目黒川の歴史を歩く|目黒・五反田・大崎から品川・天王洲まで

目黒川(目黒〜天王洲)

目黒駅から少し歩いて目黒川に出ると、川は五反田・大崎のビル街を抜け、北品川で旧東海道の町と接し、やがて天王洲の運河へ注ぎます。現在は桜や水辺の散歩道で知られる目黒川ですが、下流へ歩くほど、中世の港、江戸時代の水害、大名屋敷、明治の工場、大正・昭和の河川改修、そして湾岸再開発の痕跡が重なってきます。

2024年1月に「ゆる歴史散歩会」で歩いた目黒から天王洲までのルートを軸に、現地で見える風景と歴史をつなげます。

目黒川を目黒から天王洲まで歩く

出発地点は目黒川に架かる亀の甲橋かめのこうばし周辺です。ここから五反田、大崎、北品川へと川沿いを下り、最後は目黒川が天王洲南運河へ流れ込む東品川海上公園まで進みます。

  • 亀の甲橋
  • 大崎橋
  • 鈴懸歩道橋すずかけほどうきょう
  • 官営品川硝子製造所跡
  • 旧・日向佐土原藩島津家抱屋敷跡周辺
  • 東品川海上公園・東品川屋上庭園
2025年春、目黒川周辺に咲く桜
目黒川周辺の桜。2025年4月撮影。撮影:Syced/Wikimedia Commons(CC0 1.0)。

「品川」の地名と目黒川

「品川」という地名は、元暦元年(1184)の田代文書に登場します。由来には複数の説があり、その一つが「目黒川の古名が品川だった」という説です。ほかにも、風光のよい土地を「品ヶ輪」と呼んだ説、鎧に使う品革を染めた土地に由来する説、領主の品川氏に由来する説があります。

そのため、目黒川を「品川という地名の唯一の由来」とみなすより、「品川の地名由来の一説に結び付く川」と捉えるのが正確です。川が運んだ土砂は河口に低地や洲をつくり、中世の品川湊、江戸時代の宿場、近代の工場地帯へと続く土地の基盤になりました。

亀の甲橋から五反田へ|洪水を繰り返した目黒川

五反田へ下ると、川は台地の間に広がる低地を流れます。目黒川は雨水が短時間に集まりやすく、下流では川筋が大きく曲がっていたため、古くから洪水を繰り返しました。

享保13年(1728)9月2日の大洪水では、下流の東海寺の本堂まで水が上がったと記録されています。寛延2年(1749)8月には、現在の北品川付近で氾濫し、民家8棟と土蔵5棟が流されました。川沿いの町にとって、目黒川は交通と産業を支える水路である一方、治水を欠かせない川でもありました。

五反田を流れる目黒川と周辺の市街地
五反田を流れる目黒川。2021年撮影。撮影:Syced/Wikimedia Commons(CC0 1.0)。

五反田という街が目黒川の低地とともに発展し、戦後に歓楽街・商業地へ変わっていく過程は、五反田の歓楽街・風俗街の歴史をたどった解説記事で詳しく紹介しています。

大崎|工場の川から再開発の水辺へ

大崎に入ると、目黒川と近代工業の関係がはっきりします。明治以降、品川町・大崎町・大井町では、鉄道や道路に加えて川の水運を利用できる目黒川沿いに工場が集まり、京浜工業地帯の一角を担うようになりました。

御成橋から上流方向に見た大崎と東五反田の目黒川
御成橋から上流方向を望む目黒川。2011年撮影。撮影:Jonas Neergaard-Nielsen/Wikimedia Commons(CC BY-SA 2.0)。

工場が郊外へ移転した後、大崎駅周辺では大規模な再開発が進みました。現在のゲートシティ大崎や大崎ニューシティ周辺は、かつての工業地帯とは大きく異なる景観です。川そのものも、産業用の水路から、歩いて楽しむ都市の水辺へ役割を変えています。

東京都品川区大崎のゲートシティ大崎
ゲートシティ大崎。2012年撮影。撮影:Aimaimyi/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)。

大崎・目黒川・御殿山から高輪へ歩く別ルートは、大崎・目黒川・御殿山の歴史散歩にまとめています。冬の水辺を歩くなら、目黒川みんなのイルミネーションを歩く記事も関連します。

橋の名前に残る大崎の工業史

目黒川には、周辺の歴史を背負った橋名が残っています。森永橋は、かつて付近に森永製菓の工場があったことに由来します。橋の名を追うだけでも、大崎が工場の町だった時代をたどれます。

目黒川に架かる森永橋を小関橋側から望む
目黒川に架かる森永橋。2024年撮影。撮影:Syced/Wikimedia Commons(CC0 1.0)。

官営品川硝子製造所|目黒川沿いから始まった近代工業

北品川4丁目には、官営品川硝子製造所跡の記念碑があります。前身は明治6年(1873)に東海寺境内へ設けられた洋式ガラス工場「興業社」です。明治9年(1876)に工部省が買収して官営工場となり、英国人技術者を招いて幻燈用の紅色ガラスや食器などを製造しました。

明治18年(1885)には民間へ払い下げられ、明治25年(1892)に解散します。レンガ造りの工場建物の一棟は昭和43年(1968)に博物館明治村へ移築されました。品川区はこの場所を「品川区における明治初期の工業発祥地」であり、「京浜工業地帯成立の第一歩の地」と位置付けています。

歌川広重が描いた江戸時代の御殿山の花見
歌川広重「江戸名所 御殿山花盛り」。海を望む高台だった御殿山の景観を伝えます。Public Domain/Wikimedia Commons。

工場跡の周辺に立つと、現在の住宅・オフィスの景観からは想像しにくい近代工業の起点が、目黒川と旧品川宿のすぐ近くに置かれていたことが分かります。

旧・日向佐土原藩島津家抱屋敷跡と稼穡稲荷

新馬場駅に近い品川図書館・六行会周辺は、旧佐土原藩さどわらはん島津家の抱屋敷跡として案内されている一帯です。抱屋敷は、大名が幕府から拝領した上屋敷・中屋敷・下屋敷とは別に、私的に取得した屋敷地を指します。

近くの稼穡稲荷かしょくいなりには、品川区指定天然記念物のイチョウがあります。幹周り約4.1メートル、樹高23メートル、推定樹齢500~600年とされる古木で、目黒川北岸に立っています。江戸時代の武家地の記憶が、川沿いの巨木と小さな社に残る場所です。

品川湊|目黒川の河口に栄えた中世の港

目黒川が海へ近づく北品川・東品川一帯では、中世の品川湊の歴史が重なります。品川湊は目黒川河口付近に形成された港と考えられ、室町時代から戦国時代にかけて伊勢をはじめ各地から商船が入港しました。東海道の宿場として知られる以前から、品川は海上交通の拠点でした。

江戸時代には、河口の寄州に南品川猟師町が成立し、漁業も盛んになります。川が山の手から運んだ水と土砂は、港・宿場・漁師町が接する品川の地形をつくりました。

川筋を変えた河川改修と荏原神社

下流の目黒川は、現在のような直線的な流路ではありませんでした。洪水対策の河川改修で川筋が変えられ、旧河道の一部は道路や船溜まりとして街の形に残っています。

荏原神社周辺は、昔の川と現在の川の違いを現地で確かめやすい場所です。現在は社殿の近くを目黒川が流れていますが、河川改修以前の川筋は異なっていました。橋や道路だけを見るより、神社の位置と現在の河道を合わせて見ると、治水工事が町の形そのものを変えたことが分かります。

天王洲|砂州から台場、倉庫街、アートの街へ

天王洲てんのうずは、もともと海中に土砂が堆積してできた洲でした。地名は、南品川の天王祭に関わる神面がこの付近の海中から現れたという伝承に結び付けられています。

幕末、江戸幕府は品川沖に台場を築き、天王洲では第四台場の築造が始まりましたが未完成に終わりました。その後、第四台場は民間へ払い下げられて造船所となり、1925年から周辺の埋立が進み、1939年に完成します。埋立地には工場や倉庫が並びました。

転機は1985年です。地区の地権者22社が再整備に向けた計画づくりを始め、オフィス、文化施設、水辺のボードウォークを備える街へ変化しました。現在の天王洲には、第四台場の石積みを再利用した護岸も残り、幕末の海防と現代の再開発が同じ水辺に重なっています。

東品川海上公園と屋上庭園|目黒川が海へ着く場所

散歩の終点は、目黒川が天王洲南運河へ注ぐ河口部の東品川海上公園です。公園は2007年に全面開園し、運河沿いのボードウォークや芝生が整備されました。

南側に隣接する東京都下水道局東品川ポンプ所の屋上は、東品川屋上庭園として公園の一部になっています。目黒川を歩いてきた最後に、洪水や下水を扱う都市インフラの屋上から、天王洲や東京湾岸の景色を眺める構成です。水害と向き合ってきた川の歴史が、現在の水辺整備までつながります。

関連する歴史散歩

参考資料