ハノイ中心部のホアロー通りに、黄色い壁と黒い扉、その上に「Maison Centrale」と記された門が残っています。門をくぐると、まず現れるのは、足枷で長い台につながれた囚人の再現展示です。独房、女性囚人区、死刑囚区へ進むと、フランス植民地期のギロチンが置かれています。
ところが展示の後半では、軍服、手紙、写真、食器、クリスマスの飾りなど、米軍捕虜の生活を示す資料へと場面が切り替わります。同じ壁の内側でも、誰が囚人となり、誰が監視する側となったのかは、時代によって逆転しました。
Hỏa Lò収容所の歴史は、「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれたベトナム戦争期だけではありません。その約70年前、フランス植民地政府がハノイの司法・警察・監獄を組み合わせた統治装置として建設したところから始まります。この記事では、植民地期の政治犯と一般刑事犯、女性、死刑囚、獄中活動と脱獄、米軍捕虜、そして現在の博物館が作る記憶までを、一つの流れとしてたどります。

30秒で分かるホアロー収容所
- ホアロー収容所は、フランス植民地政府が1896年に建設を始めた中央監獄です。
- フランス語名は Maison Centrale。刑事犯だけでなく、反植民地運動の政治犯も多数収監されました。
- 設計定員を大きく超える過密、足枷、衛生悪化、病気、懲罰、死刑が収容生活を形づくりました。
- 政治犯は獄中で学習、情報交換、組織化を続け、脱獄も試みました。ただし、すべての囚人が革命家だったわけではありません。
- 1954年以後は北ベトナム側が施設を使用し、1964~1973年には撃墜された米軍搭乗員らを収容しました。
- 米軍捕虜が皮肉を込めて呼んだ「ハノイ・ヒルトン」は正式名称ではありません。
- 捕虜待遇について、現在の博物館展示と米軍帰還捕虜の証言には大きな差があります。時期、施設、個人差と証拠の種類を分けて読む必要があります。
- 1990年代に旧施設の大部分が再開発され、現在は一部が歴史遺跡・博物館として残っています。
ハノイの都市史全体から位置づけたい方は、先に「コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史」をご覧ください。
1.なぜ「火炉」の村に監獄が建てられたのか
陶器職人の土地だったホアロー
ホアローという名は、監獄のために作られた名称ではありません。公式沿革によると、この一帯のフーカイン村では、土製の急須や薬缶、かまどを作って市中へ売っていました。そこから火炉、すなわち炉やかまどに関わる地名が生まれました。
フランスがハノイを植民地都市へ改造すると、住民は移転させられ、寺院も取り壊されました。その跡地に裁判所と監獄が並べて建てられます。ここで重要なのは、地名の「ホアロー」と施設の正式名を分けることです。植民地政府が付けた名称は 中央監獄、フランス語で Maison Centrale でした。
裁判所・警察・監獄を都市中心部に集める
監獄の東には裁判所があり、周囲には行政機関や幹線道路が整えられました。逮捕、取り調べ、裁判、未決拘禁、刑の執行を、植民地都市の中心で連続させる配置です。監獄は単独の建物ではなく、司法と警察を支える制度の一部でした。
フランス領インドシナの監獄網では、ホアローが北部の入口・中継点となりました。比較的短い刑や裁判前の拘禁、死刑囚を収容し、長期刑の受刑者をソンラやコンダオなどへ移送することもありました。つまり、ホアローだけを見ても植民地監獄の全体像は分かりません。都市監獄と遠隔地の流刑・重刑施設を結ぶ網として理解する必要があります。
2.Maison Centraleはどのような監獄だったのか
1896年に承認され、未完成のまま使用へ
ホアロー収容所の公式資料が引用する国立公文書の設計文書では、計画は1896年2月27日にインドシナ総督の承認を受け、緊急事業として同年中に工事が始まりました。建物が完成しきる前の1899年には、すでに使用されています。
承認された計画には、守衛棟、病棟、未決囚棟、木工・鉄工・縫製などの作業場、既決囚の共同房、危険囚・規則違反者・死刑囚の独房が含まれていました。高さ約4メートル、厚さ約0.5メートルの外壁、巡回路、四隅の監視塔など、脱獄防止を重視した構造です。
公式沿革は、当初の設計定員を450人とし、時期によっては2,000人ほどを収容したと説明します。ただし、この数字は全期間の平均ではありません。収容人数は逮捕の波、増改修、戦争、房の用途変更によって変わりました。「常に2,000人だった」と受け取るのは正確ではありません。
増改修が追いつかない監獄
建設後も房や錠前、独房、衛生設備の補強が続き、1912年には倉庫を少年囚の収容に転用、1917年には衛生設備と濾過槽が改修されました。逮捕者が増えるたびに収容能力を後追いで広げる構図です。建物を増やしても、植民地警察が政治運動を大規模に取り締まれば、過密は繰り返されました。
現在の博物館に残るのは、旧監獄全体ではありません。公式展示の説明では保存区画は2,000平方メートル余りです。一方、1896年計画の資料は監獄と周辺道路を合わせた面積を12,908平方メートルとしますが、両者は測定範囲が同じではないため、単純に「何%残った」と計算することはできません。
3.誰が収監され、どのように暮らしたのか
一般刑事犯、未決囚、政治犯、女性、少年
現在の展示では、反植民地運動の活動家が中心に語られます。しかし、実際の収容者はそれだけではありません。窃盗などで訴追された一般刑事犯、判決前の被疑者、外国人、女性、少年、死刑囚がいました。政治犯という分類も固定的ではなく、植民地政府が秩序への脅威と判断した民族主義者、労働運動参加者、共産主義者などが含まれました。
1920~30年代には、ベトナム国民党(Việt Nam Quốc Dân Đảng)の民族主義者や、インドシナ共産党(Đảng Cộng sản Đông Dương)の党員が収監されました。両者は植民地支配に反対していても、思想、組織、戦略は同じではありません。「政治犯=共産主義者」とまとめると、反植民地運動内部の違いを消してしまいます。
女性区には、政治活動に関わった女性だけでなく一般囚も収容され、乳幼児を伴う母親もいました。公式展示は約270平方メートルの女性区に小部屋、共同房、浴室、庭があり、多い時期には約300人に達したと説明します。これも特定時期の最大規模として読むべき数字です。
足枷、共同房、独房、衛生
共同房では囚人が長い台の上に並び、足首を鉄製の拘束具につながれました。身動きが制限されるだけでなく、換気の悪さ、排泄設備の不足、飲み水、食事、害虫、感染症が重なります。病棟は設計に含まれていましたが、医療設備があることと、すべての囚人が十分な治療を受けられたことは同義ではありません。
待遇は、時代、房、刑の種類、健康状態、看守との関係によって異なりました。政治犯と一般刑事犯の扱いが常に完全に同じだったとも、政治犯だけが苦しんだとも言えません。植民地監獄の問題は、過密と衛生不良が制度的に繰り返され、その上に懲罰や差別的運用が重なったことにあります。

この人形展示は、足枷と共同房の構造を体感的に伝えるための再現です。実在する特定の囚人や一日の光景を撮影した記録ではありません。見学時には、当時の建築・現物資料、復元物、模型、人形、説明写真を区別して見ることが大切です。
ギロチンと植民地司法
ギロチンは、フランス式の死刑制度を植民地へ持ち込んだことを示す象徴的な資料です。死刑判決を受けた囚人がホアローの死刑囚区に置かれ、執行場所へ移送されることもありました。1930年のイエンバイ蜂起後、阮太学(Nguyễn Thái Học)らベトナム国民党指導者はイエンバイで処刑されています。
博物館資料は、分解して運べるギロチンがホアローから他地域へ運ばれた例を説明します。しかし、現在展示される機械の完全な個別使用歴、使用回数、すべての処刑者との対応が確定しているわけではありません。「この展示品が、展示で紹介される全員の処刑に使われた」と断定してはいけません。

4.監獄はなぜ「革命の学校」になったのか
閉じ込める制度が、人と情報を集めた
ホアローの公式展示は、監獄を「愛国・革命の学校」と表現します。これは単なる美辞麗句ではなく、政治犯が識字、外国語、政治理論、組織運営を教え合い、新聞や文書を回し、釈放後の連絡網を作ったという実践を指します。長征(Trường Chinh)、黎徳寿(Lê Đức Thọ)ら、後に重要な役割を担う活動家も植民地監獄を経験しました。
歴史家ピーター・ジノマンは、フランス領インドシナの監獄が反対運動を抑える一方で、異なる地域・階層の活動家を集め、政治教育と組織化を促す逆説を示しています。監獄は革命運動の唯一の起源ではありませんが、都市の新聞、党組織、家族、弁護士、釈放者、遠隔地監獄をつなぐ結節点になりました。
ただし、この働きを「苦難が人を鍛えた」という成功物語だけに変えるべきではありません。病気や処刑で命を失った人、心身を損なった人、組織から離れた人もいました。「革命の学校」という語は囚人の主体性を表すと同時に、監獄の暴力を後景化する危険もあります。
脱獄はどのように行われたのか
脱獄には、壁、病院区、下水道、看守や外部協力者との連絡など、複数の方法が使われました。1932年のクリスマス期には政治犯7人が脱出した例が公式資料に紹介されています。1945年3月には、日本軍がフランス植民地当局を武装解除した混乱のなか、囚人が下水道を利用して脱出しました。
この1945年の人数は資料によって表現が違います。ホアロー側の解説にも「100人余り」とするものと「数百人」とするものがあり、対象期間や成功者の数え方が一致していません。したがって、人数を一つの確定値に固定せず、「大規模な脱獄が起きたが、正確な人数には資料差がある」とするのが妥当です。
脱出に成功しても、再逮捕された人や、その後の戦闘で死亡した人がいます。展示模型は経路を理解する助けになりますが、すべての脱獄が同じルートで行われたわけではありません。脱獄を冒険物語にせず、監獄管理の緩み、政治情勢、外部組織との関係を含めて見る必要があります。
5.1945年以後、管理者と囚人の位置が変わった
一日で用途が切り替わったわけではない
1945年3月の日本軍による仏印処理、8月の日本降伏と八月革命、フランス軍の再進出によって、ハノイの支配権は短期間に揺れ動きました。ホアローも、一つの日を境に植民地監獄から新国家の施設へ単純に切り替わったわけではありません。1946年以後の第一次インドシナ戦争ではフランス側が再び使用し、1954年10月のハノイ接収後、北ベトナム政府の下で「ハノイ拘置所」として警察管理へ移りました。
ここで歴史の大きな反転が起きます。植民地期にフランスがベトナム人反対者を収監した施設を、独立後のベトナム国家が拘禁施設として引き継いだのです。建物は同じでも、国家、法制度、囚人の政治的位置は変わりました。
1964~1973年の米軍捕虜と「ハノイ・ヒルトン」
北ベトナムへの空爆が本格化すると、撃墜されて捕らえられた米海軍・空軍などの搭乗員が、ホアローを含む複数の施設に収容されました。米軍捕虜はホアローを皮肉を込めて「ハノイ・ヒルトン」と呼びました。ホテル名になぞらえた捕虜側の俗称であり、北ベトナム政府や施設の正式名称ではありません。
ジョン・マケインは1967年10月にハノイ上空で撃墜され、負傷した状態で捕らえられました。ジェームズ・ストックデールも捕虜の指揮・抵抗で知られます。しかし、両者を含む捕虜は、ホアロー以外の収容所へ移されることがありました。ホアローだけで全期間を過ごしたと考えたり、一人の経験を全捕虜へ広げたりすることはできません。
ホアローは北ベトナムの捕虜収容網の一拠点でした。時期によって収容人数、房の使い方、捕虜同士の接触、尋問、外部向け撮影の機会が変わります。米軍捕虜期を理解するには、「場所」と「時期」を必ず組み合わせて確認する必要があります。
6.米軍捕虜の待遇をどう検証するか
展示が示す「生活」と、帰還者が語る「強制」
現在の博物館は、捕虜の食事、医療、運動、手紙、宗教行事、クリスマス、帰還場面を展示し、北ベトナム側が可能な範囲で生活条件を整えたと説明します。写真や物品には、そのような場面が存在したことを示す資料価値があります。しかし、展示された一場面が全期間・全捕虜の日常を代表するとは限りません。
一方、米軍帰還捕虜の聞き取り、回想録、米軍の公式史には、殴打、長時間の拘束、ロープによる苦痛姿勢、独房、睡眠妨害、強制声明や宣伝撮影を迫られたという証言が多数あります。証言は個人の記憶であり、時間の経過や帰還後の政治環境を考慮して読む必要がありますが、複数の捕虜が重なる方法と時期を語っており、まとめて「宣伝だった」と退けることもできません。
特に1960年代半ばから後半の尋問・強制を厳しく語る証言が多く、1969年以後は集団収容が増え、郵便や礼拝などの条件が改善したとする回想があります。ただし、改善の時期や程度は施設・個人によって異なります。「1969年から全員が人道的に扱われた」と一線を引くのも単純化です。
ジュネーブ条約をめぐる対立
1949年の捕虜待遇に関する第三ジュネーブ条約は、捕虜の人道的待遇、暴力・威嚇・侮辱からの保護、国際赤十字委員会による訪問などを定めます。北ベトナムは米軍搭乗員を通常の捕虜ではなく「侵略者」「戦争犯罪人」と位置づけ、捕虜資格の適用を争いました。その一方で、人道的に扱うと主張しました。
ここには二つの問題があります。第一は、法的地位をめぐる政府間の主張。第二は、現場で実際に何が行われたかです。法的主張だけで待遇の実態は決まりません。公式発表、国際機関の交渉記録、医療記録、撮影資料、帰還後の聞き取り、個人回想を分け、相互に照合する必要があります。
捕虜の通信と抵抗
捕虜は壁を叩く通信コードを使い、隔離された房の間で名前、指示、祈り、ニュースを伝えました。捕虜内の指揮系統を維持し、強制声明への対応や、早期釈放を受けるかどうかを協議しました。宗教行事や歌も、共同体を保つ手段になりました。
ただし、抵抗を英雄像だけで描くと、拷問や孤立のなかで限界に追い込まれた人の経験を切り捨てます。強制に屈して声明を読んだこと、情報を話したこと、仲間と対立したことは、それだけで人物全体を評価できません。帰還後に整えられた「不屈の捕虜」像と、拘禁中の複雑な選択は区別して考えるべきです。
1973年の帰還
1973年1月27日のパリ和平協定後、2月12日からオペレーション・ホームカミングが始まりました。米国立公文書館は、協定後に591人の米軍捕虜が解放されたと説明します。この数字はホアローだけの収容者数ではなく、北ベトナムや南部などから帰還した全体です。
帰還後、医療検査と聞き取りが行われ、拘禁状況の記録が集められました。同時に、捕虜の帰還は米国内で戦争の意味を語る政治的象徴にもなります。未帰還者・行方不明者の問題はその後も続きました。ホアローの展示を、ベトナム戦争の捕虜・行方不明者問題全体と同一視しないことが重要です。
7.なぜ大部分が失われ、何が博物館に残ったのか
1993年の再開発と保存
ベトナムの市場経済化とハノイ中心部の再開発が進むなか、1993年に旧監獄の一部をホテル・オフィス複合施設「ハノイ・タワーズ」側へ転用し、ホアロー通りに面する一部を保存・整備する方針が決まりました。現在の門、壁、房、展示区は、巨大だった旧施設の残存部分です。
1997年には国の歴史遺跡に指定されました。保存された区画には、建築の遺構、拘束具などの資料、復元・再現展示、記念碑、写真や文書が組み合わされています。したがって、「1896年の監獄が丸ごと残る」と説明するのは誤りです。
展示は何を強く語るのか
常設展示の中心は、1896~1954年の植民地期、とりわけ愛国者・革命家の収監、女性囚人、死刑、獄中教育、脱獄です。1964~1973年の米軍捕虜展示は後半に置かれ、食事、治療、娯楽、宗教、手紙、帰還を通じて人道的待遇と平和を強調します。
この比重の差は偶然ではありません。博物館は、遺物を並べるだけでなく、国家と社会が過去をどのように記憶するかを示す施設です。植民地期の犠牲と革命の正統性は詳しく語られ、米軍捕虜側の拷問証言や北ベトナムの拘禁制度の継続性は短くなります。逆に米国の捕虜記憶では、植民地監獄としての約70年がほとんど見えなくなることがあります。
だからこそ、片方を「真実」、もう片方を「宣伝」と即断するのではなく、展示が選んだ資料、展示されない資料、作られた時代、想定する観客を読む必要があります。博物館は歴史そのものではなく、歴史を選択して提示する記憶の装置でもあります。
8.簡易年表で見るホアローの変化
| 時期 | 出来事 | 読み方のポイント |
|---|---|---|
| 1896年 | Maison Centrale計画承認、建設開始 | フランス植民地司法の中央監獄として始まる |
| 1899年 | 未完成の段階で使用開始 | 反植民地運動への取り締まりと収容増加が背景 |
| 1910年代 | 房・少年区・衛生設備などを増改修 | 収容増に設備が追いつかない |
| 1920~30年代 | 民族主義者・共産主義者の収監が増える | 政治犯は一つの思想集団ではない |
| 1930年 | イエンバイ蜂起後の大規模弾圧 | 死刑囚はホアローに置かれ、処刑地へ移送される例もあった |
| 1945年 | 日本軍の仏印処理、脱獄、八月革命、支配の変動 | 一日で用途が完全転換したわけではない |
| 1954年 | 北ベトナム側がハノイを接収し、拘置所として使用 | 管理者と法制度が変わる |
| 1964年 | 米軍搭乗員らの収容が始まる | ホアローは複数収容施設の一つ |
| 1967年 | ジョン・マケインが捕らえられる | 全期間をホアローだけで過ごしたわけではない |
| 1973年 | パリ和平協定、捕虜帰還 | 591人はホアローだけでなく帰還者全体 |
| 1993年 | 再開発と一部保存の方針 | 旧監獄の大部分は失われ、残存区画が博物館化 |
| 1997年 | 国の歴史遺跡に指定 | 教育・追悼・観光の場として再構成 |
| 2025~26年 | 保存修復と展示更新 | 公開範囲や動線は訪問直前に公式情報を確認 |
9.現地で見るべきポイントと見学情報
展示を見る順番
- Maison Centrale門:地名「ホアロー」とフランス語の施設名を区別します。
- 外壁と監視構造:残存部分と再整備部分を確認します。
- 共同房・足枷:現物の拘束具と人形による再現を分けて見ます。
- 独房:暗さや狭さを体験しつつ、全囚人が常時同じ房にいたと一般化しません。
- 女性囚人区:政治活動家、一般囚、母子という複数の経験に注目します。
- ギロチン:死刑制度の象徴として見て、個別使用歴を展示説明以上に断定しません。
- 下水道脱獄展示:模型の経路と、史料上の人数差を意識します。
- 記念区:追悼と国家的物語が結びつく場所として読みます。
- 米軍捕虜展示:写真・手紙・衣服が示す事実と、展示が選ばなかった証言を分けます。
開館時間・料金・修復状況
2026年7月17日、公式サイト確認。
- 所在地:1 Hỏa Lò Street, Cửa Nam Ward, Hanoi(ハノイ市クアナム街区ホアロー通り1番地)
- 開館:8:00~17:00、毎日。祝日・テトも開館と公式表示あり
- 通常料金:50,000ドン(公式料金表)
- 50%割引:重度障害者、60歳以上、学生・生徒、社会政策対象者など(証明書条件を現地で確認)
- 無料:特に重い障害のある人、16歳未満の子ども
- 団体・見学登録:公式サイトにオンライン登録フォームあり
公式サイトは2025年11月、一部展示区域を修復し、2026年4月末の完成を予定すると告知しました。2026年春には見学動線の変更も案内されています。公式サイトには通常開館と料金が表示されていますが、修復後の全区画が常に同じ状態で見られるとは限りません。訪問直前に公式サイト、公式Facebook、電話で入口・出口と公開範囲を確認してください。
夜間プログラムはホアローの代表的な体験型企画ですが、2026年7月17日の公式サイト上では、毎週の固定開催日と販売中の日程を一括確認できませんでした。2026年の文化事業計画には新しい夜間企画が含まれています。参加を考える場合は、公式の最新告知または予約窓口で、開催日、言語、料金、年齢条件を確認してください。
よくある質問
ホアロー収容所は誰が造りましたか
フランス植民地政府が1896年に計画を承認し、同年に建設を始めました。植民地司法・警察の中央監獄として設計され、1899年には未完成のまま使用されています。
ホアローとはどういう意味ですか
もともとは土製の炉やかまどを作る職人村に由来する地名です。監獄の正式名称ではありません。英語圏で見かける扇情的な訳語より、地域産業に由来する地名として理解する方が正確です。
Maison Centraleとは何ですか
フランス語で「中央監獄」を意味する植民地期の正式名称です。「ハノイ・ヒルトン」は後世の米軍捕虜側の俗称で、同じ種類の名前ではありません。
どのような人が収監されましたか
一般刑事犯、未決囚、外国人、女性、少年、死刑囚に加え、民族主義者、共産主義者、労働運動参加者などの政治犯がいました。全員を革命家、または共産主義者とするのは誤りです。
ギロチンは実際に使われましたか
フランス植民地期にギロチンによる死刑が行われ、移動式の機械が各地へ運ばれた記録があります。ただし、現在の展示品が誰の処刑に何回使われたかという完全な個別履歴は、公開資料だけでは確定できません。
政治犯はどのように抵抗しましたか
識字・語学・政治教育、新聞や文書の回覧、外部との連絡、処遇改善要求、組織づくり、脱獄などです。ただし監獄内の活動だけで革命運動が成立したわけではなく、外部の党組織、家族、社会運動と結びついていました。
脱獄は本当に成功したのですか
成功例はあります。1932年や1945年、1951年などに記録されています。ただし参加者・成功者・再逮捕者の数え方で数字が違い、特に1945年3月の人数は公式解説の間にも幅があります。
なぜ「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれたのですか
米軍捕虜が高級ホテルのヒルトンになぞらえ、拘禁施設を皮肉に呼んだためです。正式名称ではありません。
ジョン・マケインはここに収容されましたか
はい。1967年10月に撃墜・拘束された後、ホアローを含む施設に収容されました。ただし5年以上の拘禁期間をホアローだけで過ごしたわけではありません。
米軍捕虜は拷問を受けましたか
複数の帰還捕虜の証言と米軍資料は、殴打、ロープ拘束、独房、強制声明などを記録しています。一方、時期・施設・個人で経験は異なり、1969年以後に条件が改善したという証言もあります。全員が同じ方法・頻度で虐待されたと一括りにはできません。
北ベトナム側展示と捕虜証言はなぜ違いますか
展示は、国家が残したい記憶と教育目的に沿って資料を選びます。捕虜証言は個人の経験と帰還後の記憶です。写真、物品、公文書、医療記録、国際機関の記録、複数証言を組み合わせて検証する必要があります。
現在残る建物は監獄全体ですか
いいえ。1990年代の再開発で大部分が失われ、ホアロー通り側の一部が保存・博物館化されました。現地には遺構、現物資料、復元、模型、人形展示が混在します。
見学時間と入場料はいくらですか
2026年7月17日の公式表示では、8:00~17:00、通常50,000ドンです。毎日、祝日・テトも開館とされています。割引・無料条件や修復中の動線は訪問直前に再確認してください。
夜間ツアーはありますか
夜間体験プログラムは実施実績があり、2026年の事業計画にも関連企画があります。ただし開催日、料金、予約枠は変動します。公式サイトだけで固定日程を確認できない場合は、公式Facebookまたは施設へ直接確認してください。
まとめ――権力と囚人の関係を読む場所
ホアローは、フランス植民地統治の中央監獄として始まりました。一般刑事犯、未決囚、女性、少年、死刑囚とともに、反植民地運動の政治犯が収監されました。過密、拘束、衛生悪化、懲罰、処刑という制度の内側で、政治犯は学び、連絡し、組織化し、脱獄を試みました。
1954年以後は北ベトナム側が施設を使用し、1964~1973年には米軍捕虜を収容しました。管理者と囚人の政治的位置が変わっても、国家が拘禁を通じて情報、身体、発言を管理するという問いは残ります。米軍捕虜の待遇は、北ベトナム側の公式展示と捕虜証言の差を隠さず、公文書、国際人道法資料、医療記録、複数の回想を照合して考えなければなりません。
現在の博物館も歴史そのものではなく、何を強く語り、何を短くするかを選ぶ記憶の施設です。門、足枷、ギロチン、脱獄模型、捕虜の手紙を別々の見世物として眺めるのではなく、時代によって入れ替わる権力と囚人の関係を読み解く。そこにホアローを訪れる意味があります。
関連記事
参考文献・参考サイト
- ホアロー収容所史跡「Giới thiệu nhà tù Hỏa Lò」
- ホアロー収容所史跡「Hệ thống trưng bày thường xuyên」
- ホアロー収容所史跡「Trường học yêu nước – cách mạng」
- ホアロー収容所史跡「Cuộc sống của tù binh phi công Mỹ」
- ホアロー収容所史跡「Vé tham quan」
- ホアロー収容所史跡「修復に関する告知」
- Peter Zinoman, The Colonial Bastille: A History of Imprisonment in Vietnam, 1862–1940, University of California Press, 2001.
- David G. Marr, Vietnam 1945: The Quest for Power, University of California Press, 1995.
- ベトナム国立歴史博物館「イエンバイ蜂起とベトナム国民党指導者」
- U.S. National Archives, “Remembering Vietnam: Episodes 9–12”
- U.S. National Archives, Records Relating to American POW/MIA, 1960–1994
- U.S. Naval History and Heritage Command, The Battle Behind Bars
- International Committee of the Red Cross, Commentary on the Third Geneva Convention, Article 4
- John McCain with Mark Salter, Faith of My Fathers, Random House, 1999.
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- Michael J. Allen, Until the Last Man Comes Home: POWs, MIAs, and the Unending Vietnam War, University of North Carolina Press, 2009.
- Christina Schwenkel, The American War in Contemporary Vietnam: Transnational Remembrance and Representation, Indiana University Press, 2009.

