スペインに「Japón」姓を残した支倉常長|コリア・デル・リオに続く400年の記憶

支倉常長と慶長遣欧使節、スペインに残るJapón姓を描いた歴史解説アイキャッチ

スペイン南部アンダルシア州のコリア・デル・リオには、「Japón(ハポン)」という姓をもつ人々がいます。町の発表では、2024年時点で700人を超える住民の名前に「Japón」が含まれます。姓の由来は、1614年にこの町へ来た慶長遣欧使節と結びつけて語られてきました。

伝承では、現地に残ったとされる使節団員が祖先とされます。残留説には状況証拠がありますが、個々の家系と日本人随員をつなぐ史料は途切れており、直接の系譜は未確定です。近年は、コリア・デル・リオの住民バルトロメ・ロドリゲス・ハポンを姓の起点とみる異説も示されています。

慶長遣欧使節の滞在、17世紀に「Japón」姓が現れること、現在まで町と日本の交流が続くことは史料で確認できます。姓の直接的な起源だけが、なお検討を要する部分です。

30秒で分かる結論

  • 支倉常長は仙台藩主・伊達政宗の家臣で、1613年に慶長遣欧使節として日本を出発しました。
  • 一行は太平洋を渡ってメキシコへ入り、大西洋を越えてスペインとローマへ向かいました。
  • 1614年、使節はグアダルキビル川をさかのぼる途中でコリア・デル・リオに滞在しました。
  • 「Japón」姓は17世紀のコリア・デル・リオの記録に現れます。使節団との関係は有力な伝承で、直接の系譜は未確定です。
  • スペイン国王とローマ教皇への謁見は実現しましたが、通商と宣教師派遣の交渉は不成立に終わりました。
  • 使節関係資料は国宝であり、2013年に日本とスペインの共同申請でユネスコ「世界の記憶」に登録されました。

なぜコリア・デル・リオに「Japón」姓があるのか

1614年、使節はグアダルキビル川をさかのぼった

コリア・デル・リオは、セビリアの南約12キロ、グアダルキビル川右岸にある町です。17世紀のセビリアはスペインとアメリカ大陸を結ぶ交易の中心で、外洋から来た船はサンルーカル・デ・バラメーダを経て川をさかのぼりました。

慶長遣欧使節を乗せた船もサンルーカルに入り、メディナ=シドニア公が用意したガレー船でコリア・デル・リオへ運ばれました。一行はセビリア側の受け入れ準備が整うまで町に待機し、1614年10月21日にセビリアへ入城しました。コリア・デル・リオは、使節がスペイン社会と本格的に接触した入口でした。

17世紀半ばに「Japón」姓が記録に現れる

「Japón」姓は、使節の到来から約30年後の1646年または1647年ごろ、コリア・デル・リオの文書に現れると紹介されてきました。その後は洗礼簿、婚姻記録、行政文書などで確認できるようになります。

使節団の人数差も、残留説の根拠とされます。ヨーロッパへ渡った日本人は約30人と記録される一方、1616年に13人、1617年に支倉常長らと5人がセビリアを離れたとする記録があり、残る人々の帰路は不明です。数人がセビリア周辺に残った可能性はありますが、人数差は残留の可能性を示すにとどまり、定住地や子孫関係の証明には不足します。

子孫説と「バルトロメ・ロドリゲス・ハポン」説

町で広く受け継がれているのは、日本人随員が現地に残り、その出身を示す呼び名が「Japón」という姓になったという説です。コリア・デル・リオ市も、使節の滞在と姓を町の歴史として紹介しています。

一方、セビリア州立歴史文書館には、1630年の「ドン・バルトロメ・ロドリゲス・ハポンの遺言書」が残ります。系譜研究では、現在の「Japón」姓をこの人物から続く一族として説明し、呼び名はアメリカとの往来に由来したとする見解もあります。

現時点で確実に言えるのは、慶長遣欧使節がコリア・デル・リオに滞在したことと、17世紀に同地で「Japón」姓が使われていたことです。両者を結ぶ親子関係や婚姻関係は、現存資料では未確定です。

支倉常長と慶長遣欧使節は何を目指したのか

支倉常長は伊達政宗に仕えた仙台藩士です。政宗はスペイン領ヌエバ・エスパーニャ、現在のメキシコとの直接通商を構想し、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロは東北地方への宣教師派遣と布教体制の拡大を求めていました。

この二つの目的が結びつき、政宗はスペイン国王フェリペ3世とローマ教皇パウロ5世へ使節を送りました。常長は外交使節を代表し、ソテロは通訳と交渉を担いました。

出発時の日本では、徳川家康・秀忠の政権が全国支配を固める一方、朱印船貿易やスペイン人との接触も続いていました。しかし幕府はすでにキリスト教への警戒を強めており、使節の計画は交易拡大と禁教強化が交差する時期に始まりました。

なぜ交渉相手がスペインとセビリアだったのか

当時のメキシコはスペイン領で、太平洋を横断するマニラ・ガレオン交易によってフィリピンとアカプルコが結ばれていました。政宗がメキシコとの直接交易を実現するには、スペイン国王の許可が必要でした。

大西洋側では、セビリアがアメリカ交易を管理する通商院を置き、船団と商品の流れを統制していました。政宗のセビリア市宛て書状は、日本とセビリアを直接結ぶ航路の検討を求めています。1614年10月27日の市参事会で書状の翻訳が読み上げられ、刀と短刀も友好の贈り物として渡されました。現存するのは書状で、刀と短刀は後世に失われました。

慶長遣欧使節の7年にわたる旅

慶長遣欧使節が日本の仙台藩からメキシコ、スペイン、ローマへ向かった旅路を示した概念図
図解:支倉常長が率いた慶長遣欧使節の旅路。仙台藩から太平洋を越えてヌエバ・エスパーニャ、スペイン、ローマへ向かい、交易・キリスト教・外交が交差したことを示す概念図です。
年月 場所 出来事
1613年10月 仙台領・月浦 サン・ファン・バウティスタ号で出航
1614年1月 アカプルコ 太平洋を横断してヌエバ・エスパーニャへ到着
1614年3月 メキシコ市 陸路でメキシコを横断
1614年10月 サンルーカル、コリア・デル・リオ、セビリア 大西洋を渡り、グアダルキビル川をさかのぼる
1615年1月 マドリード スペイン国王フェリペ3世に謁見
1615年2月 マドリード 常長が洗礼を受ける
1615年11月 ローマ 教皇パウロ5世に謁見し、ローマ市公民権を授与される
1617年7月 セビリア 国王の返書を得られないままヨーロッパを離れる
1618年8月 マニラ 帰国船を待ち、約2年間滞在
1620年9月 仙台 出発から約7年後に帰還し、伊達政宗へ報告

政宗は航海のためにサン・ファン・バウティスタ号を建造させました。セバスティアン・ビスカイノらスペイン人航海者も乗り組み、太平洋横断の航海術を支えました。出航時の一行には武士、足軽、船員、商人、宣教師らが含まれ、外交使節と帰国するスペイン人が同じ船で海を渡りました。

ヨーロッパまで進んだのは一行の一部です。サン・ファン・バウティスタ号には多数の日本人とスペイン人が乗りましたが、メキシコから大西洋を渡った使節は常長、ソテロら約30人でした。

スペイン国王とローマ教皇への交渉

フェリペ3世への謁見と常長の洗礼

常長は1615年1月30日、マドリードでフェリペ3世に謁見し、伊達政宗の書状と贈り物を渡しました。要求の中心はヌエバ・エスパーニャとの通商と宣教師の派遣でした。

2月17日、常長はマドリードのデスカルサス・レアレス修道院で洗礼を受けました。洗礼名はフェリペ・フランシスコです。国王と宮廷が関わる儀礼は使節を大きく印象づけましたが、通商の認可とは別の問題でした。

教皇パウロ5世への謁見とローマ市公民権

一行はスペインから地中海を経てイタリアへ入り、1615年11月3日に教皇パウロ5世へ謁見しました。常長は政宗の書状を渡し、宣教師派遣への支援を求めました。

同月、常長ら8人にはローマ市公民権が授与されました。常長の肖像画、教皇像、ローマ市公民権証書などは仙台へ持ち帰られ、現在も使節の行動を裏づける資料となっています。

なぜ使節の交渉は成立しなかったのか

使節が日本の最高権力者を代表していなかった

伊達政宗は東北を代表する有力大名でしたが、その権限は仙台藩に限られ、日本全体の外交権は徳川将軍にありました。政宗との合意が徳川幕府にも及ぶ保証を欠いたため、スペイン国王と教皇は通商交渉に慎重でした。

日本で禁教政策が進んだ

使節がアカプルコへ着いた直後の1614年、徳川幕府は全国的なキリスト教禁制を進めました。日本で宣教師の追放と信徒への弾圧が始まったという情報はヨーロッパにも届き、宣教師派遣を前提とした交渉の現実性を失わせました。

スペイン側も費用と政治的危険を警戒した

使節の滞在費はセビリア市とスペイン王室の負担となりました。インディアス評議会は交渉の長期化を避け、使節を帰国させる方向へ動きました。教皇も通商を決定できず、スペイン政府との協議を促すにとどまりました。

常長とソテロはスペインへ戻って国王の返書を待ちましたが、得られないまま1617年7月4日にセビリアを出発しました。謁見、洗礼、市民権授与という儀礼上の成果と、通商・布教の不成立は分けて見る必要があります。

帰国後の支倉常長

常長はメキシコ、マニラを経て1620年に仙台へ帰還しました。出発から約7年が過ぎ、日本ではキリスト教禁制が徹底されつつありました。常長が政宗へ帰国報告をした直後、仙台藩内でも禁教令が出され、キリシタンの探索と処罰が強まります。

常長は帰国後まもなく病没したとされます。同行したソテロはマニラに残った後、禁令を破って日本へ入り、捕らえられて1624年に処刑されました。使節の出発時に期待された布教と通商は、帰国時には政策上の危険へ変わっていました。

国宝とユネスコ「世界の記憶」が伝える使節

使節の実在と行程は、現物資料と行政文書で確認できます。仙台市博物館には、支倉常長像、教皇パウロ5世像、ローマ市公民権証書、祭服、キリスト教祭具などが伝わります。これらは国宝「慶長遣欧使節関係資料」に指定されています。

2013年には、日本に残る資料とスペインのシマンカス総合文書館などに残る外交文書が、日本・スペイン共同申請でユネスコ「世界の記憶」に登録されました。日本側の持ち帰り品とスペイン側の行政記録を合わせて見ることで、使節の旅、歓迎、交渉、帰国までを双方の視点から確認できます。

コリア・デル・リオに続く400年の記憶

「Japón」姓と支倉常長の物語は、長く地域の記憶として受け継がれました。20世紀後半には、住民のビルヒニオ・カルバハル・ハポンらが使節と姓の歴史を調べ、日西交流団体の活動を進めました。

町にはカルロス・デ・メサ通りの支倉常長像、日本関係資料を展示する「ビルヒニオ・カルバハル・ハポン日本テーマ室」があります。日本文化週間、灯籠を川へ流す灯籠流し、使節の旅をたどる催しも行われています。

町の旗、日本文化行事、自治体間交流は、姓の系譜が学術的に確定しているかどうかとは別に、1614年の出会いが地域の文化になったことを示します。コリア・デル・リオでは、慶長遣欧使節が過去の訪問団ではなく、現在の対日交流を支える町の歴史として扱われています。

現地で支倉常長の記憶をたどる

スペイン・コリア・デル・リオ

  • 支倉常長像:グアダルキビル川沿いのカルロス・デ・メサ通りにあります。
  • サンタ・マリア・デ・ラ・エストレージャ教会:「Japón」姓をもつ住民の洗礼記録と関わる教会です。
  • ビルヒニオ・カルバハル・ハポン日本テーマ室:使節関係文書の複製や日本文化資料を展示します。見学は事前確認が必要です。
  • グアダルキビル川:使節がサンルーカルからセビリアへ向かう際に通った水路です。

日本・宮城県

  • 仙台市博物館:国宝の支倉常長像、教皇像、ローマ市公民権証書などを所蔵します。展示状況は事前確認が必要です。
  • 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館):使節の航海とサン・ファン・バウティスタ号を紹介します。
  • 月浦:現在の宮城県石巻市にある使節出航の地です。

よくある疑問

「Japón」姓の人は全員、支倉常長の子孫ですか?

伝承が想定する祖先は常長本人ではなく、現地に残ったとされる日本人随員です。現在の各家系を使節団員へ直接つなぐ史料は確認されておらず、バルトロメ・ロドリゲス・ハポンを姓の起点とする異説もあります。

使節団の日本人がスペインに残ったことは確実ですか?

ヨーロッパへ来た人数と帰国時に確認できる人数には差があります。数人がスペインに残った可能性はあるものの、現存する名簿や婚姻記録だけでは定住者と定住地を特定できない状態です。

支倉常長は日本人で初めてヨーロッパへ行きましたか?

ヨーロッパ渡航では、1582年に出発した天正遣欧少年使節が先です。慶長遣欧使節の特徴は、記録上、日本人として初めて太平洋と大西洋を横断し、仙台藩の外交使節としてスペイン国王とローマ教皇へ交渉した点にあります。

スペイン国王と教皇に会えたのに、なぜ失敗なのですか?

謁見や儀礼は実現しましたが、求めていた通商許可と宣教師派遣の合意を得られなかったためです。政宗が日本全体を代表していないこと、日本で禁教が進んだこと、スペイン側が費用と政治的危険を警戒したことが重なりました。

慶長遣欧使節の資料はどこに残っていますか?

仙台市博物館に常長が持ち帰った国宝資料があり、スペインには王室・都市行政が作成した文書が残ります。両国の資料群はユネスコ「世界の記憶」に登録されています。

まとめ

慶長遣欧使節は1614年にコリア・デル・リオへ滞在し、その約30年後には同地の記録に「Japón」姓が現れます。使節団員の残留を示唆する人数差はあるものの、現在の家系との直接的なつながりは未確定です。姓の起源には異説を残しながらも、支倉常長の訪問は町の文化、行事、日西交流として400年以上受け継がれています。

関連記事

参考文献

  1. 仙台市博物館「支倉常長に関する資料(6)年表」
  2. 仙台市博物館「主な収蔵品 慶長遣欧使節」
  3. 仙台市博物館「支倉常長と慶長遣欧使節」
  4. UNESCO, Materials Related to the Keicho-era Mission to Europe Japan and Spain
  5. 文化遺産オンライン「慶長遣欧使節関係資料」
  6. Marcos Fernández Gómez, “Una embajada japonesa en la Sevilla del Siglo de Oro”
  7. コリア・デル・リオ市「Historia」
  8. コリア・デル・リオ市「Ruta de Hasekura Tsunenaga」
  9. コリア・デル・リオ市「Qué visitar」
  10. コリア・デル・リオ市「La Liga de Ciudades Hasekura toma impulso en Coria del Río」
  11. RTVE「Coria del Río reivindica el origen japonés de algunos de sus vecinos」
  12. Archivo Histórico Provincial de Sevilla「Testamento de don Bartolomé Rodríguez Japón」
  13. 宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館
  14. サン・ファン館について
  15. Tohoku University, Renewing Old Connections: A Visit from Spain