ハノイの中心にあるホアンキエム湖(Hồ Hoàn Kiếm/Hồ Gươm)は、面積約11.6ヘクタールの小さな湖です。水面には亀塔(Tháp Rùa)が浮かび、北岸から赤い棲旭橋(Cầu Thê Húc)を渡ると玉山祠(Đền Ngọc Sơn)があります。現在は観光名所として知られますが、湖の形、名称、建物をたどると、紅河の流路、黎朝の独立回復、鄭主の都市改造、19世紀の知識人文化、フランス植民地都市化が同じ場所に重なっています。
よく知られる「黎利が神亀に剣を返したため還剣湖と呼ばれるようになった」という物語は、数百年にわたる説話の変化を経て現在の形になりました。15世紀の同時代史料が記す内容とは段階が異なります。湖畔を歩くときは、黎利の独立戦争という史実、後世の伝承、近世の都市景観、近代の都市計画を分けて見ると、ホアンキエム湖の歴史が立体的に読めます。
ホアンキエム湖とは何か
ホアンキエム湖は、ハノイ旧市街の南、フランス植民地期に形成された官庁・商業地区の北に位置します。文化遺産局の指定資料では湖面積は115,511平方メートルで、湖・玉山祠・黎太祖記念地区を一体として「ホアンキエム湖と玉山祠」の国家特別史跡に指定しています。指定は2013年12月9日の首相決定2383/QĐ-TTgによるものです。
現在の地図だけを見ると、湖は市街地の中央に残された独立した水面に見えます。歴史的には紅河(Sông Hồng)の水系とつながる、はるかに大きな水域の一部でした。湖の西には王都・東都の政治空間、北には商工業の町、東から南には後にフランス人地区が広がりました。湖が「ハノイの中心」と感じられる現在の位置づけは、自然地形の上に、それぞれの時代の都市改造が積み重なって形成されました。
ハノイ全体の歴史を先に押さえたい方は、親記事のコーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史もあわせて読むと、ホアンキエム湖が王城・旧市街・近代都市のどこに位置するか整理しやすくなります。
紅河と旧流路から見る湖の成り立ち
ベトナム文化遺産局とハノイ市文化当局は、ホアンキエム湖を古いニハ川(Nhị Hà、紅河の旧称)の流路の痕跡と説明しています。紅河デルタでは、河道の移動、洪水、堆積、堤防建設によって旧流路や湿地が取り残されてきました。現在のホアンキエム湖も、そうした河川地形の上に都市が形成された場所です。
前近代の湖は現在より広く、東側で紅河水系とつながる部分を持っていました。19世紀末まで残った東南側の水面は、後述するHữu Vọng湖、Thủy Quân湖に当たります。黎中興期には湖を横切る土手・道路が造られ、東西・南北の交通と宮殿地区の配置に合わせて水域が分けられました。1884年以降、フランス当局が東南部の水面を埋め立て、街路と市街地を造成したことで、現在に近い輪郭が固まります。
「湖が紅河の旧流路である」という地形史と、「湖で神亀が剣を受け取った」という伝承は別の層に属します。地形史は河川と都市改造の問題であり、還剣伝説は王権と独立の記憶をめぐる物語です。両者を分けると、湖の実在する地理と、湖に与えられた文化的意味をそれぞれ追えます。
湖の名前はどう変わったか
ホアンキエム湖の旧称は、観光案内では一列の「改名史」として紹介されることがあります。史料をたどると、同じ水域の範囲が時代によって変化し、名称も用途や区画と結びついています。とくにTả VọngとHữu Vọngという名称が確認されるのは黎利の時代より後の黎中興期です。
| 名称 | おおよその時期・根拠 | 意味・注意点 |
|---|---|---|
| Lục Thủy(緑水) | 古称として官公庁資料に記載。成立年代の特定は難しい | 緑色の水面に由来すると説明されます |
| Tả Vọng(左望) | 黎中興期、とくに鄭主政権期 | 大きな湖を土手で分けた一方。現在のホアンキエム湖の中心部分に対応します |
| Hữu Vọng(右望) | 黎中興期、とくに鄭主政権期 | もう一方の水域。後に軍事利用と結びつきます |
| Thủy Quân(水軍) | 阮朝・嗣徳帝期(1847~1883) | Hữu Vọng側が水軍の演習・閲兵に使われたことと結びつく名称です |
| Hoàn Kiếm(還剣)/Hồ Gươm(剣湖) | 前近代後期の文献に確認。15世紀直後の改名を示す同時代記録は確認が難しい | 黎利と神剣の物語に結びつく現在の代表名です |
2019年のホーチミン市師範大学『Journal of Science』掲載論文は、玉山祠の碑文を引き、黎中興後に土を盛って道路を造り、湖をHữu VọngとTả Vọngに分けたという記録を検討しています。同論文は、現代の説話で黎利が「Tả Vọng湖」を船で進む場面について、この名称は後代に現れるため時代錯誤を含む可能性を指摘します。
黎利と明支配からの独立
還剣伝説の中心人物、黎利(Lê Lợi、1385~1433)は、後黎朝の初代皇帝・黎太祖です。明は1407年に大越を占領し、交趾として統治しました。黎利は1418年、現在のタインホア省ラムソンで挙兵します。初期の反乱軍は小規模で、包囲や退却を重ねながら勢力を広げました。
1426年には東関(Đông Quan、現在のハノイ)を圧迫し、1427年には明の援軍をチーラン・スオンザン方面で破りました。同年12月、黎利側と明将王通は東関会盟を結び、明軍の撤退条件を定めます。明軍は同年末から撤退し、黎利は1428年に東京で皇帝に即位しました。国家独立の回復と新王朝の成立は史料で追える政治・軍事史です。
この戦争を象徴する「順天(Thuận Thiên)の剣」も早い段階の文献に登場します。1431年成立とされる『藍山実録(Lam Sơn thực lục)』では、黎慎(Lê Thận)が漁の網で鉄片を得て、黎利が磨くと「順天」などの文字が現れ、後に別に見つかった柄と合ったと語られます。記述は剣を得る場面までで、ホアンキエム湖での返剣は後代の伝承に現れます。
還剣伝説の内容
現在広く知られる物語では、黎利の反明闘争を助けるため、龍君(Long Quân)が神剣を授けます。黎利はその力を得て明軍を退け、国が平定された後に湖を遊覧します。そこへ金色の亀が現れ、龍君から預かった剣を返すよう求めます。黎利が剣を差し出すと亀は剣をくわえて水中へ消え、湖は「剣を返す湖」=Hoàn Kiếmと呼ばれるようになった、という筋です。

この形の物語は、戦争の開始と終結を一振りの剣で結びます。剣を得る場面では天命や正統性、剣を返す場面では戦いの終結と平和への移行が強調されます。この完成形を確認できるのは後代の文献です。伝説がいつどのように組み替えられたかを、各時代の文献から追う必要があります。
伝説はいつ、どの史料に現れるのか
還剣伝説の成立を考える際に役立つのが、2019年の研究「Truyền thuyết ‘Hồ Hoàn Kiếm’ – một cách đọc liên văn bản」です。著者らは、15世紀から近代までの複数文献を比較し、「剣を得る話」「剣を失う話」「剣を返す話」が同じ時期に完成したものではないことを整理しています。
- 1431年『藍山実録』:黎利が「順天」と刻まれた剣を得る話があり、記述は神剣の入手までです。
- 18世紀末ごろ『山居雑述(Sơn cư tạp thuật)』:大亀が現れ、黎太祖が剣を湖へ投げ、湖の水を汲み出して探させる話が記されます。現代版の穏やかな「返却」と筋が異なります。
- 18世紀末~19世紀初頭の伝承を含む『桑滄偶録(Tang thương ngẫu lục)』:大きなスッポン状の動物が現れ、剣が水に落ち、王が湖をせき止めて探させたという話があります。後世に湖をTả VọngとHữu Vọngへ分けたという説明も続きます。
- 1844年『龍編百二詠(Long Biên bách nhị vịnh)』:黎太祖がラムソン挙兵時に神剣を得たという伝承を記します。
- 1865~1882年編纂『大南一統志』:黎太祖が湖で大亀に剣を取られる話と、後代に剣の柄が湖面へ現れたという別伝を記します。
- 20世紀の Nguyễn Đổng Chi『Kho tàng truyện cổ tích Việt Nam』:龍君が剣を貸し、国が平和になると金亀が返却を求める、現在よく知られる「借剣―勝利―還剣」の筋が明瞭になります。
この比較から、還剣伝説を「1428年前後に成立した一つの固定した話」とみなすより、黎利の神剣説話、湖にいた巨大な水生爬虫類の記憶、黎朝の盛衰をめぐる予兆譚、湖名の由来説明が長い時間をかけて接続したものと考える方が史料に沿います。
「還剣」という物語が持った政治的・文化的意味
黎利の反明闘争は、1418年の挙兵から1427年の明軍撤退まで約10年に及びました。新王朝の始祖を神剣と結びつける物語は、勝利を天命の承認として表現する王権説話の型と重なります。『藍山実録』の「順天」という語自体も「天に順う」という政治的な語彙を含みます。
一方、現代に広まった「国が平和になったので剣を返す」という筋では、武器を持ち続ける王より、使命を終えて武器を返す王が強調されます。2019年論文が指摘するように、この結末は中世・近世の「剣を失う」「王が怒って探す」という話と大きく異なります。物語の変化そのものが、黎利の記憶が王朝の吉凶を語る逸話から、独立回復と平和を象徴する国民的説話へ再編集されてきた過程を伝えます。
ホアンキエム湖という都市空間も、その記憶を日常化しました。王宮の奥に置かれた記念物と違い、湖は商業地区や街路に接し、市民が歩き、休み、祭礼や集会に使う場所です。神剣の物語が教科書や観光案内で反復される一方、湖そのものは毎日の都市生活の舞台であり続けました。
鄭主時代の湖と都市
16世紀末以降の黎中興期、名目的な皇帝である黎氏と実権を持つ鄭主が並立しました。1592年に鄭氏がタンロンを回復した後、王城周辺には大規模な鄭主府が築かれ、湖の西側から東側へ連なる政治・儀礼空間が形成されます。研究では、鄭主府の建設が1592年から18世紀中葉まで長期にわたって進んだとされます。
この時期、広い湖には土手と道路が入り、Tả VọngとHữu Vọngの二つの水域として扱われます。ハノイ市の都市史資料は、湖東岸の五龍楼(Lầu Ngũ Long)、湖上のTả Vọng亭、南側の宮殿関連施設などを挙げ、Hữu Vọng側を水軍の閲兵に用いたと説明します。阮朝の嗣徳帝期にはHữu VọngがThủy Quân湖と呼ばれました。
近世の湖を理解すると、現在の「亀塔=還剣伝説の舞台」「玉山祠=独立伝説の寺」という単純な対応から離れられます。湖上と湖岸には、鄭主の宮殿、軍事利用、知識人の施設などが時代ごとに重なり、現在残る建築の多くは19世紀以降に形を整えました。
玉山祠・棲旭橋・筆塔・硯台――19世紀知識人の文化拠点
湖の北東に浮かぶ玉島(Đảo Ngọc)の玉山祠は、現在の境内が主に19世紀の知識人活動の中で整えられた場所です。1840年代初頭、向善会(Hội Hướng Thiện)がここを活動拠点とし、文昌帝君を中心とする教化・学問の場を形成しました。1843年のVũ Tông Phanによる碑文は、士人が集い、修養し、人々に役立つ行いを広げる場として境内を位置づけています。
向善会は経書や倫理書、医薬書、一般知識の書物を版木で刊行し、定期的な講話も行いました。漢喃研究院のVũ Thế Khôiによれば、1966年の時点でも寺には1,156枚の版木が残っていたとされます。Vũ Tông Phanの学校Hồ Đình、Nguyễn Văn Siêuの学校Phương Đìnhをはじめ、湖周辺には私塾が集まりました。玉山祠は信仰施設であると同時に、19世紀ハノイの出版・教育・士人ネットワークの結節点でした。
Nguyễn Văn Siêuが主導した改修では、筆塔(Tháp Bút)、硯台(Đài Nghiên)、棲旭橋、鎮波亭(Đình Trấn Ba)などが境内景観を形づくりました。観光案内では1864年や1865年完成とされることが多い一方、漢喃研究のVũ Thế KhôiはNguyễn Văn Siêu自身の文をもとに改修期を1859~1863年と論じています。年代には資料差があるため、現地では「19世紀中葉の一連の再整備」と捉えると安全です。
入口近くの筆塔は毛筆の穂先をかたどり、「写青天(Tả thanh thiên、青天に書す)」の文字を掲げます。その先の硯台は硯を象徴し、赤い棲旭橋は玉島へ続きます。橋名は朝日の光に関わる名です。鎮波亭は「波を鎮める」という名を持ちます。これらを一続きに見ると、筆・硯・光・水を使って、学問と修養の空間を視覚化した設計が読み取れます。
亀塔はいつ、なぜ建てられたか
湖中央の亀塔は19世紀後半に成立した建築で、黎利の時代から約450年後の景観に属します。下層の尖頭アーチと上部のベトナム的な屋根を組み合わせた外観は、フランス占領初期のハノイという時代を反映しています。
広く流布する説明では、1886年にBá hộ Kimと呼ばれたNguyễn Ngọc Kimが建設したとされます。父の遺骨を島へ葬ろうとしたという逸話もよく語られます。ただし建設年代と人物比定には史料上の論争があります。同時代フランス語資料を再検討したハノイ史研究では、1870年代後半に存在した塔と1884年前後の現在型の塔を区別する説があり、1886年完成説をそのまま確定年代にすることへ異論が出ています。
確実に押さえやすいのは、現在の亀塔が19世紀後半の建物で、還剣伝説の出来事から約450年後の都市景観に属することです。さらに1890年にはフランス側が自由の女神像の小型レプリカを塔上に設置し、1896年ごろ別の場所へ移しました。現在「伝統的ハノイの象徴」に見える亀塔も、植民地初期の建築と象徴政治を経験しています。
フランス植民地都市化で湖周辺はどう変わったか
1880年代、ホアンキエム湖はフランスがハノイを植民地都市へ再編する中心点になりました。ハノイ市の資料では、1884年からHữu Vọng/Thủy Quân側の埋立が進み、東南部に新しい街区が造成されました。国立建築研究所が紹介する公文書では、1884年に湖周回道路の計画が作られ、1885年4月に整地が始まったとされます。
フランス側はホアンキエム湖をPetit Lac(小湖)と呼び、西湖をGrand Lac(大湖)と呼び分けました。国立公文書センターの資料では、湖の周囲に少なくとも一定幅の公共空間を確保し、Boulevard autour du Petit Lacという周回道路を造る計画が1884年から進みました。道路は用地収用を伴い、1890年代初頭まで段階的に整備されます。1887~1890年には岸辺が植栽され、公園的な空間へ変えられました。
湖の東から南には郵便局、市庁舎、銀行、行政施設、広い街路が配置され、北側には既存の商業地区が残りました。ホアンキエム湖は、北のベトナム人商業都市と南・東のフランス人地区の境界であり、両者をつなぐ都市の焦点にもなります。現在の湖畔に広い歩道と街路樹があり、水面を囲んで官庁・商業施設・旧市街が接する構成は、この植民地期改造の影響を強く受けています。
ベトナム全体の植民地統治と都市改造の背景は、フランス植民地時代のベトナム|支配は社会と暮らしをどう変えたのかで詳しく扱っています。王城側の変化はタンロン皇城を徹底解説|歴史・発掘・見どころ・世界遺産とつなげて見ると、湖と旧王城が別々の近代化を受けたことが分かります。
巨大スッポン/カメと都市の記憶
ホアンキエム湖には実際に巨大な軟甲類が生息していました。2017年の『Academia Journal of Biology』掲載研究は、湖の個体から得た遺伝情報を複数遺伝子で比較し、スウィンホーオオスッポン(Rafetus swinhoei)と同じクラスターに入ると報告しました。かつて「Rafetus leloii」という別種名を当てる説もありましたが、分子系統解析はR. swinhoeiとの同定を支持しています。
ホアンキエム湖で最後に確認されていた大型個体は2016年1月19日に死亡しました。Asian Turtle Programは、この個体をRafetus swinhoeiとして記録しています。2024年のEnvironmental DNA誌の研究も、ホアンキエム湖個体の死を同種保全史の重要な損失として扱っています。
生物学上のRafetus swinhoeiと、伝説上の金亀神(Kim Quy)は性格が異なります。前者は分類学・遺伝学・保全生物学の対象で、後者は神話的存在です。ただし、湖で巨大な軟甲類が実際に目撃されてきたことは、亀の伝説に具体的な姿を与え、都市の記憶を強く支えました。『桑滄偶録』がスッポン類を指す語を使っている点も、研究者が注目する部分です。
なぜ現在の「ハノイの中心」になったのか
ホアンキエム湖の中心性は、三つの歴史層から説明できます。第一は、タンロン東側の河川・商業空間に接する地理です。第二は、黎利の独立回復、鄭主の宮殿、玉山祠の士人文化など、前近代の政治・文化記憶です。第三は、フランス植民地期に湖を都市計画の焦点として周回道路、公園、官庁街を配置した近代都市化です。
20世紀以降は、こうした歴史層の上に市民の日常が重なりました。朝の運動、湖畔の散策、祭礼、観光、公共行事が繰り返されることで、湖は史跡であると同時に生活空間として維持されています。還剣伝説だけで中心になったのでも、フランスの都市計画だけで中心になったのでもなく、自然地形・王朝史・宗教文化・植民地都市・現代生活が同じ場所へ集積した結果です。
現地で見るべきポイント
1.亀塔を「15世紀の建物」と思わず見る
亀塔は19世紀後半の建築です。湖面越しに尖頭アーチと屋根の組み合わせを見ると、還剣伝説を記念する現在の象徴性と、フランス占領初期の都市景観が一つの建物に重なっています。塔へ渡る一般向けの橋はなく、湖岸から眺めます。
2.筆塔から玉山祠までを一つの構成として歩く
筆塔、硯台、棲旭橋、鎮波亭、玉山祠を個別の撮影スポットとして切り離さず、19世紀の知識人が学問・修養・出版活動を空間化した一連の構成として見ます。境内に残る漢字の扁額、対聯、碑文にも目を向けると、向善会の文化活動とつながります。
3.湖の東南側で「消えたHữu Vọng」を想像する
現在の湖の東から南へ歩くと、水面のすぐ外側に街路と近代建築が続きます。この一帯にはかつてHữu Vọng/Thủy Quân側の水域がありました。1884年以降の埋立と街路造成を意識すると、現在の湖岸線そのものが近代都市史の資料になります。
4.旧市街との境界を見る
湖の北側から旧市街へ入ると、植民地期の計画街路とは異なる細街路と商業空間へ切り替わります。ハノイ旧市街36通りの歴史では、Hàngの地名、職人村、同郷・同業組織、紅河水運から商業都市の成り立ちをたどっています。旧市街の城門史はオークアンチュオンとは何か|ハノイ旧市街に残る東河門と城門史で扱っています。湖から旧市街へ歩くと、王城東側の商業都市と近代都市の接続を現地で確認できます。
湖一周の歴史散歩ルート
歴史を追うなら、北東の玉山祠入口を起点に時計回りで一周すると、19世紀の知識人文化から植民地都市、黎利の記憶、旧市街へ順につなげられます。玉山祠の見学を含めて1時間半から2時間ほど確保すると、碑文や建築を落ち着いて見られます。
- 筆塔・硯台:筆と硯を使った19世紀の教化思想を確認します。
- 棲旭橋・玉山祠:向善会、Vũ Tông Phan、Nguyễn Văn Siêu、出版活動を見る中心地点です。
- 東岸:かつての水域と、植民地期に配置された行政・公共空間の方向を見ます。
- 南岸:亀塔を正面に見やすい地点です。19世紀後半の建築として観察します。
- 西岸・黎太祖記念地区:黎利の歴史的人物像と、後世に形成された還剣伝説を分けて振り返ります。
- 北岸・東経義塾広場周辺:湖と旧市街が接する場所です。ここから北へ歩けばハノイ旧市街の商業史へ続きます。
湖畔そのものは公共空間として自由に歩けます。玉山祠は有料で、ハノイ市の現行料金規定では一般の参観料は50,000ドンです。16歳未満などの免除、対象者の減額、文化遺産の日などの無料日も規定されています。開門時刻は曜日や夜間プログラムで変動するため、訪問当日にハノイ市文化当局・現地掲示で確認するのが確実です。
まとめ|湖面の一周で、王朝史と都市史を重ねて見る
ホアンキエム湖は紅河の旧流路に由来する水域が、黎中興期の分割、阮朝期の軍事利用、フランス植民地期の埋立と街路整備を経て現在の形に近づいた場所です。Lục Thủy、Tả Vọng、Hữu Vọng、Thủy Quân、Hoàn Kiếmという名称も、同じ輪郭の湖が順番に名前だけ変えたものとして扱うより、水域の範囲と都市機能の変化に結びつけて読む方が史料に合います。
黎利の神剣は1431年の『藍山実録』に現れ、記述は神剣を得る場面までです。18~19世紀の文献では「剣を失う」「亀やスッポンが関わる」という別系統の話が記録され、20世紀に「国が平和になったため剣を返す」という完成度の高い物語が広く共有されました。伝説がいつ、どのように語り変えられたかを史実と分けて追うことで、黎利が「神剣を返した王」として記憶されてきた過程をたどれます。
玉山祠の筆塔と硯台、湖上の亀塔、東南側の近代街路、北側の旧市街は、それぞれ別の時代に属します。湖一周の短い散歩でそれらを順に見ると、河川・王朝・知識人・植民地都市・市民生活の層が積み重なってハノイの中心を形づくった過程を、具体的な景観から確認できます。
参考文献・主要資料
- Cục Di sản văn hóa「Di tích lịch sử và danh lam thắng cảnh hồ Hoàn Kiếm và đền Ngọc Sơn」
- Sở Văn hóa và Thể thao Hà Nội「Di tích quốc gia đặc biệt hồ Hoàn Kiếm và đền Ngọc Sơn」
- Hà Nội「Những công trình lịch sử, văn hóa tiêu biểu khu vực hồ Hoàn Kiếm」
- Lê Thời Tân, Nguyễn Văn Phương, Dương Văn Duyên, “Truyền thuyết ‘Hồ Hoàn Kiếm’ – một cách đọc liên văn bản,” Journal of Science, Ho Chi Minh City University of Education, Vol.16 No.2, 2019.
- Vũ Thế Khôi「Nguyễn Văn Siêu với tư tưởng văn hóa – giáo dục của Hội Hướng thiện đền Ngọc Sơn」『Tạp chí Hán Nôm』4(101), 2010
- Bảo tàng Lịch sử Quốc gia「Hội thề Đông Quan」
- Nguyễn Trãi, Lam Sơn thực lục(1431)
- Phạm Đình Hổ, Nguyễn Án, Tang thương ngẫu lục
- Quốc sử quán triều Nguyễn, Đại Nam nhất thống chí
- Trung tâm Lưu trữ quốc gia I「Phố đi bộ quanh Hồ Gươm được hình thành như thế nào trong lịch sử」
- Người Hà Nội「Thực hư về nguồn gốc tháp Rùa」(亀塔の年代に関する史料差の紹介)
- Trung tâm Lưu trữ quốc gia I「Ý tưởng về phố đi bộ quanh Hồ Gươm…」
- Tran Thi Viet Thanh et al., “Molecular phylogenetic identification of the giant freshwater softshell turtle in the Hoan Kiem lake, Hanoi, Vietnam,” Academia Journal of Biology 39(3), 2017
- Seimon et al., “Development and Application of a Portable Environmental DNA Test for the Detection of Rafetus swinhoei in Viet Nam,” Environmental DNA, 2024
- Hà Nội, Nghị quyết 16/2023/NQ-HĐNDに基づく文化施設参観料案内

