江戸後期の秋田で、藩の産業振興、困窮者救済、幕末の武器調達まで担った商家がありました。那波三郎右衛門家です。
「那波三郎右衛門」は歴代当主が継いだ名で、中心人物は9代祐生と10代祐章です。祐生は秋田藩の絹方に関わり、1829年には町人仲間と感恩講を設立しました。祐章はその事業を継ぎ、戊辰戦争では新政府側についた久保田藩へ洋式銃を供給しました。
那波三郎右衛門とは――歴代当主が継いだ名前
那波三郎右衛門は、久保田城下の豪商・那波家で受け継がれた当主名です。人名辞典では、1772~1837年の祐生を9代、1805~1876年の祐章を10代として整理しています。
秋田市立中央図書館明徳館には那波家文書6,849点が残り、絹方、鉱山方、酒造方など秋田藩の御用に関する記録が伝わっています。那波家は商売を営みながら、藩の産業政策を実務面で支える御用商人でした。
久保田城下の豪商・那波家
久保田藩の城下町では、町人が日用品や酒、織物などを供給し、藩の御用も担いました。那波家はその有力商家の一つで、酒造や織物などを通じて資本を蓄えました。
藩にとって御用商人は物資の納入先であると同時に、技術、資金、販売網を持つ実務者でもありました。東北の豪商を比較した記事は「東北の豪商たち――本間家はどれほど異例だったのか?」で紹介しています。
9代祐生――酒造と織物で家を再興する
9代那波祐生は1772年、久保田城下に生まれました。醸造や織物で財産を築き、那波家の中興の祖とされています。
祐生が活動した時代、諸藩は領内で特産品を育て、外へ売ることで現金収入を増やそうとしていました。秋田藩でも生糸や絹織物などの生産が進められ、祐生はその実務を担います。
秋田藩の絹方を担う
那波祐生は秋田藩の織絹方支配として、領内の絹織生産に関わりました。那波家文書には絹方関係の帳簿が多く残り、藩と商人が共同して生産と販売を進めた実態を追えます。
絹織物を増やすには、原料となる生糸、織り手、技術、資金が必要です。完成した商品を領外市場へ送り、現金へ換える販売網も欠かせません。祐生は生産現場と市場をつなぐ位置にいました。
秋田の絹を大坂・京都へ売る
秋田で作られた絹は、領内消費だけを目的とした商品ではなく、大坂や京都など上方市場へ移出されました。
研究では、那波家に残る「絹払帳」などから、領内で生産された絹が上方へ販売された流れが分析されています。生産地の秋田と大消費地を結ぶことで、商品代金が領内へ戻ります。
江戸商人の三谷家が米沢藩へ資金を貸し、特産品を江戸で販売したのに対し、那波家は秋田領内の御用商人として生産実務そのものへ深く入りました。三谷家と東北諸藩の関係は「三谷三九郎とは? 米沢・秋田・会津へ金を貸した江戸の大金主」で詳しく紹介しています。
1829年、感恩講をつくる
文政12年(1829)、那波祐生は久保田城下の町人たちと感恩講を設立しました。凶作や貧困で暮らしに困る人々を継続的に支えるための救済組織です。
秋田市は感恩講を、日本でも発足の早い民間の社会福祉事業団体として紹介しています。窮民救済に加え、育児や子どもの保護にも取り組みました。
72人から191人へ――町人たちが資金を集めた
感恩講は、祐生が中谷久左衛門、塩屋善兵衛ら同志72人を募って始めた町人共同の事業です。秋田市の記録では、その後、賛同者は191人へ増えました。
集まった資金は合計2,000両・銀10貫文。久保田藩主・佐竹義厚の許可を受け、この資金で約230石の知行地を買い入れました。
一度配って終わる寄付より、毎年収入を生む土地を持つ方が救済を長く続けられます。町人たちは土地から得る米などを蓄え、必要なときに困窮者へ回す仕組みを作りました。
知行地の収入を救済へ回す仕組み
感恩講は1831年、本町六丁目に米などを保管する蔵2棟を建てました。町奉行の監督を受けながら、町人たちが運営しました。
財産は藩の役所が直接所有する形でも、一商人の私有財産として扱う形でもなく、救済事業を続けるために維持されました。運営には年番と呼ばれる町人が関わり、困窮状況を調べて米や金品を支給しました。
この仕組みは凶作時の備えに加え、日常的な窮民救済や保嬰・育児にも使われました。明治維新後も組織は存続し、後の児童保護事業へつながります。
天保の飢饉でも救済を続けた
1830年代の天保の飢饉では東北各地で深刻な食糧不足が起きました。秋田にも困窮者や流入者が増え、備荒と救済の仕組みが必要になりました。
感恩講は、平時に蓄えた財産と米を救済へ回せる組織でした。祐生が1837年に亡くれた後も事業は続き、地域の社会福祉制度として残りました。
10代祐章が感恩講を継ぐ
10代那波三郎右衛門祐章は1805年生まれで、祐生の子です。父が組織した感恩講を引き継ぎ、事業を発展させました。
那波家の活動は、祐生の死で途切れませんでした。藩御用を担う商家としての役割も受け継がれ、幕末には軍事物資の調達へ広がります。
戊辰戦争――久保田藩は新政府側へ
慶応4年(1868)の戊辰戦争で、久保田藩は奥羽越列藩同盟から離れ、新政府側につきました。周囲の諸藩との戦闘が始まり、武器と弾薬の確保が急務になります。
東北では庄内藩も洋式銃を大量に用いて戦いました。庄内側の装備と商人資金については「なぜ庄内藩は戊辰戦争で強かった? 本間家・酒田商人・洋式兵器」で詳しく扱っています。
イギリス船から洋式銃を調達した那波家
那波三郎右衛門祐章は、戊辰戦争で新政府支持を決めた久保田藩へ、イギリス船から調達した洋式銃を供給しました。
商家の仕事が酒や絹の取引から軍需品の海外調達へ広がった場面です。藩が急いで近代兵器を必要としたとき、海外商品へ接続できる商人の調達力が使われました。
殖産・福祉・軍需を担った御用商人
那波家の仕事は、秋田藩の御用を軸に時代とともに広がりました。祐生の時代には酒造や絹織物、藩の殖産政策を担い、商人仲間と感恩講を作りました。祐章の時代にはその救済事業を引き継ぎ、幕末の軍需にも関わりました。
絹を上方へ送り、知行地から得た米を困窮者へ回し、幕末には海外から銃を買う。扱ったものは異なりますが、いずれも那波家の資本、信用、販売・調達網を地域の必要へ結びつけた仕事でした。
大名貸を中心に藩と結びついた江戸の三谷家に対し、那波家は秋田領内に根を張り、産業振興と救済制度の運営まで担いました。豪商と藩の関係には、地域ごとに異なる形がありました。
主な参考資料
- 秋田市「秋田市の先人たち―那波祐生」
- 秋田市『近現代感恩講史料』
- 秋田市「図書館所蔵の古文書一覧―那波家文書」
- 秋田市「福祉のさきがけは町人たちの手で」
- 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「那波三郎右衛門」
- 金森正也『東北と上方を結ぶ藩政史』清文堂出版
