コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史

呉権が939年に都としたコーロア城の土塁

ハノイには、古代王城から20世紀の戦争司令部まで、約2200年の歴史が重なっています。

ハノイの中心を歩くと、ホアンキエム湖の水面、旧市街の商店、フランス植民地期の建物、タンロン皇城の門が、近い範囲に並んでいます。植民地期の都市改造と監獄制度を伝える場所には、ホアロー収容所があります。少し郊外へ出れば、巨大な土塁を残すコーロアがあります。タンロン皇城の旧王城域には、20世紀の戦争を指揮したD67司令部も残されています。

首都より前のハノイ――紅河デルタに人々が集まった理由

1010年のタンロン遷都より前から、紅河デルタでは人々が集落を築き、稲作を行い、土器や石器、やがて青銅器を作っていました。

紅河は豊かな土を運ぶ一方、洪水ももたらします。そこで暮らすには、流れを読み、堤を築き、舟で移動し、集団で農地を維持する必要がありました。紅河デルタは多くの人口を支え、水運で各地を結ぶ場所でもありました。

ハノイ西部のヴオンチュオイ遺跡群からは、青銅器時代を中心とする長期の居住痕跡が確認されています。コーロアが築かれる前から、この地域には農耕、生産、埋葬を行う社会が存在していました。

洪水は集落を脅かしましたが、河川は人と物資を運び、湿地は城の防御に利用できました。後のコーロアやタンロンでも、水を制御しながら利用する発想が都市の形を決めました。

コーロア――最初の巨大王城は、なぜ築かれたのか

コーロア城に残る土塁。現存する姿を、紀元前3世紀当時の外観がそのまま残ったものとは扱わない。

ハノイ中心部から北へ約17キロ。コーロアには、土を積み上げて造られた大規模な城壁と濠の痕跡が残ります。保存対象は広い範囲に及び、内城・中城・外城と呼ばれる複数の環状土塁、水路、集落、寺廟、考古遺跡が重なっています。

コーロアは一般に、安陽王が率いた甌雒国の都として語られます。考古学的には紀元前3世紀前後を中心に形成された古代の政治・軍事拠点とみられます。後世の史書が伝える年代と、城壁・集落・遺物から推定される年代は証拠の種類が異なるため、築城年を紀元前208年など一つの年に固定するには慎重さが必要です。

コーロアは自然の河川や湿地を城の防御と交通に取り込みました。濠は敵を防ぐとともに、舟による移動や物資輸送にも利用できました。城内外を水路で結ぶ構造は、人員、食料、武器を集める国家的な中枢の機能を支えました。

コーロア城で出土した青銅製鏃。神弩伝説を直接証明する遺物ではない。
写真:Casablanca1911/所蔵:ベトナム国立歴史博物館/CC BY-SA 3.0

1959年、カウヴックでは青銅製の鏃がまとまって発見されました。遺跡管理機関の説明では、総重量は約93キログラム、数量はおよそ1万点に達すると推定されています。完成品だけでなく、鋳型から外した後の仕上げを受けていない鏃も多く、貯蔵された武器、あるいは武器生産と関係する資料と考えられています。

神弩伝説では、金亀の助けで作られた特別な弩によって安陽王は国を守ったものの、娘の媚珠と南越側の仲始をめぐる悲劇によって秘密が漏れ、国は滅びたと語られます。青銅鏃の発見は、コーロアに高度な武器生産と軍事組織が存在した可能性を示します。

現在のコーロアでは、土塁の高さ、濠の幅、曲線を描く城郭、周囲の低湿地から、古代の人々が地形を利用して防御・交通システムを構築したことを確認できます。寺廟や祭礼には、後世に受け継がれた安陽王や媚珠の物語が残ります。

失われた王国から独立回復へ――コーロアとタンロンの間

甌雒国の後、北部ベトナムは長い期間、中国王朝の支配下に置かれました。その間、行政拠点はルイロウ、ロンビエン、大羅などへ移り、交通路、城塞、官僚制度、地域勢力の関係も変化しました。

後のハノイ中心部につながる大羅城は、中国王朝支配期の行政・軍事拠点として整備され、後世のタンロンの前身となりました。独立王朝は、そこに蓄積された城郭、交通、人口、行政機能を自らの国家へ組み替えていきました。

8世紀後半の馮興、10世紀初頭の曲氏などは、中央王朝の力が弱まる中で地域の自立を進めました。馮興や後の呉権の故地として知られるドゥオンラムも、独立回復の記憶と結びついています。ただし、史書上の「Đường Lâm」を現在のドゥオンラムにそのまま比定できるかには議論があります。

938年の白藤江の戦いで、呉権は南漢軍を破り、翌年ごろコーロアを政治拠点に選んだと伝えられます。かつて独立国家の都だった場所を再び選ぶことで、外部支配以前の国家の記憶と新しい独立政権を結びつけました。

呉朝の支配は安定せず、各地の勢力が争う十二使君の時代へ入ります。これを統一した丁部領は、都を華閭に置きました。現在のニンビン省にある華閭は石灰岩の峰と河川に囲まれ、防御に適した場所でした。独立を回復したばかりの国家には、全国統治の利便性より政権を守る都が必要でした。

コーロアは独立の記憶を引き継ぐ都、華閭は独立国家を守る都でした。次に求められたのは、広い国土を治める都でした。

1010年、タンロンへ――守る都から、国を治める都へ

タンロン皇城の端門。現存する建築は後黎朝期を中心に、阮朝期の改修を受けている。
写真:Christophe95/CC BY-SA 4.0

1010年、李公蘊は華閭から大羅へ都を移し、地名を「昇龍」を意味するタンロンへ改めました。後世の正史に伝わる遷都詔は、大羅の位置、地勢、広さ、交通のよさを評価し、李朝が新しい都に求めた理念を伝えています。

華閭は防御に優れていましたが、山地の狭い空間にありました。大羅は紅河に近い平野部で、水運と陸路の結節点でした。人口や物資を集め、官僚機構を置き、各地との連絡を保つには大羅が適していました。遷都によって、独立国家は全国を継続的に統治する段階へ移りました。

タンロン皇城に隣接する18ホアンジエウ発掘区では、7〜9世紀の大羅期から李・陳・黎・莫・阮朝期まで、約1300年にわたる建築遺構と遺物が重なって確認されています。

地下には建物の基礎、柱を支えた礎石、井戸、排水路、瓦、陶磁器などが層をなしています。王朝が交代し、戦争や火災で建物が失われるたび、同じ政治中枢の上に新しい建物が築かれました。

王朝が変わっても、紅河デルタを治める中枢の場所は引き継がれました。

王城だけでは首都にならない――学問・信仰・商業の都市

都には、官僚を育てる学問、都市を守る信仰、物資を動かす市場、そこで暮らす職人と商人が必要でした。

1442年の科挙合格者を記録し、1484年に建立された進士碑。
写真:Ngokhong/CC BY-SA 3.0

1070年に文廟が設けられ、1075年には科挙が行われ、1076年に国子監が置かれたとされています。文廟・国子監は現代の大学と同じ制度ではなく、儒教の学問と官僚登用を結びつけ、王朝国家を担う人材を育てる場でした。

文廟には82基の進士碑が残り、1442年から1779年までの科挙合格者を記録しています。たとえば1442年の試験を記録する碑は、1484年に建立されました。

信仰の面では、白馬祠、ヴォイフック祠、キムリエン祠、クアンタイン祠が、後世に「タンロン四鎮」として東西南北の守護を担う寺廟群として語られます。四つが最初から同時に一つの制度として整備されたのではなく、異なる由来を持つ信仰施設が、都市の拡大と記憶の中で首都守護の体系として結びつけられました。

ホアンキエム湖には、明支配から独立を回復した黎利が神亀へ剣を返したという還剣伝説があります。伝説は史実とは区別されますが、独立戦争の勝利を湖の風景に結びつけ、都市の日常に記憶を残しました。

旧市街では、職人や商人が同業者ごとに集まり、王城と住民の生活を支えました。

王都の地位を失ったタンロン――阮朝とフランス侵攻

1802年、阮朝が成立すると、全国の王都はフエへ移りました。タンロンは王朝の首都ではなくなりましたが、紅河デルタの人口、交通、経済を押さえる北部の中心であり続けました。

阮朝は旧王城を改築し、北部統治の行政・軍事拠点として利用しました。1831年の行政再編で「Hà Nội」という名称が成立しました。一般に「河の内側」と説明されますが、名称は阮朝の地方行政再編の中で成立したものです。

同じ時代、ハノイ西方にはソンタイ城が築かれました。1822年に建設された城は、ラテライトを多用し、濠と稜堡を備えた北部防衛の拠点です。阮朝が北部を軍事的に管理したことを示す19世紀の遺構です。

1873年、フランス軍がハノイ城を攻撃し、阮知方が抗戦しました。1882年には再び攻撃を受け、総督の黄耀は城を守った後に命を絶ちました。北部支配の中枢は植民地権力の手に移り、都市全体の用途が変えられていきました。

1884〜1885年ごろ、敬天殿の龍階段とフランス兵。王朝中枢の植民地軍事施設への転用を示す。
撮影:Charles-Edouard Hocquard/Public Domain

王都でなくなった後も、ハノイは北部支配の中心でした。阮朝とフランスは既存の政治中枢を利用しながら、それぞれの制度に合うよう作り替えました。

植民地都市ハノイ――美しい街並みの裏側

フランス統治下のハノイでは、道路、官庁、鉄道、上下水道、街路樹、洋風建築が整備されました。現在のハノイの景観には、この時代の都市改造が大きく影響しています。

1931年のハノイ。街路樹、道路、洋風建築が整備された植民地都市の中心部。

都市計画は植民地行政、軍事、物流、衛生管理を効率化するために進められました。旧王城の建物や城壁は壊され、土地は官庁や兵営へ転用されました。整備された区域と現地住民が暮らす区域の環境には大きな差がありました。

鉄道と道路は人の移動を便利にする一方、資源と商品を植民地経済へ組み込む役割も担いました。ロンビエン橋はハノイを広域交通網へ結びつけ、植民地支配の物流基盤となりました。

ホアロー収容所に残る「Maison Centrale」の門。現代写真であり、植民地当時の実景写真ではない。

フランス当局は陶器生産で知られた地域を接収し、刑務所、裁判、警察機能と結びついたホアロー収容所を建設しました。多くのベトナム人政治犯が収容され、厳しい環境の中で組織活動や脱獄も試みられました。

ホアローは後にベトナム戦争期の米軍捕虜施設として国際的に知られましたが、当初は植民地支配に抵抗したベトナム人を収容する監獄でした。

現在残る建物は施設全体の一部です。門、壁、収容空間、展示資料には、都市の近代化と政治的抑圧が同時に進んだ歴史が残ります。

1945年、ハノイでは独立を求める動きが急速に広がり、ベトナム民主共和国の独立宣言へつながりました。フランスとの対立は続き、1946年末にはハノイ市街戦が始まりました。長い抗仏戦争を経て、1954年に新政権がハノイへ戻り、この都市を首都としました。

古代王城の上に置かれた戦争司令部

1967年に旧王城域へ建てられたD67司令部。古代王城と20世紀の軍事中枢が同じ場所に重なる。
写真:Gryffindor/CC BY-SA 3.0

タンロン皇城では、王朝時代の門や石段の近くに、1967年に建てられたD67司令部があります。

D67は空爆を意識した厚い壁や防護構造を持ち、会議室、執務室、地下施設と結ばれていました。ベトナム労働党政治局、中央軍事委員会、国防省、参謀本部の指導者たちが戦争指揮に関わった場所として保存されています。

古代の王が城を築き、歴代王朝が宮殿を建て直し、フランス軍が接収し、現代戦争の司令部が置かれました。権力の形は変わっても、同じ土地が政治中枢として繰り返し選ばれました。

ハノイ2200年史を歩くためのFAQ

ハノイの歴史は何年前から始まりますか

現在のハノイ地域には、コーロア以前の先史・青銅器時代から人々が暮らしていました。この記事の「約2200年」は、主に紀元前3世紀前後のコーロアと古代国家の形成から現在までを示しています。

コーロアとタンロンは同じ場所ですか

コーロアとタンロン皇城は別の場所です。コーロアはハノイ中心部の北側にある古代城郭です。タンロン皇城は現在のバーディン区にあります。呉権によるコーロア再利用や、その後の華閭、タンロン遷都を通じて政治史上つながっています。

ハノイという名前はいつから使われていますか

阮朝の行政再編が行われた1831年に、Hà Nộiという名称が成立しました。それ以前はタンロン、大羅、東京など、時代により異なる名称が使われました。

タンロン皇城には何が残っていますか

端門、敬天殿の基壇と龍階段、北門、後楼などの地上遺構に加え、18ホアンジエウ発掘区には大羅期から各王朝期の建築基礎、井戸、排水路、瓦、陶磁器などが残っています。

ホアンキエム湖の神剣伝説は史実ですか

神亀へ剣を返した物語は伝説です。黎利が明支配に対する戦争を率いたこととは区別する必要があります。ただし、独立回復の記憶を都市の湖へ結びつけた重要な文化的物語です。

D67司令部はタンロン皇城の中にありますか

はい。旧王城域に建てられ、現在はタンロン皇城の見学対象の一つとして保存されています。古代の王城と20世紀の軍事司令部を同じ場所で確認できます。

初めてなら、どの史跡を見ると理解しやすいですか

まずタンロン皇城で王朝時代の遺構、発掘区、D67を一続きに見ると、歴史の重なりを理解しやすくなります。時間があればコーロアを訪れ、石造建築ではなく土塁と水濠から始まった国家形成の舞台を確認すると、ハノイ史の起点がより明確になります。

次にハノイを歩くとき、街はもう同じには見えない

コーロアの土塁、タンロン皇城の地下遺構、文廟の進士碑、ホアンキエム湖、ホアロー収容所、D67司令部には、古代国家の形成、王朝国家の統治、植民地支配、独立回復、20世紀の戦争という異なる時代が残されています。

参考文献・参考資料

  • Ban quản lý khu di tích Cổ Loa, “Di tích / Di vật”
  • Ban quản lý khu di tích Cổ Loa, “Di tích Cầu Vực”
  • Ban quản lý khu di tích Cổ Loa, “Trưng bày Cổ Loa – Dấu ấn lịch sử và văn hóa”
  • Ban quản lý khu di tích Cổ Loa, “Ngô Quyền”
  • Sở Văn hóa và Thể thao Hà Nội, Vườn Chuối archaeological-site conservation materials
  • Trung tâm Bảo tồn Di sản Thăng Long – Hà Nội, “Di tích khảo cổ học 18 Hoàng Diệu”
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  • Trung tâm Bảo tồn Di sản Thăng Long – Hà Nội, “Nhà D67, một di tích cách mạng tiêu biểu của thời đại Hồ Chí Minh”
  • Văn Miếu – Quốc Tử Giám, “Site History”
  • UNESCO Memory of the World, “Stone Stele Records of Royal Examinations of the Le and Mac Dynasties”
  • Sở Văn hóa và Thể thao Hà Nội, materials on Thành cổ Sơn Tây
  • Di tích Nhà tù Hỏa Lò, materials on the formation and history of Hỏa Lò Prison
  • 『大越史記全書』ほか、遷都詔、黎利、タンロン史に関するベトナム史料・研究