を伝える肖像ではありません。実物資料、復元展示、顕彰表現を区別することで、記憶の厚みが見えてきます。
よくある誤解とFAQ
呉権とはどのような人物ですか
楊廷芸の部将・娘婿で、愛州を基盤に勢力を築きました。938年に南漢水軍を破り、939年に王を称してコーロアを都としました。幼少期の怪力などは後世史書の英雄描写です。
白藤江の戦いはいつ起きましたか
938年です。旧暦月や西暦日付の換算には差があるため、根拠の弱い特定日を断定しない方が安全です。
白藤江は現在のどこにありますか
ベトナム北部、現在のハイフォン市とクアンニン省の境界付近からハロン湾側へ開く河口水系です。938年当時の河道は現在と同一ではありません。
呉権はなぜ白藤江を戦場に選んだのですか
南漢水軍が海から大羅へ向かう侵攻路であり、潮汐、浅瀬、支流、山地を利用して船団の進路と退路を制限できたためです。
杭はどのように使われましたか
史書は水中に先端を鋭くした杭を設けたと伝えます。船底損傷だけでなく、航路制限、隊形崩壊、座礁促進、退路封鎖など複数の機能が考えられます。
潮の満ち引きはどう利用されたのですか
満潮時に敵船を奥へ誘い、潮位が下がって杭や浅瀬が障害となったところで反撃したと史書は記します。具体的な時刻と潮位は復元研究の領域です。
現在残る杭は938年のものですか
主要な発掘杭列の多くは13世紀、特に1288年戦と関連づけられています。938年戦の杭列そのものは未確定です。
南漢とはどのような国ですか
唐滅亡後、広州を中心に成立した五代十国の地域政権です。南海交易と華南の旧唐行政基盤を利用し、静海軍への影響力回復を狙いました。
矯公羨はなぜ南漢へ救援を求めたのですか
楊廷芸を殺して権力を奪った後、呉権らの反攻を抑える国内基盤を欠いたためと考えられます。南漢は救援を介入と再征服の機会に変えました。
白藤江の戦いで南漢軍は何人いたのですか
確定できません。「百万」など後世の誇張表現や、一万・二万とする近現代の数字がありますが、比較的早い記録は確実な兵数を示していません。
938年に本当に「千年の支配」が終わったのですか
象徴的には大きな区切りですが、それ以前にも反乱、自立政権、統治形態の変化がありました。938年は、数十年の自立化を独立王権へ変えた転換点です。
呉権はなぜコーロアを都にしたのですか
古代王都を再利用する象徴性と、紅河デルタを押さえる交通・防衛上の条件が考えられます。ただし、呉権本人の意図を直接示す文書はありません。
呉権の出生地は現在のドゥオンラムですか
現在のドゥオンラムでは出生地として顕彰されていますが、『大越史記全書』の「唐林」をどこに比定するかには研究上の議論があります。
まとめ|938年は、長い自立化が王権へ変わった転換点
白藤江の勝利は、杭だけの奇策ではありません。唐末から続いた自立化、呉権の政治判断、矯公羨の排除、地域勢力の動員、侵攻路の予測、河口地形、潮汐、杭、浅瀬、伏兵が組み合わさって生まれました。
戦術の細部には、11世紀以後の編年史と15世紀のベトナム史書に依存する部分があります。現在の主要杭列も主に1288年戦と関連づけられ、938年の杭列そのものは考古学的に確定していません。
それでも、南漢水軍が敗れ、劉弘操が死亡し、南漢皇帝が撤退し、翌年に呉権が王を称したという歴史的転換は揺らぎません。呉権は軍事的勝利を、コーロアでの国家再建へつなげました。
938年は「独立が突然生まれた日」ではなく、長く進んでいた自立化が、外部王朝の任命に依存しない王権へ変わった転換点だったのです。
関連記事:呉権の勝利後、ハノイの政治中心がどう変化したかを見る
参考文献・史料
- 『資治通鑑』巻281(矯公羨の救援要請、南漢派兵、杭・潮汐、劉弘操の死)
- 『大越史記全書』外紀巻五(曲氏・楊廷芸・呉権紀、称王・遷都)
- 『欽定越史通鑑綱目』前編巻五
- 『十国春秋』巻58(南漢側の派兵と敗北)
- ベトナム国立歴史博物館「Ngô Quyền và chiến thắng Bạch Đằng năm 938」
- ベトナム国立歴史博物館「Võ tướng Dương Đình Nghệ」
- Institute of Nautical Archaeology, “Battle of Bạch Đằng Research Project”
- ベトナム文化スポーツ観光省「カオクイ杭列発掘」
- クアンニン省文化スポーツ局「白藤江遺跡の名称と戦場研究」
- クアンニン省観光局「白藤江戦勝遺跡の保存」
- コーロア遺跡管理機関「Dấu vết thời kỳ Ngô Quyền ở Cổ Loa」
- ハイフォン市公式情報(トゥールオンシャム遺跡・白藤江祭関連)
- Phan Huy Lê, “Chiến thắng Bạch Đằng năm 938: vị trí, ý nghĩa lịch sử và những vấn đề khoa học đang đặt ra,” Nghiên cứu Lịch sử, 1982.
- Jun Kimura et al., “Naval Battlefield Archaeology of the Lost Kublai Khan Fleets,” International Journal of Nautical Archaeology, 2014.
- Trần Ngọc Vương, Nguyễn Tô Lan, Trần Trọng Dương, “Đường Lâm là Đường Lâm nào?”, Tạp chí Nghiên cứu và Phát triển, 2011.

