コーロア城完全ガイド|三重の土塁と水濠から読むベトナム古代国家

呉権が939年に都としたコーロア城の土塁

コーロアで目に入るのは、田畑、集落、池、寺廟、道路脇に続く大きな土手です。日本の城に見られる石垣、櫓、天守はなく、全体像を知らなければ農村の地形に見えます。

土手をたどり、水面や旧河道との位置関係を重ねると、三重の城壁と水濠を備え、政治、軍事、生産、交通を一体化した巨大な古代拠点が現れます。

コーロアはハノイ中心部から北へ約17キロにあります。後世の史書では安陽王が率いた甌雒国の都と伝えられ、10世紀には呉権が再び政治拠点に選んだとされます。現在の土塁、水濠、門、出土品、発掘断面には、古代国家の首都を支えた仕組みが残されています。

コーロア城を30秒で理解

コーロア城は、紅河デルタの水運と湿地地形を生かして築かれた大規模な土城です。

  • 内城・中城・外城と呼ばれる三重の城壁が残ります。
  • 城壁の外側には濠があり、河川や水路と結びついていました。
  • 大規模な築造の中心は紀元前3世紀前後と考えられますが、増築・補修・再利用が重なっています。
  • 大量の青銅鏃、石製鋳型、坩堝、金属滓は、武器を集中生産する仕組みを示します。
  • 後世の史書では安陽王の甌雒国の都とされ、10世紀には呉権も拠点にしたと伝えられます。
  • 現在見える寺廟や村落景観は、古代遺構の上に積み重なった後世の歴史です。

コーロアを含むハノイ約2200年の流れは、「コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史」でたどれます。

なぜ紅河デルタのこの場所だったのか

湿地は「不便な土地」ではなかった

コーロアは紅河デルタ北縁の低地にあります。現在も池、水田、水路が多く、雨季には水位が大きく変わる、洪水と軟弱地盤を伴う土地です。

低湿地は食料を生産し、水路は人や物を運び、水面は外敵の進入を妨げました。コーロア周辺では自然堤防のような高まりと低湿地が入り交じり、城壁はその起伏を取り込みながら延びています。

遺跡管理機関の説明では、ホアンザン川(別名ティエップ川)の水系は、紅河、ドゥオン川、カーロー川、カウ川へつながる交通網の一部でした。古代と現在で流路は変化していますが、舟による物資集積、水軍の移動、農業用水、漁業、交易を同じ環境で支えられる場所でした。

都城以前から続く居住の蓄積

遺跡からは、フングエン文化、ドンダウ文化、ゴームン文化、ドンソン文化へ続く長期の居住痕跡が確認されています。大城壁の建設以前から、農耕、手工業、集落間交流が蓄積していました。

城壁以前の生活層の上に大規模土木と集中生産が重なっています。すでに人と生産が集まる地域を政治的に再編し、城壁と水濠で結び直したと考えられます。各時期の集落範囲や人口は不明です。

三重の城壁――巻貝のような城は本当に整然としていたのか

コーロアは、巻貝のように城壁が連なる姿から「螺城」とも呼ばれます。

外城と中城は、自然の高まりや低地を取り込んだ不整形です。内城は比較的矩形に近いものの、後世の削平、道路、村落、農地化によって古代の線形が失われた区間があります。三重の城壁は、地形に沿って段階的に築かれました。

区画 現在分かる特徴 見るときの注意
内城(Thành Nội) 比較的矩形に近く、政治中枢と考えられる区画。研究では周長約1.65キロとされる例があります。 現在の寺廟配置を、そのまま古代宮殿の配置とみなさない。
中城(Thành Trung) 不整形で、北門付近の断面調査から複数の築造段階が判明。研究では延長約6.5キロとされる例があります。 現在の高さや幅は区間差が大きく、補修も重なる。
外城(Thành Ngoại) 自然地形を大きく取り込む最外周。研究では延長約8キロとされる例があります。 失われた区間や判別しにくい区間があり、完全な輪には見えない。

「総延長16キロ、面積46ヘクタール」をどう読むか

コーロア遺跡管理機関は、三つの城壁と濠を合わせた総周長を約16キロ、面積を約46ヘクタールと案内しています。一方、研究論文では外城約8キロ、中城約6.5キロ、内城約1.65キロといった個別値が示されます。

城壁だけを測るのか、濠や河川を含めるのか、失われた区間を復元するのかによって数値は変わります。公式管理上の説明値と、研究上の測量値を区別する必要があります。

土の城壁はどのように造られたのか

濠を掘り、その土を壁に積む

城壁の外側を掘って濠をつくり、掘り出した土を内側へ積み上げると、濠と土塁を同時に造れます。コーロアでは粘土、砂、石、土器片を含む土層が重なり、区間によって積み方も異なります。

遺跡管理機関の一般説明では、城壁は平均して高さ4~5メートル、基底幅20~30メートル、上面幅6~12メートルとされます。研究例では中城の高さが4~10メートル、外城の基底幅が12~20メートルとされ、区間によって差があります。

低湿地では、重い土を積むと沈下や崩落が起こります。公式説明では基底部に石材を置いた区間があるとされ、発掘断面からも、異なる材料と方法で拡張・補修したことが分かります。

巨大土塁が示す組織力

研究者は、外城・中城・内城でおよそ100万~200万立方メートルの土が移動されたと推定しています。一集落では担えない規模です。

工事には、掘削、運搬、突き固め、食料供給、道具の製作・修理、測量、工程管理を担う人々が必要でした。巨大土塁は、広い地域から労働と物資を集め、長期工程を管理する政治組織の存在を示します。

濠と河川――城を囲む水は防御だけではなかった

コーロアの濠は敵の接近を妨げる防御施設であり、外部と結ぶ交通路でもありました。

研究では、濠の幅は場所により約10~30メートルとされ、発掘された一例では深さ約4メートルのV字形断面が確認されています。水路はホアンザン川の旧流路やダムカー、ヴォンテュエン、アオマムなどの水域と結びつき、舟による人員・物資輸送、農業用水、漁業、生活用水に利用されたと考えられます。

現在の水系は、堆積、浚渫、堤防工事、農地整備、道路建設によって変化しています。古代には、土塁の外側に低地と水路が連続し、城壁が広域水運へ接続できる配置でした。

門と突出部――敵を直線で中心へ入れない仕組み

門は人と物が出入りする結節点であり、防御上の弱点でもあります。コーロア遺跡管理機関は、外城と中城に各5門があり、南門を共有したため合計9門、内城は南側に1門があったと説明しています。

門の数は、現存地形、地名、村の記憶、門廟、復元的解釈を組み合わせたものです。現在残る門廟は、その記憶を伝える後世の信仰施設です。

外城と中城の門には、位置をずらした配置が見られます。進入路を曲げることで、外から中心部まで一気に見通せないようにした可能性があります。また、城壁の一部には「Hỏa hồi」と呼ばれる突出部が知られ、側面から進入路や壁際を監視・攻撃する施設だったという解釈があります。

突出部の機能は日本城郭の「横矢掛かり」に似ますが、用語と設計体系は異なります。地形測量や物理探査で新たな壁線や突出部が推定されているものの、射撃施設だったかどうかを含めて発掘確認が必要です。

発掘で分かった築城年代――伝説の城が考古学の城になるまで

中城を切って見えた「三時期・五段階」

2007~2008年の中城北門付近の共同調査では、城壁を横断する断面から、三つの時期、少なくとも五つの築造・改修段階が確認されました。

  1. 基礎的な粘土の壁または壇状施設が造られた段階。
  2. その上へ幅約17メートルの盛土を加えた段階。
  3. 突き固めた土を用い、幅約24メートルへ拡張した段階。
  4. さらに盛土を加え、幅約24~25メートルへ補強した段階。
  5. 15~16世紀ごろに上部を改修した段階。

三重の城壁は、初期の防御線を拡張し、異なる技術で補強しながら後世まで使われました。

放射性炭素年代は何を示したのか

発掘では、城壁や溝に伴う炭化物を放射性炭素年代測定にかけています。ドンソン文化の土器片や鉄滓に伴う床面の炭化物では、較正年代が紀元前384~114年、紀元前359~54年という範囲を示す試料がありました。溝から得られた複数試料はより広い範囲を持ち、そのうち精度の高い一例は紀元前391~209年でした。

測定値が示すのは幅のある年代範囲です。炭化物が生じた時期、工事段階との関係、古い木材の混入を検討し、土器型式や層序と合わせて判断します。

現在の研究では、中城の主要な大規模築造はおおむね紀元前300~100年ごろに位置づけられ、漢帝国による直接統治以前に始まった可能性が高いとされます。その後も漢代以後、中世、近世に利用と改変が続きました。

発掘が証明したこと、証明していないこと

資料の種類 分かること 分からないこと
城壁断面・土器・炭化物 築造順序、材料、増築、年代範囲 工事を命じた王の実名、伝説の細部
青銅鏃・鋳型・金属滓 武器生産、規格化、専門工人の存在 神弩そのものの実在、個々の戦闘場面
後世の史書 安陽王、甌雒国、呉権をめぐる政治的記憶 記述された年代・出来事の全てが同時代事実か
寺廟・祭礼・地域伝承 地域社会が何を記憶し、信仰してきたか 現存建築が古代の宮殿・門そのものか

発掘は、漢支配以前の北部ベトナム社会が大規模労働を動員し、城壁都市と軍事生産を成立させていた可能性を示しました。

大量の青銅鏃と武器工房

1959年、カウヴックで見つかった集中埋納

1959年、コーロアのカウヴック遺跡で、青銅製の鏃がまとまって発見されました。遺跡管理機関の説明では総重量は約93キログラムで、1キログラム当たり約97点という計算から、総数はおよそ1万点と推定されます。多くは三稜形で、長さは約6~11センチです。

公式説明では、完成品はおよそ4分の1、鋳造後の未仕上げ品が約4分の3を占めます。未仕上げ品の多さから、製造・保管・配布に関わる場所だった可能性があります。

コーロア城で出土した青銅製鏃。古代の武器生産を示す実物資料だが、神弩伝説を直接証明するものではない。写真:Casablanca1911/所蔵:ベトナム国立歴史博物館/CC BY-SA 3.0

デントゥオン周辺の鋳造工房

内城のデントゥオン周辺では、三枚組の石製鋳型、坩堝、金属滓、鋳造に伴う遺物が見つかっています。鋳型には鏃だけでなく、槍や矛などを生産したとみられる例があります。近隣のディンチャン遺跡にも金属生産の長い蓄積があり、コーロアの工房は地域の技術伝統を取り込みながら発展したと考えられます。

同じ形の鏃を大量生産するには、原料調達、合金比率の管理、鋳型製作、鋳造、研磨、検品、保管、配布の分業が必要です。大量の鏃は、武器の規格化、専門工人の集住、余剰生産物を支える政治経済の仕組みを示します。

大量の遠距離武器は、後世の神弩伝説と結びついた可能性があります。

コーロアは要塞だけだったのか

城壁内外には、軍事施設、住居、工房、農地、墓地、祭祀、物資交換の場がありました。

内城は政治・儀礼の中枢だった可能性が高く、屋根瓦や生産遺構が確認されています。中城・外城の内側には村落と生産空間が広がり、城外の水田や水路とつながっていました。

現在も集落が重なるため、広範囲を掘ることは難しく、家屋配置や人口密度には不明点が多く残ります。

城壁、交通、生産、保管、政治中枢が一か所に集中しており、コーロアは要塞、首都、集落の機能を複合した初期都市でした。

城が崩れる伝説は、軟弱地盤の記憶なのか

コーロアの伝説では、安陽王が城を築こうとしても何度も崩れ、金亀の助言によって完成したと語られます。異伝には白鶏などが工事を妨げる話もあります。

コーロアは低湿地を含み、重い土塁を安定させるには基礎処理、排水、材料選択、段階的な拡張が必要でした。発掘断面には複数段階の施工が残っています。

伝説の成立・変化した時期と個々の工事段階の対応は不明です。

伝説は、地域社会が城の大きさや王権の成功と失敗をどう説明し、語り継いだかを伝える資料です。

安陽王の都から呉権の都へ

後世の史書は、コーロアを安陽王と甌雒国の都として記憶します。甌雒国の滅亡後も、漢代以後の遺物や活動層が残り、城壁は補修・再利用されました。

938年、呉権は白藤江の戦いで南漢軍を破り、翌939年ごろコーロアを政治拠点に選んだと伝えられます。

コーロアには再利用できる城壁、水路、耕地、交通網がありました。安陽王の古都という記憶は、外来王朝から自立する新政権が北部ベトナムの政治的伝統を継ぐ象徴にもなり得ました。

10世紀の活動を示すマー・チェ遺跡などは古城再利用の手掛かりです。呉権の命令で修築された区間は未特定です。

時期 コーロアで起きたこと
城壁以前 フングエン、ドンダウ、ゴームン、ドンソン文化へ続く居住と生産の蓄積。
紀元前4~2世紀ごろ 初期施設と大規模城壁の築造・拡張。主要工事は紀元前300~100年ごろを中心に検討される。
漢代以後 活動と改変が継続。城は一度で歴史を終えない。
10世紀 呉権が政治拠点として再利用したと伝えられる。
中世~近世 城壁上部の補修、寺廟の整備、地域祭祀の発展。
近現代 道路・集落・農地と重なりながら保存、発掘、修復が進む。

現在のコーロアで見られるもの

古代城郭を読む場所

  • 土塁:高さ、内外の斜面、基底の広さ、低地との落差を見ます。
  • 濠と水系:土塁と水面を同時に見ると、防御と交通の関係が分かります。
  • 南門周辺:複数区画の出入りと、道路が城壁を横切る地形を考える場所です。
  • 道路の切通し:城壁が切られた地点では、土塁が人工的な厚みを持つことを実感できます。露頭への立ち入りや掘削は禁止です。
  • 展示館:全体図、出土品、発掘成果を先に見ると、屋外の土手を城壁として読みやすくなります。

後世の記憶を読む場所

  • デントゥオン(安陽王廟):安陽王を祀る中心的施設。現存建築は後世に建てられたものです。
  • 御朝遺規亭:伝承上、朝廷跡とされる場所に建つ共同祭祀施設。現在の建築は後世の共同祭祀施設です。
  • 媚珠庵:媚珠を祀る施設。石像は後世の信仰対象です。
  • 玉井:媚珠・仲始伝説と結びつく井戸。古代の機能と伝説上の意味は分けて考えます。
  • 宝山寺、門廟:地域社会が城門や歴史人物の記憶を維持してきた場所です。
  • コーロア祭:安陽王、高魯、金亀などをめぐる信仰と地域共同体の歴史を伝えます。

安陽王廟の銅像は1897年に鋳造されたとされる、後世の信仰像です。コーロアでは、古代城郭の遺構と、後世に築かれた寺廟や祭礼が同じ土地に重なっています。

現地で土城を見落とさない歩き方

  1. 展示館で全体図を見る
    三重城壁の位置を把握してから外へ出ると、村道脇の高まりが城壁として見えてきます。
  2. 土塁と濠を見る
    土塁と濠が一緒に見える場所へ移動します。
  3. 内外の斜面も見る
    基底の広さ、低地との高低差、濠との距離から人工土木の規模を読みます。
  4. 道路が壁を切る場所を見る
    断面に近い視点が得られます。交通を妨げず、遺構への登攀や掘削は避けます。
  5. 移動手段を組み合わせる
    線形は長く不整形です。自転車、車、現地ツアーを組み合わせる方が全体を理解しやすい場合があります。
  6. 村・農地・私有地に配慮する
    城壁内外には現在の村、農地、私有地があります。無断立入、ドローン飛行、農作業の妨げになる行為は避けます。

開場時間・料金・修復情報

2026年7月17日確認の遺跡管理機関の通常案内では、開場時間は毎日8時~17時、一般大人は10,000ドン、学生と一部高齢者は5,000ドン、一定条件の子どもと功労者は無料です。

一方、御朝遺規亭と媚珠庵は2025年3月10日から修復のため一時閉鎖と案内され、2026年3月に修復工事の上棟が行われました。安陽王廟でも2026年5月に修復工事の上棟が行われています。2026年7月17日時点では、全施設の通常公開再開を示す新しい公式告知がない状態でした。

工事中は入口や見学経路が変わる可能性があります。料金、閉鎖施設、祭礼日の交通規制を含め、訪問直前にコーロア遺跡管理機関の公式サイトで最新情報を確認してください。

よくある質問

コーロア城は紀元前257年に完成したのですか?

考古学では、主要な大規模築造を紀元前300~100年ごろの範囲で検討し、複数段階の増築・補修を認めています。後世の史書が伝える安陽王の年代とは資料の性格が異なります。

三つの城壁は完全な同心円ですか?

外城と中城は自然地形を取り込んだ不整形で、内城は比較的矩形に近い形です。後世の削平や道路、集落も重なっています。

現在見える土塁はすべて古代のままですか?

現在の土塁には、古代の基礎や主要部分に加え、崩落、堆積、補修、道路建設、農地化、中世以後の改修が重なっています。

青銅鏃は神弩の実在を証明しましたか?

大量の鏃と鋳造遺構が示すのは、規格化された武器生産と軍事組織です。神弩伝説との関係は後世の解釈に属します。

コーロアは東南アジア最古・最大の城ですか?

コーロアは東南アジア有数の早期・大規模な城郭都市です。最古・最大という比較には、対象、年代幅、測量方法をそろえる必要があります。

呉権が直した城壁は分かりますか?

10世紀の再利用を示す資料や伝承はあります。呉権の工事と結びつく修築箇所は未特定です。

寺廟は安陽王時代の建物ですか?

現在の安陽王廟、御朝遺規亭、媚珠庵などは、後世に建立・再建・修復された建築です。

徒歩だけで一日で回れますか?

中心部の寺廟と展示館は徒歩で見られますが、三重城壁全体は長く、見やすい区間も離れています。土塁と濠を広く見るなら、自転車や車を組み合わせる方が現実的です。

コーロアは世界遺産ですか?

2026年6月時点では、ユネスコの暫定一覧候補への提出に向けた資料作成の段階です。

まとめ――土の輪から国家の仕組みを読む

コーロアには、古代国家の首都を支えた次の要素がそろっています。

  • 水運、農業、防御を同時に支える地形を選んでいる。
  • 三重の城壁と濠を築き、何度も拡張・補修している。
  • 100万~200万立方メートル規模と推定される土を動かした。
  • 大量の青銅鏃と鋳造工房を集中させた。
  • 政治中枢、集落、生産、交通、祭祀を一つの空間に重ねた。
  • 後世の政権と地域社会が、古城を再利用し記憶し続けた。

コーロアからタンロン、フランス植民地期、ベトナム戦争期までのつながりは、「コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史」をご覧ください。

参考文献・関連資料

  1. Trung tâm Bảo tồn di sản Thăng Long – Hà Nội, “Thành Hào Cổ Loa”
  2. 同, “Trưng bày ‘Cổ Loa – Dấu ấn lịch sử và văn hóa’”
  3. 同, “Các miếu cổng thành”
  4. 同, “Mũi tên đồng thành Cổ Loa”
  5. 同, “Di tích Cầu Vực”
  6. ベトナム政府首相決定1004/QĐ-TTg(2015年7月3日)
  7. Nam C. Kim, Lại Văn Tới, Trịnh Hoàng Hiệp, “Co Loa: an investigation of Vietnam’s ancient capital,” Antiquity 84, 2010, DOI: 10.1017/S0003598X00067041.
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  10. Nam C. Kim, Hiep H. Trinh, Russell Quick, Võ Thị Phương Thủy, “Co Loa: Biography of an Anomalous Place,” Journal of Urban Archaeology 7, 2023.
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  12. Nguyễn Quang Ngọc・Vũ Văn Quân 編, Địa chí Cổ Loa, Nxb Hà Nội, 2010.