正保元〜2年(1644〜1645)ごろの「正保年中江戸絵図」で江戸城の東側を見ると、現在の大手町・丸の内には大きな武家屋敷がびっしりと並んでいます。超高層ビル、銀行本店、東京駅が集まる現在の景観からは想像しにくい、幕府中枢の大名屋敷街でした。
江戸城そのものは正保年中江戸絵図の江戸城編で詳しく見ました。大手門を出た先には、老中の松平信綱・酒井忠勝、将軍側近の中根正盛、町奉行、さらに全国の有力大名の江戸屋敷が集中していました。正保図の成立年代や全図の読み方は「正保年中江戸絵図とは?」で解説しています。
大手町・丸の内――江戸城大手門の前に広がった大名屋敷街
記事上部の全体図で水色に囲った範囲が、現在の大手町・丸の内におおむね重なる区域です。西側に江戸城、東側に外濠が走り、その間を大名屋敷と幕府関係施設が埋めています。江戸後期には、この一帯は「大名小路」として広く知られるようになりました。
現在の地図に重ねると、北部は大手町一〜二丁目、大手町駅や常盤橋周辺、中央から南部は丸の内一〜三丁目、東京駅丸の内口、さらに有楽町駅・東京国際フォーラム方面へ続きます。東京駅が開業するのは大正3年(1914)です。1640年代には鉄道もオフィス街もなく、江戸城を守り幕政を支える人々の屋敷が並んでいました。
幕末の屋敷配置は尾張屋版「御江戸大名小路絵図」で比較できます。約200年の間に屋敷主は入れ替わりますが、大手門を中心に武家屋敷と幕府施設が密集する都市構造は長く受け継がれました。
大手門北側――松平信綱と中根正盛がいた現在の大手町

大手門の北東側には「松平伊豆」「中根壱岐」「井上河内」「土屋民部」と読める屋敷が並びます。正保期の人物を照合すると、家光政権の中枢や将軍側近、有力譜代大名がこの狭い範囲に集められていたことが分かります。
松平伊豆――「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱
「松平伊豆」は松平信綱です。寛永10年(1633)に老中となり、島原・天草一揆の鎮圧、幕府の諸政策、のちの慶安事件や明暦の大火への対応まで幕政の中心に立ちました。寛永16年(1639)には武蔵川越藩主となり、正保期には家光政権を代表する老中の一人でした。
信綱は機知と行政能力から後世「知恵伊豆」と呼ばれます。大手門に近い屋敷の位置は、老中が将軍の政務を支えるため江戸城へ日常的に登城する立場だったことともよく合います。
中根壱岐――将軍と老中をつないだ中根正盛
「中根壱岐」は中根正盛です。家光の側近として五千石を領した旗本で、将軍と老中の間の取次、大名の動静把握、評定所や将軍の命を受けた諸任務に関わりました。家光の身近で情報を扱う人物が、大手門前の幕府中枢街に屋敷を構えていたことになります。
吹上に屋敷があった大番頭の中根正成とは別人です。江戸城編で取り上げた「中根大隅」は正成、ここに見える「中根壱岐」は正盛で、同じ中根姓でも役割と人物が異なります。
井上河内――横須賀から笠間へ移る井上正利
「井上河内」は井上正利です。遠江横須賀藩主で、正保2年(1645)に奏者番へ進み加増を受け、常陸笠間5万石へ移りました。正保元年(1644)には横須賀城の堀や石垣の工事を行っており、この地図は転封直前の時期にあたります。
土屋民部――久留里藩主・土屋利直
「土屋民部」は土屋利直です。上総久留里藩主で、幼少期に家督を継ぎ、秀忠の近習も務めました。寛永期には大坂加番など幕府の役務を担っています。二万石の大名ながら、大手門近くに屋敷を置いた譜代大名でした。
藤堂大学――藤堂高虎の後を継いだ藤堂高次
「藤堂大学」は藤堂高次です。築城の名手として知られる藤堂高虎の子で、寛永7年(1630)に津藩主を継ぎました。三重県総合博物館が紹介する近衛家伝来文書にも「藤堂大学頭高次」の署名が残ります。正保期には高虎が築いた津藩の領国と家臣団を継承した二代藩主でした。
小笠原右近――小倉15万石の小笠原忠真
「小笠原右近」は小笠原忠真です。初名を忠政といい、寛永9年(1632)に豊前小倉15万石へ移封されました。寛永年間の史料にも「小笠原右近大夫」と見えます。九州北部の要地・小倉を治め、西国の押さえを担った譜代大名です。
町奉行――江戸の行政・治安・裁判を担った役所
画像東端には「町奉行」と記された区画があります。町奉行は江戸の町政、治安、裁判などを担い、寺社奉行・勘定奉行と並ぶ三奉行の一つでした。正保期には神尾元勝や朝倉在重らが町奉行を務めていました。朝倉在重の屋敷は、江戸城編の半蔵門外にも確認できます。
一ツ橋と常盤橋――大手町に残る江戸城外郭の入口
北側の位置関係をつかむ目印が一ツ橋と常盤橋です。一ツ橋は松平信綱の屋敷に近かったことから「伊豆橋」「伊豆殿橋」とも呼ばれました。現在の一ツ橋は旧位置より少し東へ移っています。
常盤橋門は寛永6年(1629)に整えられた江戸城外郭の重要な門で、奥州街道へ通じる江戸五口の一つでした。現在も大手町二丁目の常盤橋公園に枡形石垣が残り、周辺には大手町駅、大手町プレイスなどのオフィス街が広がっています。
大手門前と大名小路北部――老中と大藩の屋敷群

大手門から東へ出た一帯では、さらに規模の大きな大名屋敷が並びます。「酒井讃岐」「森内記」「松平丹波」は、いずれも正保期の当主まで確認できる表記です。
松平阿波――徳島25万7千石の蜂須賀忠英
「松平阿波」は蜂須賀忠英です。徳島藩二代藩主で、元和9年(1623)に従四位下・阿波守となりました。徳島市立徳島城博物館が公開する資料にも、同年の将軍秀忠の一字書出が「松平阿波守(忠英)」宛として残ります。正保期には阿波・淡路を治める25万7千石の大名でした。
細川肥後――熊本54万石の細川光尚
「細川肥後」は細川光尚です。寛永18年(1641)に父・細川忠利の跡を継いで熊本藩主となりました。光尚は寛永12年(1635)に肥後守へ任官しており、正保元年(1644)には熊本54万石を治める当主です。現在の丸の内オアゾ付近は、後世にも細川家の上屋敷が置かれた地域として知られます。
前田右近――七日市藩主・前田利意
「前田右近」は前田利意です。前田利家の五男・利孝を祖とする上野七日市藩の二代藩主で、寛永14年(1637)に家督を継ぎました。寛永19年(1642)の幕府記録にも「前田右近利意」と見えます。正保元年(1644)には館林城代も務めています。
酒井讃岐――家光政権の最上位にいた酒井忠勝
「酒井讃岐」は酒井忠勝です。寛永元年(1624)に老中となり、寛永11年(1634)に若狭小浜11万3500石へ移封されました。寛永15年(1638)以降は通常の老中職務から一段上の大老格として家光を補佐しました。
松平信綱と酒井忠勝の屋敷がともに大手門の近くにある配置は、正保期の大手町が将軍権力の実務中枢だったことを端的に表しています。
森内記――津山18万6500石の森長継
「森内記」は森長継です。寛永11年(1634)に美作津山藩主となり、18万6500石を領しました。岡山県内の史料にも寛永12年(1635)の「森内記長継」が確認できます。森蘭丸の弟として知られる初代藩主・森忠政の跡を継いだ人物です。
松平丹波――美濃加納7万石の松平光重
「松平丹波」は松平光重です。寛永11年(1634)に播磨明石7万石を継ぎ、寛永16年(1639)に美濃加納7万石へ移りました。正保図の時点では加納藩主です。
東京都立図書館は幕末の大名小路図について、松平丹波守役宅のあたりが現在の東京駅周辺にあたると説明しています。正保期から幕末までの約200年間に屋敷主や区画は変わりましたが、現在の東京駅丸の内側が長く大名屋敷街だったことを実感できる場所です。
大名小路南部――有馬忠頼・京極高国・池田光政

南へ進むと「有馬中務」「京極山城」「松平新太郎」「小出対馬」の屋敷が見えます。現在の丸の内一〜二丁目、東京駅丸の内側へ重なる一帯です。
有馬中務――久留米21万石の有馬忠頼
「有馬中務」は有馬忠頼です。父・有馬豊氏の跡を継いで寛永19年(1642)に筑後久留米藩主となりました。久留米藩は21万石の大藩で、忠頼は島原・天草一揆にも出陣しています。正保図は家督相続から数年後の江戸屋敷を描いています。
京極山城――宮津藩世子・京極高国
「京極山城」は京極高国です。丹後宮津藩主・京極高広の嫡男で、山城守を称しました。正保期には父が藩主で、高国はその後継者です。承応3年(1654)に宮津藩を継ぎ、寛文6年(1666)まで7万8千石余を治めました。
松平新太郎――岡山31万5千石の池田光政
「松平新太郎」は池田光政です。通称を新太郎といい、寛永9年(1632)から備前岡山31万5千石を治めました。光政はこの「新太郎」の呼称を生涯好んで用い、書状にも「松新太郎」と署名した例が残ります。のちに藩政改革や教育政策で名君として知られる人物です。
小出対馬――園部藩主・小出吉親
「小出対馬」は小出吉親です。元和5年(1619)に丹波園部2万8千石へ移り、園部藩を立てました。寛永3年(1626)に対馬守となり、寛永19年(1642)には伊勢守へ改めています。正保図の「小出対馬」は旧官名を残した表記です。
現在は東京駅や丸ビル、新丸ビルをはじめとする丸の内の業務地区が広がっています。
丸の内南部――九鬼久隆と松平忠国、外濠沿いの大名屋敷

丸の内の南端では屋敷名が少なくなりますが、外濠と門、道路で囲まれた大きな区画が続きます。南端には「九鬼大和」「松平山城」と読める屋敷があります。
九鬼大和――水軍大名の系譜を継いだ九鬼久隆
「九鬼大和」は九鬼久隆です。九鬼水軍で知られる九鬼嘉隆の孫にあたり、寛永10年(1633)に摂津三田3万6000石へ移され、初代三田藩主となりました。三重県の史料にも「九鬼大和守久隆」の名が確認できます。
松平山城――丹波篠山5万石の松平忠国
「松平山城」は松平忠国です。元和6年(1620)に丹波篠山5万石を継ぎ、正保期も篠山藩主でした。慶安2年(1649)には播磨明石へ7万石で移封されます。寛永19年(1642)の幕府記録にも「松平山城守忠國」の名が見えます。
この南部は現在の東京駅南側から丸の内三丁目、有楽町方面に重なります。東側を走る外濠の多くは明治以降の都市改造で姿を変え、その跡には鉄道や道路、ビル街が形成されました。現在の東京国際フォーラム周辺まで歩くと、正保図では大名屋敷の区画と外濠が続いていた場所に立つことになります。
大名屋敷街から東京の業務中心地へ
正保期の大手町・丸の内には、松平信綱、酒井忠勝、中根正盛のような幕府中枢の人物と、森長継、有馬忠頼、柳生宗矩、九鬼久隆など全国の大名が集まっていました。大手門への近さ、外濠と城門による防御、江戸城への登城動線が屋敷配置を形づくっていました。
明治維新後、この一帯は官有地や陸軍用地を経て、丸の内では三菱によるオフィス街の形成が進みました。大正3年(1914)には東京駅が開業し、江戸の大名小路は日本を代表する業務・交通の中心地へ変わります。大正期の姿は大正東京・麹町区の古地図でも確認できます。
