アラン・ケイとは?50年前に未来のパソコンを描いた男|Dynabook・Xerox PARC・Appleまで

コンピュータ科学者アラン・ケイの2005年の肖像

1960年代のコンピュータは、大学・企業・研究機関の機械室に置かれ、多くの利用者が時間を分けて使う高価な設備でした。そんな時代に、アラン・ケイは「子どもまで一人一台のコンピュータを持つ」未来を考え始めます。彼が描いた端末は、後のノートPCやiPadを思わせる薄い形をしていました。

けれども、ケイが追いかけた中心は端末の形ではなく、コンピュータを計算機から「個人の動的どうてきメディア」へ変えることでした。文章を読み書きし、絵や音楽を扱い、シミュレーションを動かし、自分でプログラムを書いて新しい道具まで作る。未来を言い当てるより、その環境を実際に作ることに半世紀以上取り組んだ人物です。

アラン・ケイとは?現代のパソコンにつながる仕事

アラン・カーティス・ケイ(Alan Curtis Kay)は1940年、米国マサチューセッツ州生まれのコンピュータ科学者です。ユタ大学でコンピュータ科学を学び、1970年代にはXerox PARC(ゼロックス・パロアルト研究所)、その後はAtari、Apple、Disney、HPなどで研究を続けました。2003年にACMチューリング賞、2004年に京都賞を受賞しています。

  1. 個人が所有し、持ち運べる「Dynabook」を構想した
  2. Xerox PARCでSmalltalkと新しい操作環境の研究を率いた
  3. Altoを使い、現代GUIにつながるパーソナルコンピューティングをチームで実験した
  4. 1984年にApple Fellowとなり、その先のコンピュータ像を考え続けた

京都賞はケイの業績を「現代のパーソナルコンピュータの概念の創出と実現への多大な貢献」と評価しています。SmalltalkやGUI、Altoは多くの研究者による共同開発であり、ケイの役割は強い構想を示し、それを実験できる環境づくりを先導した点にあります。

1960年代、なぜ「個人が持つコンピュータ」を考えたのか

1960年代後半、主流のコンピュータは大型で高価でした。複数の利用者が端末から一台の大型機を共有するタイムシェアリングは、対話的にコンピュータを使う道を開きましたが、「自分の機械を持ち、自分の考えに合わせて使う」という環境とはまだ距離がありました。

ケイがユタ大学で研究していた時期には、すでに別の方向を示す先行研究がありました。アイバン・サザランドのSketchpadは、ライトペンで画面上の図形を直接描き、関係を操作できる対話型グラフィックスを1963年に示しています。ダグラス・エンゲルバートのNLSは、1968年の「Mother of All Demos」でマウス、複数ウィンドウ、ハイパーテキスト、共同編集などを実演しました。ケイ自身も後年のComputer History Museumの口述史で、Engelbartの仕事に「personal computing」を、Sketchpadにコンピュータで考えを扱う魅力を見たと振り返っています。

さらに1968年ごろ、ケイはシーモア・パパートの研究とLOGOに触れます。パパートは、子どもが完成済みの教材を受け取るだけでなく、自分でプログラムを書き、結果を試し、世界についてのモデルを組み替える学びを追求していました。1972年のケイの論文にも、子どもがゲームのプログラムを書き換え、重力のシミュレーションを作りながら考える場面が描かれています。

Computer History Museumは、ケイが1968年に無線接続を想定したタブレット型の子ども向けコンピュータを模型化していたと説明しています。アイデアは数年かけて育ち、1972年の論文「A Personal Computer for Children of All Ages」で、個人が所有する持ち運び可能なコンピュータ像として具体化されました。

Dynabookとは?「昔のiPad」より大きかった構想

1972年の論文でケイは、Dynabookをノートほどの大きさ、4ポンド(約1.8kg)未満、個人が所有できる価格を目標とする機械として描きました。文章やプログラムを保存・編集し、学校では図書館システムにつなぎ、必要な情報を自分の端末へ持ち帰る使い方まで想定しています。

描かれた利用場面はさらに広く、文章を読む・書く、絵を描く、アニメーションを作る、音楽を扱う、ゲームをする、科学のシミュレーションを作る、プログラムを書き換える、といった活動が一台に集まっています。子どもと大人が「どこでも使える」ことも重視されました。

1977年、ケイとアデル・ゴールドバーグは論文「Personal Dynamic Media」で、この考えを「personal dynamic medium」と整理しました。Smalltalkをプログラミングと問題解決、記憶、文章編集、絵画、アニメーション、作曲などに使い、Altoなどを「暫定ざんていDynabook」として実験していたことを記しています。

Dynabookが目指したもの現代のタブレットで実現した部分
軽く、個人が所有し、どこでも使える薄型・軽量端末、長時間バッテリー、無線通信
文章・絵・音楽・動画を一つの媒体で扱う電子書籍、動画、作画、音楽制作、各種アプリ
ネットワークから知識を取り込み、持ち歩くWeb、クラウド、検索、オンライン学習
利用者自身がプログラムを書き、道具を作り替える開発環境や教育用プログラミングは実現。日常の端末操作とは別の層に分かれている

外形では現代のタブレットがかなり近づきました。ケイが特に重視した中心は、利用者自身がコンピュータの動作を理解し、プログラムを書き、学習・表現・創作の道具そのものを作り替えられることでした。Dynabookは完成品のアプリを並べる器より、利用者が新しい媒体を生み出せる「メタメディア」に近い構想でした。

Xerox PARCで「未来のパソコン」を実際に作る

Xeroxは1970年、カリフォルニア州パロアルトにPARCを設立しました。印刷と複写機の会社が「未来のオフィス」を見据えてコンピュータ研究へ踏み込み、ネットワーク、画面表示、文書処理、プログラミングなどの研究者が集まりました。ケイは1971年に参加し、Learning Research Group(LRG)を率います。

1973年に動き始めたXerox Altoは、個人が一台を使うワークステーションでした。縦長のビットマップディスプレイ、マウス、ネットワーク接続を備え、画面上の文字や図形をピクセル単位で扱えます。Computer History Museumが公開するAlto資料は、構想と構造を主にChuck Thacker、Ed McCreight、Butler Lampson、Alan Kayが担い、ハードウェア設計にはさらに多くの研究者が参加したと記録しています。ThackerはAltoのハードウェア開発を主導しました。

Xerox PARCで開発されたXerox Altoコンピュータの実機
Xerox Alto。撮影:Maksym Kozlenko/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

このAlto上でLRGが育てたのがSmalltalkです。ケイはオブジェクト同士がメッセージを送り合う考え方を強く押し出し、Dan Ingallsがリードプログラマーとして実装を進めました。現在の「オブジェクト指向」という語は継承やクラス設計など広い技法を含みますが、ケイが特に重視したのは独立したオブジェクト同士がメッセージで協調する仕組みでした。Adele Goldberg、Diana Merry、Ted Kaehlerらも開発と教育研究に加わり、Smalltalk-72、Smalltalk-74、Smalltalk-76、Smalltalk-80へ発展します。

Smalltalkは言語だけでなく、プログラムを編集し、画面上のオブジェクトを動かし、文章・絵・アニメーションを扱い、実行中の環境そのものを変更できるシステムでした。1977年論文がSmalltalkを「暫定Dynabook」上のコミュニケーションシステムとして説明したのは、このためです。子どもがプログラムを書き換えてシミュレーションを作るというDynabookの考えを、実機で試す場所になりました。

PARCでは同時期にEthernet、レーザープリンタ、文書編集なども進みました。EthernetはRobert MetcalfeとDavid Boggsらの仕事で、AltoのハードウェアはThackerら、SmalltalkはLRGのチームというように、現代PCにつながる技術は多数の研究者が分担して作り上げています。ケイが担ったのは、それらを「個人が考え、作るためのコンピュータ」という方向へ結びつける強いビジョンでした。

1979年、スティーブ・ジョブズはXerox PARCで何を見た?

1979年、XeroxはAppleの少数株式を取得し、Apple側はPARCの技術を見る機会を得ました。同年12月、スティーブ・ジョブズとAppleの技術者たちはPARCを訪れ、Alto系のグラフィカルな操作環境やSmalltalkのデモを見ます。

Computer History MuseumのApple Timelineは、Dan Ingallsが1979年に見せたSmalltalk-78のデモを紹介しています。ジョブズは画面上のウィンドウやマウス操作、グラフィックスが持つ可能性を強く認識し、LisaプロジェクトへGUIを取り込む方向を後押ししました。Adele Goldbergは当初デモに慎重でしたが、Xerox経営陣の判断で公開されたこともCHMに記録されています。

Apple側でもGUI研究はすでに進んでいました。CHMはPARC訪問を、LisaとMacintoshで進んでいた同種の研究を「reinforced(強く後押しした)」出来事と説明しています。LisaのGUIはAppleの技術者が自社で実装し、メニューバーやアプリケーション設計など製品としての操作体系を作り込みました。1984年のMacintoshは、さらに価格と操作性を絞り込んだ一般向け製品として登場します。

Xerox AltoApple LisaMacintosh 128K
登場1973年1983年1984年
主な位置づけ研究用の個人ワークステーション業務向けGUIコンピュータ一般市場向けGUIパソコン
GUI史での役割PARCの研究環境を実装PARC訪問も刺激となりApple独自に製品化GUIをより広い市場へ普及
1984年に登場したApple Macintosh 128Kの実機
Apple Macintosh 128K。撮影:Sandra Becker 01/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

この流れは「一社の技術をそのまま移した」という単純な図では捉えきれません。Engelbartらの先行研究、PARCのAltoとSmalltalk、Apple内部のLisa研究、その後のMacintoshの実装が連なり、GUIが研究所の環境から商用パソコンへ移っていきました。

1984年、今度はアラン・ケイ自身がAppleへ

Macintoshが発売された1984年、ケイはApple ComputerのApple Fellowになりました。京都賞の公式略歴にも1984年の就任が記録されています。PARCで研究されていたGUIやパーソナルコンピューティングの考えを製品へ広げた会社に、その研究を率いた人物の一人が加わったことになります。

ケイはAppleのAdvanced Technology Group(ATG)で、短期の製品仕様より先を見た研究に関わりました。Appleでの後期にはDan Ingalls、Ted Kaehler、John Maloney、Scott Wallaceらと、Smalltalkを移植性の高い形で再構築したSqueakへつながる仕事も進めています。

1987年にAppleが公開した未来像「Knowledge Navigator」も、Dynabookの延長線上にあります。ケイはTIMEのインタビューで、当時のCEO John Sculleyから「現代版のDynabook」を考えるよう求められ、自分やNicholas Negroponte、AI研究など複数の源からアイデアを出したと説明しています。映像制作ではDoris MitschとHugh Dubberlyが大きな仕事を担い、Michael Markmanが全体を取りまとめました。

Knowledge Navigatorに登場するのは、ネットワークにつながった薄型端末、映像通信、ハイパーメディア、音声で対話する知的エージェントです。ケイ一人の作品というより、Sculleyの依頼、ケイらのアイデア、Appleの制作・研究チームが組み合わさったコンセプト映像でした。

携帯情報端末Newtonについて、ケイ自身は同じインタビューで「many grazing encounters」と表現しています。手書き認識やキーボードの必要性について意見を持っていましたが、Newton全体を設計した立場ではなく、後期のプロジェクトをまとめた人物としてLarry Teslerを挙げています。Apple在籍中のケイは、個別製品の発明者というより、次に来る個人向けコンピューティングを考え続ける研究者として働きました。

Mac、iPhone、iPadはDynabookの夢を実現したのか

1972年のDynabookと現在の機器を比べると、外形と機能の多くは現実になっています。MacやノートPCは個人が一台を持つ環境を一般化し、iPhoneやiPadは薄い画面、無線ネットワーク、タッチ操作、音声、カメラを一体化しました。電子書籍を読み、動画を見て、絵を描き、音楽を作り、世界中の情報へ接続できます。

ケイが目指した「personal dynamic medium」には、もう一段深い条件がありました。所有者が用意されたアプリを選ぶだけでなく、自分でモデルを作り、プログラムを書き、コンピュータの振る舞いを変更できることです。Smalltalkでは、画面上の世界とプログラムが近い場所にあり、子どもも実際にオブジェクトを動かしながら仕組みを変えていきました。

現代のPCやタブレットにもSwift Playgrounds、Scratch、各種IDEなど、作るための環境があります。プログラミングは1970年代よりはるかに身近になりました。一方、普段使うアプリの内部をその場で開き、部品を組み替え、利用者自身の道具へ作り直す体験は、Smalltalkが目指した日常的な操作環境とは異なる設計になっています。

この違いから、Dynabookを「iPadを50年前に予言した端末」と見るより、「コンピュータで人が何をできるようになるべきか」を問い続けた構想として見る方が、ケイの仕事をよく捉えられます。薄い端末、GUI、ネットワーク、電子メディアは広く普及しました。利用者が世界を理解するモデルを自分で作り、そのための道具まで作り替えるという教育・創造環境は、SqueakやEtoysなど後の研究にも引き継がれました。

パーソナルコンピュータの操作環境が成熟した後、Web時代にはブラウザの中で動く言語が必要になりました。その転換をたどる記事として、JavaScriptを生んだブレンダン・アイクの歴史もあわせて読めます。

現在の「dynabook」というパソコン名はアラン・ケイと関係ある?

関係があります。Dynabook株式会社の公式史は、東芝のPC開発がアラン・ケイの「dynabook」ビジョンを意識し、個人が持ち運べる学習・知的作業の道具を目指したと説明しています。

1985年には東芝がラップトップPC「T1100」を商品化し、1989年にはA4サイズの「DynaBook J-3100 SS001」を発売しました。現在のブランド名につながる「DynaBook」は、この時に商品名として登場しています。同社の公式ストーリーによると、商品名の使用にはケイ本人の祝福もあり、最初のモデルを見たケイが「まだ元のビジョンからは遠いが、よくやった」という趣旨で評価したと伝えています。

製品としてのdynabookと、ケイが1970年代に描いたDynabookは同じものではなく、前者が後者の理念から名前と方向性の影響を受けた関係です。Dynabook株式会社自身も、単なる計算機より「学習のメディア」「知的な道具」という思想をブランド史に位置づけています。

よくある質問

アラン・ケイは何をした人?

個人が持つDynabookを構想し、Xerox PARCでSmalltalkとGUIにつながるパーソナルコンピューティング研究を率いたコンピュータ科学者です。Alto、Smalltalk、GUIはいずれもチーム研究で、ケイはその方向性を示した中心人物の一人でした。

アラン・ケイはAppleで何をした?

1984年にApple Fellowとなり、Advanced Technology Groupで将来のコンピューティングや教育環境を研究しました。John Sculleyから「現代版Dynabook」を考えるよう求められ、Knowledge Navigatorのアイデア形成にも参加しています。

アラン・ケイがGUIを発明したの?

GUIはDouglas Engelbart、Ivan Sutherland、Xerox PARCの多数の研究者、Appleの開発者などが積み重ねた技術です。ケイはPARCで重なり合うウィンドウやSmalltalk環境の研究を先導し、現代GUIの形成に大きく貢献しました。

Dynabookとは何?

子どもも大人も個人で所有し、持ち運び、読む・書く・描く・音楽を作る・シミュレーションする・プログラムする、といった活動を一台で行う「個人の動的メディア」の構想です。

アラン・ケイはiPadを予言したの?

1972年のDynabookには薄型の携帯端末という点でiPadに似た要素があります。構想の中心には、利用者が自分でプログラムを書き、学習や創作の道具を作り替える環境まで含まれていました。

Smalltalkとは何?

Xerox PARCのLearning Research Groupが1970年代に開発したオブジェクト指向のプログラミング言語・実行環境です。Alan Kay、Dan Ingalls、Adele Goldberg、Diana Merry、Ted Kaehlerらが開発に関わり、Dynabook構想を実験するソフトウェア環境にもなりました。

現在のdynabookというパソコンと関係ある?

Dynabook株式会社は、東芝のPC開発がケイのDynabookビジョンから影響を受け、1989年の「DynaBook J-3100 SS001」という商品名につながったと公式に説明しています。

スティーブ・ジョブズとアラン・ケイはどんな関係?

ジョブズは1979年にXerox PARCを訪れ、ケイらの研究グループが育てたSmalltalk GUIのデモを見ました。その後1984年にはケイ本人がApple FellowとしてAppleへ加わっています。

「未来を予測する最善の方法は、それを発明すること」は本人の言葉?

Computer History Museumは「The best way to predict the future is to invent it.」をAlan Kayの言葉として掲載し、ACM Interactionsも1971年の発言として紹介しています。ケイの研究姿勢を象徴する言葉として広く記録されています。

参考文献

  • Alan C. Kay/「A Personal Computer for Children of All Ages」/1972年/mprove transcription
  • Alan C. Kay, Adele Goldberg/「Personal Dynamic Media」/1977年/DBLP・DOI: 10.1109/C-M.1977.217672
  • Alan C. Kay/「The Early History of Smalltalk」/1993年(HOPL-II)/ACM DOI
  • Computer History Museum/「Alan Kay」/更新年記載なし/CHM profile
  • Computer History Museum/「The 40th Anniversary of the Dynabook」/2008年/CHM event
  • Computer History Museum/「Smalltalk at 50」/2022年/CHM blog
  • Computer History Museum/「Xerox PARC」/更新年記載なし/CHM Revolution
  • Computer History Museum/「Apple Timeline」/更新年記載なし/CHM Apple Timeline
  • 公益財団法人稲盛財団/「アラン・カーティス・ケイ」/2004年/京都賞
  • TIME/「An Interview with Computing Pioneer Alan Kay」/2013年/TIME
  • Dynabook株式会社/「story of history」/更新年記載なし/Dynabook official
  • Dynabook株式会社/「The Birth of the World’s First Commercial Laptop」/更新年記載なし/Dynabook official story