パラグアイ大豆農業を支えた日本人移民|南米の大豆大国に残る日系社会の足跡

パラグアイの大豆農業を支えた日本人移民と日系社会の歴史を表すアイキャッチ画像

南米の内陸国パラグアイは、大豆の生産量で世界第6位、輸出量で世界第3位に位置する大豆大国です。2024/25年産の生産量は約1,000万トンに達しました。その産業化の初期に、日本人移民と日系農業協同組合が大豆栽培、輸出、機械化、土壌保全技術の普及で重要な役割を果たしました。

起点は1936年のラ・コルメナ移住地です。戦後にチャベス、フラム、フジ、ラ・パス、ピラポ、イグアスなどの移住地が形成され、日系農家は低価格の作物に代わる換金作物を探しました。自給用に育てた大豆の豊作に農協が注目し、1959年に輸出計画を協議、1960年には360トンをブエノスアイレス経由で日本へ送りました。

現在の巨大な大豆産業は、日系社会だけで成立したものではなく、パラグアイ人農業者、他国出身の農業者、政府、企業、国際市場、河川物流が組み合わさった産業です。日本人移民の功績は「全国生産の大半を担ったこと」より、初期の商業化と輸出、農協による共同事業、農業研究、不耕起栽培の実用化と普及にあります。

パラグアイはどれほどの大豆大国なのか

JICAの2026年事業概要は、パラグアイの大豆生産量を世界第6位、輸出量を第3位としています。パラグアイ穀物・油糧種子輸出業者協会(CAPECO)は、2024/25年産の生産量を1,000万トンと確認しました。

大豆はそのまま輸出されるほか、搾油さくゆによって大豆油と大豆かすになります。大豆かすは家畜飼料の主要原料であり、国際的な食肉・乳製品需要とも結びつきます。パラグアイの大豆は、国内農業だけで完結する作物ではなく、アルゼンチンの搾油さくゆ産業や世界の飼料市場につながる国際商品です。

内陸国のパラグアイでは、パラグアイ川とパラナ川の舟運が輸出の生命線です。米国農務省の2025年報告は、河川水位の低下や堆積土による輸送遅延、積載量の制限を主要な課題に挙げています。大豆大国という地位は、畑の生産力だけでなく、河川、港、はしけ、周辺国の加工施設によって支えられています。

パラグアイの大豆畑と穀物貯蔵サイロ
パラグアイの大豆畑と貯蔵サイロ。撮影:Yenia Rivarola/Wikimedia Commons/Public Domain。

日本人移民と大豆農業の年表

出来事大豆農業との関係
1934年ブラジルが新規移住を制限日本側が新たな移住先としてパラグアイを調査
1936年ラ・コルメナ移住地への入植開始パラグアイ日系農業史の起点
1952~57年チャベス、フラム、フジ、ラ・パス、サンタ・ロサへ移住地が拡大南部イタプア県に農業移住地と農協が形成
1959年4移住地の農協が大豆輸出を協議自給作物から輸出作物への転換
1960年大豆360トンを日本へ初輸出パラグアイ産大豆が国際市場へ進出
1960年代ピラポ、イグアスなどの移住地が発展研究、機械化、大規模畑作の基盤が拡大
1973年国際大豆価格が高騰大豆・小麦の作付体系が農家経営を安定化
1983~84年イグアス移住地で不耕起栽培を実践表土流出を抑える栽培技術の本格導入
1987年全パラグァイ日系人不耕起栽培研究組織協議会が発足移住地を越えた技術共有が進展
1990年代不耕起栽培がパラグアイ各地へ普及日系農家の技術が全国的な畑作技術へ発展

1936年、ラ・コルメナから始まった日本人移住

ブラジルの移民制限がパラグアイ移住の契機となった

南米への日本人集団移住は、1908年の笠戸丸によるブラジル移住がよく知られています。ブラジル移民の出発点と日系社会の形成は、ブラジル移民の父・上塚周平の記事で詳しく紹介しています。

1934年、ブラジル政府が新規移住を制限すると、日本側は新たな移住先を探しました。ブラジル拓殖組合の宮坂国人がパラグアイを調査し、日本政府の調査団を経て、首都アスンシオンから南東約130キロの土地が選ばれます。ブラジル拓殖組合は約1万1,000ヘクタールを購入し、パラグアイ政府から日本人100家族の試験的受け入れ許可を得ました。

到着の日付には二つの段階がある

在パラグアイ日本国大使館の移住史は、パラグアイへの日本人移住の開始を1936年5月15日としています。同月25日にはブラジルで入植経験を持つ4家族33人が指導役として到着し、8月12日には日本から最初の移民11家族81人が到着しました。第二次世界大戦で渡航が途絶える1941年までに、計123家族790人が入植しました。

入植者は森林を切り開き、綿花、柑橘類、米、サトウキビなどを栽培しました。ところが、道路、医療、販路、住宅、井戸などの基盤は乏しく、農産物を収穫しても市場へ運ぶ手段が限られていました。干ばつ、降雹、洪水、病気、言葉の壁も生活を圧迫し、退耕してブラジルやアルゼンチンへ移る家族も出ました。

戦時中は日本語学校の閉鎖や資産の没収、移住地外への移動制限がありました。戦後の1946年と1947年には大規模なバッタ被害が発生し、作物と立木が食い尽くされました。ラ・コルメナの歴史は、成功へ一直線に進んだ開拓史ではなく、離脱者を生みながら共同体を維持した歴史です。

戦後移住地の拡大が大豆産業の土台を作った

日本人移住は1952年に再開されました。同年にチャベス移住地、1955年にフラム、1956年にフジ、1957年にラ・パスとサンタ・ロサへ入植が広がります。これらはパラグアイ南部のイタプア県に位置し、後の大豆・小麦地帯を形成する拠点となりました。

1959年には日本・パラグアイ移住協定が結ばれ、30年間で8万5,000人を受け入れる枠組みが定められました。この数字は実際の移住者数ではなく、両政府が設定した受入枠です。1960年にはピラポへ26家族が入植し、アルト・パラナ県では約8万7,000ヘクタールを取得してイグアス移住地の造成が始まりました。

戦後移住地では、農業協同組合が種子や肥料の調達、農機の利用、資金の融通、集荷、販売、輸出交渉を担いました。個々の農家では難しい事業を共同化したことが、大豆を自家用作物から輸出産品へ変える基盤となります。

日本人移民はなぜ大豆を育てたのか

当初の作物では農家経営が安定しなかった

チャベスやフラムの移住者は、近隣のドイツ系移住者の農業を参考に、トウモロコシ、油桐、マテなどを栽培しました。しかし、当時の農産物価格は低く、永年作物は収穫まで時間がかかります。霜害、病害、販路不足も重なり、移住者は短期間で現金収入を得られる作物を必要としていました。

ラ・コルメナでは綿花や果樹、ピラポではマテ、油桐、ポメロ、イグアスではトマト、メロン、牧畜など、移住地ごとに異なる営農が試されました。パラグアイの日系農業は、最初から大豆一作に絞った農業ではなく、地域条件と市場価格に応じて作物を替える試行錯誤から始まっています。

自給用の大豆を農協が商品作物へ変えた

在パラグアイ日本国大使館の移住史によると、日本から持参した大豆の種子を自給用に栽培した移住者がいました。その大豆がよく実ったことに農協が注目し、主要作物として生産し、国外へ販売する方法を検討します。

大豆は日本人の食生活になじみがあり、家庭で利用できました。同時に、油と飼料原料を得られる国際商品でもあります。移住者の生活作物、土地への適応、農協の販売機能が結びついたことで、商業栽培への道が開きました。

1959年の農協協議と1960年の日本向け輸出

1959年2月、イタプア県農協会を構成するチャベス、フジ、ラ・パス、サンタ・ロサの4移住地の農協が、大豆の輸出について協議しました。農家が作った大豆を集め、品質と数量をそろえ、輸送と販売先を確保するには、農協間の連携が必要でした。

翌1960年、パラグアイ産大豆360トンがブエノスアイレス経由で日本へ輸出されました。内陸国の産地から陸路または河川でアルゼンチンへ運び、海上輸送へつなぐ長い物流です。JICA緒方貞子平和開発研究所のプロジェクト・ヒストリーは、この360トンを日本への初輸出として位置づけています。

360トンは、現在の年間生産量約1,000万トンと比べればごく小さな量です。それでも、生産、集荷、輸送、輸出契約を日系農協が一つにつないだ点に歴史的意義があります。移住地の大豆が家庭内消費を超え、国際市場で売買される商品となった出来事でした。

1973年の価格高騰と大豆・小麦の作付体系

初輸出後も大豆農家の経営は安定せず、価格、収量、輸送費に左右されました。転機となったのが1973年のシカゴ市場における大豆価格の高騰です。国際価格の上昇によって大豆の収益性が高まり、パラグアイ国内で商業生産への関心が広がりました。

日系移住地では、夏に大豆、冬に小麦を栽培する作付体系が定着します。年間を通じて農地と機械を利用でき、収入源を二つに分けられるため、農家経営の安定につながりました。JICAの移住史紹介は、海外移住事業団による融資や機材貸与が機械化を後押ししたと伝えています。

トラクター、播種機、収穫機、乾燥・貯蔵設備の導入は作付面積を広げました。道路と電化、農協のサイロ、輸送網も大豆の大量生産を支える基盤です。大豆農業の発展は、品種や栽培方法だけでなく、金融、機械、研究、物流を含む地域システムの形成でした。

パラグアイのサンタ・リタに広がる大豆畑
パラグアイ・サンタ・リタの大豆畑。撮影:Patty P/Wikimedia Commons/Public Domain。

日系社会は大豆農業をどう支えたのか

1.農協が小規模な農家を輸出市場へつないだ

日系農協は生産資材の共同購入、農機の利用、集荷、選別、保管、販売、融資を担いました。農家単独では確保しにくい数量と品質をまとめ、複数の移住地が協議して輸出へ進んだことが、1960年の初輸出につながりました。

2.試験場と農家が土地に合う品種・栽培法を探した

日本政府とJICAは、地域農業研究センター(CRIA)、農業機械化センター(CEMA)、林業開発訓練センター(CEDEFO)などの整備、専門家派遣、機材供与、品種導入を支援しました。1962年に設立されたCETAPAR(パラグアイ農業総合試験場)は、大豆、小麦、野菜、牧草、土壌などの試験研究と農家研修を担いました。

研究機関が一方的に技術を配る形ではなく、農家の圃場で生じた問題を試験場へ持ち込み、試験結果を農協や研究会を通じて共有する循環が形成されました。日系移住地は、生産現場、農協、試験場が近接する実証の場となりました。

3.機械化とインフラ整備が大量生産を可能にした

農地の拡大にはブルドーザー、トラクター、コンバインが必要でした。生産物を売るには道路、電力、サイロ、乾燥設備、輸送手段が必要です。日本側の融資・協力とパラグアイ側の政策、農協の投資が組み合わさり、家族経営の農場が機械化畑作へ移行しました。

4.不耕起栽培を実用化し、移住地の外へ広めた

大規模機械化は生産量を増やす一方、耕起した赤土が集中豪雨で流される問題を深刻化させました。日系農家は土を耕さず、前作の残渣を地表に残したまま専用播種機で種をまく不耕起栽培に取り組みます。この技術はイグアス移住地で実用化され、研究会とCETAPARを通じて他の移住地、さらにパラグアイ人農家へ広がりました。

不耕起栽培がもたらした農業技術革命

表土流出への危機感から始まった

パラグアイ南部には「ティエラ・ロハ」と呼ばれる赤い土壌が広がります。肥沃な一方、耕起後の裸地は強い雨で表土が流れやすく、種子、幼苗、肥料まで流失しました。1982年の集中豪雨は大きな被害を生み、従来の等高線テラスだけでは土壌流亡を抑えきれないことが明らかになります。

JICA研究所の論文「パラグァイ日系農業者の発展と大豆栽培」によると、1983年にイグアス移住地の窪前勇が小麦で不耕起栽培に着手し、深見明伸が大豆で本格的な不耕起栽培を行いました。ブラジルの先進地視察、CETAPARの試験・研修、専用播種機への融資が後続農家を支えました。

農家の研究組織が普及を加速させた

1987年には、イグアス、ピラポ、ラ・パス、チャベスなどから90人が参加し、全パラグァイ日系人不耕起栽培研究組織協議会が発足しました。農協の境界を越えて、播種時期、除草、病害虫、機械調整、収量を共有する組織です。

同論文では、日系人圃場における不耕起栽培の導入率が1988年の約10%から1992年の約25%、1994年の75%以上へ上昇したと報告されています。1996年にはパラグアイ全体でも約40%へ普及したと推定されました。日系農家の圃場で検証された技術が、10年余りで全国へ広がったことになります。

利点と新たな課題

不耕起栽培では耕耘こううんと整地を省き、作物残渣ざんさで地面を覆います。表土流出と水分蒸発を抑え、雨の合間に適期播種はしゅしやすくなります。JICA論文は、調査対象で農業機械の減価償却費げんかしょうきゃくひを含む生産費が26%低下し、慣行栽培と同等以上の収量を得たことが普及を促したと説明しています。

小麦の刈り株を残した畑から発芽する不耕起栽培の大豆
小麦収穫後の残渣から発芽する不耕起栽培の大豆。米国バージニア州で撮影した技術説明用の参考写真。撮影:Lynda Richardson/USDA NRCS/Wikimedia Commons/Public Domain。

一方、専用播種機への投資、除草剤への依存、難防除雑草、病害虫、表層土壌の硬化、単純な大豆・小麦二毛作による地力低下が課題となりました。日系農家と研究機関は、エン麦などの緑肥、輪作、減農薬、畜産との複合化へ研究対象を広げました。不耕起栽培は完成済みの万能技術ではなく、土壌を守りながら改良を続ける農法です。

「日本人がパラグアイの大豆を作った」という表現は正確か

日本人移民と日系社会は、大豆栽培の商業化、初期輸出、農協組織、研究、機械化、不耕起栽培の普及で先駆的な役割を果たしました。その功績は、パラグアイ政府とJICAの公式資料でも評価されています。

ただし、現在の年間生産量約1,000万トンは、日系農家を含む多様な生産者が担っています。在パラグアイ日本国大使館が示した歴史的な統計では、日系農業者の大豆生産は2006年時点で全国の2.3%、小麦は2007年時点で7%でした。この数字は、日系社会の重要性が生産量の占有率より、技術と仕組みの先駆性にあったことを示します。

大豆産業の拡大には、パラグアイ人農業者、ドイツ系・ブラジル系など多様な農業者、農牧省、研究機関、農協、国内外の商社、搾油企業、金融機関、輸送業者が関わりました。国際価格の上昇、アルゼンチンとブラジルの市場、道路と河川物流も不可欠です。日系移民史を正確に伝えるには、功績を具体的に示しながら、産業全体を一つの民族の成果へ縮小しない視点が必要です。

現在の大豆産業を支える生産・加工・河川物流

パラグアイでは主作の「サフラ」と、後作の「サフリーニャ」を組み合わせて大豆を生産します。米国農務省は2025/26年度の生産量を1,090万トン、輸出量を720万トンと予測しました。予測値は天候や国際価格で変動するため、実績と区別して読む必要があります。

大豆の一部は国内で搾油され、大豆油と大豆かすになります。アルゼンチンはパラグアイ産大豆の主要な買い手で、ロサリオ周辺の大規模搾油施設と地域的な供給網を形成しています。ブラジルも安定した輸出先です。日本向け360トンから始まった輸出史は、現在では南米域内と世界市場を結ぶ巨大なバリューチェーンへ変化しました。

生産量が多くても、川の水位が下がれば、はしけの積載量を減らす必要があります。輸送時間と費用が増え、国際価格が高くても農家の手取りが伸びない場合があります。大豆農業は、雨量、気温、肥料・燃料価格、融資、アルゼンチンの需要、河川水位に影響される産業です。

パラナ川水系で穀物を輸送するバージのハッチを閉じる作業
パラナ川水系の穀物バージ。アルゼンチン・エントレ・リオス州ラパス港付近、2004年。撮影:Claudio Elias/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

大豆農業の光と影

輸出と地域経済を支える基幹産業

大豆は外貨を獲得し、農機、倉庫、運輸、港湾、搾油、飼料などの関連産業を生みました。日系移住地では大豆と小麦が農家経営を安定させ、学校、診療所、道路、文化団体など地域社会の維持にもつながりました。

土地集中と小規模農家の格差

JICAの2026年国別分析によると、20ヘクタール未満の小規模農家は農家全体の約82%を占めながら、農地の約4%を分け合っています。500ヘクタール以上の大規模農家は、農地全体の約83%を占めます。これはパラグアイ農業全体の構造的課題であり、原因を日系移民だけに帰す説明は正確さを欠きます。

単一作物、気候、農薬、土地利用

大豆への依存が高まると、国際価格の下落や干ばつが国家経済と農家経営へ直結します。ラ・ニーニャに伴う干ばつや洪水、道路・貯蔵施設の不足も収穫と流通を不安定にします。

不耕起栽培は土壌流亡を減らす一方、除草剤を利用する体系と結びつきやすく、雑草の抵抗性、土壌硬化、病害虫、作物残渣の管理が課題となります。森林と農地の境界、農薬の周辺地域への影響、先住民・小規模農家の土地権利も、大豆産業を評価する際に欠かせない論点です。

経済成長か環境保全かという二択は、現場の課題を単純化します。土壌を守る技術、輪作、緑肥、適正な農薬管理、土地権利、加工産業の育成、気候への適応を同時に進める必要があります。アマゾンで多品目を組み合わせた日系農業の事例は、トメアス移民とアグロフォレストリーの記事で解説しています。

現在の日系社会と移住の記憶

在パラグアイ日本国大使館は、パラグアイに暮らす日本人移住者と日系人を推定約1万人としています。農業に加え、商工業、金融、医療、教育、行政など活動分野は広がりました。移住地の農協や日本人会は、日本語教育、文化行事、診療、地域活動を支えています。

パラグアイへの日本人移住80周年を記念して行進する日系三世の若者たち
パラグアイへの日本人移住80周年を記念して行進する日系三世の若者たち、2016年。撮影:100% Globo/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

2026年はパラグアイ日本人移住90周年に当たります。同年3月にはパラグアイ日系・日本人会連合会本部に日本人移住史料館が開館し、写真、文書、農機具、工具、生活用品など310点が展示されました。大豆農業の歴史は、統計だけでなく、移住者が使った道具、農協の記録、家族の記憶として保存されています。

よくある質問

日本人移民がパラグアイへ初めて大豆を持ち込んだのですか?

公式資料は、日本人移民が日本から持参した種子を自給用に栽培し、その豊作を農協が商業化へつなげた経緯を重視しています。パラグアイ国内における大豆の存在そのものを日本人だけの「最初」と断定するより、日系移民が輸出作物として確立する初期段階で中心的役割を果たした、と表現するのが正確です。

1960年の大豆360トンはどこを通って日本へ届いたのですか?

パラグアイからブエノスアイレスへ運ばれ、海上輸送で日本へ送られました。内陸国から国外へ出すため、周辺国の港を利用する物流が必要でした。

なぜ日系農協が重要だったのですか?

農協が種子・肥料・機械・融資をまとめ、農家の大豆を集荷し、品質と数量を整え、販売と輸出を交渉したためです。1960年の輸出は、複数移住地の農協が連携した共同事業でした。

不耕起栽培とはどのような農法ですか?

畑を全面的に耕さず、前作の茎葉を地表に残し、専用播種機で次の作物を植える方法です。土壌流亡と水分蒸発を抑え、播種作業を早める効果があります。専用機械、雑草管理、輪作、病害虫対策が必要です。

現在も日系農家がパラグアイ大豆の大半を生産していますか?

現在の大豆産業はパラグアイ全体へ広がり、多様な農業者と企業が担っています。日系社会の歴史的な重要性は、生産量の多数占有ではなく、初期輸出、農協運営、機械化、研究、不耕起栽培の普及にあります。

日本人移民の歴史は成功物語として読めばよいですか?

開拓、輸出、技術革新の成果とともに、退耕、戦時中の制限、自然災害、土地利用、農薬、農地集中も含めて読む必要があります。移住者の努力と、農業開発が生んだ社会・環境上の課題を同じ歴史の中で扱うことで、実像に近づきます。

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参考文献・参考サイト

  1. 在パラグアイ日本国大使館「二国間関係―移住史」
  2. JICA緒方貞子平和開発研究所『パラグアイの発展を支える日本人移住者―大豆輸出世界4位への功績と産業多角化への新たな取組み』
  3. 永井和夫「パラグァイ日系農業者の発展と大豆栽培」『国際協力研究』第16巻第1号、2000年
  4. JICA「発展の礎を築いた開拓者たち パラグアイ」
  5. JICA「JICAパラグアイ事業概要」2026年4月
  6. JICA「パラグアイ共和国 JICA国別分析ペーパー」2026年
  7. CAPECO “Producción de soja zafra 2024/2025 alcanzó 10 millones de toneladas”
  8. USDA Foreign Agricultural Service, “Oilseeds and Products Annual: Paraguay,” 2025
  9. 外務省「パラグアイ基礎データ」
  10. World Bank, “Transforming Rural Areas of Paraguay”