アメリカ・オレゴン州南端の町ブルッキングズには、第二次世界大戦中に周辺の森林を爆撃した日本人が贈った家伝の日本刀が残されています。
その人物は、日本海軍の搭乗員・藤田信雄です。1942年9月、潜水艦伊25号から零式小型水上偵察機で発進し、森林火災を狙って焼夷弾を投下しました。20年後の1962年、藤田はブルッキングズへ招かれ、刀を「国際平和と親善」の意思表示として市へ寄贈しました。
1962年の式典に加え、その後の行動が和解の象徴という評価を形作りました。藤田は高校生の日本招待、爆撃地点への植樹、複数回の再訪を重ねました。ブルッキングズ側も刀を保存・公開し、藤田を名誉市民と親善大使に迎えました。戦時の攻撃者と攻撃を受けた地域が、35年をかけて関係を作り直した記録です。
※日本語では「ブルッキングス」とも表記されます。2回目の空襲日は資料に差があり、藤田本人の1961年回想と米海軍歴史遺産司令部は1942年9月29日、豊後高田市は9月25日と記載しています。以下は本人回想と米海軍資料に合わせて9月29日とします。
30秒で分かる結論
- 藤田信雄は、第二次世界大戦中、敵国の有人航空機によるアメリカ連続48州への唯一の爆撃作戦で操縦を担当した日本海軍搭乗員です。
- 1942年9月9日と29日、潜水艦伊25号の零式小型水上偵察機でオレゴン州へ向かい、計4発の焼夷弾を投下しました。
- 作戦の狙いは森林火災と社会不安でしたが、湿った環境が延焼を抑え、人的被害はなく、森林被害も小規模でした。
- 1962年、ブルッキングズ青年会議所の招待で町を訪れ、家伝の日本刀を平和と親善の意思表示として寄贈しました。
- 1985年の高校生招待、1992年の植樹など交流を続け、1997年にブルッキングズの名誉市民となりました。
- 刀は現在、チェトコ・コミュニティ公共図書館で公開され、爆撃地点にも解説板が設置されています。
藤田信雄とは|大分県出身の日本海軍搭乗員
藤田信雄は1911年、大分県の現在の豊後高田市に生まれました。1932年に海軍へ入り、翌年から飛行訓練を受け、水上偵察機の搭乗員となりました。太平洋戦争開戦時には、航空機を搭載できる大型潜水艦・伊25号に所属していました。

伊25号は、艦橋前方の格納筒に小型機を分解して収め、浮上後に組み立ててカタパルトから発進させる潜水艦です。搭載機の零式小型水上偵察機E14Y1は、胴体下のフロートで海面に浮く機体でした。機体の分類は、関連記事「飛行艇とは何か|水上機との違い」で詳しく整理しています。
藤田は伊25号の偵察機で、オーストラリアやニュージーランド、アリューシャン方面の港湾・基地を偵察しました。潜水艦から発進する小型機は搭載量と航続距離が限られる一方、海岸近くまで潜航して接近できる点に特徴がありました。
なぜオレゴンの森林を爆撃したのか
1942年4月18日、米軍のB-25爆撃機16機が東京などを空襲したドーリットル空襲が起きました。日本側は本土への初空襲を受け、アメリカ本土への反撃を検討します。藤田自身も1961年の回想で、北西部の森林へ火を放ち、消火や沿岸防衛へ人員と艦艇を振り向けさせる構想を説明しています。
目標は都市の破壊より、広大な森林で大火災を起こすことでした。山火事が拡大すれば、消防・軍・行政の資源を消耗させ、アメリカ本土も攻撃圏内にあると示せます。焼夷弾による物理的被害と心理的動揺を組み合わせた作戦でした。
同じ1942年、米西海岸では大統領令9066号に基づく日系人の強制移住・収容が進んでいました。敵国への恐怖、人種偏見、戦時動員が重なった社会状況は、20年後に元日本軍搭乗員を招く決断の重さにもつながります。背景は「日系人強制収容とは|アメリカで日本人・日系人に何が起きたのか」で解説しています。
1942年9月9日|最初のブルッキングズ空襲
1942年8月15日、伊25号は横須賀を出港し、オレゴン沖へ向かいました。9月9日早朝、海が静まると伊25号は浮上し、藤田と偵察員を乗せた零式小型水上偵察機を射出しました。


藤田はケープ・ブランコ灯台を目印に海岸線を越え、ブルッキングズ東方の山林へ進みました。機体は2発の焼夷弾を搭載し、数キロ離れた地点へ1発ずつ投下しました。米海軍歴史遺産司令部は、機体をE14Y1「Glen」、母艦を伊25号と記録しています。
爆弾の一つは、ブルッキングズ東方のウィーラー・リッジ周辺で小さな火災を起こしました。森林監視員らが煙を確認し、現場へ入って消火しました。直前の湿気と地表の水分が延焼を抑え、人的被害はなく、森林被害も小規模でした。
機体の回収後、伊25号は米陸軍航空軍の哨戒機に発見され、爆撃を受けました。潜航して攻撃をかわし、作戦海域に残りました。
1942年9月29日|2回目の空襲と作戦の終結
伊25号は9月29日にも零式小型水上偵察機を発進させました。藤田の回想では、夜間にケープ・ブランコ灯台を目印として内陸へ入り、さらに2発の焼夷弾を投下しています。
この2回目も大火災には至らず、軍事的な成果は限定的でした。3回目の出撃案は荒天と高波のため中止され、伊25号は通商破壊へ任務を移しました。ブルッキングズ市公式資料は、2回の出撃で計4発が投下され、湿った環境のため被害が小さかったと説明しています。
藤田の2回の出撃は、第二次世界大戦中に敵国の有人航空機がアメリカの連続48州を爆撃した唯一の事例です。アラスカのダッチハーバー空襲や、後の風船爆弾とは攻撃手段と地域が異なります。

空襲から20年後|なぜブルッキングズは藤田を招いたのか
1961年、ブルッキングズ青年会議所のメンバーが、翌年のアザレア・フェスティバルへ藤田を招く計画を立てました。町の歴史を掘り起こし、国際親善へつなげる企画でした。
町内の反応は分かれました。オレゴン百科事典は、一部の退役軍人が訪問に強く反発したと記録しています。戦争終結から17年ほどで、真珠湾攻撃や太平洋戦線の記憶を抱える世代が多く暮らしていた時代です。
招待側は、戦争の美化や観光宣伝より、平和と友好を目的に据えました。藤田は1962年、妻とともにブルッキングズを訪れ、アザレア・フェスティバルのパレードに参加しました。反対を含む地域内の議論を経て、訪問は和解の出発点になりました。
家伝の日本刀「Fujita Sword」を寄贈
藤田は1962年の訪問で、家伝の日本刀をブルッキングズ市へ贈りました。ブルッキングズ市公式資料は、この刀が1942年の飛行時にも操縦席へ持ち込まれ、寄贈は「国際平和と親善」の意思表示だったと説明しています。

日本刀は軍人としての過去を示す品であると同時に、家に伝わる重要な財産でした。藤田はそれを攻撃した町へ委ねました。市は刀を保存し、後に「Fujita Sword」として公開しました。
寄贈の意味を「謝罪」と表現する紹介もありますが、市公式資料が用いる中心語は平和と親善です。藤田の行動は、過去の攻撃を消す儀式より、その後の関係を始める約束として受け止める方が史料に沿います。
一度の贈刀で終わらなかった35年間の交流
藤田とブルッキングズの関係が和解の象徴となった理由は、1962年の式典後も交流が続いた点にあります。
| 年 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1942年 | 9月9日と29日に計4発の焼夷弾を投下 | 戦時の攻撃者と被攻撃地域という関係が生まれる |
| 1962年 | ブルッキングズを訪問し、家伝の日本刀を寄贈 | 平和と親善を掲げた交流が始まる |
| 1985年 | ブルッキングズの女子高校生3人と家族を日本へ招待 | 次世代の交流へ広がる |
| 1992年 | 空襲50年に爆撃地点でレッドウッドを植樹 | 現場を平和の記憶へ変える |
| 1997年 | ブルッキングズの名誉市民となり、同年9月30日に死去 | 町が長年の交流を公式に位置づける |
| 1998年 | 遺灰の一部が爆撃地点へ散骨される | 生涯の交流が土地の記憶に結びつく |
1985年|ブルッキングズの高校生を日本へ招待
藤田は1985年、ブルッキングズの女子高校生3人とその家族を日本へ招き、つくば科学万博などを案内しました。豊後高田市の資料によると、藤田は会社の倒産後も資金を蓄え、招待を実現しました。
この行動に対し、レーガン大統領名の感謝状と星条旗が藤田へ贈られました。交流は藤田個人と町の式典から、若い世代が互いの国を訪れる関係へ広がりました。
1992年|爆撃地点へレッドウッドを植樹
空襲から50年後の1992年、藤田は爆撃地点を再訪し、レッドウッドの苗木を植えました。ブルッキングズ市は、藤田がその木を「友情と平和の象徴」と呼んだと記録しています。
1997年から1998年|名誉市民、死去、遺灰の帰還
ブルッキングズ市は藤田を名誉市民と親善大使に迎えました。藤田は1997年9月30日、85歳で死去しました。翌1998年、遺灰の一部が家族と友人によって爆撃地点へ納められました。
Fujita Swordと爆撃地点は現在どこにあるのか
家伝の日本刀は、ブルッキングズ市内のチェトコ・コミュニティ公共図書館で公開されています。市公式ページは所在地を405 Alder Streetと案内しています。
市内の植物園には記念標識があり、山中の爆撃地点には解説板が設置されています。爆撃地点へ続く道と遊歩道は未舗装区間や急な地形を含み、携帯電話の電波も限られます。現地を訪れる場合は、ブルッキングズ市公式ページの最新案内を確認する必要があります。
刀、植樹、解説板、遺灰という複数の記憶が同じ地域に残り、1942年の攻撃と戦後の交流を一続きの歴史として伝えています。
藤田信雄は「英雄」か「平和の人」か
藤田は1942年、敵国の森林を焼く軍事作戦を実行しました。被害の大小と、森林を焼く意図は別の問題です。一方、戦後の藤田は家伝の刀を贈り、高校生を招待し、爆撃地点へ木を植えました。
ブルッキングズでは、戦時の行動と戦後の交流が一続きの歴史として記憶されています。攻撃した人物と攻撃を受けた地域が、反対や警戒を抱えながら接触し、時間をかけて関係を変えた経緯です。
海外の地域社会に残る日本人の記憶には、医療協力で名を残したネパールの岩村昇、朝鮮の林業と民芸に関わった浅川巧、インドネシア独立戦争に参加した市来龍夫・吉住留五郎などがあります。藤田の例は、加害の記憶を出発点として戦後交流が積み重なった点に特徴があります。全体像は「海外で語り継がれる日本人たち」で紹介しています。
よくある質問
藤田信雄は本当にアメリカ本土を爆撃した唯一の日本人ですか?
藤田信雄らは、第二次世界大戦中に敵国の有人航空機でアメリカ本土を爆撃した唯一の日本軍搭乗員です。
ブルッキングズ空襲で死者は出ましたか?
人的被害はなく、森林火災も小規模でした。2回で計4発の焼夷弾が投下されましたが、湿った環境が延焼を抑えました。
2回目の空襲日は9月25日と29日のどちらですか?
資料によって記載が分かれます。藤田本人が1961年に発表した回想と米海軍歴史遺産司令部は9月29日、豊後高田市の紹介記事は9月25日です。本人回想と米海軍資料を優先し、この記事では9月29日を採用しています。
ブルッキングズの住民は藤田を歓迎しましたか?
町内の意見は分かれ、一部の退役軍人は強く反発しました。青年会議所は訪問の目的を平和と国際親善に置き、1962年の訪問を実現しました。
藤田が贈った日本刀は現在も見られますか?
チェトコ・コミュニティ公共図書館で公開されています。展示状況や開館時間は、ブルッキングズ市または図書館の最新情報で確認できます。
爆撃地点へ行けますか?
解説板のある地点まで遊歩道があります。未舗装路、急な地形、限られた通信環境を含むため、ブルッキングズ市公式ページの経路と注意事項を事前に確認してください。
まとめ
藤田信雄は1942年、伊25号から零式小型水上偵察機で発進し、ブルッキングズ近郊へ2回、計4発の焼夷弾を投下しました。20年後に同地へ招かれ、家伝の日本刀を平和と親善の意思表示として寄贈しました。
その後も高校生の日本招待、爆撃地点への植樹、複数回の再訪が続きました。ブルッキングズ側は刀と爆撃地点を保存し、藤田を名誉市民として迎えました。戦争の記憶が和解の象徴へ変わった背景には、双方が長い時間をかけて続けた具体的な行動があります。
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前後の記事
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参考文献・参考サイト
- City of Brookings, “Fujita Sword: A Gesture of International Peace and Goodwill”
- Naval History and Heritage Command, “H-Gram 010”
- Nobuo Fujita and Joseph D. Harrington, “I Bombed the U.S.A.,” U.S. Naval Institute Proceedings, 1961
- The Oregon Encyclopedia, “Brookings”
- National Register of Historic Places, “Wheeler Ridge Japanese Bombing Site”
- 豊後高田市「世界で唯一アメリカ本土を爆撃した日本人『藤田信雄さん』」
- Oregon Public Broadcasting, “The unlikely bond between an Oregon town and the man who bombed it”
- William McCash, Bombs Over Brookings, Maverick Publications, 2005.

