白馬祠とは何か|Long Đỗ神・白馬伝説・タンロン四鎮「東鎮」の歴史

ハノイ旧市街のHàng Buồm(ハンブオム)通りにある白馬祠(Đền Bạch Mã)は、都城タンロンの東を守る「東鎮」として知られる寺廟です。祭神の中心はLong Đỗ(ロン・ドー。史料ではLong Độの表記もあります)と呼ばれる土地神で、唐代の高駢(Cao Biền)との対決、李公蘊(Lý Công Uẩn)による1010年の遷都と白馬の出現など、複数の伝承が重なっています。

現在の白馬祠を理解するには、9世紀や11世紀の出来事として語られる伝説と、それを記録した中世以降の史料、さらに17~19世紀の修復・祭祀記録を分けて読む必要があります。白馬祠は、王城の守護、旧市街の市場、商人社会、地域共同体の信仰が長い時間をかけて重なった場所です。

ハノイ全体の歴史の流れは、「コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史」で時系列に整理しています。

白馬祠とは何か|旧市街に残るタンロン東鎮

白馬祠は、現在のハノイ市ホアンキエム地区、76 Hàng Buồmにあります。Hàng Buồmは旧市街の中心部を東西に通る商業街で、寺廟の周囲には店舗、飲食店、旧商家、会館などが密集しています。

ハノイ市文化スポーツ局は、白馬祠をLong Đỗ神を祀る寺廟であり、タンロン四鎮の東鎮と説明しています。2022年1月18日には、白馬祠・ヴォイフック祠・クアンタイン祠・キムリエン祠から成る「Thăng Long tứ trấn」が、首相決定93/QĐ-TTgによって国家特別史跡に指定されました。

ただし、現在使われる「タンロン四鎮」というまとまりを、そのまま1010年の遷都時点へさかのぼらせると時代関係を単純化してしまいます。白馬祠の東方守護という性格は古い伝承に結びつく一方、四つの寺廟を東西南北の一体系として位置づける記録は後世に整えられました。

Long Đỗとは誰か|「龍の腹」と土地神の名前

Long Đỗは、漢字では「龍肚」などと説明され、「龍の腹」を意味する地名・神名としてタンロンの土地そのものと結びついてきました。ベトナム漢喃研究院の研究では、『越甸幽霊集(Việt điện u linh)』の複数写本にはLong Độの表記が多く、『嶺南摭怪(Lĩnh Nam chích quái)』系統ではLong Đỗが多いことが確認されています。

この表記差は、神格が一枚岩ではなく、写本伝承と避諱、地名解釈を通じて変化したことを示す史料上の手掛かりです。研究者のMai Hồngは、Long ĐộからLong Đỗへの変化について、陳朝の権臣Trần Thủ Độの名を避ける避諱との関係を一つの可能性として論じています。

神号にも揺れがあります。『越甸幽霊集』ではQuảng Lợi(広利)を含む神号が現れ、『嶺南摭怪』系統にはQuảng Lạiの表記もあります。後世の『Bạch Mã thần từ khảo chính』は、黎利(Lê Lợi)の名を避けて「Lợi」を改めたという説明を伝えます。こうした異同は、Long Đỗ信仰が王朝ごとの政治文化や写本の継承を受けながら続いたことを物語ります。

白馬祠の祭神を「白馬という動物神」とだけ捉えると、こうした史料の層が抜け落ちます。中心にあるのは大羅・タンロンの土地神Long Đỗで、そこへ白馬の顕現伝説と「Bạch Mã Đại Vương(白馬大王)」の呼称が重なっていきました。現代の祭礼では「Long Đỗ – Thần Quảng Lợi Bạch Mã Đại Vương」という複合的な呼称が用いられています。

高駢とLong Đỗの伝説|大羅城をめぐる「術」と土地神

9世紀後半、唐の将軍・官僚である高駢(Cao Biền)は安南都護として大羅城を整備しました。866年の築城は、後のタンロンにつながる都市史の重要な節目です。白馬祠の伝承では、この高駢がLong Đỗの霊威に敗れる人物として登場します。

『越甸幽霊集』や『嶺南摭怪』系統の物語では、高駢が大羅城を築いていたとき、東方に五色の雲が現れ、その中に神人あるいは龍の姿を見ます。高駢はこの土地の霊気を抑えようとして鉄や銅を用いた呪術的な鎮圧を試みますが、雷雨や風によって仕掛けが壊れ、土地神の力を認めて祀ったと語られます。

この物語は866年から数世紀後に記録された神霊説話として読む必要があります。『越甸幽霊集』は14世紀前半に編まれた神霊説話集として伝わり、『嶺南摭怪』も中世以降の伝本を通じて知られる説話集です。高駢の時代から数世紀を経た社会が、唐の支配者と在地の神との対決という形で都市の起源を語った資料として扱う必要があります。

高駢はベトナム各地の伝説で風水や霊脈を読む人物として描かれます。史実として確認できるのは、高駢が唐の支配下で大羅城を大規模に整備したことです。Long Đỗとの術比べは、後代の人々が「外来の統治権力よりも土地の霊威が強い」という物語へ歴史を組み替えた伝承と位置づけられます。

李公蘊と白馬伝説|1010年の遷都後に語られた築城の助力

1010年、李公蘊は華閭から大羅へ遷都し、都をThăng Long(昇龍)と改めました。遷都の政治的背景や『遷都詔』については、李公蘊と1010年のタンロン遷都で詳しく扱っています。

白馬祠の有名な伝説では、遷都後に城壁を築いても崩落が続いたため、王がLong Đỗ神に祈願しました。すると祠から白馬が現れ、東から西へ歩いて蹄の跡を残し、やがて祠へ戻って姿を消します。王がその足跡を基準に城壁を築かせると工事が成功し、神へ封号を与えて祠を修復したと語られます。

この白馬の物語は、現代のハノイ市文化スポーツ局による祭礼紹介にも継承されています。一方、城壁工事の具体的な工程を示す同時代の行政記録として残った話ではなく、寺廟の由来を説明する伝説です。タンロン皇城の地下では大羅期から李・陳・黎・阮朝期までの遺構が重なっており、実際の都市建設は長期の改築と再利用の積み重ねでした。タンロン皇城の遺構と発掘成果を見ると、伝説が語る一度の築城と、考古学が示す長い都市形成の違いがよく分かります。

伝説と史料をどう区別するか|三つの時間を分けて読む

白馬祠の歴史には、少なくとも三つの時間があります。第一は、高駢が大羅城を整備した9世紀と、李公蘊が遷都した11世紀の政治史です。第二は、それらの出来事を神霊譚として記した中世の説話集の時間です。第三は、寺廟が実際に修復され、碑文・神勅・祭礼規則が残る近世以降の時間です。

層確認できること読み方
9~11世紀の政治史大羅城の整備、1010年の遷都、タンロンの王都化王朝史・考古資料と照合する
中世の神霊説話高駢とLong Đỗ、白馬の顕現など後世に形成された都市の記憶として読む
17~19世紀以降の寺廟史修復碑、勅封、祭祀、建築改修、地域共同体現存資料から具体的な変化を追う

この区別を置くと、「白馬が城を完成させた」という信仰上の物語を尊重しながら、築城の史実と混同せずに読めます。同時に、伝説自体も後世の都市社会が何を守護の象徴としたかを知る歴史資料になります。

タンロン四鎮「東鎮」への位置づけ|いつ四方守護になったのか

現在の四鎮は、東の白馬祠、西のヴォイフック祠(Đền Voi Phục)、南のキムリエン祠(Đền Kim Liên)、北のクアンタイン祠(Đền Quán Thánh)で構成されます。2022年にはこの四史跡が一体で国家特別史跡に指定されました。

白馬祠の由緒説明では、李朝の遷都と東方守護が強く結びつきます。ただし、ハノイ市文化スポーツ局が2020年の学術座談会を紹介した記事では、白馬祠が「Thăng Long Tứ trấn」の一つとして扱われるのはLê Trung Hưng(黎中興)期以降とされています。四鎮の枠組みは、各寺廟の創建時期より後に整えられたと考える方が史料の順序に合います。

15世紀の洪徳版図に関連する都市図や、阮朝期のハノイ地誌には四方の寺廟を結びつける要素が見られますが、名称・構成・説明には史料ごとの差があります。現在一般的な「タンロン四鎮」という呼称も、近現代に整理された表現を含みます。

四鎮を歩く場合は、四社が同時に計画された施設群と考えるより、異なる起源をもつ神々が首都の空間秩序へ組み込まれていった過程を見ると理解しやすくなります。親記事のハノイ2200年史では、王城・学問・信仰・商業を一つの都市史としてつないでいます。

歴代王朝による祭祀と修復|現存建築は近世・近代の改修を重ねた姿

白馬祠は「9世紀創建」と紹介されることがありますが、現在見える建物は、9世紀の創建伝承よりはるか後の修復・増築を重ねた姿です。ハノイ市文化スポーツ局は、現存建築の姿を主として19世紀・阮朝期の建築様式と説明しています。内部には17世紀末の美術様式を持つ遺物も残り、寺廟が何度も修復・増築されたことが分かります。

修復史の重要な節目が1687年(正和8年)です。この年の修復碑は、寺廟の建物だけでなく、祭神理解が変化した痕跡も伝えます。漢喃研究院のMai Hồngは、1687年の碑や祭祀資料に漢代の伏波将軍・馬援(Mã Viện)を祭神とする記述が現れる点を取り上げ、Long Đỗを祀る古い説話系統との不一致を検討しています。

その研究では、修復時に中国系商人が寄進に関わったことと、Mã Việnをめぐる信仰が混入した可能性が論じられています。後世の『Bạch Mã thần từ khảo chính』はこうした祭神の混乱を正そうとしました。白馬祠をLong Đỗと白馬の伝説だけで完結させず、商人社会や祭祀資料の書き換えまで見る必要がある理由です。

18世紀後半には周辺の地域共同体が祭祀を担う仕組みが整えられ、19世紀には1829年の修理、1839年の文祠・方亭の整備などが記録されています。2000年にも修復が行われました。ハノイ市文化スポーツ局は寺内に18基の石碑と17道の阮朝勅封が残ると報告しています。一方、別の公的観光案内では石碑数を15基とする記載もあり、現地表示や最新の目録で確認したい項目です。

現在の建築で見るべき意匠・碑文

白馬祠へ入ると、通りに面した入口の奥へ建物が連続し、旧市街の細長い敷地に宗教空間が展開します。現状は阮朝期を中心とする修復の結果で、建物配置や装飾には近世・近代の修復と増築の履歴が反映されています。

方亭と八つの屋根

前方の方亭(phương đình)は八つの屋根を持つ構成で、旧市街の密集した街路から境内へ入る視覚的な節目になります。外から屋根の重なりを確認してから奥へ進むと、建物群の軸線を把握しやすくなります。

「蟹の甲羅」のような連結屋根

ハノイ市文化スポーツ局が特徴として挙げるのが、建物をつなぐ「vỏ cua(蟹の甲羅)」形の屋根です。複数の棟を連続させ、限られた敷地の中に一体的な礼拝空間をつくっています。

碑文・勅封・扁額

石碑や勅封は、創建伝説より後の時代に寺廟がどのように維持されたかを追える資料です。碑文の年代、寄進者、修復記録、神号の表記へ目を向けると、Long Đỗ/Long Độ、Quảng Lợi/Quảng Lạiなどの異同が単なる表記揺れではなく、信仰の伝承過程と関係していることが分かります。

白馬像

境内で目を引く白馬像は、寺名と遷都伝説を視覚化した存在です。公的観光案内では現在の像を阮朝期の製作と説明しています。11世紀の遺物として見るより、後世に白馬伝説がどのように形へ定着したかを見る対象です。

Hàng Buồmと旧市街の商人社会|市場の中の守護神

白馬祠の周囲は長く市場・商業地区であり、王城東方の守護と商人社会の双方が寺廟の歴史に関わっています。『越甸幽霊集』の白馬神説話には、李太宗期に東門近くの市場と店舗が寺の周囲まで広がったという描写があります。これは11世紀の商業状況をそのまま記録した同時代文書ではなく、中世の編者が「古い祠と賑わう市場」の関係をどう認識していたかを伝える記述です。

Hàng Buồm周辺は近世から近代にかけて商人の集住が進み、中国系商人の会館や寺廟も置かれました。現在22 Hàng Buồmに残る広東会館系の施設、28 Hàng Buồmの関帝を祀る遺構などは、その商業ネットワークを伝えます。白馬祠はそれ以前から続く在地の都市守護信仰を核とし、その周囲に後代の商業・移住コミュニティの宗教空間が重なりました。

1687年の修復に中国系商人の寄進が関わったとする研究は、この重なりを具体的に考える材料になります。祠は王朝の勅封を受ける場所であると同時に、周辺の商人や住民が実際に維持する地域の宗教施設でもありました。

旧市街の「36通り」は、同業者・同郷者の集住、商品流通、寺廟・会館・亭などの宗教施設が近接する都市空間として発達しました。白馬祠からHàng Buồm、Mã Mây、Hàng Bạc方面を歩くと、王城中心の歴史とは異なる「生活する首都」の層を追えます。旧市街とタンロンの関係はハノイ2200年史の商業都市の章も参照してください。

現在も続く祭礼と信仰|2026年の白馬祠祭礼

白馬祠の祭礼は現在も続いています。ハノイ市文化スポーツ局によると、2026年の伝統祭礼は3月30日・31日、旧暦2月12日・13日に76 Hàng Buồmの白馬祠で行われました。

3月30日の開幕では、開会太鼓、祝文の奉読、男性祭員による祭礼(tế Nam quan)などが行われ、31日には女性祭員による奉香、芸能、礼謝の儀礼が続きました。祭礼期間中は無料開放され、住民と参拝者が参加しています。公式記事は祭神を「Long Đỗ – Thần Quảng Lợi Bạch Mã Đại Vương」と表記しており、古い土地神の名と白馬大王の称号が現代の祭祀の中で一体化して用いられていることも確認できます。

祭礼は、古い説話が本の中だけに残ったものではなく、現在の地域社会で儀礼として再生されている場です。歴史研究では神名や成立年代を細かく区別し、現地では現在の信仰実践がどのような形で続くかを見るという二つの視点を併せると、寺廟の長い時間を捉えやすくなります。

現地見学ポイント|白馬祠で何を見るか

  • 入口と街路の近さ:Hàng Buồmの商店街から数歩で宗教空間へ切り替わる都市構造を見ます。
  • 方亭と連結屋根:八屋根の方亭と「vỏ cua」形の屋根を確認し、19世紀を中心とする現存建築の特徴を見ます。
  • 白馬像:1010年の築城伝説を後世の造形がどう表現したかを見ます。
  • 扁額・対聯・碑:Long Đỗ、Quảng Lợi、東鎮などの神名・称号を探します。
  • 祭祀空間:観光展示としてだけでなく、現在も奉香・祭礼が行われる現役の信仰施設として見学します。
  • 周辺の会館・寺廟:Hàng Buồmの商人社会と華人コミュニティの痕跡を合わせて歩きます。

2026年9月時点の案内では、通常の開館は8:00~12:00、13:30~17:30、金・土・日は19:00~21:00の夜間枠があり、通常料金は20,000ドンです。祭礼日や祝日などに無料開放が行われる場合があります。料金・時間は変更されるため、訪問直前にハノイ市または管理機関の最新案内を確認してください。

旧市街散歩での回り方|白馬祠から商人街と王城へ

白馬祠は短時間でも見学できます。旧市街の商人社会とタンロンの政治中枢までつなげて歩くと、寺廟の位置がよく分かります。

順番場所見るテーマ
1白馬祠(76 Hàng Buồm)Long Đỗ、白馬伝説、東鎮、現存建築
222 Hàng Buồm周辺広東系商人の会館・移住コミュニティ
328 Hàng Buồm周辺関帝信仰と商人街の宗教空間
4Mã Mây・Hàng Bạc方面旧商家、職人・商人の町割り
5タンロン皇城王城の実物遺構と長期の都市形成

白馬祠からタンロン皇城へ移ると、「都市の守護を語る伝説」と「王城地下に残る考古遺構」を同じ日に比較できます。先に李公蘊の遷都を読んでおくと、1010年の政治的な遷都と白馬祠の築城伝説を切り分けやすくなります。

四鎮を一日で巡る場合は、旧市街の白馬祠から北のクアンタイン祠、西のヴォイフック祠、南のキムリエン祠へ移動する流れが考えられます。四社は離れているため、徒歩だけでなく配車アプリやバスを組み合わせる方が現実的です。

まとめ|白馬祠は「都市の記憶」が積み重なった場所

白馬祠では、9世紀の大羅城、1010年の遷都、中世の神霊説話、近世の勅封と修復、旧市街の商人社会、現代の祭礼が一つの場所に重なっています。Long Đỗ、白馬大王、東鎮という名称は、同じ時代に一度に成立した語ではなく、異なる時代の信仰と史料の積み重ねとして読む必要があります。

現地では白馬像だけでなく、19世紀を中心とする建築、17世紀以降の修復痕跡、碑文・扁額、Hàng Buồmの街路との近さを見ると、白馬祠が王朝の守護神であると同時に、商業都市ハノイの地域信仰でもあったことを具体的に追えます。

参考文献・公式情報