川越・喜多院完全ガイド|中院・仙波東照宮と消えた南院を2時間で歩く

川越市の喜多院境内と主要建築の全景

川越大師として知られる喜多院きたいんの南には、徳川家康を祀る仙波東照宮せんばとうしょうぐうと、静かな境内を持つ中院なかいんがあります。さらに小仙波町には、明治初めに廃寺となった南院の跡が残ります。現在は別々の寺社や史跡ですが、もとは星野山無量寿寺という大きな寺院の歴史でつながっています。

中世、無量寿寺の中心は中院にありました。天海が徳川家康の信任を得ると北院(現在の喜多院)の地位が高まり、家康を祀る東照宮が創建されます。1638年の川越大火後、東照宮の再建に伴って中院は現在地へ移り、喜多院には将軍家光の命で江戸城の建物が移築されました。さらに明治初めには南院が廃寺となり、東照宮も寺院から別管理となります。現在の寺社の位置と残された文化財には、こうした変化の歴史が刻まれています。

喜多院・中院・南院は、もとをたどれば一つの寺院

円仁の創建伝承と無量寿寺の再興

寺伝によれば、天長7年(830)、天台宗の僧・円仁えんにん(慈覚大師)が現在の仙波一帯に無量寿寺を開きました。元久2年(1205)に兵火で焼失した後、永仁4年(1296)に尊海僧正が再興しました。

無量寿寺には北院(仏蔵院)、中院(仏地院)、南院(多聞院)という三つの院がありました。北院が現在の喜多院となり、中院は寺名を保って続いています。南院は近代に廃寺となり、現在は石塔婆や石仏の残る一角に往時の名をとどめています。喜多院と中院は、同じ寺院群の歴史を引き継いでいます。

かつて関東天台の中心だった中院

川越市の文化財解説によると、中院の前身である仏地院は、江戸時代以前には無量寿寺の中核を担い、関東天台の寺院580余か寺の本山として栄えました。談義所として僧侶が学ぶ場にもなり、日蓮宗の学僧が研鑽を積んだ歴史も伝えられています。現在の喜多院の規模だけでは、中世における中院の存在の大きさを測れません。

中世には、現在の仙波東照宮の場所に中院が建っていました。当時はまだ仙波東照宮がなく、家康を祀る東照社が喜多院境内に創建されたのは寛永10年(1633)です。寛永15年(1638)の川越大火で東照社と中院が焼失した後、東照社の再建に伴って中院は翌寛永16年(1639)に現在地へ移転しました。東照社の再建は寛永17年(1640)に完成しました。

中院から喜多院へ――徳川家の保護・川越大火・明治の変化

北院から喜多院へ

天海てんかいは慶長4年(1599)に北院の第27世住職となったと伝わり、その後、徳川家康の信任を得て幕府の宗教政策に関わりました。家康・秀忠・家光の三代に仕えた天海のもとで、北院は徳川家の保護を受ける寺院へと変わります。慶長17年(1612)、天海は「北院」を「喜多院」と改め、徳川家康の支援を受けて寺を再興しました。家康からは500石の朱印地を与えられ、喜多院の寺勢は大きく伸びました。関東天台の中心は中院から喜多院へ移り、二代将軍秀忠の時代には喜多院が「東叡山」の山号を与えられました。寛永2年(1625)に天海が上野に寛永寺を創建すると、「東叡山」の名は寛永寺へ移り、喜多院は「星野山」の山号に戻りました。

天海が活動した時代の背景は徳川15代将軍と江戸幕府の流れ、将軍家の記録については『徳川実紀』の解説でも紹介しています。

家康の改葬と仙波東照宮の創建

元和2年(1616)に亡くなった家康は駿河の久能山に葬られ、翌元和3年(1617)に日光へ改葬されました。その途中、家康の遺骸が喜多院に立ち寄り、天海によって大規模な法要が営まれました。天海は寛永10年(1633)、家康を神として祀る仙波東照宮を創建します。喜多院の隣に東照宮があるのは、この改葬と法要の歴史によるものです。

1638年の川越大火と再建

寛永15年(1638)の川越大火は、喜多院と仙波東照宮に大きな被害をもたらしました。喜多院では山門を残して多くの堂宇が焼失し、創建間もない東照宮も失われました。三代将軍家光は喜多院の再建を命じ、江戸城紅葉山にあった建物が移築されます。現在の客殿・書院・庫裏が江戸城ゆかりの建築として残るのは、この復興事業によるものです。

再建を任された堀田正盛(1608~1651)は、三代将軍家光の側近として幕政を担った大名です。家光の乳母・春日局の義孫にあたり、川越藩主も務めました。大火のあった寛永15年(1638)に信濃松本へ転封された後も、家光の命で仙波東照社の造営奉行を務めています。正盛は同年9月に石鳥居を奉納し、柱には「堀田加賀守従四位下藤原正盛」の名と「寛永十五年九月十七日」の日付を刻みました。国の重要文化財となっているこの鳥居は、正盛が再建に携わったことを伝える建造物です。社殿の再建工事は寛永17年(1640)に完成しました。喜多院には江戸城から客殿や書院が移築され、中院は東照社の再建に伴って旧地から移りました。

明治維新後の神仏分離と南院の廃寺

江戸時代を通じて存続した三院のうち、南院(多聞院)は明治初めに廃寺となりました。大正期に刊行された『入間郡誌』所収「小仙波の草創及発達」にも、廃寺となった時期が記されています。喜多院と中院が寺院として残る一方、南院の建物は失われ、現在は旧地の一角に石塔婆などが残っています。

喜多院の山門前には、無量寿寺の鎮守だった日枝神社があります。鎮守とは寺を守る神を祀る神社のことで、日枝神社は無量寿寺の創建に際して比叡山の日吉山王社から神を迎えたと伝わります。かつては喜多院の境内にありましたが、明治初めの神仏分離によって仙波東照宮とともに寺とは別の管理になりました。日枝神社の本殿は国の重要文化財です。現在の山門前への移転には、その後の道路整備が関わっています。

喜多院に残る徳川家の再建と江戸時代の信仰

現在の喜多院には、川越大火以前の山門、大火後に再建された慈恵堂と多宝塔、江戸城から移された客殿・書院・庫裏、さらに江戸後期に造立された五百羅漢が残ります。年代の異なる建物と石像をたどると、将軍家の援助による復興から、地域の人々が支えた信仰の広がりまでを確かめられます。

喜多院と仙波東照宮の境内案内図。慈恵堂、客殿、書院、五百羅漢、慈眼堂、山門、仙波東照宮などの位置を示す
喜多院・仙波東照宮の境内案内図(提供画像)。建物や見学地点の位置関係を示しています。

山門と慈恵堂

喜多院の山門は寛永9年(1632)に天海が建立したとされる四脚門で、国の重要文化財です。1638年の大火を免れた数少ない建物で、再建された堂宇より古い喜多院の姿を伝えます。屋根を支える柱と控柱、装飾彫刻には近世初期の門の造りが残ります。山門の北側に接する番所も県指定有形文化財です。小規模な建物で、連子窓や切妻屋根が特徴です。18世紀中ごろの建築と考えられ、1841年の境内図には山門の内側に独立して建つ姿が描かれています。現在の位置には後世に移されました。山門の通行方法は工事や境内行事によって変わることがあります。

2026年10月の現地では、山門が修理工事中で、仮囲いと足場に覆われていました。

2026年10月の修理工事で仮囲いと足場に覆われた喜多院山門
修理工事中の喜多院山門(2026年10月撮影)。

境内の中心にある慈恵堂は、良源(元三大師・慈恵大師)を祀る喜多院の本堂です。元三大師への信仰は喜多院が「川越大師」として親しまれる背景にもなっています。県指定有形文化財の慈恵堂は、1638年の川越大火の翌年、寛永16年(1639)に再建されました。別名は「潮音殿(ちょうおんでん)」で、波の音が聞こえるという言い伝えがあります。内部は外陣と内陣を格子戸で分け、延暦寺の根本中堂にも通じる天台宗の仏堂形式を採用しています。

川越市の喜多院に建つ慈恵堂の正面
喜多院の慈恵堂、2008年。撮影:Twilight2640/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

客殿――「徳川家光誕生の間」を伝える建物

喜多院の客殿の外観。木造建築と庭の樹木が見える
喜多院の客殿の外観と庭園。

客殿・書院・庫裏は、江戸城紅葉山にあった別殿を移築したとされる国の重要文化財です。客殿は入母屋造り・柿葺きの建物で、内部に12畳半、17畳半、10畳の部屋がそれぞれ二室あります。上段の間には床の間と違い棚が設けられ、襖や壁面に水墨の山水画、天井には81枚の彩色花模様が描かれています。部屋の格式に応じた建具や装飾を、まとまった形で見ることができます。

この上段の間は、江戸城にあった時代に家光が生まれたと伝えられることから「徳川家光公誕生の間」と呼ばれます。部屋の呼び名は寺に伝わる由緒であり、現在の文化財としての価値は建物の構造や室内装飾にもあります。中央の17畳半の一室には仏間が設けられ、城の御殿建築が寺院で使われるようになった経緯も感じられます。

書院・庫裏――春日局の伝承と寺の暮らし

客殿につながる書院は寄棟造り・柿葺きで、8畳と12畳の部屋がそれぞれ二室あり、一部に中二階を備えています。8畳間の二室は、家光の乳母・春日局が江戸城で使用していたと伝えられ、「春日局化粧の間」として知られます。春日局が将軍家で果たした役割は春日局と乳母の歴史でも扱っています。

一方、庫裏は寺の台所や日常業務を担う建物です。大きな屋根と土間、柱組みを持ち、接客や儀礼のための客殿・書院とは用途が異なります。江戸城から移された建物が、僧侶の生活や寺の運営に組み込まれている点も興味深いところです。

喜多院の慈恵堂と庫裏を結ぶ屋根付きの木造渡り廊下
慈恵堂と庫裏をつなぐ木造の渡り廊下。

紅葉山庭園と曲水の庭

客殿から望む紅葉山庭園は、石の形と植栽を組み合わせた遠州流の庭園です。丸・菱形・四角の三つの縁石を組み合わせた意匠や、家光手植えと伝わるしだれ桜が紹介されています。書院奥の「曲水の庭」は枯山水の平庭で、曲線を描く水の流れを石や地割りで表現しています。どちらも建物の座敷から眺めることを意識した庭で、畳や縁側と庭とのつながりに特徴があります。

喜多院客殿から庭園を望む。ススキと緑の庭、木造建物が写る
喜多院の客殿から望む庭園。座敷と庭が一体となった景観です。

曲水の庭の現地解説板は、この庭を遠州流の枯山水書院式平庭と説明しています。中央の「離れ五石」と呼ばれる石組や、流れを「真・行・草」の三つの表現に分けた構成が特徴です。

喜多院の曲水の庭にある石組、白砂、刈り込まれた植栽
喜多院の曲水の庭。石組と植栽を配した枯山水の庭園です。
喜多院の曲水の庭の石組と植栽を説明する木製案内板
曲水の庭の現地解説板。石組と植栽の構成を説明しています。

五百羅漢――江戸時代の人々が造り続けた石像群

喜多院の五百羅漢は、川越北田島の志誠の発願によって、天明2年(1782)から文政8年(1825)まで約半世紀をかけて造立されました。喜多院の公式解説では、十大弟子・十六羅漢など533体に、釈迦如来や菩薩など5体を加えた合計538体とされています。江戸後期に積み重ねられた信仰と造像の歴史が、一つの場所に集まっています。

石像群の中央には釈迦如来と、その両側に普賢菩薩・文殊菩薩が並びます。周囲の羅漢像には、笑うもの、泣くもの、怒った顔をしたもの、ささやき合うような姿のものがあります。仏具や日用品を持つ像、動物を従える像もあり、顔だけでなく手の動きや衣のしわまで造り分けられています。夜中に像の頭をなでると亡くなった親に似た温かい一体が見つかるという言い伝えも伝わります。石像群は通常、喜多院の有料拝観範囲に含まれます。

喜多院の五百羅漢。並ぶ石像の表情やしぐさが見える
喜多院の五百羅漢。羅漢像の表情や姿は一体ずつ異なります。
喜多院の五百羅漢に並ぶ表情豊かな石像
喜多院の五百羅漢、2009年。撮影:Fg2/Wikimedia Commons/Public Domain。

慈眼堂――天海を祀る高台の堂

喜多院の高台に建つ慈眼堂は、天海の没後、家光の命によって正保2年(1645)に建てられたとされる国の重要文化財です。天海は寛永20年(1643)に没し、慈眼大師の名でも知られます。堂内には県指定有形文化財の「木造天海僧正坐像」が安置されています。像の銘から、天海が亡くなる約2か月前の寛永20年(1643)に制作されたことがわかります。檜材の寄木造で、法衣と袈裟をまとい、右手に払子を持つ姿です。通常の拝観で像を間近に見られるわけではありません。堂の周辺には天海に関わる石造物も残ります。高台には古墳との関わりもあり、寺院が整えられる以前から利用されてきた土地の歴史が重なります。

喜多院境内の高台に建つ慈眼堂
喜多院の慈眼堂、2020年。撮影:Tak1701d/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

多宝塔と鐘楼門――川越大火後の建築

慈恵堂の近くに建つ多宝塔は、川越大火直後の寛永16年(1639)に完成した県指定有形文化財です。下層の四角い平面と上層の円形の平面を、白い漆喰塗りの亀腹がつないでいます。明治43年(1910)に上層を取り除く大改造が行われましたが、昭和48年(1973)に復元修理され、現在地に移されました。

喜多院の多宝塔。四角い下層、円形の上層、相輪を備える
喜多院の多宝塔。上下で形の異なる屋根と相輪が特徴です。
喜多院の多宝塔の現地解説板。移築と昭和の復元について記されている
多宝塔の現地解説板。建立後の移築と復元の経緯が記されています。

慈眼堂の東側にある鐘楼門は、下層が門、上層が鐘楼になった国指定重要文化財です。上層には元禄15年(1702)の銘がある銅鐘が吊られ、花頭窓や彩色された雲龍・花鳥の彫刻が残ります。大火を免れたという伝承もありますが、川越市は建築意匠から1702年ごろの造営と考えています。鐘楼門と山門は、年代も構造も異なる建築です。

喜多院の鐘楼門正面。二階に鐘楼を備えた朱塗りの楼門
喜多院の鐘楼門。上層に銅鐘を吊る二層の門です。
喜多院鐘楼門の文化財解説板。構造と銅鐘の銘文が記されている
鐘楼門の現地解説板。建物の構造や銅鐘の由来が記されています。

葵庭園――仙波東照宮へ続く緑の一角

仙波東照宮へ向かう道沿いには、厳島神社の周辺に緑が広がる葵庭園があります。川越市の「喜多院探訪コース」では、アジサイの咲く庭園として紹介され、6~7月にはホタルが見られることもあると記されています。季節によって庭園の景色が変わります。

喜多院近くの厳島神社。池の中の小島へ赤い橋が架かる
葵庭園付近の厳島神社。池に架かる赤い橋の先に社があります。

仙波東照宮――家康を祀る社殿と徳川家の信仰

喜多院の南にある仙波東照宮は、徳川家康を祀る神社です。元和3年(1617)の改葬法要を契機として寛永10年(1633)に創建され、川越大火で焼失した後、寛永17年(1640)に再建されました。日光・久能山とともに「日本三大東照宮」の一つとして紹介されることがあります。

本殿は三間社流造で、銅瓦葺きの屋根に千木と堅魚木を載せています。黒く塗られた軸部に朱色の壁面や階段が映え、虹梁や蟇股などには極彩色の装飾が施されています。日光東照宮に通じる装飾性を持ちながら、川越では比較的小さな社殿にその意匠が凝縮されています。本殿のほか唐門、瑞垣、拝殿・幣殿、石鳥居、随身門なども重要文化財に指定されています。

拝殿には岩佐又兵衛が描いた「三十六歌仙絵額」、幣殿には鷹を描いた絵額が伝わります。これらの奉納品からも、徳川家と川越を治めた大名たちの関わりをたどれます。門内の公開には日程や行事による制限があり、日曜・祝日のガイド案内や特別公開については訪問前に小江戸川越観光協会の案内を確認してください。

現地の解説板によれば、拝殿は桁行三間・梁間一間の入母屋造で、銅板葺きの屋根を持ちます。その奥には幣殿が接続し、正面には後水尾天皇の筆によると伝わる「東照大権現」の勅額が掲げられています。弘化4年(1847)にも修理が行われました。

仙波東照宮の拝殿と幣殿を解説する文化財案内板
仙波東照宮の拝殿・幣殿の解説板。建物の構造や修理の歴史が記されています。
川越市の仙波東照宮に建つ社殿
仙波東照宮、2020年。撮影:Tak1701d/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

中院――寺院群の中心だった仏地院の面影

仙波東照宮から南へ進むと中院があります。かつて仏地院と呼ばれた中院は、無量寿寺の中心的寺院として長く栄えました。現在の場所へ移ったのは1638年の川越大火後、東照宮を再建する過程です。享保18年(1733)には本堂が再建されました。川越市指定史跡の境内には、近世に再編された後も続いた寺院の歴史が残っています。

中院の山門と星野山中院などの石柱
中院の山門。門前には「日蓮上人伝法灌頂之寺」「星野山 中院」の石柱が立っています。

太陽寺一族の墓と川越の地誌

中院の山門を入ってすぐ左に、川越藩主秋元家の家老を務めた太陽寺一族の墓が三基並びます。太陽寺盛胤(もりたね)は川越の地誌『多濃武の雁(たのむのかり)』を著し、川越城下の武家屋敷や寺社、旧跡などを記録しました。中院の案内では、三基は盛胤自身の墓ではなく、祖父の盛昌、父の盛方、そして妻の墓とされています。江戸時代の川越を記録した人物の家族が、この寺に葬られています。

中院にある太陽寺一族の三基の石墓
中院に残る太陽寺一族の墓。川越藩秋元家の家老の一族に関わる墓石です。

しだれ桜と不染亭

中院は春のしだれ桜で知られ、本堂前の庭は喜多院とは異なる落ち着いた景観を見せます。境内には島崎藤村ゆかりの茶室「不染亭」も移築されています。不染亭は、藤村の義母にあたる加藤みきに関わる茶室で、藤村書の「不染の碑」や加藤みきの墓も残ります。中院は中世の仏教史に加え、近代文学の記憶を伝える場所でもあります。

葉の少ない時季の中院境内の大きなしだれ桜
中院のしだれ桜。落葉した季節には枝ぶりがよく分かります。

狭山茶発祥之地の碑

中院の境内には「狭山茶発祥之地」の碑が建っています。碑に刻まれた「河越茶 狭山茶の起源」の文章を現代語に訳すと、次のようになります。

「お茶の栽培は、遠く平安時代に伝教大師最澄が中国の天台山国清寺から茶を持ち帰り、京都で栽培したことに始まります。慈覚大師円仁は天長7年(830)、ここ仙波に星野山無量寿寺仏地院を建てた際、比叡山から茶の種を持ってきて、境内で薬用として育てました。これが河越茶・狭山茶の起源です。この寺の茶園にあった茶の株をここに移し植え、長く後世に伝えていきます。」

川越市の中院境内に立つ狭山茶発祥之地碑
中院の狭山茶発祥之地碑、2008年。撮影:Twilight2640/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

消えた南院――多聞院の廃寺と残された石仏

多聞院と呼ばれた南院の旧地は、小仙波町の住宅地にあります。近世の地誌に喜多院・中院と並んで名を残す一院で、現在は石塔婆や石仏などの石造物が往時の信仰を伝えています。

南院遺跡は、川越市小仙波町5丁目12付近にあります。道路沿いに石塔婆、石仏、墓石などが集められ、かつての南院の存在を伝えています。

南院遺跡に残された石塔婆と石仏、石碑が並ぶ様子
南院遺跡に残る石塔婆や石仏。住宅地の一角に旧南院の痕跡が残っています。
南院遺跡に残る文字が刻まれた木製の案内標
南院遺跡に残る木製の案内標。長年の風化で文字の一部が読みにくくなっています。

石造物の年代や元の配置は個々に検討する必要があり、現在石塔婆が集まる地点を当時の建物配置そのものと同一視することは避けたいところです。

旧南院は仙波東照宮の門前側にあったとする地域の記録もあり、現在の遺跡の一角には南院を伝える掲示や石造物が見られます。住宅地の小さな史跡で、整備された観光施設のような見学設備はありません。中院とあわせて周辺の道路から位置を確認し、石塔婆の文字や地形に目を向けると、失われた寺院が現在の街区に重なっていたことをたどれます。

喜多院から旧三院を歩く――2時間の目安

喜多院、仙波東照宮、南院遺跡、中院は徒歩圏内に集まります。歴史建築の内部と五百羅漢を丁寧に見学すると喜多院だけで1時間以上かかるため、2時間は主要な見どころに絞った散策の目安です。すべての展示をじっくり見たい場合や、東照宮の門内公開に参加する場合は、2時間半から3時間程度を見込むと余裕があります。

喜多院の山門と慈恵堂を訪ねた後、拝観受付から客殿・書院・庫裏、庭園、五百羅漢へ進み、慈眼堂から鐘楼門・葵庭園を通って仙波東照宮に向かいます。その後は南院遺跡の周辺を通り、中院の境内を訪ねると、中世の三院から徳川家の時代、近代の廃寺までを一続きにたどれます。現地の出入口や工事、公開範囲によって順路は調整してください。

見学場所目安主な見どころ
喜多院の山門・慈恵堂15分大火を免れた山門と川越大師の本堂
客殿・書院・庫裏・庭園30分江戸城紅葉山の移築建築と御殿の部屋
五百羅漢15分538体の石像と江戸後期の信仰
慈眼堂10分天海を祀る堂と高台の石造物
仙波東照宮15分家康を祀る社殿と随身門
南院遺跡5分石塔婆・石仏と失われた寺院の痕跡
中院15分旧仏地院、しだれ桜、不染亭、茶の碑
地点間の移動15分徒歩移動の合計
合計120分混雑や休憩は別途

時間に余裕がない場合は、喜多院の有料拝観に重点を置き、東照宮と中院では境内の要所を見る形が現実的です。反対に、江戸城移築建築の室内を詳しく見たり、五百羅漢の像を一体ずつ見比べたりするなら、行程を延ばす価値があります。

拝観料・公開時間・アクセス

喜多院では、大人400円の共通拝観料で、江戸城から移築された客殿・書院・庫裏、庭園、五百羅漢を見学できます。小・中学生の拝観料は200円で、これらの見学に個別の追加料金はかかりません。3月1日から11月23日は平日9時~16時30分、日曜・祝日9時~16時50分、11月24日から2月末日は平日9時~16時、日曜・祝日9時~16時20分が開門時間で、拝観受付は閉門30分前までとなります。12月25日~1月8日、2月2日午後・3日、4月2日~4日は休拝期間です。行事などで一部を拝観できない日もあるため、最新情報は喜多院公式「拝観」で確認してください。

仙波東照宮は通常、門外からの見学が中心です。門内の案内は日曜・祝日や特別公開日などに実施される場合があります。中院の境内は通常参詣できますが、建物内部の公開状況は別です。南院遺跡では周辺の住宅や私有地への立ち入りを避け、道路から石造物を見学してください。

場所所在地
喜多院埼玉県川越市小仙波町1-20-1
仙波東照宮埼玉県川越市小仙波町1-21-1
南院遺跡埼玉県川越市小仙波町5丁目12付近
中院埼玉県川越市小仙波町5-15-1

喜多院への徒歩アクセスは西武新宿線本川越駅から約15分、東武東上線川越市駅から約18分、JR・東武東上線川越駅から約20分が目安です。川越の城下町もあわせて訪ねる場合は、川越まつりと歴史散歩の記録が関連する読み物です。地図上で史跡をたどる方法はTimeWalkでも紹介しています。

参考資料

  1. 川越大師喜多院「創建と歴史」
  2. 川越大師喜多院「喜多院所縁の人物」
  3. 川越大師喜多院「客殿(徳川家光公誕生の間)」
  4. 川越大師喜多院「書院(春日局化粧の間)」
  5. 川越大師喜多院「五百羅漢」
  6. 川越市「市指定史跡 中院」
  7. 川越市「国指定重要文化財 東照宮 本殿」
  8. 川越市「中院」
  9. 小江戸川越観光協会「仙波東照宮」
  10. 佐倉市「おもな佐倉城主(藩主)と堀田家の人々」(堀田正盛の経歴)
  11. 川越市「国指定重要文化財 東照宮・鳥居」
  12. 川越市「市指定史跡 日枝神社」
  13. 中院「お茶と中院」
  14. 『入間郡誌』所収「小仙波の草創及発達」(南院の記述)
  15. 川越市「喜多院探訪コース」(PDF)(山門・慈恵堂・鐘楼門・葵庭園などの解説と現地案内図)
  16. アイキャッチ画像:喜多院の境内全景、2021年。撮影:Dandy1022/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。