国立映画アーカイブでたどる日本映画の歴史|活動写真から黄金期・テレビ・配信まで

国立映画アーカイブの常設展「NFAJコレクションでみる 日本映画の歴史」を歩くと、教科書では別々に見えていたものが、急につながって見えてきます。

外国から入った映写機。画面の横で語る活動弁士。スターを抱える映画会社。巨大なセットを組む撮影所。音を入れる録音機。国が映画を管理した検閲資料。テレビに観客を奪われた映画館。そしてデジタル撮影と配信へ。

映画は、監督と俳優だけで作られてきたのではありません。技術者、脚本家、撮影・照明・美術・録音のスタッフ、興行主、配給会社、出版社、テレビ局、広告会社、行政、そして観客が結びついて、初めて一つの文化と産業になりました。

この記事では常設展を重要な入口にしながら、日本映画の誕生から現代までを一本の物語としてたどります。展示パネルを順番に要約するのではなく、「なぜ次の時代へ移ったのか」「人物・会社・技術・社会がどう結びついたのか」を中心に整理します。

この記事で分かること

  • 外国の映像技術が、なぜ日本では活動弁士を伴う独自の上映文化になったのか
  • 日活、松竹、東宝、大映、東映、新東宝が、撮影所・人材・戦時統制を通じてどうつながるのか
  • トーキー、戦争、占領、テレビ、シネコン、デジタル、配信が映画産業をどう作り替えたのか
  • 国立映画アーカイブで、機械・台本・検閲印・ポスターをどう見ると歴史が立体的になるのか

30秒で分かる結論

ここだけ覚える日本映画史

技術の渡来弁士が日本語の上映文化を作る常設館と会社が製作を産業化撮影所がスターと技術者を育成トーキーが設備と雇用を再編戦時統制が会社を三社体制へ占領期の検閲と労働争議1950年代の黄金期テレビで観客と人材が移動独立プロ・ATG・角川・ミニシアターシネコン・製作委員会・デジタル・配信

日本映画史をひとことで言えば、外国から来た機械を、日本の興行・語り・会社組織・撮影所・観客が社会に根づく仕組みへ作り替え、その仕組みが戦争や新しいメディアの登場によって何度も組み替えられてきた歴史です。

5分で分かる日本映画史|まず全体像をつかむ

1896年、神戸でキネトスコープが公開され、翌1897年にはスクリーンへ投影する映画が各地で上映されました。初期の映画は輸入された機械とフィルムを見せる興行でしたが、日本では活動弁士と楽士が上映に加わり、同じ作品でも劇場ごとに違う体験が生まれます。

常設映画館が増えると、上映を続けるために新作が必要となり、製作・配給・興行を束ねる会社が成長しました。1912年に日活、1920年に松竹キネマが成立し、東京と京都の撮影所で継続製作が進みます。

1930年代のトーキー化は録音設備を持つ会社を有利にし、P.C.L.などが東宝へつながりました。1939年の映画法と戦時統制は製作・上映を国家管理のもとへ置き、1942年には松竹・東宝・大映を中心とする三社体制になります。

敗戦後は占領軍の検閲へ切り替わり、労働争議と会社再編を経て、1950年代に黄金期を迎えます。しかしテレビが家庭へ普及すると入場者は急減しました。撮影所の人材はテレビや広告へ移り、独立プロやATGは大会社の外に製作と上映の回路を作ります。

1970年代以降は角川映画のメディアミックス、ミニシアター、シネコン、製作委員会が映画の資金・宣伝・上映を変えました。現在はデジタルと配信が映画・テレビ・ネット作品の境界を揺らしています。

映画の渡来|機械は外国から、体験は日本で作られた

この章の意味は、日本映画の始まりを「最初の国産作品」だけでなく、機械を運ぶ商人、会場を用意する興行主、説明する語り手、見物する観客の出会いとして捉える点にあります。

キネトスコープは一人ずつ覗き込む装置でした。投影式のシネマトグラフやヴァイタスコープが入ると、多人数が同じスクリーンを見る興行へ変わります。電気、映写機、可燃性の高いフィルム、暗い会場を扱う技術が必要で、映画は最初から機械産業と都市興行の結合でした。

国立映画アーカイブの常設展にある初期映写機や関連資料は、「映画作品」より前に、映画を成立させる装置と仕事があったことを教えます。

活動弁士と無声映画|「声のない映画」ではなかった

この章の意味は、無声映画を欠けたトーキーとしてではなく、画面・語り・音楽・観客が一体になった完成した興行として見る点にあります。

活動弁士とは、無声映画の上映に合わせて人物の台詞、物語の説明、感情を声で表現した専門家です。日本では外国映画の習慣や場面を説明する必要があり、歌舞伎や講談など語りの文化も背景にあったため、弁士の役割が大きくなりました。

人気弁士は観客を呼ぶスターであり、映画館は作品名だけでなく弁士名を宣伝しました。映画会社が監督中心の表現を強めようとすると、弁士の説明を減らす「純映画劇運動」と緊張関係が生まれます。

尾上松之助(1875~1926年)は、牧野省三と組んで多数の時代劇に出演した初期の大スターです。牧野省三(1878~1929年)は京都の興行・撮影環境を使い、俳優、監督、会社、撮影所を結びつけました。英雄一人ではなく、継続製作の組織を作った点が重要です。

衣笠貞之助(1896~1982年)の『狂った一頁』(1926年)は、弁士による説明へ頼らず映像表現を押し広げた作品として知られます。ただし、実際の上映文化は弁士を一挙に消したのではなく、トーキー普及まで併存しました。

常設館・映画会社・撮影所|映画が産業になった瞬間

この章の意味は、映画会社を作品のロゴではなく、資金、人材、設備、配給、映画館を循環させる仕組みとして見る点にあります。

映画専門の常設館が増えると、毎週の番組を埋める新作が必要になります。1912年、横田商会、吉沢商会、福宝堂、エム・パテー商会が合同して日本活動写真株式会社、日活が成立しました。1913年には向島撮影所が開業します。

1920年、演劇興行を基盤にした松竹は松竹キネマを設立し、蒲田撮影所を開きました。日活が京都の時代劇、松竹が東京の現代劇という色を強める中で、助監督制度、専属俳優、撮影・照明・美術などの職能が育ちます。

撮影所システムの流れ図

会社の資金・企画 → 脚本 → 監督・助監督 → 俳優 → 撮影・照明・美術・録音 → 現像・編集 → 配給 → 系列映画館 → 宣伝・雑誌 → 観客の入場料 → 次の企画

一人の作家ではなく、雇用・設備・上映網が循環することで大量製作が成立しました。

関東大震災は人と産業の地図を変えた

1923年の関東大震災は東京の映画館、撮影所、現像設備、出版社を被災させました。日活向島撮影所は大きな打撃を受け、京都へ重心が移ります。災害は施設を壊すだけでなく、人材の移動と会社の得意分野を変えました。

トーキー革命|声が入ると、会社の地図まで変わった

この章の意味は、トーキーを表現上の進歩だけでなく、設備投資と雇用の再編として捉える点にあります。

トーキーは台詞・音楽・効果音を映像と同期させる映画です。1931年の松竹『マダムと女房』は、日本の本格的長篇トーキーを代表する作品です。

録音には防音スタジオ、静かなカメラ、マイク、録音技師、音声を再生できる映画館が必要でした。活動弁士と楽士は仕事を失い、発声・歌唱に向く俳優が求められます。技術革新は新しい職業を作る一方、既存の文化と雇用を終わらせました。

写真化学研究所P.C.L.は録音技術と現代的な製作を強みにし、J.O.スタヂオなどとともに東宝映画へつながります。演劇興行の東宝系資本、録音・撮影技術、撮影所、映画館網が結びつき、東宝は大手へ成長しました。

戦時統制・検閲|映画は国家から自由ではなかった

この章の意味は、映画会社の系譜が経営競争だけでなく、国家統制によって組み替えられたことを理解する点にあります。

1939年に映画法が施行されると、映画人の登録、脚本や完成映画の検閲、文化映画・ニュース映画の上映など、製作から興行まで国家の関与が強まりました。常設展の検閲印、検閲カード、認可台本は、「何を作ったか」だけでなく「何を作れなかったか」を示します。

1942年、日活の製作部門、新興キネマ、大都映画が統合されて大日本映画製作株式会社、大映が発足し、製作会社は松竹、東宝、大映の三社を中心とする体制へ絞られました。この統合は戦後の会社・撮影所・人材の系譜にも残ります。

戦時期には国策映画だけでなく娯楽映画や家族映画も作られました。作品を協力か抵抗かの二択にせず、検閲、資材不足、召集、会社方針、観客需要が重なった条件を見る必要があります。

敗戦と占領|検閲は消えず、方向が反転した

この章の意味は、1945年を自由の回復だけでなく、新しい占領権力による管理の始まりとして見る点にあります。

連合国軍総司令部GHQ/SCAPは、軍国主義的・封建的と判断した映画を排除する一方、民主主義、女性解放、労働、自由恋愛を促す方向で製作に影響を与えました。1945年11月には「非民主主義的映画の排除」が指令されています。

占領期には労働組合運動が活発になり、東宝争議から新東宝が分離しました。政治制度、労働、会社経営はスクリーン外の話ではなく、作品を生む条件そのものでした。

1950年代黄金期|巨匠だけでは作れない繁栄

この章の意味は、名監督の時代ではなく、大量生産・全国配給・映画館網・スター・技術者が同時に機能した時代として捉える点にあります。

映画館入場者数は1958年に約11億2,745万人、映画館数は1960年に7,457館へ達しました。大手会社は撮影所に俳優、監督、脚本家、撮影、照明、美術、録音、編集を抱え、二本立てを埋める作品を大量に送り出しました。

重要人物カード|作家性を支えた会社と協働

溝口健二(1898~1956年)
日活、第一映画、新興キネマ、大映などを移りながら、女性と制度、社会の力関係を描きました。長回しは撮影・美術・俳優との協働の成果です。

小津安二郎(1903~1963年)
松竹蒲田・大船の会社文化の中で家族と世代を描きました。脚本の野田高梧、撮影の厚田雄春、俳優陣との長い協働が重要です。

成瀬巳喜男(1905~1969年)
松竹からP.C.L.、東宝へ移り、働く女性や家族を描きました。会社移籍は作風と製作条件の関係を示します。

黒澤明(1910~1998年)
東宝で助監督経験を積み、脚本、撮影、美術、編集、俳優の集団作業を統率しました。『羅生門』は大映製作で、国際評価にも会社、字幕、輸出、映画祭の網が必要でした。

木下惠介(1912~1998年)は松竹で戦争、家族、地方社会を多様な形式で描きました。市川崑(1915~2008年)はアニメーション会社、東宝、新東宝、大映などを横断しました。今村昌平(1926~2006年)は松竹の助監督から日活、独立プロへ移り、撮影所再編そのものを経歴に刻みました。

スターと撮影所|会社は人物をブランドにした

日活は石原裕次郎や小林旭を軸に青春・アクション、東映は時代劇から任侠・実録、大映は京マチ子、若尾文子、市川雷蔵、勝新太郎、東宝は三船敏郎、特撮、サラリーマン喜劇、松竹は家族劇・人情喜劇を強みにしました。

専属契約は会社ごとの色を守り、人材育成を支えた一方、俳優や監督の移籍を制限しました。怪獣、時代劇、任侠、青春は単なるジャンルではなく、会社が設備・スター・観客層を組み合わせた生存戦略です。

深作欣二(1930~2003年)は東映で戦後社会の暴力と集団抗争を娯楽へ変えました。山田洋次(1931年生まれ)は松竹で『男はつらいよ』を長期シリーズ化し、撮影所衰退期にも映画館へ戻る観客との関係を作りました。

テレビ普及|映画は娯楽の王様から降りた

日本のテレビ本放送は1953年に始まり、高度経済成長の中で家庭へ普及しました。毎週、家庭でニュース、ドラマ、野球、歌番組を見られるテレビは、映画館へ行く理由を弱めます。

大手会社は製作本数を減らし、撮影所を縮小し、俳優やスタッフはテレビへ移りました。しかし映画文化が消えたのではありません。撮影、照明、録音、脚本、俳優の技能はテレビドラマやCMへ流れ、映像産業全体を広げました。

テレビ局は後に映画へ出資し、放送宣伝、二次利用、人気ドラマの映画化を通じて映画の資金調達側へ回ります。競争相手が共同製作者になる反転が、製作委員会方式へつながります。

独立プロ・ATG|大会社の外に映画を作る

独立プロは、社会問題、労働、教育、戦争責任など、大手が扱いにくい題材を小規模な組織と上映網で作りました。大島渚(1932~2013年)は松竹から独立し、政治、性、暴力、国家をめぐる作品を制作しました。

日本アート・シアター・ギルドATGは1961年に発足し、海外芸術映画の配給・上映、のちに若い作家や独立プロとの低予算共同製作を進めました。大手系列とは別の映画館、批評、大学、若者文化を結び、後のミニシアターやインディペンデント映画へ続く入口を作りました。

角川映画|出版社が映画会社の常識を変えた

1976年、角川書店は市川崑監督『犬神家の一族』で映画製作へ本格進出しました。原作小説、映画、大量広告、主題歌、テレビCM、雑誌、スターを連動させるメディアミックスは、自社撮影所と系列館で完結する従来の常識を揺さぶりました。

伊丹十三(1933~1997年)も1980年代に社会制度や日常の仕組みを娯楽映画へ変えました。撮影所出身でない監督、出版社、テレビ、広告が映画を動かす時代が明確になります。

ミニシアター・シネコン|映画館の役割が変わる

1974年に岩波ホールの「エキプ・ド・シネマ」が始まり、1980年代には独自選定で外国映画や独立系日本映画を届けるミニシアターが広がりました。少ない座席、単館上映、長期上映、批評、街の文化を結び、映画館自身が編集者になりました。

一施設に複数スクリーンを置くシネマコンプレックスは1990年代に急増しました。文化庁資料では1993年に日本初のシネコンが登場し、2002年末にはシネコンが全スクリーンの過半を占めました。

映画館の型 役割 課題
無声期の常設館 弁士・楽士を含むライブ体験 上映者への依存
戦後の大劇場・系列館 大量観客、二本立て、スター作品 会社系列に縛られる
ミニシアター 独自選定と観客コミュニティ 座席・宣伝費が小さい
シネコン 複数作品と回数の柔軟な編成 ヒット作へ集中しやすい
配信 時間と場所を越える 発見が契約・アルゴリズムに左右される

製作委員会・デジタル・配信|映画会社は一社ではなくなった

製作委員会では、映画会社、テレビ局、出版社、広告会社、芸能事務所、音楽会社、配信会社などが共同出資し、劇場、放送、出版、音楽、商品化、海外販売の権利と収益を分けます。一社の負担を抑える一方、意思決定や利益還元が複雑になる課題があります。

デジタルカメラ、編集、CG、音響、上映は、現像・プリント・運搬を中心とした工程を変えました。2025年末の全国3,697スクリーンのうち、デジタル設備は3,646スクリーンでした。

配信は劇場公開後の二次利用だけでなく、企画・出資、世界同時公開、シリーズ化、視聴データによる判断を広げました。それでも映画館は消えていません。2025年の入場者数は約1億8,876万人、興行収入は約2,744億円、邦画の構成比は75.6%でした。

媒体・産業・技術の変化図

無声期:フィルム+弁士+楽士+常設館
トーキー期:撮影所+録音+専属俳優+系列館
黄金期:大量製作+全国配給+スター+二本立て
テレビ期:撮影所人材が放送へ/映画会社は製作縮小
メディアミックス期:出版社+テレビ局+広告+音楽+映画
デジタル・配信期:製作委員会+CG+シネコン+配信+海外市場

映画会社系譜|会社名より人材・撮影所・事業を見る

映画会社系譜の模式図

  • 横田商会+吉沢商会+福宝堂+エム・パテー商会 → 日活(1912) → 戦時期に製作部門の一部が大映へ/1954年製作再開
  • 演劇興行 → 松竹キネマ(1920) → 松竹。蒲田撮影所から大船撮影所へ
  • 東京宝塚劇場+P.C.L.+J.O.スタヂオなど → 東宝映画(1937) → 東宝
  • 日活製作部門+新興キネマ+大都映画 → 大映(1942) → 1971年倒産後、事業・作品群は別法人を経て角川系へ
  • 東横映画+太泉映画+東京映画配給 → 東映(1951)
  • 東宝争議後の人材・製作部門 → 新東宝(1940年代後半) → 1961年経営破綻
  • 出版社・角川書店 → 角川映画(1976~) → 大映の作品・撮影所事業との結びつき

※法人の同一性、商号変更、事業譲渡、撮影所・作品権利・人材の継承は一致しない場合があります。産業史を理解するための模式図です。

人物・組織相関図|映画は監督の作品で終わらない

人物・組織 つながった相手 歴史上の意味
牧野省三 尾上松之助、京都の劇場・撮影所 時代劇、スター、継続製作を結んだ
小津安二郎 松竹、野田高梧、厚田雄春、笠智衆 長期協働が作家性を支えた
溝口健二 日活、第一映画、新興キネマ、大映 会社移動の中で作風を形成
黒澤明 東宝、大映、三船敏郎、橋本忍、宮川一夫 会社を越えたチームと海外流通
大島渚 松竹、独立プロ、ATG、テレビ 撮影所から独立し複数媒体へ
山田洋次 松竹、テレビ、映画館 媒体を往復し長期シリーズ化
角川書店 映画会社、出版、テレビ、音楽、広告 メディアミックスを定着
テレビ局 出版社、広告、芸能事務所、映画会社 競争相手から共同出資者へ
国立映画アーカイブ 製作会社、寄贈者、研究者、観客 フィルムと関連資料を保存・公開

展示で見る実物|資料が歴史をつなげる

映写機は映画が電気・精密機械・レンズの集合体だったことを示します。弁士の音声資料は無声映画が静かでなかったことを伝えます。検閲カードと認可台本は国家権力が紙の手続として作品へ介入したことを示します。撮影台本の書き込みは、完成映画が共同作業で変化した過程を残します。ポスターと映画館プログラムは、誰を主役にし、どの観客へ、何と併映して売ったかを教えます。

写真利用の注意:常設展会場では写真撮影が認められていますが、動画は禁止され、入口の注意事項が優先されます。「館内で撮影できること」と「写真をウェブ公開できること」は同じではありません。今回は権利条件を個別確認できるユーザー写真が提供されていないため、ポスター、俳優写真、展示パネル、展示品画像の転載は行っていません。

国立映画アーカイブの歩き方

  1. 機械を見る:撮影機・映写機・録音機から、その時代に可能だった表現を考える
  2. 会社名を見る:日活、松竹、P.C.L.、東宝、大映など、作品の背後の組織を追う
  3. 人物を会社間で追う:溝口、成瀬、黒澤らの移籍を見る
  4. 法律と検閲を見る:作れる作品の範囲が制度でどう変わったか確認する
  5. 映画館資料を見る:誰がどこで、何と組み合わせて映画を見たか想像する
  6. 保存を見る:残った資料だけで歴史が作られる危うさを考える

所在地は東京都中央区京橋3-7-6、展示室は7階です。開室は原則11時~18時30分、入室は18時まで。常設展は企画展開催期間のみ開かれるため、料金、休館日、開室延長を含め、訪問当日に公式のご利用案内展示スケジュールを確認してください。

現地で見られる施設・資料

施設 地域 見どころ
国立映画アーカイブ 東京・京橋 フィルム、機材、ポスター、台本、上映
松竹大谷図書館 東京・築地 演劇・映画の台本、雑誌、プログラム
鎌倉市川喜多映画記念館 神奈川・鎌倉 川喜多夫妻、国際映画交流、企画展、上映
東映太秦映画村・東映京都撮影所周辺 京都・太秦 時代劇セット、撮影所文化、映画観光
大映京都撮影所跡碑 京都・太秦 日活太秦から大映へ続く系譜
京都文化博物館フィルムシアター 京都・三条 京都ゆかりの映画、所蔵フィルム上映

全体年表|技術・会社・社会を同じ線上に置く

出来事 つながり
1896 神戸でキネトスコープ公開 見世物として映像装置が入る
1897 投影式映画が各地で公開 多人数のスクリーン興行へ
1912 日活成立 製作・配給・興行の企業化
1919 『キネマ旬報』創刊 批評・情報・観客文化
1920 松竹キネマ、蒲田撮影所 演劇興行会社が映画へ
1923 関東大震災 東京被災、人材と製作拠点が移動
1931 『マダムと女房』 本格トーキー、設備と雇用の再編
1937 東宝映画の基盤成立 録音技術と興行資本が結合
1939 映画法施行 国家統制が製作・上映へ
1942 大映発足、三社体制 戦時統合で会社系譜を再編
1945 敗戦、占領検閲 検閲基準が反転
1940年代後半 新東宝分離 東宝争議と労働・経営問題
1950 『羅生門』公開 翌年の国際受賞と海外流通
1951 東映発足 企業・撮影所を再編
1953 テレビ本放送開始 家庭内映像メディア
1954 日活製作再開、『ゴジラ』 青春・特撮のシリーズ戦略
1958 入場者数約11億2745万人 大衆娯楽の頂点
1961 ATG発足、新東宝経営破綻 大手外の上映回路
1971 大映倒産、日活路線転換 撮影所システムの節目
1974 エキプ・ド・シネマ開始 ミニシアター型上映
1976 角川映画『犬神家の一族』 メディアミックス
1993 日本でシネコン登場 複数スクリーン型興行
2000年代 デジタル撮影・上映普及 フィルムからデータへ
2010年代 定額動画配信が普及 映画・テレビ・ネットの境界変化
2018 国立映画アーカイブ独立 国立映画専門機関として発足
2025 入場者約1億8876万人、3697スクリーン 映画館と配信が併存

よくある誤解

トーキーは無声映画を完全に進歩させた?

音声は新しい表現を可能にしましたが、弁士と楽士のライブ性を失わせました。技術進歩には文化と雇用を終わらせる面もあります。

テレビが日本映画を滅ぼした?

観客を減らした一方、映画人と技術をテレビドラマ・CMへ移し、後にはテレビ局が映画へ出資しました。競争と融合の両方がありました。

配信があれば映画保存は簡単?

配信と長期保存は別です。契約終了で見られなくなる作品もあり、原版、データ、再生環境、権利情報を管理するアーカイブが必要です。

用語集

活動弁士
無声映画に合わせて説明や台詞を語った専門家。
常設館
映画を継続的に上映する映画専門館。
撮影所システム
会社が人材と設備を抱え、作品を継続製作する仕組み。
トーキー
映像と同期した台詞・音楽・効果音を伴う映画。
番線
配給会社と映画館の系列的な上映ルート。
独立プロ
大手会社の撮影所・系列から独立して映画を製作する組織。
ATG
芸術映画の配給・上映と低予算製作で重要だった日本アート・シアター・ギルド。
製作委員会
複数企業が共同出資し、権利・収益・リスクを分ける仕組み。
フィルムアーカイブ
映画と関連資料を収集・保存・復元・公開する機関。

FAQ

常設展だけで現代まで分かりますか?

映画前史から1960年代、アニメーションまでの骨格に優れています。1970年代以降は企画展、上映、図書室資料、文化庁・映連などで補うと通史がつながります。

映画に詳しくなくても楽しめますか?

会社名、機械、映画館、法律の四本の線を追えば、作品を全部知らなくても構造が見えます。

展示品を撮影してブログに載せられますか?

会場内の写真撮影可とウェブ掲載許諾は同じではありません。個別表示、会場規則、著作権・肖像権、利用目的を確認してください。

映画会社系譜に唯一の正解はありますか?

ありません。法人、商号、作品権利、撮影所、人材、配給網のどれを継承と見るかで図は変わります。本記事の図は模式図です。

まとめ|日本映画は画面の外側でつながっている

日本映画の始まりは外国から来た機械でした。しかし歴史を作ったのは機械だけではありません。活動弁士は日本語の声と解釈を与え、常設館は観客の習慣を作り、映画会社は人材・撮影所・配給・宣伝を束ねました。

トーキーは仕事の重心を弁士から録音技師へ移し、戦時統制は会社の地図を変えました。黄金期の名作は巨匠一人ではなく、量産体制、全国の映画館、スター、専属スタッフ、観客の厚みから生まれました。テレビはその仕組みを壊しながら人材を別の画面へ運び、後には映画へ資金を戻しました。ATG、角川、ミニシアター、シネコン、製作委員会、配信は、それぞれ作品を作り届ける回路を作り替えました。

国立映画アーカイブでは、有名な顔のポスターだけでなく、その横の台本、検閲印、録音盤、映写機、会社文書、映画館プログラムにも目を向けてください。別々に見えた資料が、一本の産業と文化の歴史としてつながり始めます。

関連記事

参考文献・参考サイト

  1. 国立映画アーカイブ「NFAJコレクションでみる 日本映画の歴史」
  2. 国立映画アーカイブ「常設展 展示品リスト」
  3. 国立映画アーカイブ「当館について」
  4. 国立映画アーカイブ「ご利用案内」
  5. 国立映画アーカイブ「よくある質問」
  6. 国立国会図書館「大正デモクラシーと新しいメディア」
  7. 国立映画アーカイブ「松竹第一主義 松竹映画の100年」
  8. 国立映画アーカイブ「東宝の90年」
  9. 国立映画アーカイブ「日本映画の発見III 戦争の時代」
  10. 国立国会図書館「日本国憲法の誕生 詳細年表」
  11. 国立映画アーカイブ「日本映画の発見VII 1970年代」
  12. 国立映画アーカイブ「日本の映画館」
  13. 国立映画アーカイブ「角川映画の40年」
  14. 文化庁「これからの日本映画の振興について」
  15. 日本映画製作者連盟「日本映画産業統計」
  16. 日本映画製作者連盟「過去データ一覧」
  17. 日本映画製作者連盟「全国スクリーン数」
  18. 経済産業省「コンテンツ産業」
  19. 鎌倉市川喜多映画記念館
  20. 東映太秦映画村「映画村の歴史」
  21. 京都市メディア支援センター「京都の映画文化と歴史」