2024年、成体のキイロショウジョウバエの脳について、139,255個のニューロンと約5,450万個のシナプス接続を含む全脳コネクトームがNatureで発表されました。小さなハエの頭の中を、ニューロン単位でたどれる「全配線図」が研究資源として使える段階に入ったのです。
ニュースでは「ハエの脳を完全再現」と紹介されることがあります。完成した中心成果は、脳全体のニューロン形態とシナプス接続を記録した配線図です。生きた脳の全活動や分子状態まで再現したシミュレーションとは区別すると、成果の大きさがかえってはっきり見えてきます。
ハエの脳の「全配線図」が完成した
FlyWire Consortiumの主論文は2024年10月2日にオンライン公開され、Nature 634巻に掲載されました。対象は成体メスのキイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)1個体の脳です。139,255個のニューロンと54.5 million、約5,450万個のシナプス接続が整理されました。注釈研究では8,400種類を超える細胞タイプが同定されています。

ショウジョウバエは、見る、におう、聞く、歩く、飛ぶ、場所を覚える、仲間と相互作用するといった行動をします。その制御を担う脳は砂粒より小さい一方、内部の配線は数千万のシナプスに及びます。
| 項目 | FlyWire全脳 | 従来のhemibrain |
|---|---|---|
| ニューロン | 139,255 | 約20,000 |
| シナプス | 約5,450万 | 約1,400万 |
| 範囲 | 両側の脳と視葉を含む全脳 | 中央脳を中心とする部分 |
従来最大級だったhemibrainから、ニューロン数は約7倍、シナプス数は約4倍へ拡大しました。左右の脳と視覚を処理する視葉を一続きに追えるため、局所回路だけでなく脳全体の情報経路を扱えるようになりました。
そもそもニューロン、シナプス、神経回路とは?
ニューロンは神経細胞です。樹状突起などで信号を受け取り、細長い突起を通して別の細胞へ情報を伝えます。ニューロン同士が情報を受け渡す主要な接点がシナプスです。多数のニューロンがシナプスで結び付くと、感覚や行動を処理する神経回路ができます。
多くのシナプスでは、送り手のニューロンが神経伝達物質という化学物質を放出し、次の細胞へ信号を伝えます。ショウジョウバエでは、アセチルコリン(ACh)は興奮性、GABAは抑制性の神経伝達物質として扱われます。FlyWireでは電子顕微鏡画像から神経伝達物質を統計的に予測しており、Cell Infoの「NT Type: GABA」は、そのニューロンがGABAを使う可能性が最も高いという予測を示します。個々のシナプスでは予測が外れる場合もあるため、Codexでも「predicted neurotransmitter」として表示されます。

図を見ると、ニューロンは同じ形の部品が並んでいるのではなく、枝分かれの仕方や伸びる方向が大きく違います。1組のニューロン間にも複数のシナプスがあり得ます。「誰が誰につながるか」を全体で記録して初めて、神経回路をネットワークとして調べられます。
コネクトームとは?「完全再現」とは何が違う?
コネクトームは、脳や神経系のニューロンとシナプス接続を体系的に記録した配線図です。FlyWireでは、各ニューロンの3D形態、接続方向、シナプス数、脳領域、細胞タイプ、予測された神経伝達物質などを組み合わせて分析できます。
今回「完成」した主役は全脳規模の構造データです。どのニューロンがどのニューロンへ信号を送れる配置にあるのかを、脳全体でたどれます。配線図に含まれるのはニューロン形態とシナプス接続などの構造情報で、その瞬間の全ニューロンの電気活動、シナプス強度の時間変化、受容体やイオンチャネルなどの分子状態、学習による変化、個体差は別のデータです。
配線図から動作モデルへ進む研究も始まっています。同じNature特集でShiuらは、コネクトームと神経伝達物質情報を使った全脳規模の単純化モデルを構築し、味覚刺激に対する運動出力やグルーミングに関わる感覚―運動処理について、実験で検証できる予測を示しました。配線図は完成品の「デジタルのハエ」ではなく、機能を予測し実験するための土台です。
なぜショウジョウバエ?14万個のニューロンをどう調べた?
小さいのに複雑な行動をするモデル生物
キイロショウジョウバエは、遺伝学と神経科学で長く使われてきた代表的なモデル生物です。脳は哺乳類よりはるかに小さく、それでも視覚、嗅覚、飛行、歩行、学習、記憶、ナビゲーション、社会行動を支える回路を持ちます。全脳を細胞単位で調べられる規模と、複雑な行動の両方を備えている点が大きな利点です。

電子顕微鏡、AI、人間の校正を組み合わせた
出発点は、成体メスの脳を連続した超薄切片として電子顕微鏡で撮影した巨大な画像データです。画像を3D空間で位置合わせし、機械学習による自動セグメンテーションで、細胞の輪郭をつなぎながらニューロン候補を立体再構築しました。
自動処理だけでは、細い枝の取り違えや、別のニューロンとの誤結合が残ります。FlyWireでは研究者、訓練されたproofreader、コミュニティ参加者が再構築を確認し、誤った結合を切り、欠けた枝をつなぐ校正を大規模に行いました。シナプスも自動検出し、校正済みニューロンへ統合しました。AIによる大規模処理と、人間による精密なproofreadingの組み合わせが全脳地図を成立させています。
FlyWireとCodexとは?無料で何ができる?
FlyWireは、電子顕微鏡データからニューロンを再構築し、proofreadingと注釈を進めてきた研究プラットフォームとコミュニティです。FlyWire Codexは、整理されたコネクトームのスナップショットを検索、可視化、解析するWebサービスで、Princeton Neuroscience Instituteが開発・運営しています。
| 名称 | 役割 |
|---|---|
| FlyWire | コネクトームの再構築・校正・注釈を行う研究基盤 |
| FlyWire Codex | コネクトームを検索・3D表示・解析するWebサービス |
| OpenAI Codex | AIによるプログラミング支援。FlyWire Codexとは別サービス |
Codexは無料で、ソフトのインストールも不要です。2026年現在、Search、Stats、Annotations、Cell Details、3D Viewer、Network Graphs、Pathways、Download Dataなどが用意されています。インタラクティブなアプリ機能はGoogleアカウントでのサインインが必要です。FAQ、About、Sample Queriesなど一部の静的ページはサインインなしで読めます。
CAVE/FlyWire access tokenは、ライブ側のroot ID照合やFlyWire上の個人履歴、保護されたデータへの権限が必要な操作で使います。
Codexには複数のデータセットがあります。2024年のNature全脳コネクトームに対応するのはFlyWire FAFB / Female Adult Fly Brain / v783です。2026年には脳と腹側神経索を含むBANC v888なども公開され、CodexにはFAFB v783以外のデータセットもあります。
実際にFlyWire Codexを触ってみよう
3D探索は画面の広いPCブラウザが使いやすいです。2026年8月時点のCodexでは、Nature 2024の全脳データに対応するFAFB v783(Female Adult Fly Brain)を選びます。ここからは実際の画面を見ながら、検索したニューロンを3Dで眺め、接続関係まで追ってみます。
1.トップページからSearchを開く

FlyWire Codexを開き、Googleアカウントでサインインします。右上のデータセットがFAFB v783になっていることを確認し、トップページのSearchを開きます。公式Sample Queriesにある class == olfactory を入力すれば、嗅覚クラスに注釈されたニューロンを検索できます。検索式を使わず、自由文から探すこともできます。
2.検索結果から1個のニューロンを選ぶ

検索結果では、左側の小さな3D画像だけでもニューロンごとの形の違いが分かります。Predicted NT Typeは予測された神経伝達物質、upstreamはその細胞へ入力する相手、downstreamはその細胞から出力を受ける相手です。名前または3Dサムネイルから1個を開くと、Cell Infoへ進みます。
3.Cell Infoで「誰とつながるか」を見る

Cell Infoでは、Cell ID、細胞タイプ、3D形状、入力・出力シナプス数、接続相手などを確認できます。Top Input TypesとTop Output Typesは、接続相手を細胞タイプごとにまとめた集計です。実際の1細胞ずつを追うときは、T5bなどのタイプ名ではなく、Connected Cells (with 5+ synapses)のinput cells (upstream)またはoutput cells (downstream)を開きます。
複数の細胞をまとめて接続図にしたい場合は、上部のNetwork → Connectivityへ進みます。Connectivityでは、丸がニューロン、線がニューロン間の接続を表します。FAFBでは標準で5個以上のシナプスを持つ接続が対象です。
4.複数のニューロンを3Dで重ねる

Connectivityの検索結果から3D viewを開くと、選んだニューロンを同じ脳の中へ重ねられます。Color by Typeを選ぶと細胞タイプごとに色が分かれ、どの枝がどの細胞なのか見分けやすくなります。画面右下の操作案内どおり、Ctrl+ホイールで拡大・縮小、クリックしたままドラッグで回転、Shift+クリックしたままドラッグで平行移動できます。
このサンプルでは、視葉の運動視覚回路に属するLPi14、H2、LPi15、LPi12が表示されています。LPi12・LPi14・LPi15はlobula plate intrinsic neuron(視葉板内在ニューロン)の仲間で、運動情報を処理する回路の内部で多数のニューロンから入力を受け、別の視覚ニューロンへ信号を渡します。H2はlobula plate tangential cellの一種で、視野の広い範囲から運動情報を集める大きなニューロンです。H2はT4b・T5bという方向選択性ニューロンから強い入力を受け、後方から前方へ動く視覚刺激に強く反応することが生理実験でも確かめられています。
Codexで分かるのは、どこに枝を広げ、誰と何個のシナプスでつながり、どの神経伝達物質を使う可能性が高いかという構造情報です。そこへ過去の生理実験や行動実験を重ねることで、「この配線は何を計算しているのか」を考えられます。
5.これ全部で1個の神経細胞――H2だけを表示してみる

5枚目は、ほかの細胞を非表示にしてH2を1細胞だけ残した画面です。右側の巨大な樹木のような枝、そこから脳の中央へ伸びる長い一本の突起、反対側へ続く枝まで、すべてがつながった1個のニューロンです。ニューロン1個という言葉から小さな点を想像すると、この大きさは意外に見えます。実際には、1個の神経細胞が長い突起を伸ばし、広い範囲で細かく枝分かれすることがあります。
このH2の大きな枝網は、広い視野から運動情報を集めるという性質とも対応します。2025年の生理研究では、H2の視葉からの入力の約85%がT4b・T5bから来ると報告されました。T4/T5は視野の各場所で特定方向の動きを検出する小型ニューロンです。多数の局所的な運動信号が、このような大きな1細胞へ集まる構造を3Dで確認できるのが、コネクトームを触る面白さの一つです。
形状を眺めるだけでもニューロンの多様さが分かりますが、Codexの本領は「この1本は誰から入力を受け、誰へ出力するのか」をたどれることにあります。形、接続、シナプス数、予測神経伝達物質を組み合わせると、脳の回路をロボットや電子回路の配線図のように読み解く入口になります。生物の神経回路の動作には、活動状態やシナプス強度の変化も関わります。

感覚ニューロンを入口にすると、「外界から入った情報が脳のどこへ届くか」という流れを追いやすくなります。興味を持った1本を選び、3D Viewerで形を見て、Cell Infoで接続相手を追うと、図鑑を眺めるだけでは見えないネットワークが現れます。

Network Graphsで接続相手を広げ、Pathwaysで2つのCell IDの間を調べると、「AからBまで何段階で情報が届き得るか」を具体的なセル列として確認できます。ブラウザで実際の科学データを動かす体験に興味があれば、NASAの公開データを使う「第二の地球を探せ!NASA Eyesで系外惑星を3D探索する初心者ガイド」も同じ方向の楽しみ方ができます。
全配線図ができて何が分かった?人間の脳はどこまでできる?
全脳コネクトームがあると、局所的な神経回路だけでなく、左右の脳をまたぐ経路や、感覚入力から運動出力までの連鎖を同じ座標系で追えます。細胞タイプや神経伝達物質の注釈を重ねれば、「形が似ている」「同じ領域にある」だけでなく、接続ネットワークの役割からニューロンを比較できます。
Shiuらは全脳コネクトームを単純化した計算モデルへ変換し、感覚入力から運動ニューロンの活動を予測しました。Seungは視覚系の配線構造を読み解き、未計測ニューロンの視覚機能を予測する方法を示しました。配線図が「次に何を測るか」を決める仮説生成装置として働き始めています。
人間の脳では規模が桁違いです。電子顕微鏡でシナプスを識別できる解像度を保ったまま広大な体積を撮影し、画像を保存し、ニューロンを復元し、誤りを校正する必要があります。FlyWireの主論文も、同じ技術群が哺乳類脳のミリメートル規模の領域へ応用され、全マウス脳の電子顕微鏡再構築を目指す計画が進んでいると述べています。ハエ全脳の成功は、そのまま人間全脳の完成を意味するのではなく、大規模コネクトームを実際の研究基盤として使う方法を実証した点に価値があります。
よくある質問
ハエの脳は本当に完全再現された?
全脳のニューロン形態とシナプス接続を記録したコネクトームが完成しました。全ニューロンの瞬時の電気活動や分子状態まで含む完全シミュレーションとは別です。
FlyWire Codexは無料?
無料です。ソフトのインストールも不要です。
登録なしで使える?Googleアカウントは必要?
FAQやSample Queriesなど静的ページはログインなしで閲覧できます。検索や3D ViewerなどインタラクティブなアプリはGoogleアカウントでのサインインが必要です。
CAVEトークンは必要?
通常の公開データ探索には不要です。ライブ側の権限が必要な特殊操作で使います。
スマートフォンでも使える?
Webサービスなので開けますが、3D表示や複数パネルを使う探索はPCのデスクトップブラウザが見やすいです。
OpenAI Codexと同じ?
別物です。FlyWire Codexはコネクトーム探索サービス、OpenAI Codexはプログラミング支援です。
プログラミング知識は必要?
検索、Cell Details、3D Viewer、Network Graphs、Pathwaysはブラウザから操作でき、プログラミング知識なしで使えます。
今見ているニューロンは実際のハエから復元されたもの?
FAFB v783の形態は、成体メスのキイロショウジョウバエの電子顕微鏡画像から再構築されたデータに基づきます。
14万個のニューロンを全部人間が描いた?
自動セグメンテーションで大量の候補を作り、人間が大規模にproofreadingして誤接続や欠落を修正しました。
データはダウンロードできる?
CodexのDownload Dataから、FAFBなどFlyWireの公開データを取得できます。ファイル形式や対象データはダウンロード画面で確認できます。
まとめ
2024年に公開されたFlyWire全脳コネクトームは、成体メスのキイロショウジョウバエの139,255ニューロンと約5,450万シナプス接続を脳全体でたどれる研究資源です。完成したのは全脳の配線図で、そこから機能や情報経路を予測する研究がすでに進んでいます。FlyWire Codexでは、一般の読者もFAFB v783を検索し、ニューロンを3D表示し、接続や経路を無料で探索できます。
参考文献
- Dorkenwald, S. et al. “Neuronal wiring diagram of an adult brain.” Nature 634, 124–138 (2024).
- Schlegel, P. et al. “Whole-brain annotation and multi-connectome cell typing of Drosophila.” Nature 634, 139–152 (2024).
- Shiu, P. K. et al. “A Drosophila computational brain model reveals sensorimotor processing.” Nature 634, 210–219 (2024).
- Seung, H. S. “Predicting visual function by interpreting a neuronal wiring diagram.” Nature 634, 113–123 (2024).
- FlyWire Codex
- FlyWire Codex FAQ
- FlyWire Codex Sample Queries
- FlyWire Academy
- Fly Connectomics Media
- Nature Portfolio 日本語ハイライト「脳の配線図」

