武田甚左衛門とは? 「津軽第一の豪商」と弘前の養蚕・織物

江戸後期の弘前に、呉服商から出発し、やがて藩の財政実務と養蚕・製糸・織物生産まで担うようになった商人がいました。武田甚左衛門たけだ じんざえもんです。

弘前市立弘前図書館は、甚左衛門が1799年に絹布・木綿を扱う「金木屋」を開き、現金・正札販売を導入して「津軽第一の豪商」と呼ばれるまでに成長したと紹介しています。さらに1820年代には、秋田や伊達梁川の養蚕技術を津軽へ取り入れ、生産から販売までを一つの事業へまとめました。

武田甚左衛門とは――津軽第一の豪商と呼ばれた商人

武田甚左衛門たけだ じんざえもんは江戸後期の弘前商人です。弘前市立弘前図書館の地域史資料では1775~1838年とされ、秋田や江戸で奉公したのち弘前へ戻りました。

1799年7月、弘前で絹布・木綿を扱う「金木屋」を開店します。1804年には本町三丁目へ移り、同地を拠点に商売を拡大しました。

のちに藩の財政御用へ入り、養蚕と織物生産にも深く関わります。呉服を仕入れて売る商人から、原料生産、製糸、製織まで手がける事業家へ活動を広げました。

秋田・江戸で奉公し、弘前へ戻る

武田甚左衛門たけだ じんざえもんは若いころ秋田と江戸で商売を学びました。特に江戸で身につけた店舗運営の方法は、後の金木屋経営に大きく生かされます。

弘前へ戻った甚左衛門は、客への丁寧な応対、毎日の売上整理、商品ごとの販売管理を徹底しました。商売の信用を積み上げる仕組みを店の日常業務へ落とし込んでいたことが、弘前藩庁日記の解説から分かります。

1799年、呉服店「金木屋」を開く

寛政11年(1799)、甚左衛門は弘前に金木屋かなぎやを開きました。扱ったのは絹布、木綿、布類です。

文化元年(1804)には本町三丁目へ移転し、同地で店を大きくしていきました。弘前図書館は、金木屋がやがて「津軽第一の豪商」とうたわれるまでに発展したとしています。

東北各地の豪商を比較した記事は「東北の豪商たち――本間家はどれほど異例だったのか?」で紹介しています。

現金・正札販売――弘前の商売を変えた

武田甚左衛門たけだ じんざえもんが金木屋で導入した大きな特徴が、現金販売と正札販売でした。

当時は値切られることを見込んで高めの値を付ける商習慣が広く見られました。金木屋は最初から価格を示し、その値段で現金販売する方式を採用します。弘前図書館は、奥羽でも前例がなかったといわれる商法として紹介しています。

子どもを使いに出しても安心して商品を買えると評判になるほど、価格と接客の信用を重視しました。こうした店舗経営が金木屋の基盤を作りました。

1826年、名字帯刀と藩の財政御用

文政9年(1826)、武田甚左衛門たけだ じんざえもんは弘前藩から勘定小頭格に取り立てられ、名字帯刀を許され、50俵を与えられました。同時に「御勝手方御繰合御用」を命じられます。

呉服商として成功した甚左衛門が、藩の財政・経済実務にも関わる御用商人へ進んだことを示す人事です。商人の資金力と実務能力が、藩政の中でも使われました。

なぜ呉服商が養蚕を始めたのか

呉服を扱う金木屋にとって、絹の原料となる生糸を領内で確保できれば、仕入れの幅が広がります。弘前藩にとっても、領内で商品を生産して外へ売ることは現金収入を増やす手段でした。

津軽では元禄期に京都から技術者を招いて本格的な養蚕が導入されましたが、18世紀には衰えました。甚左衛門の仕事は、19世紀にこの産業を再び立ち上げることでした。

秋田・伊達梁川から技術を持ち込む

文政6年(1823)ごろから、武田甚左衛門たけだ じんざえもんは養蚕の盛んな秋田領や伊達梁川だてやながわへ赴き、技術を学びました。さらに現地から教師を招き、津軽領内を回って養蚕を指導しました。

津軽の養蚕振興には、秋田や福島方面の先進技術が、商人の移動と人的ネットワークを通じて弘前へ持ち込まれました。

秋田藩で絹の殖産を担った那波家については「那波三郎右衛門とは? 秋田藩の殖産・感恩講・洋式銃を支えた豪商」で詳しく紹介しています。

1829年、養蚕方取扱になる

文政12年(1829)、弘前藩は武田甚左衛門たけだ じんざえもんを養蚕方取扱に任命しました。

弘前藩庁日記「国日記」には、その任命記録が残っています。弘前市史では、甚左衛門の指導によって繭の生産が増え、秋田並みに養蚕が盛んになったとして、藩から10人扶持を与えられたと説明しています。

商人が私的に養蚕へ投資する段階から、藩の殖産政策を担う実務者へ位置づけられたことになります。

糸取り約200人――弘前に織座を作る

武田甚左衛門たけだ じんざえもんは、在方から蚕を買い集め、糸取りの女性を約200人雇いました。さらに弘前城下で織座を運営し、絹布の生産を進めました。

養蚕を奨励するだけなら、農家が繭を作るところで仕事は終わります。甚左衛門はそこから先の製糸、製織まで事業に取り込みました。

藩士の次男・三男なども織物生産に関わり、地域の雇用や武士層の授産にもつながる形が生まれました。

龍紋縮緬と「生産から販売まで」の経営

金木屋の織座では、領内初とされる龍紋縮緬りゅうもんちりめんも生産されました。

甚左衛門の商売は、呉服を仕入れて店頭で売る形から、養蚕、繭の集荷、糸取り、織物生産、販売までを一つにつなぐ形へ広がります。人名辞典も、養蚕場と織物工場を設け、生産から販売までの一貫経営へ進んだ人物として紹介しています。

江戸の三谷家が東北諸藩へ資金と販売網を提供したのに対し、金木屋は弘前の内部で生産工程そのものを作り上げました。三谷家の大名貸と商品販売については「三谷三九郎とは? 米沢・秋田・会津へ金を貸した江戸の大金主」で扱っています。

津軽の養蚕は甚左衛門以前からあった

津軽で養蚕が始まったのは甚左衛門の時代より前です。元禄期には京都から野本道玄らが招かれ、養蚕と絹織技術が本格的に導入されました。

その後、18世紀には産業が衰えます。甚左衛門は19世紀に秋田や伊達梁川の技術を取り入れ、養蚕を再興し、商業的な生産体制へ結びつけました。

天保の飢饉で養蚕はいったん廃絶する

甚左衛門が育てた養蚕事業は、1830年代の天保の飢饉てんぽうのききんで大きな打撃を受けました。弘前市史では、この時期に養蚕がいったん廃絶したとしています。

寒冷な津軽では、北関東や南東北の主要養蚕地より生産条件が厳しく、凶作や農村の疲弊が産業維持へ直接響きました。殖産政策は技術と資本だけでなく、地域の気候と農村経済にも左右されました。

武田家が幕末・明治へ養蚕をつなぐ

武田甚左衛門たけだ じんざえもんは1838年に没しましたが、金木屋の養蚕・製糸との関係は続きました。

幕末、開港によって生糸需要が高まると弘前藩は再び養蚕を奨励し、文久元年(1861)には甚左衛門の二代後にあたる熊七が養蚕方御用達に任命されます。その後も武田家は養蚕・製糸を継承しました。

幕末から明治にかけては、金木屋武田家が桐生から織布職人を招き、弘前の織物産業を支えます。甚左衛門が始めた事業は、一代の商売を越えて家業として受け継がれました。

店頭から桑畑まで広がった金木屋の商売

武田甚左衛門たけだ じんざえもんは、現金・正札販売で呉服店の信用を築き、その資本と経営力を藩の財政御用、養蚕、製糸、製織へ広げました。

金木屋の店頭で布を売る商人が、やがて秋田や伊達梁川から技術を導入し、領内で蚕を育て、糸を取り、織物を作るところまで担うようになります。江戸後期の弘前では、商人が地域産業の生産工程そのものを組み立てるところまで進んでいました。

主な参考資料

  • 弘前市立弘前図書館「弘前藩庁日記(国日記)」文政12年12月条
  • 『弘前市史』通史編2「漆以外の国産品」
  • 『弘前市史』通史編3「金木屋による養蚕と製織」
  • 『弘前市史』通史編4「養蚕業の奨励」
  • 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「武田甚左衛門」