パラグアイ大豆農業を支えた日本人移民|南米の大豆大国に残る日系社会の足跡

南米の内陸国パラグアイは、現在、世界有数の大豆生産・輸出国として知られています。外務省の基礎データでも、大豆は牛肉や電力などと並ぶ主要輸出品目に挙げられ、2024年FAOデータでは大豆の輸出量が世界3位とされています。

しかし、その大豆農業の発展に、日本人移民と日系社会が深く関わったことは、日本ではあまり知られていません。JICA緒方貞子平和開発研究所のプロジェクト・ヒストリーでは、パラグアイの大豆の種は約80年前に入植した日本人移住者の手でまかれ、日系人社会の努力と研鑽によって農業として確立していった、と紹介されています。

ただし、この歴史は「日本人がパラグアイを発展させた」という単純な物語ではありません。パラグアイの土地、現地社会、国家政策、国際市場、物流、環境、そしてパラグアイ人農業者の働きが重なり、その中で日本人移民と日系社会が重要な役割を果たしました。

この記事では、1936年のラ・コルメナ移住地から、1960年の日本向け大豆輸出、JICA協力、大豆農業の光と影まで、パラグアイ大豆農業と日本人移民の歴史を初心者向けにたどります。

30秒でわかる結論

  • パラグアイは、農牧畜業と電力を柱とする南米の内陸国です。
  • 日本人移住は1936年、ラ・コルメナ移住地から始まりました。
  • 初期移民は道路不足、販売先の少なさ、病気、言葉、戦争、バッタ被害などに苦しみました。
  • JICA緒方研究所は、パラグアイの大豆の種が日本人移住者の手でまかれ、日系社会の努力によって農業として確立したと紹介しています。
  • 1960年には、ブエノスアイレス経由で日本へ大豆360トンが初輸出されました。
  • 日系社会の貢献は大きい一方、パラグアイ大豆農業の発展は、現地社会、政策、国際需要、物流、環境問題と切り離せません。

パラグアイはなぜ「大豆大国」になったのか

パラグアイは、南米大陸の中央部にある内陸国です。海に面していないため、農産物を輸出するときは、川や周辺国の港を使う必要があります。首都はアスンシオン。公用語はスペイン語とグアラニー語です。

外務省の基礎データによると、パラグアイの主要産業は農業、製造業、自動車部品など、電力です。主要輸出品目には、大豆、大豆粉、大豆油を含む大豆関連品、牛肉、電力、コメ、絶縁電線・ケーブルなどが並びます。経済概要では、農牧畜業と電力が輸出総額の7割以上を占めると説明されています。

つまりパラグアイは、もともと農業と土地利用が国家経済の中心にある国です。そこへ20世紀後半、世界的な食料・飼料需要の拡大、南米の農業開発、輸送インフラの整備、周辺国との市場関係が重なり、大豆が大きな輸出産品になっていきました。

大豆は、豆腐や味噌、醤油だけの作物ではありません。世界市場では、家畜の飼料となる大豆かす、食用油、バイオ燃料、加工食品の原料として重要です。人間が直接食べる以上に、畜産や加工産業を支える作物でもあります。パラグアイの大豆が国際市場で重要になった背景には、この世界的な需要があります。

その一方で、パラグアイが内陸国であることは今も大きな制約です。近年も低い河川水位によって、パラグアイ川・パラナ川を通じた穀物輸送が遅れることがあります。大豆大国であることと、物流に弱点を抱えることは、同じ歴史の表と裏なのです。

1936年、ラ・コルメナから始まった日本人移住

パラグアイへの日本人移住は、1936年に始まりました。その最初の拠点が、パラグアイで最初の日系移住地であるラ・コルメナ移住地です。

パラグアイ日本人会連合会によると、ラ・コルメナ移住地はパラグアリ県に属し、アスンシオンから東南約130キロメートルに位置します。1936年4月30日の大統領令第1026号に基づいて、日本人の移住が始まりました。1934年にブラジルで移民制限が強まったことも、パラグアイ移住の背景にありました。

当時の日本では、農村の人口圧力、貧困、海外移住を通じた生活再建への期待がありました。一方、受け入れ側のパラグアイにも、土地開発や農業振興を進めたい事情がありました。移民は「日本から出ていった人々」だけの話ではなく、日本側の政策、受け入れ国側の開発政策、国際関係の中で動いた人々の歴史です。

在パラグアイ日本国大使館の移住史によると、ラ・コルメナには、まずブラジルで入植経験を持つ日本人が指導移民として入り、1936年8月12日には日本から最初のパラグアイ移民11家族81名が到着しました。第二次世界大戦で移住が途絶える1941年までに、計123家族790人が入植したとされています。

時期 出来事 意味
1934年 ブラジルで日本移民の受け入れ制限が強まる 南米移民の行き先としてパラグアイが注目される背景になる
1936年4月 パラグアイ政府が日本人移民100家族の試験的受け入れを許可 ラ・コルメナ移住地の出発点
1936年8月 日本から最初のパラグアイ移民が到着 日本人移住の本格的な始まり
1941年 第二次世界大戦の影響で移住が途絶える 移住地は国際政治の影響を強く受ける
1952年以降 戦後移住が再開し、各地に移住地が広がる 日系社会の農業基盤が広がる
1960年 大豆360トンをブエノスアイレス経由で日本へ初輸出 日系社会の大豆栽培が輸出産業へ向かう象徴

移民たちを待っていた現実──遠い内陸国での開拓生活

移民史は、ときに「新天地で成功した人々」の美談として語られます。しかし、ラ・コルメナの初期移民を待っていた現実は、決して甘いものではありませんでした。

在パラグアイ日本国大使館は、入植者が熱帯林を切り開き、綿花、柑橘類、米、サトウキビなどを栽培するため耕地を準備したものの、インフラの未整備、とくに道路不足が農作物の商品化の大きな障害だったと説明しています。

パラグアイ日本人会連合会のラ・コルメナ移住地の記録にも、移住当初の人々が家作り、山焼き、井戸掘りなどの重労働を強いられ、作物の収穫は伸びず、苦難が続いたことが記されています。さらに第二次世界大戦が始まると、日本語学校の閉鎖や外出制限など、移住地は国際政治の圧力も受けました。戦後には、空が暗くなるほどのバッタの大群による被害も記録されています。

ここで注意したいのは、「原生林を切り開いた」という表現を、単純な開拓美談として使わないことです。農地開発は、移民にとっては生きるための労働でしたが、同時に土地利用や森林、先住民社会、環境の問題とも関係します。移民たちは困難を乗り越えた一方で、その歴史は南米の土地開発の複雑さの中にあります。

日本人移民はなぜ大豆を育てたのか

日本人移民が大豆に関わった理由は、一つではありません。

第一に、大豆は日本人の食文化になじみのある作物でした。豆腐、味噌、醤油、納豆など、日本の食生活に大豆は深く結びついています。遠い土地で暮らす移民にとって、食べ慣れた作物を育てることには生活上の意味がありました。

第二に、大豆は商品作物としての可能性を持っていました。米や野菜のように地域で消費される作物だけでなく、乾燥させて運びやすく、油や飼料にも加工できる大豆は、輸出を視野に入れられる作物でした。内陸国パラグアイで商品化するには物流の壁がありましたが、成功すれば国際市場につながる可能性がありました。

第三に、日系社会には、移住地、家族、農業協同組織、技術研究、共同出荷、相互扶助の仕組みがありました。大豆栽培は、誰か一人の発明で一気に広がったのではありません。種子を選び、土地に合う栽培方法を試し、失敗を共有し、販路を探し、輸送を整える。そうした地味な積み重ねが必要でした。

JICA緒方研究所のプロジェクト・ヒストリーは、パラグアイの大豆の種が日本人移住者の手によってまかれ、日系人社会の努力と研鑽によって農業として確立していったと説明しています。この表現で大切なのは、「日本人がパラグアイに大豆を教えた」と単純化しないことです。より正確には、日本人移民と日系社会が、パラグアイの土地と社会の中で、大豆の商業的栽培と輸出への道筋をつくる重要な役割を果たした、ということです。

1960年、日本への大豆輸出が開いた道

この歴史の象徴的な出来事が、1960年の日本向け大豆輸出です。

JICA緒方研究所は、1936年の入植後、1960年に大豆360トンをブエノスアイレス経由で初めて日本に輸出したと紹介しています。数字としては、現代の大豆貿易から見ると決して大きくありません。しかし、意味は大きい出来事でした。

なぜなら、パラグアイは内陸国だからです。大豆を日本へ送るには、農地で収穫するだけでは足りません。集荷し、品質をそろえ、川や陸路で運び、アルゼンチン側の港湾につなぎ、海を越えて日本へ送らなければなりません。ブエノスアイレス経由という言葉には、内陸国の輸出が抱える物流の難しさが表れています。

360トンの輸出は、日系移民の努力が「自家用の作物」や「移住地内の作物」を越え、国際的な商品として形になった節目でした。そこから先も苦労は続きましたが、輸出の道が開いたことで、大豆は日系社会の農業経営を支える作物になり、やがてパラグアイ農業全体の重要作物へと広がっていきます。

日系社会が築いた農業技術と協同の力

パラグアイの大豆農業を支えたのは、個人の努力だけではありません。移住地の共同体、農協、家族農業、研究、出荷体制、相互扶助が組み合わさっていました。

たとえば、パラグアイ日本人会連合会や在パラグアイ日本国大使館の資料は、日系移住者が農業分野で大きな影響を与えたことを伝えています。大豆だけでなく、トマト、野菜、小麦、卵などの生産も、パラグアイの農業や食生活に影響を与えました。

農業技術の面では、不耕起栽培が重要です。不耕起栽培とは、畑を大きく耕さず、作物の残さを土の表面に残しながら作付けする方法です。土壌の流出を抑え、水分を保ちやすくする利点があります。もちろん、万能の技術ではなく、機械化、除草、輪作、農薬使用との関係もありますが、南米の大豆農業を考えるうえで重要な技術です。

佐々木智章氏の研究は、1980年代前半に大豆の不耕起栽培が日本人移住地で初めて導入され、その後パラグアイ全土に急速に普及したと紹介しています。とくにイグアス移住地は、不耕起栽培の導入と大豆栽培の定着で重要な場所として扱われています。

ここでも、歴史を一人の英雄に集約しないことが大切です。大豆農業を支えたのは、畑で働いた家族、移住地の農協、品種や技術を試した研究者、共同出荷を担った組織、日系社会と現地社会をつないだ人々でした。パラグアイの大豆農業は、集団の知恵と協同の上に形づくられた産業でした。

パラグアイ農業とJICA協力──移民史から開発協力へ

パラグアイの日系社会は、移民の歴史であると同時に、日本とパラグアイの国際協力の基盤でもあります。

在パラグアイ日本国大使館の基礎データでは、日本とパラグアイの友好協力関係について、経済技術協力と日本人移住者・日系人の存在を基盤としていると説明されています。日系社会は、単に「昔、移住した人々の子孫」ではありません。日本語、日本文化、農業技術、商工業、教育、医療、交流事業などを通じて、現在も両国をつなぐ存在です。

JICA緒方研究所のプロジェクト・ヒストリー『パラグアイの発展を支える日本人移住者―大豆輸出世界4位への功績と産業多角化への新たな取組み』は、その関係を歴史として整理した資料です。書名には「大豆輸出世界4位」とありますが、これは出版時点や当時の文脈での表現として読む必要があります。現在の順位は年によって変わり、外務省の最新基礎データでは2024年FAOデータとして大豆輸出量世界3位と記されています。

同書では、大豆だけでなく、大豆から派生した農畜産物加工、ゴマ、自動車部品産業など、日系社会が関わる産業の広がりも扱われています。これは、大豆農業の歴史が移民史にとどまらず、農業開発、産業多角化、民間連携へとつながっていることを示しています。

大豆農業の光と影──発展、輸出、環境、土地利用

パラグアイにとって、大豆は大きな経済的意味を持つ作物です。輸出収入を生み、農業投資を呼び込み、農機、倉庫、輸送、加工、金融、貿易など周辺産業を動かします。日系社会にとっても、大豆は移住地の経営を安定させ、地域の発展を支えた重要作物でした。

しかし、大豆農業には影もあります。

南米の大豆農業は、大規模化、機械化、単一作物への依存、森林伐採、土地集中、農薬、地域社会への影響など、多くの課題と結びついてきました。これは日系社会だけの責任ではありません。世界的な食料・飼料需要、ブラジルやアルゼンチンを含む南米農業圏、国際価格、国家政策、大資本の農業投資が関わる問題です。

世界銀行は、パラグアイの近年の経済成長を評価しつつ、自然資源への依存、気候リスク、持続可能な資源管理の必要性を指摘しています。農業が強い国であるほど、土壌、水、森林、地域社会との関係を長期的に考える必要があります。

佐々木氏のイグアス移住地研究も、大豆栽培を中心とする農業が日本人社会の発展につながった一方で、森林資源を減少させる二面性があると述べています。同時に、植林や森林保護、牧畜との複合経営など、環境と農業を両立させようとする取り組みも紹介しています。

だからこそ、パラグアイ大豆農業の歴史は、単なる成功物語ではなく、「発展とは何か」を考える入口にもなります。日系社会の努力を正当に評価しながら、開発がもたらす課題も見落とさない。その両方を見てこそ、この歴史は立体的に見えてきます。

なぜ日本ではあまり知られていないのか

日本人移民がパラグアイ大豆農業に関わった歴史は、なぜ日本であまり知られていないのでしょうか。

一つは、日本の歴史教育が国内中心になりやすいことです。日本史では、明治維新、戦争、高度経済成長など、日本列島の中で起きた出来事が中心に扱われます。海外へ渡った移民の生活、移住地の農業、現地社会との関係は、どうしてもこぼれ落ちやすい分野です。

二つ目は、南米移民の中でも、パラグアイ移民はブラジル移民に比べて知名度が低いことです。ブラジルには世界最大規模の日系社会があり、日本でも「ブラジル移民」は比較的知られています。一方、パラグアイの日系社会は規模が小さく、地理的にも心理的にも遠く感じられます。

三つ目は、この歴史が特定の一人の偉人伝にしにくいことです。わかりやすい英雄の名前がある物語は広まりやすいものです。しかし、パラグアイ大豆農業の歴史は、家族、移住地、農協、研究者、現地社会、JICA、日本とパラグアイの関係が重なった集団の物語です。だからこそ、短い逸話ではなく、少し時間をかけて読む必要があります。

けれども、その見えにくさこそ、このテーマの価値でもあります。日本史は日本列島だけで終わるものではありません。パラグアイの大地にも、日本人移民と日系社会が残した歴史があります。

よくある誤解

誤解1:パラグアイの大豆は日本人だけが作った

これは正確ではありません。日本人移民と日系社会は、大豆栽培の確立や輸出への道筋に大きく関わりました。しかし、現在の大豆産業は、パラグアイ人農業者、現地社会、国家政策、国際市場、物流、周辺国との関係が重なって成り立っています。

誤解2:移民は努力だけで成功した

努力は重要でしたが、それだけでは説明できません。道路や販売先の不足、戦争による制限、病気、言葉、気候、虫害など、多くの困難がありました。移民の歴史は、成功談であると同時に、生活を築く苦さを含む歴史です。

誤解3:「大豆輸出世界4位」は現在も固定の順位である

順位は年によって変わります。JICAの書籍名には「大豆輸出世界4位」という表現がありますが、これは出版時点や当時の文脈で扱うべきものです。外務省の最新基礎データでは、2024年FAOデータとして大豆輸出量世界3位とされています。

誤解4:大豆農業はよい面だけを見ればよい

大豆はパラグアイ経済を支える重要作物ですが、森林、土地利用、単一作物依存、環境負荷、地域社会への影響もあります。歴史を理解するには、光と影の両方を見る必要があります。

現地で見られる場所・資料

この歴史をさらに知るには、いくつかの資料や場所が手がかりになります。

  • ラ・コルメナ移住地:1936年に日本人移住が始まった、パラグアイ最初の日系移住地です。
  • イグアス移住地:大豆栽培、不耕起栽培、農協、日系社会の農業を考えるうえで重要な移住地です。
  • パラグアイ日本人会連合会:各地の日系社会や移住史に関する情報を発信しています。
  • JICA海外移住資料館:日本人海外移住を広く学べる資料館です。パラグアイだけでなく、ブラジル、ペルー、ボリビアなど南米移民史を知る入口になります。
  • JICA緒方研究所のプロジェクト・ヒストリー:大豆輸出と産業多角化を中心に、パラグアイ日系社会の貢献を整理した重要資料です。

FAQ

パラグアイへの日本人移住はいつ始まりましたか?

1936年です。最初の拠点はラ・コルメナ移住地で、1936年8月には日本から最初のパラグアイ移民が到着しました。

ラ・コルメナ移住地とは何ですか?

パラグアイで最初の日系移住地です。パラグアリ県にあり、1936年の大統領令に基づいて日本人移住が始まりました。

日本人移民はパラグアイで大豆を最初に商業化したのですか?

資料では、日本人移住者が大豆の種をまき、日系社会の努力と研究によって農業として確立していったと紹介されています。ただし、現在の大豆産業全体を日本人だけの功績として説明するのは不正確です。

1960年の日本向け大豆輸出はなぜ重要ですか?

大豆360トンをブエノスアイレス経由で日本へ初輸出した出来事で、日系移民の大豆栽培が国際的な商品として形になった象徴だからです。

JICAはこの歴史とどう関係していますか?

JICAは移住史や日系社会との関係を背景に、パラグアイの農業開発、技術協力、民間連携などに関わってきました。JICA緒方研究所は、この歴史をプロジェクト・ヒストリーとしてまとめています。

大豆農業にはどのような課題がありますか?

大規模農業、森林伐採、土地集中、農薬、環境負荷、単一作物依存、物流の制約などがあります。これらは日系社会だけの問題ではなく、南米の大豆農業と国際市場全体の課題です。

まとめ|日本人移民の種は、パラグアイの大地で産業になった

パラグアイの大豆農業は、パラグアイ社会、土地、農業政策、国際市場、物流、現地の人々、そして日系社会の努力が重なって発展しました。

その中で、日本人移民が種をまき、技術を磨き、販路を開き、移住地や農協を通じて大豆栽培を広げたことは、重要な歴史です。1960年に大豆360トンがブエノスアイレス経由で日本へ輸出された出来事は、遠い内陸国での開拓生活が、国際市場へつながった瞬間でした。

しかし、この歴史は「日本人だけが成し遂げた成功物語」ではありません。現地社会の受け入れ、パラグアイ人農業者、国家政策、世界市場、環境問題、大規模農業の光と影まで含めて見る必要があります。

一人の英雄ではなく、家族、移住地、農協、研究者、JICA関係者、現地社会が重なった移民集団の物語。そこに、パラグアイ大豆農業を支えた日本人移民と日系社会の本当の足跡があります。

日本史は、日本列島だけで終わりません。パラグアイの大地にも、日本人移民の歴史は残っています。

参考文献・参考サイト

  1. JICA緒方貞子平和開発研究所『パラグアイの発展を支える日本人移住者―大豆輸出世界4位への功績と産業多角化への新たな取組み』
  2. 外務省「パラグアイ基礎データ」
  3. 在パラグアイ日本国大使館「二国間関係 – 移住史」
  4. パラグアイ日本人会連合会「パラグアイにおける日本人移住の歴史」
  5. パラグアイ日本人会連合会「ラ・コルメナ移住地」
  6. 佐々木智章「パラグアイ共和国イグアス移住地における日本人の持続的農牧業」『新地理』64巻2号、2016年
  7. World Bank “Paraguay: From landlocked to land of opportunity”
  8. USDA Foreign Agricultural Service “Oilseeds and Products Annual: Paraguay” 2025
  9. Reuters “Paraguay on track for record soy crop, but low river levels slow exports” 2024
  10. Discover Nikkei「パラグアイ日本人移住90周年 ~ ラ・コルメナ移住地入植前からの軌跡」