日本の医学・病院の歴史と系譜|医学部・大学病院はどこから生まれたのか

日本の医学塾・種痘所・病院・研究所など複数の起点から現代の医学部・大学病院へつながる歴史を描いたイラスト 日本史・社会制度

東京大学、順天堂大学、大阪大学、長崎大学、日本医科大学、東京慈恵会医科大学、北里大学――。現在の医学部や大学病院の名前だけを見ると、どの組織も最初から「大学」と「病院」が一体で生まれたように感じられます。

しかし、実際の起点はさまざまです。江戸の種痘所、長崎の医学伝習所、佐倉の蘭医学塾、大阪の適塾、藩の医学校、医術開業試験の受験生を教えた私立医学校、感染症を研究する研究所、貧困者を救う社会事業、戦時の軍病院や療養所などが、別々の目的から育ち、改称・統合・移管を重ねて現在につながりました。

そのため、医学史を一本の系図にすると誤解が生まれます。この記事では、次の三つを区別します。

  • 直接の組織系譜:改称、移管、統合などを経て制度上つながる前身・後身
  • 人物を介した関係:創設者、卒業生、教師、指導者が別組織をつないだ関係
  • 思想・制度上の影響:教育方法、医学思想、研究分野、制度が受け継がれた関係

30秒で分かる結論
日本の医学と病院は、一つの学校から全国へ広がったのではありません。長崎、佐倉、大阪、江戸・東京、各藩や地方都市に複数の起点がありました。医学校、病院、研究所、赤十字や済生会のような救済組織、看護教育は、それぞれ異なる目的から発達しています。現在の大学同士に深い関係があっても、必ずしも直接の前身・後身ではありません。

まず全体像――日本の医学・病院は四つの流れからできた

細かな学校名を追う前に、近代日本の医療を形づくった流れを四つに分けると見通しがよくなります。

流れ 主な役割 代表例 現在へのつながり
医学教育 医師を体系的に育てる 長崎医学伝習所、適塾、種痘所、藩医学校、私立医学校 医学部、医科大学、医学教育機関
診療・病院 患者を診療し、臨床教育を行う 小石川養生所、小島養生所、順天堂医院、府県立病院 大学病院、自治体病院、公的病院
研究 感染症、細菌学、基礎医学などを研究する 伝染病研究所、北里研究所 東京大学医科学研究所、北里研究所・北里大学
救済・看護 戦傷者、困窮者、災害被災者を支え、看護職を育てる 博愛社、日本赤十字社、済生会、慈善病院、看護婦教育所 赤十字病院、済生会病院、看護大学・看護教育

ここでいう「病院」も一種類ではありません。江戸時代の養生所、幕末の西洋式病院、大学の附属医院、軍病院、慈善病院、療養所では、設立目的も運営主体も異なります。「日本最初の病院はどこか」という問いに一つの答えを出しにくいのは、このためです。

長崎医学伝習所、和田塾・佐倉順天堂、適塾、お玉ヶ池種痘所、済生学舎、成医会講習所、東京女医学校から現在の大学へ続く代表的な医学教育の系譜図
日本の医学教育を形づくった代表的な系譜。詳細な改称や地方医学校・帝国大学などは本文で解説します。

この記事で使う用語

  • 蘭学:江戸時代にオランダ語を通して学ばれた西洋の学問。医学だけでなく天文学、物理学、兵学なども含みます。
  • 種痘所:天然痘を予防する種痘を行い、技術を広めた施設。のちに医学教育機関へ発展した例があります。
  • 医学校:医師養成を目的とする学校の総称。時代によって制度上の位置づけが大きく異なります。
  • 医学専門学校:旧制期に医師を養成した専門教育機関。大学の医学部とは制度が異なりました。
  • 医科大学:大学令下の旧制大学として医学教育・研究を担った組織。戦後、新制大学の医学部へ移行した例が多くあります。
  • 附属医院:医学教育機関に付属した診療施設。現在の「附属病院」に相当します。

江戸から幕末へ――長崎・佐倉・大阪・江戸に生まれた複数の起点

江戸時代にも医者と医療施設はあった

「江戸時代には病院がなかった」と言い切るのは正確ではありません。町には開業する町医者がいて、諸藩には藩主や藩士を診る藩医がいました。寺社や地域共同体による施薬、貧困者への救療もあり、藩校や私塾で医学を学ぶ場も存在しました。

代表例が、江戸幕府が1722年に小石川薬園内へ設けた小石川養生所です。貧しい病人を収容して治療する公的な救療施設で、現在の病院に通じる面を持ちます。一方、診療・研究・医学教育を一体化した近代西洋式病院とは目的や制度が異なりました。現在、跡地は東京大学大学院理学系研究科附属植物園、通称小石川植物園の一帯に含まれます。

江戸期の医療を理解する鍵は、「近代病院がまだない」と「医療施設がまったくない」を分けることです。養生所や施薬所は、近代病院以前の日本社会が持っていた救療の仕組みでした。

長崎――体系的な西洋医学教育と西洋式病院

幕末の西洋医学教育で大きな転換点となったのが長崎です。長崎ではオランダ商館を窓口に西洋医学の知識が入り、シーボルトが1824年に鳴滝塾を開きました。鳴滝塾は私塾であり、現在の長崎大学の直接の組織前身と単純に言うことはできませんが、各地から集まった門人を通して西洋医学・博物学・地理学を広めました。

1857年、オランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが長崎奉行所西役所医学伝習所で、基礎から臨床までを体系的に教え始めます。長崎大学は同年11月12日を医学部の創基と位置づけています。1861年には小島養生所が開かれ、診療と臨床教育が結びつきました。長崎大学はこれを「わが国最初の西洋式近代病院」と説明しています。

この流れは、医学伝習所、精得館、長崎医学校、長崎医学専門学校、長崎医科大学などの改組を経て、現在の長崎大学医学部・長崎大学病院へつながります。詳細は長崎大学医学部の沿革長崎市の旧長崎医学校・小島養生所資料館で確認できます。

ただし、「日本最初の病院」を小島養生所だけに断定するのは避けるべきです。小石川養生所のような救療施設、蘭方医の診療所、軍事・藩営施設などを病院に含めるかで答えが変わります。小島養生所は、西洋式の近代病院、かつ臨床教育施設という定義で重要なのです。

和田塾・佐倉順天堂から順天堂へ

順天堂の起点は、佐藤泰然が1838年に江戸・薬研堀で開いた蘭医学塾和田塾です。泰然は1843年、佐倉藩の招きで佐倉へ移り、佐倉順天堂を開きました。ここでは蘭方医学の教育と外科手術を含む診療が行われ、全国から門人が集まりました。

明治に入ると、後継者の佐藤尚中らが東京で順天堂医院を開きます。学校・診療組織は制度を変えながら発展し、現在の順天堂大学・順天堂医院につながりました。順天堂が創立年を1838年とするのは、和田塾からの教育・診療の系譜を組織の起源としているためです。詳しくは順天堂の起源順天堂医院の沿革が整理しています。

ここでの関係は、単なる「人物の影響」だけではなく、和田塾・佐倉順天堂・東京の順天堂医院へ連なる組織的な継承を自らの起源とする系譜です。

適塾から大阪大学医学部へ――間にある組織を省かない

緒方洪庵が1838年に大坂で開いた適塾は、蘭学を学ぶ私塾でした。福澤諭吉、大村益次郎、橋本左内らを含む多くの門人を育て、近代日本の政治・軍事・教育にも影響を与えました。洪庵は天然痘予防にも尽力し、1849年に除痘館を設けています。

適塾と大阪大学医学部の関係は深いものの、「適塾がそのまま大阪大学医学部に改称された」と考えると間違いです。1869年、洪庵の子・緒方惟準や適塾関係者らの働きで大阪仮病院と大阪医学校が開かれ、オランダ人医師ボードウィンが教育に関わりました。その後、大阪府立医学校・病院、大阪府立医科大学を経て、1931年に大阪帝国大学医学部となり、戦後の大阪大学医学部へ続きます。

したがって、適塾は大阪大学が重視する歴史的源流ですが、直接の制度上の連続を示すときには、大阪仮病院・大阪医学校以後の改組を省いてはいけません。大阪大学の適塾と大阪大学の関係大学沿革がこの点を説明しています。

お玉ヶ池種痘所から東京大学医学部へ

東京大学医学部の源流は、1858年に江戸の蘭方医たちが資金を出し合って設けたお玉ヶ池種痘所です。天然痘予防の種痘を広める施設として始まりましたが、幕府の直轄化後、医学教育機関へ変わっていきます。

名称・出来事 位置づけ
1858 お玉ヶ池種痘所 蘭方医83名が共同で設立した私設の種痘施設
1860 幕府直轄となる 公的な医学施設へ
1861 西洋医学所 種痘だけでなく西洋医学教育を担う
1863 医学所 幕府の医学教育機関
1868 大病院 新政府が医学所と軍陣病院を統合
1869 医学校兼病院 教育と診療を一体化
1874 東京医学校 近代的な医学教育制度を整備
1877 東京大学医学部 東京開成学校と東京医学校の統合で成立

途中には大学東校、東校、第一大学区医学校などの名称もあり、政治制度の再編に伴って短期間に改称されました。正確な年次は東京大学大学院医学系研究科・医学部の沿革で確認できます。

この系譜が示すのは、大学病院が最初から完成した制度として誕生したのではなく、種痘、医学教育、軍事医療、臨床を統合しながら形成されたことです。

明治政府はどう医師を増やしたか――ドイツ医学、免許試験、私立医学校

なぜドイツ医学が制度の中心になったのか

幕末までの西洋医学は、オランダ語を通して学ぶ蘭方医学が中心でした。明治政府は新しい国家制度を整えるなかで、医学教育の標準化と医師免許制度の構築を急ぎます。

当初はイギリス医学を採用する案もありましたが、政府は最終的にプロイセンを中心とするドイツ医学を大学教育の柱にしました。背景には、ドイツ語圏の大学医学が基礎研究・病理学・実験科学を重視していたこと、国家が資格と大学制度を統制する仕組みが明治国家の制度設計に適合したこと、軍医制度との親和性などがありました。東京医学校・東京大学ではドイツ人教師が招かれ、内科のエルヴィン・ベルツ、外科のユリウス・スクリバらが教育と診療に関わりました。

ただし、日本の医学が完全に「ドイツ一色」になったわけではありません。長崎のオランダ医学、東京慈恵会医科大学へつながる高木兼寛のイギリス医学、各地の私塾や病院での臨床教育も並存しました。政府の中核制度がドイツ型を採ったことと、現場の医学が単一だったことは別です。東京大学の歴史資料「ドイツ医学導入の経緯」は、この移行を詳しく扱っています。

医術開業試験とは何か

明治初期には、西洋医学を身につけた医師が全国で不足していました。政府は1874年の医制で医師資格の枠組みを示し、各地で試験を実施します。1879年には試験の運用が全国的に統一され、1883年の医術開業試験規則によって制度が整えられました。

医術開業試験は、正規の官立学校を卒業していない人が医師免許を得るための重要なルートでした。試験には物理、化学、解剖、生理、病理、内外科などの知識が求められます。しかし、官立学校の定員は限られ、地方から長期間通うことも容易ではありません。そこで、試験合格に必要な医学を教える私立医学校が大きな役割を果たしました。

1880年代には医学校が教育内容によって甲種・乙種などに区分されました。大まかに言えば、甲種は一定の設備と体系的課程を備え、卒業者の資格上の扱いが厚い学校、乙種はより短い課程や試験準備の性格が強く、卒業後に医術開業試験を受ける必要がある学校でした。ただし、制度は時期によって変化し、個々の学校を「予備校」とだけ呼ぶと、診療・研究・社会的使命を見落とします。

当時の試験資料は、順天堂の日本医学教育歴史館や国立公文書館アジア歴史資料センターの医術開業試験規則関係資料で確認できます。

済生学舎から日本医科大学へ

長谷川泰は1876年、東京に私立医学校済生学舎を開きました。官立学校だけでは足りない医師を短期間で育て、医術開業試験へ送り出す学校として発展します。日本医科大学の公式沿革によれば、済生学舎は28年間に9,000人を超える医師・医学者を育て、当時の開業医の大きな部分を支えました。女性にも門戸を開き、荻野吟子や吉岡彌生らが学んでいます。

済生学舎は1903年に廃校となりました。ここで一度、旧組織は終わります。しかし、教員・卒業生が在学生の教育を続けるため同窓医学講習会を設け、私立東京医学校、私立日本医学校などの動きが生まれました。1910年に組織が統合され、1912年に日本医学専門学校、1926年に旧制の日本医科大学となり、戦後に新制大学へ移行します。

つまり、日本医科大学は済生学舎を起源とする歴史を持ちますが、1903年の廃校後に卒業生・教員が教育を再建し、別制度の学校へつないだ過程を省くべきではありません。詳しい年表は日本医科大学の建学の精神と沿革にあります。

高木兼寛と東京慈恵会医科大学――英国医学と臨床重視

高木兼寛は海軍軍医としてイギリスに留学し、患者を診察して原因を探る臨床重視の医学を学びました。帰国後の1881年、成医会を組織し、医学教育の場として成医会講習所を開きます。これが東京慈恵会医科大学の起源です。

高木は脚気が海軍で多発する状況に対し、艦内食と発症の関係に注目して食事を改善しました。当時はビタミンB1や脚気の病因が確立していませんでしたが、比較観察と実践的介入によって患者を減らしました。この姿勢は、基礎研究を重視した東京大学系のドイツ医学と対立するというより、臨床と患者生活を重視する別の強みを示したものです。

高木らは有志共立東京病院を運営し、のちに慈恵医院へ発展させました。1885年には看護婦教育所を設け、医師教育だけでなく近代看護教育にも取り組みます。成医会講習所は試験対策の機能も持ちましたが、病院・医学教育・看護教育・慈善を組み合わせる構想が中心でした。詳しくは東京慈恵会医科大学の沿革で確認できます。

女性医師と看護教育――医学部史だけでは見えない医療の担い手

荻野吟子と医師資格への道

明治初期、女性が医師になる道は制度上も社会通念上も狭く、学校への入学や試験受験さえ容易ではありませんでした。荻野吟子は私立医学校の済生学舎で学び、1885年に医術開業試験に合格します。日本で最初に近代的な国家資格を得た女性医師とされます。

ここで重要なのは、済生学舎が女性医師を専門に育てる学校だったわけではないことです。女性にも学ぶ機会を開いた私立医学校が、官立教育では拾い切れない人材を医師資格へつないだのです。

吉岡彌生と東京女子医科大学

吉岡彌生も1889年から済生学舎で学び、医術開業試験に合格しました。1900年、女性が医学を体系的に学べる場を作るため、東京女医学校を開設します。これが東京女子医科大学へ発展しました。

ただし、東京女子医科大学が済生学舎の直接の後身というわけではありません。関係は、済生学舎で学んだ吉岡彌生が、新たな理念と組織を創設した人物的なつながりです。東京女子医科大学の沿革歴史FAQは、この区別を明確にしています。

看護教育は病院の近代化とともに始まった

近代病院は、医師だけでは成り立ちません。入院患者を継続的に観察し、清潔、食事、投薬、手術前後のケアを担う看護職の育成が不可欠でした。

  • 東京慈恵会系:1885年に有志共立東京病院看護婦教育所を開き、病院実務と結びついた教育を行いました。
  • 日本赤十字社系:博愛社病院を母体に看護婦養成を進め、戦時救護・災害救護・平時の病院看護へ人材を送りました。現在の日本赤十字看護大学は1890年に始まる赤十字の看護教育を起源としています。
  • 聖路加系:聖路加病院は1901年に創設され、1904年に看護学校を開きました。1920年には高等看護婦学校が設けられ、現在の聖路加国際大学へつながる看護教育が発展しました。

日本赤十字社の看護教育史、日本赤十字看護大学の沿革、聖路加国際病院の歴史を見ると、医療制度の近代化が看護教育の制度化と並行していたことが分かります。

研究所・救済組織・赤十字――北里柴三郎から伸びた別々の枝

北里柴三郎の学びと伝染病研究所

北里柴三郎は熊本医学校を経て東京医学校で学び、のちにドイツへ留学してロベルト・コッホのもとで細菌学を研究しました。帰国後、1892年に大日本私立衛生会附属伝染病研究所の所長となります。

伝染病研究所は1899年に国へ移管され、1914年に所管が内務省から文部省へ移されました。北里は移管に反対して辞職し、1914年に私立の北里研究所を創設します。一方、国立の伝染病研究所は1916年に東京帝国大学の附置研究所となり、1967年に改組されて東京大学医科学研究所となりました。これは東京大学医科学研究所の沿革に示される直接の組織系譜です。

北里研究所から北里大学へ

北里が1914年に開いた北里研究所は、感染症研究、血清・ワクチンの開発と製造を進めました。1962年、研究所創立50周年事業として北里大学が設立され、1970年に医学部、1971年に病院が開設されます。

したがって北里大学は、私立北里研究所の研究・教育事業から生まれた大学です。国立の伝染病研究所を直接引き継いだ大学ではありません。北里研究所と北里大学の関係は、北里大学医学部の沿革で確認できます。

慶應義塾大学医学部との関係

慶應義塾は1917年に医学科を開設する際、北里柴三郎を初代医学科長に迎えました。1920年に附属病院が開院すると、北里は初代病院長も務めました。北里は教授陣の選定や教育方針に深く関わり、慶應医学の基礎を築きます。

しかし、慶應義塾大学医学部は北里研究所や北里大学の前身・後身ではありません。福澤諭吉と北里の関係を背景に、北里という人物が慶應の新しい医学教育組織を設計した関係です。慶應義塾の北里柴三郎と慶應医学が詳しく紹介しています。

組織 直接の起点 北里との関係 注意点
東京大学医科学研究所 1892年の伝染病研究所 創設期の所長 国立研究所として存続し東大へ移管
北里大学 1914年の北里研究所 創設者 私立研究所から大学へ展開
慶應義塾大学医学部 1917年の慶應義塾大学部医学科 初代医学科長・初代病院長 北里研究所の後身ではない
北里柴三郎を介して東京大学医科学研究所、北里大学、慶應義塾大学医学部へ広がった三つの別系統を示す図
北里柴三郎が関わった三つの系譜。東京大学医科学研究所、北里大学、慶應義塾大学医学部は、同一組織の前身・後身ではありません。

済生学舎と済生会は別の組織

名前が似ているため、もっとも混同されやすいのが済生学舎済生会です。

済生学舎と済生会の創設年、目的、組織の種類、現在につながる組織の違いを比較した図
済生学舎は医師を育てた私立医学校で、日本医科大学の歴史的起源です。済生会は1911年に創立された医療・福祉組織で、両者に直接の前身・後身関係はありません。
項目 済生学舎 済生会
創設 1876年 1911年
中心人物・契機 長谷川泰 明治天皇の済生勅語と下賜金
目的 医師を育てる私立医学校 生活困窮者を支える医療・社会福祉事業
現在への主な系譜 日本医科大学の歴史的起源 社会福祉法人恩賜財団済生会と全国の病院・施設
北里柴三郎 直接の創設者ではない 創立時の医務主管

済生会は1911年、明治天皇の済生勅語と下賜金を契機に設立されました。北里柴三郎は医務主管として診療事業の構築に関わります。現在は全国で病院、診療所、福祉施設を運営しています。済生会の沿革に創設経緯が掲載されています。

日本医科大学の前身は済生学舎であり、済生会ではありません。名称の「済生」は人を救い生かすという共通の語ですが、組織上の連続性はありません。

博愛社から日本赤十字社へ

1877年の西南戦争で、佐野常民らは敵味方を区別せず負傷者を救護する組織として博愛社を設立しました。日本がジュネーブ条約に加入した後、1887年に日本赤十字社へ改称します。

赤十字は戦傷者救護から出発し、災害救護、病院、血液事業、看護教育、国際人道活動へ領域を広げました。済生会が生活困窮者医療を大きな使命として生まれたのに対し、赤十字は戦時・災害時の人道救護を核とする国際運動の日本組織です。両者とも公的性格の強い病院を運営しますが、創設目的と法的・組織的な系譜は異なります。日本赤十字社の沿革で確認できます。

聖路加病院と宣教医療

聖路加病院は1901年、米国聖公会の宣教医ルドルフ・トイスラーによって東京・築地に創設されました。キリスト教の理念にもとづく医療、予防、公衆衛生、看護教育を重視し、国際的な病院モデルを日本へ導入しました。

聖路加は、帝国大学、赤十字、済生会のいずれの直系でもありません。宗教団体・海外医療者・寄付を背景に生まれた宣教系病院という別の流れです。日本の病院史は、国や自治体だけでなく、こうした民間・宗教系の医療事業を含めて初めて全体像が見えます。

地方に広がった医学校――藩校、県立病院、旧制医科大学、帝国大学

近代医学教育は東京から地方へ一方向に配られたのではありません。各地には藩医学校、種痘所、県立病院、外国人教師を招いた医学校があり、それらが国立の医学専門学校や医科大学へ再編されました。一方、京都、九州、東北、北海道では帝国大学の設置に伴って医学部が形成されました。

成立経路で分けると分かりやすい

特徴 主な例
幕末の医学施設から続く型 種痘所、医学伝習所、蘭学塾などが改組 東京大学、長崎大学、大阪大学、順天堂大学
藩医学校・県立病院型 地域の医療と教育を担った施設が専門学校・大学へ 千葉、新潟、金沢、岡山、熊本、名古屋、東北の一部
帝国大学設置型 国家の研究大学として医科大学・医学部を新設 京都大学、九州大学、東北大学、北海道大学
私立医学校型 私塾、講習所、医術開業試験教育、慈善病院から発展 日本医科大学、東京慈恵会医科大学、東京女子医科大学

京都大学と京都府立医科大学は別系統

京都府立医科大学は、1872年に京都府が青蓮院内に仮療病院を開き、患者診療と医学教育を始めた流れを引きます。府立の病院・医学校として発展し、1921年に旧制の京都府立医科大学となりました。詳細は京都府立医科大学の沿革にあります。

一方、京都大学医学部は、1899年に京都帝国大学医科大学として開設されました。府立医科大学が京都大学へ統合されたわけではなく、現在も別の大学です。京都という同じ地域に、府立医学校系と帝国大学系の二つの主要な医学教育系譜が並立した例です。

千葉・新潟・金沢・岡山・長崎・熊本――「旧六医科大学」

千葉、新潟、金沢、岡山、長崎、熊本の六校は、戦前に国立の医科大学となった学校群として、後世に「旧六医科大学」「旧六医大」と呼ばれます。これは大学令上の一つの正式カテゴリー名というより、帝国大学とは別に成立した六つの官立医科大学をまとめる歴史的・慣用的な呼び方です。

  • 千葉大学医学部:1874年の共立病院、のちの県立千葉病院・医学教場を源流とし、第一高等中学校医学部、千葉医学専門学校、1923年の千葉医科大学を経て千葉大学へ。公式沿革
  • 新潟大学医学部:明治初期の共立病院・医学教育を地域の源流とし、1910年の新潟医学専門学校、1922年の新潟医科大学を経て新潟大学へ。公式沿革
  • 金沢大学医学部:1862年の加賀藩彦三種痘所、1867年の卯辰山養生所などを源流に、第四高等中学校医学部、金沢医学専門学校、1923年の金沢医科大学を経て金沢大学へ。金沢大学医学部の史跡案内
  • 岡山大学医学部:1870年の岡山藩医学館や県立病院・医学校の流れを受け、第三高等中学校医学部、岡山医学専門学校、1922年の岡山医科大学を経て岡山大学へ。公式沿革
  • 長崎大学医学部:1857年の医学伝習所と1861年の小島養生所を源流に、長崎医学専門学校、1923年の長崎医科大学を経て長崎大学へ。
  • 熊本大学医学部:1756年の藩医学校・再春館を遠い源流とし、明治の古城医学校、私立熊本医学校、県立・官立熊本医科大学を経て熊本大学へ。熊本大学医学部の沿革

六校すべてが同じ出発点を持つわけではありません。長崎は幕府の医学伝習、金沢・熊本・岡山は藩医学校や地域医療、千葉・新潟は県立病院と医学教育というように、地域ごとの基盤がありました。

名古屋・九州・東北・北海道の違い

  • 名古屋大学医学部:明治初年の仮病院・仮医学校、愛知医学校、愛知医科大学、官立名古屋医科大学を経て、1939年に名古屋帝国大学医学部へ組み込まれました。地方医学校系と帝国大学系が接続した例です。公式沿革
  • 九州大学医学部:1903年、京都帝国大学福岡医科大学として開設され、県立福岡病院を附属医院として引き継ぎました。1911年の九州帝国大学設置後に同大学の医科大学となります。九州大学医学部の沿革
  • 東北大学医学部仙台藩医学校、宮城県立医学所、仙台医学専門学校の地域的系譜を受け、1915年に東北帝国大学医科大学が開設されました。帝国大学の新設と地域医学校の継承が重なった例です。東北大学医学部の沿革
  • 北海道大学医学部:1919年、北海道帝国大学に医学部が設置され、1921年に附属医院が置かれました。札幌農学校は北海道大学全体の起源ですが、医学部が札幌農学校の医学科から直接発展したわけではありません。北海道大学医学部の沿革

こうして見ると、「旧帝大」「旧六医大」「県立医学校」「藩医学校」は、大学の現在の評価を示す序列ではなく、成立経路と旧制期の制度上の違いを表す歴史用語です。受験情報で使われる大学群の呼称と、法令上の学校制度は区別して考える必要があります。

戦争と戦後改革――軍病院・療養所から現在の病院網へ

軍医学校と軍病院

近代国家は、戦争や海外派兵に備えて軍医を養成し、陸軍病院・海軍病院を整備しました。軍では外傷治療、感染症対策、衛生、栄養、輸送医学などが発達し、軍医学校が専門教育を担いました。一方で、軍事医学は植民地支配や戦争動員と結びつき、強制的な人体実験を含む重大な人権侵害も引き起こしました。医療技術の発達だけを取り出して称賛することはできません。

日中戦争から太平洋戦争へ戦線が拡大すると、軍民双方で医師不足が深刻になり、医学専門学校の新設・増員や修業年限短縮が進められました。短期間で人材を増やす政策は、戦後の大学再編にも影響します。

結核療養所と傷痍軍人療養所

戦前の日本では結核が大きな死亡原因で、長期療養を目的とする療養所が各地に設けられました。また、戦争で負傷した軍人を収容・治療する傷痍軍人療養所も整備されます。これらは急性期の総合病院とは異なり、長期入院、隔離、リハビリテーションを重視する施設でした。

敗戦後、旧陸海軍病院や傷痍軍人療養所などは厚生省へ移管され、一般国民を対象とする国立病院・国立療養所へ再編されました。厚生労働省の厚生行政史資料は、軍病院が国立医療機関へ転換された経緯を説明しています。現在の国立病院機構の病院網には、この戦後再編を経た施設が多く含まれます。

新制大学と医学部

戦後の学制改革で、旧制大学、医科大学、医学専門学校などは新制大学の医学部へ再編されました。旧制医学専門学校の一部は新制大学へ昇格し、一部は統合・廃止されます。これにより、現在の「大学医学部6年制」という枠組みへ次第に統一されていきました。

大学病院も、教育・研究・高度診療を担う附属病院として制度化されます。ただし、地域医療の中心は大学病院だけではありません。自治体病院、赤十字、済生会、厚生連、労災病院、共済病院、逓信病院、鉄道病院、民間医療法人の病院が、それぞれ異なる歴史から全国網を作りました。

職域病院と公的病院

  • 労災病院:労働災害や職業病への対応を目的に戦後整備され、1949年に九州労災病院が開設されました。現在は労働者健康安全機構が運営します。
  • 共済病院:公務員などの共済組合員と家族の医療を起点とする施設群で、のちに一般患者へ広く開かれました。
  • 逓信病院:郵便・通信職員の職域医療として発展しました。東京逓信病院は1938年に開院しています。
  • 鉄道病院:鉄道職員の診療を目的に形成されました。JR東京総合病院の起点は1911年の常盤病院です。
  • 自治体病院:府県・市町村が地域医療、感染症、救急、へき地医療などを担うため整備しました。

職域病院の多くは、設立当初の対象を越えて一般診療へ役割を広げました。運営主体が変わっても、交通・通信・労働など特定産業の医療需要から生まれた歴史が残っています。

国民皆保険と1970年代の医科大学新設

1961年、日本ではすべての国民が公的医療保険の対象となる国民皆保険が実現しました。受診しやすさが大きく向上し、医療需要が増える一方、地域による医師数の偏りも課題となります。

1973年の「無医大県解消構想」、通称「一県一医大」構想のもと、1970年代を中心に医学部・医科大学がない県で新設が進みました。自治医科大学は1972年、全国の都道府県が共同で設立し、へき地・地域医療を担う医師の養成を目的としました。設立の趣旨この時期の拡充によって、医学教育の地理的な空白は大きく縮小します。

1950年の医療法改正で医療法人制度が創設され、民間病院にも継続的な運営主体が広がりました。現在の病院網は、大学病院を頂点とする一枚岩ではなく、国、自治体、公的団体、職域組織、宗教・慈善組織、医療法人が重なってできています。

主要な医学・病院の系譜一覧

下表の「関係」は、現在の組織と起点とのつながり方を示します。人物名が共通しても、組織が同一とは限りません。

現在の組織 主な起点 関係 注意点
東京大学医学部 お玉ヶ池種痘所(1858) 直接の組織系譜 西洋医学所、医学所、医学校兼病院、東京医学校などを経る
長崎大学医学部 長崎医学伝習所(1857) 直接の組織系譜 小島養生所は臨床教育を伴う西洋式病院
大阪大学医学部 適塾(1838)と大阪仮病院・大阪医学校(1869) 源流+直接系譜 適塾から直接改称したのではない
順天堂大学 和田塾(1838)・佐倉順天堂 直接の組織系譜 東京の順天堂医院へ継承
日本医科大学 済生学舎(1876) 教員・同窓生による再建を含む系譜 1903年の廃校後に新組織へつないだ
東京慈恵会医科大学 成医会講習所(1881) 直接の組織系譜 英国医学、病院、慈善、看護教育を重視
東京女子医科大学 東京女医学校(1900) 直接の組織系譜 済生学舎とは吉岡彌生を介した人物関係
北里大学 北里研究所(1914) 直接の組織系譜 国立伝染病研究所の後身ではない
慶應義塾大学医学部 慶應義塾大学部医学科(1917) 北里を介した人物関係 北里大学の前身・後身ではない
東京大学医科学研究所 伝染病研究所(1892) 直接の組織系譜 北里辞職後も国立研究所として存続
日本赤十字社 博愛社(1877) 直接の組織系譜 戦時・災害救護と国際人道運動が起点
済生会 恩賜財団済生会(1911) 直接の組織系譜 済生学舎とは別組織
聖路加国際病院 聖路加病院(1901) 直接の組織系譜 宣教医療と看護教育の流れ

今も訪ねられる医学史スポット

公開日や見学条件は変わります。訪問前に必ず公式サイトで最新情報を確認してください。

東京

  • 小石川養生所跡:小石川植物園内に養生所の井戸跡などが残ります。植物園は有料施設で、休園日があります。
  • お玉ヶ池種痘所跡:東京都千代田区岩本町周辺に記念碑があります。建物は残っていません。千代田区観光協会の案内
  • 順天堂大学 日本医学教育歴史館:医術開業試験資料などを所蔵します。一般公開や予約の要否は公式案内を確認してください。
  • 日本医科大学 済生学舎ギャラリー:済生学舎と日本医科大学の歴史資料を紹介します。公開状況を事前確認してください。
  • 東京大学医科学研究所 近代医科学記念館:伝染病研究所以来の歴史と医科学資料を紹介します。公式案内
  • 聖路加関係史跡:築地の旧居留地周辺に聖路加の歴史を伝える建物・記念物があります。トイスラー記念館の公開日は公式情報を確認してください。

佐倉・大阪・長崎・熊本

  • 佐倉順天堂記念館:千葉県佐倉市。佐倉順天堂の建物と医療器具・資料を見学できます。通常の開館時間・休館日は佐倉市公式サイトで確認してください。
  • 適塾:大阪市中央区。緒方洪庵の私塾建築が残る国史跡・重要文化財です。適塾公式サイトで開館情報を確認できます。
  • 旧長崎医学校・小島養生所資料館:長崎市。発掘遺構と出土資料から西洋式病院の構造を知ることができます。公開日時は長崎市公式情報を確認してください。
  • 北里柴三郎記念館・博物館:熊本県小国町や北里大学関連施設に北里の生涯と研究を伝える展示があります。施設ごとに開館条件が異なります。

薬研堀の和田塾跡、長崎医学伝習所関係地、各大学の史料館も、本文の系譜を現地で確かめる手がかりになります。ただし、碑だけがある場所、大学構内で自由見学できない場所、予約制の資料館を同じ「観光施設」と考えないよう注意が必要です。

よくある疑問

日本最初の病院はどこですか

定義によって変わります。貧困者を収容治療した公的救療施設なら1722年の小石川養生所が重要です。西洋医学にもとづき、入院診療と臨床教育を組み合わせた近代病院なら、長崎の小島養生所(1861)が「日本最初の西洋式近代病院」と位置づけられます。単に「最初の病院」と断定せず、何を病院と呼ぶかを示す必要があります。

日本最古の医学校はどこですか

これも定義次第です。藩の医学教育機関には18世紀からの例があり、熊本の再春館は1756年、仙台藩医学校は1817年にさかのぼります。西洋医学の私塾では順天堂が1838年、体系的な公的西洋医学教育では長崎医学伝習所が1857年を起点とします。「現在まで続く大学の起源」「西洋医学」「公的学校」など条件を決めなければ一校に絞れません。

順天堂はなぜ江戸時代創立なのですか

1838年に佐藤泰然が江戸・薬研堀で開いた和田塾を教育・診療組織の起点とし、佐倉順天堂、東京の順天堂医院へ継承した歴史を持つためです。

適塾は大阪大学の直接の前身ですか

大阪大学が重視する歴史的源流ですが、適塾がそのまま大阪大学へ改称されたわけではありません。適塾関係者が1869年の大阪仮病院・大阪医学校の設立に深く関わり、その後の府立医学校・大阪府立医科大学を経て大阪大学医学部へつながりました。「源流」と「直接の改組系譜」を分けるのが正確です。

済生学舎と済生会は同じ組織ですか

別組織です。済生学舎は1876年に長谷川泰が開いた私立医学校で、日本医科大学の歴史的起源です。済生会は1911年に明治天皇の済生勅語を契機として設立された医療・社会福祉組織です。

北里大学と慶應義塾大学医学部はどのような関係ですか

前身・後身ではありません。北里大学は北里柴三郎が1914年に創設した北里研究所から発展しました。慶應義塾大学医学部は1917年に慶應義塾が設け、北里が初代医学科長、のち初代病院長を務めました。北里という人物を介した関係です。

日本医科大学は日本最古の私立医科大学ですか

日本医科大学は1876年の済生学舎を起源として「日本最古の私立医科大学」を掲げます。一方、順天堂は1838年の医学塾を創立年とします。旧制大学として認可された時期、医学校としての起源、組織の継続性のどれを基準にするかで「最古」の意味が変わるため、条件を示して理解する必要があります。

大学病院はいつから存在しますか

幕末には医学伝習所と小島養生所のように教育と診療を組み合わせた施設が現れ、明治初期には医学校兼病院や各地の医学校附属病院が成立しました。「大学病院」という制度が整うのは、帝国大学・旧制医科大学の附属医院が発展した明治後期以降です。

日本はなぜドイツ医学を採用したのですか

明治政府が、研究大学、国家資格、軍医制度を含む近代国家の医学制度を整えるうえで、ドイツ語圏の大学医学と国家的教育制度を有力なモデルと考えたためです。ただし、英国医学や蘭学系の伝統も残り、日本の臨床現場が完全に単一化したわけではありません。

赤十字病院と済生会病院は何が違いますか

赤十字は1877年の博愛社を起点に、戦時・災害救護と国際人道活動を核として発展しました。済生会は1911年、生活困窮者への医療・福祉を使命として発足しました。現在はどちらも地域医療を担いますが、創設目的、国際的な位置づけ、組織の成り立ちが異なります。

まとめ――病院名から歴史を逆引きすると全体像が見える

日本の医学史は、東京の一校から全国へ広がった一本線ではありません。長崎の医学伝習所、佐倉順天堂、大阪の適塾と大阪医学校、江戸のお玉ヶ池種痘所、各藩の医学校、明治の私立医学校が、地域ごとに医師を育てました。

同時に、病院、研究所、看護教育、赤十字や済生会の救済事業は、医学部とは異なる目的から発展しました。北里柴三郎のように一人の人物が複数組織へ影響を与えた場合も、組織同士が前身・後身とは限りません。

現在の大学や病院を理解する近道は、その名前から過去へ逆引きし、「何を目的に生まれた組織か」「直系なのか、人物関係なのか、思想的影響なのか」を確かめることです。そうすれば、医学部、大学病院、研究所、公的病院、看護教育が別々の道を通りながら、現在の医療体制を形づくったことが見えてきます。

参考文献・公式資料

  1. 東京大学大学院医学系研究科・医学部「沿革」
  2. 長崎大学医学部「小島養生所と長崎医学の系譜」
  3. 長崎市「旧長崎医学校・小島養生所資料館」
  4. 順天堂大学「順天堂の起源」
  5. 大阪大学適塾記念センター「適塾と大阪大学の関係」
  6. 大阪大学「大阪大学の歴史」
  7. 東京大学『東京大学百年史』関係資料「ドイツ医学導入の経緯」
  8. 国立公文書館アジア歴史資料センター「医術開業試験規則」関係資料
  9. 日本医科大学「建学の精神と沿革」
  10. 東京慈恵会医科大学「歴史」
  11. 東京女子医科大学「沿革」
  12. 日本赤十字社「赤十字の看護教育の歴史」
  13. 聖路加国際病院「沿革」
  14. 東京大学医科学研究所「概要・沿革」
  15. 北里大学医学部「沿革」
  16. 慶應義塾大学「北里柴三郎と慶應医学」
  17. 済生会「沿革」
  18. 日本赤十字社「歴史」
  19. 京都府立医科大学「沿革」
  20. 千葉大学医学部「沿革」
  21. 金沢大学医学部「医学部ゆかりの史跡」
  22. 熊本大学医学部「沿革」
  23. 九州大学医学部「沿革」
  24. 東北大学医学部「沿革」
  25. 北海道大学医学部「沿革」
  26. 厚生労働省『厚生労働白書』厚生行政の歴史資料
  27. 新潟大学医学部「医学科の歴史」
  28. 岡山大学医学部「沿革」
  29. 名古屋大学医学部「学部・研究科の歴史」
  30. 文部科学省「国立大学附属病院施設の再開発整備」
  31. 自治医科大学「設立の趣旨」
  32. 厚生労働省「医療法人制度に係る状況等について」