コーロア城完全ガイド|三重の土塁と水濠から読むベトナム古代国家

呉権が939年に都としたコーロア城の土塁 世界史・国際関係
コーロア城に残る土塁の一部。2007年、Viethavvh撮影。Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

コーロアを何も知らずに歩くと、目に入るのは田畑、集落、池、寺廟、そして道路脇に続く大きな土手です。日本で「城」と聞いて思い浮かべる石垣、櫓、天守はありません。全体図を持たずに訪れれば、古い農村の地形にしか見えないかもしれません。

ところが、その土手を一本ずつ追い、水面や旧河道との位置関係を重ねると、景色は一変します。そこに現れるのは、三重の城壁と水濠を備え、政治、軍事、生産、交通を一体化した巨大な古代拠点です。

コーロアは、ハノイ中心部から北へ約17キロ。後世の史書では、安陽王が率いた甌雒国の都と伝えられ、10世紀には呉権が再び政治拠点に選んだとされます。しかし、この記事の主役は王の伝説ではありません。現在の土地、土塁、水濠、門、出土品、発掘断面から、石垣も天守もない巨大な土の輪を、なぜ「古代国家の首都」と呼べるのかを考えます。

コーロア城に残る土塁。現在の姿には、崩落、補修、道路建設、農地化など後世の変化も重なっている。撮影:Viethavvh/Wikimedia Commons/Public Domain

コーロア城を30秒で理解

コーロア城は、紅河デルタの水運と湿地地形を生かして築かれた大規模な土城です。

  • 内城・中城・外城と呼ばれる三重の城壁が残ります。
  • 城壁の外側には濠があり、河川や水路と結びついていました。
  • 大規模な築造の中心は紀元前3世紀前後と考えられますが、増築・補修・再利用が重なっています。
  • 大量の青銅鏃、石製鋳型、坩堝、金属滓は、武器を集中生産する仕組みを示します。
  • 後世の史書では安陽王の甌雒国の都とされ、10世紀には呉権も拠点にしたと伝えられます。
  • 現在見える寺廟や村落景観は、古代遺構の上に積み重なった後世の歴史です。

コーロアを含むハノイ約2200年の流れは、「コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史」でたどれます。

1.なぜ紅河デルタのこの場所だったのか

湿地は「不便な土地」ではなかった

コーロアがあるのは、紅河デルタ北縁の低地です。現在の景観にも池、水田、水路が多く、雨季には水位が大きく変わります。洪水や軟弱地盤だけを見れば、巨大な土木工事には不向きに思えます。

しかし、古代の政治拠点に必要だったのは、乾いた高台だけではありません。食料を生産できる低湿地、舟で人や物を運べる水路、外敵の進入を妨げる水面、周辺集落と結びつく交通網が同時に必要でした。コーロア周辺には、自然堤防のような比較的高い場所と低湿地が入り交じり、城壁はその起伏を取り込みながら延びています。

遺跡管理機関の説明では、ホアンザン川、別名ティエップ川の水系は、紅河、ドゥオン川、カーロー川、カウ川へつながる広い交通網の一部でした。古代と現在で流路は変化していますが、コーロアが河川交通から孤立した内陸の砦ではなかったことは重要です。舟による物資集積、水軍の移動、農業用水、漁業、交易を一つの環境で支えられる場所だったのです。

都城以前から続く居住の蓄積

コーロア周辺の歴史は、安陽王の時代に突然始まったわけではありません。遺跡からは、フングエン文化、ドンダウ文化、ゴームン文化、ドンソン文化へ続く長期の居住痕跡が確認されています。つまり、大城壁の建設以前から、農耕、手工業、集落間交流の蓄積がありました。

巨大な首都を荒野に一から造ったというより、すでに人と生産が集まる地域を政治的に再編し、城壁と水濠で結び直したと見る方が、考古学的な景観に合います。ただし、各時期の集落範囲や人口を正確に復元できるわけではありません。分かるのは、城壁以前の生活層があり、そこへ大規模土木と集中生産が重なったということです。

2.三重の城壁――巻貝のような城は本当に整然としていたのか

コーロアは「螺城」とも呼ばれます。螺は巻貝の意味で、城壁が巻くように連なる姿を表す名称です。ただし、観光案内にある三つの輪を、完全な同心円と考えてはいけません。

外城と中城は不整形で、自然の高まりや低地を取り込みながら曲がります。内城は比較的矩形に近いものの、後世の削平、道路、村落、農地化によって、古代の線形をそのまま目で追える場所ばかりではありません。三重構造は全体像を理解する便利な枠組みですが、製図された円を一度に完成させた都市ではないのです。

区画 現在分かる特徴 見るときの注意
内城(Thành Nội) 比較的矩形に近く、政治中枢と考えられる区画。研究では周長約1.65キロとされる例があります。 現在の寺廟配置を、そのまま古代宮殿の配置とみなさない。
中城(Thành Trung) 不整形で、北門付近の断面調査から複数の築造段階が判明。研究では延長約6.5キロとされる例があります。 現在の高さや幅は区間差が大きく、補修も重なる。
外城(Thành Ngoại) 自然地形を大きく取り込む最外周。研究では延長約8キロとされる例があります。 失われた区間や判別しにくい区間があり、完全な輪には見えない。

「総延長16キロ、面積46ヘクタール」をどう読むか

コーロア遺跡管理機関は、三つの城壁と濠を合わせた総周長を約16キロ、面積を約46ヘクタールと案内しています。一方、研究論文では外城約8キロ、中城約6.5キロ、内城約1.65キロといった個別値が示されます。

数字が違って見えるのは、城壁だけを測るのか、濠や河川を含めるのか、失われた区間を復元するのか、現存範囲をどこまで採るのかによって結果が変わるためです。したがって「唯一確定した総延長」ではなく、公式管理上の説明値と、研究上の測量値を区別して読む必要があります。

3.土の城壁はどのように造られたのか

濠を掘り、その土を壁に積む

土城の基本は合理的です。城壁の外側を掘って濠をつくり、掘り出した土を内側へ積み上げれば、防御施設を二つ同時に造れます。コーロアでは粘土、砂、石、土器片を含む土層が重なり、区間によって積み方も異なります。

遺跡管理機関の一般説明では、城壁は平均して高さ4~5メートル、基底幅20~30メートル、上面幅6~12メートルとされます。ただし、これは全区間の統一規格ではありません。研究例では、中城の高さが4~10メートル、外城の基底幅が12~20メートルなど、場所による差が報告されています。

低湿地では、重い土を積めば沈下や崩落が起こります。公式説明では、基底部に石材を置いた区間があるとされ、発掘断面からも、土をただ一度に盛ったのではなく、異なる材料と方法で拡張・補修したことが分かります。伝説に語られる「築いても崩れる城」をそのまま工事記録とはできませんが、実際に難しい地盤だったことは確かです。

巨大土塁が示す組織力

研究者は、外城・中城・内城の土量を合計して、およそ100万~200万立方メートルの土が移動された可能性を示しています。これは推定値であり、人数や工期を直接導けるものではありません。それでも、家族や一集落だけでは担えない規模です。

工事には、土を掘る人、運ぶ人、積み固める人だけでなく、食料を供給する人、道具を製作・修理する人、区間を測る人、作業順序を決める人が必要でした。巨大土塁は、王名が分からなくても、広い地域から労働と物資を集め、長期工程を管理できる政治組織が存在したことを示します。

4.濠と河川――城を囲む水は防御だけではなかった

コーロアの濠は、壁の外側に水を置いて敵の接近を難しくする防御施設でした。しかし、水は城を閉じるだけでなく、外界へ開く交通路でもありました。

研究では、濠の幅は場所により約10~30メートルとされ、発掘された一例では深さ約4メートルのV字形断面が確認されています。水路はホアンザン川の旧流路やダムカー、ヴオンテュエン、アオマムなどの水域と結びつき、舟による人員・物資輸送、農業用水、漁業、生活用水に利用されたと考えられます。

ただし、現在の池や水路がすべて古代と同じ形で残るわけではありません。堆積、浚渫、堤防工事、農地整備、道路建設で水系は変わります。現地では「この水面が古代のまま」と決めつけるより、土塁の外側に低地と水路が連続し、城壁が広域水運へ接続できる配置だったことを読むのが大切です。

5.門と突出部――敵を直線で中心へ入れない仕組み

門は、人と物が出入りする都市の結節点であると同時に、防御上もっとも弱い場所です。コーロア遺跡管理機関は、外城と中城にそれぞれ5門があり、南門を共有したため合計9門、内城は南側に1門があったと伝えられる、と説明しています。

この数字は、すべての門が同じ保存状態で発掘確認されたという意味ではありません。現存地形、地名、村の記憶、門廟、復元的解釈が組み合わさった説明です。現在残る門廟も古代の門建築そのものではなく、門の記憶を後世に伝える信仰施設です。

外城と中城の門は必ずしも一直線に並びません。進入路をずらし、曲げることで、外から中心部まで一気に見通せないようにした可能性があります。また、城壁の一部には「Hỏa hồi」と呼ばれる突出部が知られ、側面から進入路や壁際を監視・攻撃する施設だったという解釈があります。

機能だけ見れば、日本城郭の「横矢掛かり」を連想できますが、同じ用語・設計体系ではありません。さらに、すべての突出部が古代当初から射撃施設だったと確定しているわけでもありません。地形測量や物理探査は新たな壁線や突出部の可能性を示していますが、発掘確認が必要な仮説を含みます。

6.発掘で分かった築城年代――伝説の城が考古学の城になるまで

中城を切って見えた「三時期・五段階」

コーロア研究の大きな転換点は、2007~2008年に行われた中城北門付近の共同調査です。城壁を横断する断面を調べた結果、単純な一枚の盛土ではなく、三つの時期、少なくとも五つの築造・改修段階が確認されました。

  1. 基礎的な粘土の壁または壇状施設が造られた段階。
  2. その上へ幅約17メートルの盛土を加えた段階。
  3. 突き固めた土を用い、幅約24メートルへ拡張した段階。
  4. さらに盛土を加え、幅約24~25メートルへ補強した段階。
  5. 15~16世紀ごろに上部を改修した段階。

つまり、三重の城壁は一度の設計・工事で完成した単純構造ではありません。初期の防御線を拡張し、異なる技術で補強し、後世にも使い続けた「成長する土木施設」でした。

放射性炭素年代は何を示したのか

発掘では、城壁や溝に伴う炭化物を放射性炭素年代測定にかけています。ドンソン文化の土器片や鉄滓に伴う床面の炭化物では、較正年代が紀元前384~114年、紀元前359~54年という範囲を示す試料がありました。溝から得られた複数試料はより広い範囲を持ち、そのうち精度の高い一例は紀元前391~209年でした。

ここで注意したいのは、測定値が「紀元前257年に築城」といった一点の日付を示すものではないことです。炭化物がいつ生じたか、どの工事段階に伴うか、古い木材が混入していないかを検討し、土器型式や層序と合わせて判断します。

現在の研究では、中城の主要な大規模築造はおおむね紀元前300~100年ごろに位置づけられ、漢帝国による直接統治以前に始まった可能性が高いとされます。その後も漢代以後、中世、近世に利用と改変が続きました。

発掘が証明したこと、証明していないこと

資料の種類 分かること 分からないこと
城壁断面・土器・炭化物 築造順序、材料、増築、年代範囲 工事を命じた王の実名、伝説の細部
青銅鏃・鋳型・金属滓 武器生産、規格化、専門工人の存在 神弩そのものの実在、個々の戦闘場面
後世の史書 安陽王、甌雒国、呉権をめぐる政治的記憶 記述された年代・出来事の全てが同時代事実か
寺廟・祭礼・地域伝承 地域社会が何を記憶し、信仰してきたか 現存建築が古代の宮殿・門そのものか

発掘が明らかにしたのは、漢支配以前の北部ベトナム社会が、大規模労働を動員し、城壁都市と軍事生産を成立させていた可能性です。安陽王伝説をそのまま「証明」したのではありません。考古学は王名を決める道具ではなく、伝説から独立して、当時の社会の複雑さを示すものです。

7.大量の青銅鏃と武器工房

1959年、カウヴックで見つかった集中埋納

1959年、コーロアのカウヴック遺跡で、青銅製の鏃がまとまって発見されました。遺跡管理機関の説明では総重量は約93キログラムで、1キログラム当たり約97点という計算から、総数はおよそ1万点と推定されます。多くは三稜形で、長さは約6~11センチです。

さらに重要なのは、完成品だけでなく未仕上げ品が多いことです。公式説明では、完成品はおよそ4分の1、鋳造後の仕上げ前とみられるものが約4分の3を占めます。これは、単に戦場で使われた矢が集まったのではなく、製造・保管・配布に関わる場所だった可能性を強めます。

コーロア城で出土した青銅製鏃。古代の武器生産を示す実物資料だが、神弩伝説を直接証明するものではない。写真:Casablanca1911/所蔵:ベトナム国立歴史博物館/CC BY-SA 3.0

デントゥオン周辺の鋳造工房

内城のデントゥオン周辺では、三枚組の石製鋳型、坩堝、金属滓、鋳造に伴う遺物が見つかっています。鋳型には鏃だけでなく、槍や矛などを生産したとみられる例があります。近隣のディンチャン遺跡にも金属生産の長い蓄積があり、コーロアの工房は地域の技術伝統を取り込みながら発展したと考えられます。

同じ形の鏃を大量に作るには、原料の調達、合金比率の管理、鋳型製作、鋳造、研磨、検品、保管、配布を分業する必要があります。大量の鏃は、兵士が多かったことだけでなく、武器を規格化し、専門工人を集め、余剰生産物を支える政治経済の仕組みを示します。

神弩伝説との関係は慎重に見るべきです。大量の遠距離武器が実在したため、後世の人々が強力な弩の物語を語り継いだ可能性を想像することはできます。しかし、鏃の発見は金亀が与えた神弩や、一射で多数を倒す武器の実在を証明しません。

8.コーロアは要塞だけだったのか

高い壁、深い濠、大量の武器だけを見ると、コーロアは巨大な軍事基地に思えます。しかし、城壁内外では住居、工房、農地、墓地、祭祀、物資交換が重なっていました。王の宮殿だけを囲む空白の砦ではありません。

内城は政治・儀礼の中枢だった可能性が高く、屋根瓦や生産遺構が確認されています。中城・外城の内側には村落と生産空間が広がり、城外の水田や水路ともつながっていました。兵士だけでなく、農民、工人、舟運に関わる人、食料を加工する人、祭祀を担う人が都市を支えたはずです。

ただし、古代人口の具体的な数字を出せるほど居住域の発掘は進んでいません。現在も集落が重なるため、広範囲を掘ることは難しく、家屋配置や人口密度には不明点が多く残ります。

それでも、城壁、交通、生産、保管、政治中枢が一か所に集中していることから、コーロアは「要塞」「首都」「集落」のどれか一つではなく、それらを複合した初期都市と理解できます。古代国家の姿は宮殿の豪華さではなく、人、物、技術、労働を集めて再配分する仕組みに表れているのです。

9.城が崩れる伝説は、軟弱地盤の記憶なのか

コーロアの伝説では、安陽王が城を築こうとしても何度も崩れ、金亀の助言によって完成したと語られます。異伝には白鶏などが工事を妨げる話もあります。

実際のコーロアは低湿地を含み、重い土塁を安定させるには基礎処理、排水、材料選択、段階的な拡張が必要でした。発掘断面が示す複数段階の施工は、巨大築城が容易ではなかったことを物語ります。

しかし、「伝説が軟弱地盤工事を正確に記録した」と断定することはできません。伝説が成立・変化した時期と、個々の工事段階を直接結ぶ証拠がないからです。言えるのは、何度も崩れる城の物語が、実際に困難だった巨大土木の記憶と響き合うということです。

伝説は考古学の代用品ではありませんが、地域社会が城の異常な大きさをどのように説明し、王権の成功と失敗をどう語り継いだかを知る資料になります。

10.安陽王の都から呉権の都へ

後世の史書は、コーロアを安陽王と甌雒国の都として記憶します。甌雒国の滅亡後、北部ベトナムは長く中国王朝の支配を受けましたが、コーロアは放棄された空白地帯にはなりませんでした。漢代以後の遺物や活動層があり、城壁も補修・再利用されました。

938年、呉権は白藤江の戦いで南漢軍を破り、翌939年ごろコーロアを政治拠点に選んだと伝えられます。彼の戦争史を詳しく語る場ではありませんが、なぜ千年以上前の城が再び選ばれたのかは重要です。

第一に、コーロアには再利用できる城壁、水路、耕地、交通網がありました。第二に、安陽王の古都という記憶は、外来王朝から自立する新政権にとって、北部ベトナムの古い政治的伝統を継ぐ象徴になり得ました。実用性と正統性が重なった選択だったと考えられます。

ただし、呉権が修築した箇所をすべて特定できるわけではありません。10世紀の活動を示すマー・チェ遺跡などは、古城の再利用を考える手掛かりですが、現存する壁のどの部分が呉権の命令で直されたかを断定することはできません。

時期 コーロアで起きたこと
城壁以前 フングエン、ドンダウ、ゴームン、ドンソン文化へ続く居住と生産の蓄積。
紀元前4~2世紀ごろ 初期施設と大規模城壁の築造・拡張。主要工事は紀元前300~100年ごろを中心に検討される。
漢代以後 活動と改変が継続。城は一度で歴史を終えない。
10世紀 呉権が政治拠点として再利用したと伝えられる。
中世~近世 城壁上部の補修、寺廟の整備、地域祭祀の発展。
近現代 道路・集落・農地と重なりながら保存、発掘、修復が進む。

11.現在のコーロアで見られるもの

古代城郭を読む場所

  • 土塁:高さだけでなく、内外の斜面、基底の広さ、低地との落差を見ます。
  • 濠と水系:土塁と水面を同時に見ると、防御と交通の関係が分かります。
  • 南門周辺:複数区画の出入りと、道路が城壁を横切る地形を考える場所です。
  • 道路の切通し:城壁が切られた地点では、土塁が人工的な厚みを持つことを実感できます。ただし露頭へ立ち入ったり削ったりしてはいけません。
  • 展示館:全体図、出土品、発掘成果を先に見ると、屋外の土手を城壁として読みやすくなります。

後世の記憶を読む場所

  • デントゥオン(安陽王廟):安陽王を祀る中心的施設。現存建築は後世のもので、紀元前3世紀の宮殿ではありません。
  • 御朝遺規亭:伝承上、朝廷跡とされる場所に建つ共同祭祀施設。現在の建築を古代の朝堂とみなすことはできません。
  • 媚珠庵:媚珠を祀る施設。石像は信仰対象であり、本人の肖像ではありません。
  • 玉井:媚珠・仲始伝説と結びつく井戸。古代の機能と伝説上の意味は分けて考えます。
  • 宝山寺、門廟:地域社会が城門や歴史人物の記憶を維持してきた場所です。
  • コーロア祭:安陽王、高魯、金亀などをめぐる信仰と地域共同体の歴史を伝えます。

安陽王廟の銅像は1897年に鋳造されたとされ、古代の王を直接写した肖像ではありません。コーロアでは、古代城郭の遺構と、後世に築かれた記憶の施設が同じ土地にあります。どちらかを偽物として退けるのではなく、遺構は古代社会を、寺廟と祭礼は後世の歴史意識を語ると分けて見ると、景観の層が理解できます。

12.現地で土城を見落とさない歩き方

  1. 展示館で全体図を見る
    三重城壁の位置を把握してから外へ出ると、村道脇の高まりが城壁として見えてきます。
  2. 中心の寺廟だけで帰らない
    コーロアの主役は建物だけではありません。土塁と濠が一緒に見える場所へ移動します。
  3. 壁の上だけでなく内外の斜面を見る
    基底の広さ、低地との高低差、濠との距離から人工土木の規模を読みます。
  4. 道路が壁を切る場所を見る
    断面に近い視点が得られます。ただし交通の妨げにならず、遺構へ登ったり土を削ったりしません。
  5. 三重城壁を短時間で歩き切ろうとしない
    線形は長く不整形です。自転車、車、現地ツアーを組み合わせる方が全体を理解しやすい場合があります。
  6. 生活の場であることを忘れない
    城壁内外には現在の村、農地、私有地があります。無断立入、ドローン飛行、農作業の妨げになる行為は避けます。

開場時間・料金・修復情報

2026年7月17日確認の遺跡管理機関の通常案内では、開場時間は毎日8時~17時、一般大人は10,000ドン、学生と一部高齢者は5,000ドン、一定条件の子どもと功労者は無料です。

一方、御朝遺規亭と媚珠庵は2025年3月10日から修復のため一時閉鎖と案内され、2026年3月に修復工事の上棟が行われました。安陽王廟でも2026年5月に修復工事の上棟が行われています。2026年7月17日までに、全施設の通常公開再開を明示する新しい公式告知は確認できませんでした。

工事中は入口や見学経路が変わる可能性があります。料金、閉鎖施設、祭礼日の交通規制を含め、訪問直前にコーロア遺跡管理機関の公式サイトで最新情報を確認してください。

よくある質問

コーロア城は紀元前257年に完成したのですか?

一つの年には断定できません。後世の史書が伝える安陽王の年代と、発掘による城壁の年代は別の資料です。考古学では、主要な大規模築造を紀元前300~100年ごろの範囲で検討し、複数段階の増築・補修を認めています。

三つの城壁は完全な同心円ですか?

いいえ。外城と中城は自然地形を取り込んだ不整形で、内城は比較的矩形に近い形です。後世の削平や道路、集落も重なるため、単純な三重円ではありません。

現在見える土塁はすべて古代のままですか?

いいえ。古代の基礎や主要部分を含みますが、崩落、堆積、補修、道路建設、農地化、中世以後の改修が重なっています。

青銅鏃は神弩の実在を証明しましたか?

証明していません。大量の鏃と鋳造遺構は、規格化された武器生産と軍事組織を示しますが、伝説の超自然的な武器や具体的な物語を直接確認する資料ではありません。

コーロアは東南アジア最古・最大の城ですか?

東南アジア有数の早期・大規模な城郭都市であることは確かですが、「絶対に最古」「最大」とするには、比較対象、年代幅、測量方法をそろえる必要があります。単純な順位づけは避けるべきです。

呉権が直した城壁は分かりますか?

10世紀の再利用を示す資料や伝承はありますが、現存するすべての修築箇所を呉権の工事として特定することはできません。

寺廟は安陽王時代の建物ですか?

いいえ。現在の安陽王廟、御朝遺規亭、媚珠庵などは後世に建立・再建・修復された建築です。古代の宮殿をそのまま保存したものではありません。

徒歩だけで一日で回れますか?

中心部の寺廟と展示館は徒歩で見られますが、三重城壁全体は長く、見やすい区間も離れています。土塁と濠を広く見るなら、自転車や車を組み合わせる方が現実的です。

コーロアは世界遺産ですか?

2026年6月時点では世界遺産に登録されていません。遺跡の価値を整理し、ユネスコの暫定一覧候補への提出を目指す資料作成が進められている段階です。

まとめ――土の輪から国家の仕組みを読む

コーロアを古代国家の首都と呼べる理由は、伝説に有名な王が登場するからだけではありません。

  • 水運、農業、防御を同時に支える地形を選んでいる。
  • 三重の城壁と濠を築き、何度も拡張・補修している。
  • 100万~200万立方メートル規模と推定される土を動かした。
  • 大量の青銅鏃と鋳造工房を集中させた。
  • 政治中枢、集落、生産、交通、祭祀を一つの空間に重ねた。
  • 後世の政権と地域社会が、古城を再利用し記憶し続けた。

石垣や天守がないからこそ、コーロアでは地形を読む力が試されます。土手の高さだけでなく、斜面、低地、水面、門のずれ、道路の切れ目、出土品の生産工程をつなぐと、古代国家が人と物を組織した仕組みが見えてきます。

神弩伝説は、考古学の証明としてではなく、巨大築城と敗国の記憶を後世がどう物語化したかを考える材料です。遺構と伝説を混同せず、それぞれの資料として楽しむことが、コーロアを最も深く味わう方法でしょう。

コーロアからタンロン、フランス植民地期、ベトナム戦争期までのつながりは、「コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史」をご覧ください。

参考文献・関連資料

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