静岡県袋井市の常林寺には、ベトナム独立運動家ファン・ボイ・チャウが建てた「浅羽佐喜太郎公紀念碑」があります。
浅羽佐喜太郎は明治時代の医師です。日本で東遊運動を進めていたファン・ボイ・チャウとベトナム人留学生が困窮した際、部屋や資金を提供しました。浅羽の死後、ファンはその恩に報いるため、浅羽の郷里に記念碑を建立しました。
30秒で分かる結論
- 浅羽佐喜太郎は1867年、現在の静岡県袋井市に生まれ、小田原方面で医院を開いた医師です。
- 無料診療、学校や消防組への寄付、校医の活動などを行い、地域の困窮者も支えました。
- ファン・ボイ・チャウは、ベトナムの青年を日本へ留学させる東遊運動を指導しました。
- 浅羽は、活動資金を失ったファンらに部屋と金銭を提供しました。関連資料では援助額を1,700円としています。
- 日仏協約後、日本政府はフランスとの外交関係を優先し、留学生と活動家は日本を去りました。
- 1918年、ファンと旧東浅羽村の人々は、常林寺に浅羽佐喜太郎公紀念碑を建立しました。
浅羽佐喜太郎とは何者か
小田原で医院を開いた医師
浅羽佐喜太郎は1867年、東浅羽村、現在の袋井市梅山に生まれました。帝国大学医科大学を卒業した後、神奈川県前羽村町屋、現在の小田原市前川に浅羽医院を開きました。
浅羽医院のあった地域は、東海道と相模湾に近い交通の要所でした。浅羽は名医として知られ、医療費を払えない患者からは治療費を受け取りませんでした。
学校、消防、故郷への支援
浅羽は、神奈川県立第二中学校の建設と前羽村消防組第二分団の新設に多額の寄付を行い、前羽村小学校と国府津村の小学校では校医を務めました。前羽村小学校には風琴、現在のオルガンも寄贈しています。
1910年8月、郷里の東浅羽村が大洪水に見舞われました。浅羽は被害を案じていましたが、同年9月25日に病気で亡くなります。1912年には、浅羽の遺志を継いだ遺族が東浅羽村へ義援金を届け、村の復興を助けました。
ファン・ボイ・チャウと東遊運動
軍事援助から人材育成へ
ファン・ボイ・チャウは1867年生まれで、20世紀初頭のベトナム民族運動を代表する人物の一人です。当時のベトナムはフランス領インドシナの一部でした。ファンは1904年に越南維新会を結成し、翌1905年、日本へ渡りました。
ファンが当初求めたのは、フランス植民地支配に対抗するための軍事援助でした。日本で大隈重信、犬養毅、中国の改革運動家・梁啓超らと接触するなかで、独立には人材の育成が必要だと考え、ベトナムの青年を日本へ留学させる運動を始めました。これが東遊運動です。
日本で何を学んだのか
最初の留学生は1906年に来日しました。その後、東京同文書院などで学ぶ留学生は200人を超え、資料によっては1908年に約300人へ達したとされます。
留学生は午前中に日本語、算術、地理、歴史、化学、物理などを学び、午後には軍事訓練を受けました。東遊運動は、武器を得る計画から、近代的な知識と組織を担う人材を育てる運動へ展開しました。
ファンは日本滞在中の1906年に『海外血書』を執筆し、植民地支配に対する民族的自覚を訴えました。1909年には東京で550部が印刷されましたが、警察から警告を受けています。
フランスの弾圧と日仏協約
フランス植民地当局は、東遊運動が支配を揺るがすことを警戒しました。留学生の家族を拘束し、帰国を促す手紙を書かせるなど、運動への圧力を強めました。
日本は1907年に日仏協約を結び、フランスとの外交関係を重視しました。日本国内でもベトナム人留学生と活動家への取締りが強まり、留学生は解散と退去を迫られます。ファンは1909年3月に日本を離れ、香港へ活動拠点を移しました。
浅羽は何を支援したのか
東遊運動の資金が不足すると、ファンは浅羽に援助を求めました。袋井市の説明では、浅羽は活動のための部屋を提供し、金銭面でも支えています。関連資料は、浅羽がファンへ1,700円を渡したと記しています。当時の学校長の月給が18円だったという比較も残り、支援額の大きさが分かります。
浅羽の援助は、留学生が日本を離れるための費用にも充てられました。ファンらは1909年に出国し、浅羽は翌1910年に43歳で亡くなります。二人が再会することはありませんでした。
浅羽がファンを支えた行為は、無料診療、学校や消防への寄付、故郷への義援金と同じく、困窮して助けを求める人に応じた活動の一部でした。
浅羽佐喜太郎公紀念碑が語るもの
1917年の再入国と村人の協力
ファンは浅羽の死を知ると、1917年に偽名を使って日本へ再入国しました。目的は浅羽の墓前に記念碑を建てることでした。翌1918年、東浅羽村を訪れ、村長の呼びかけに応じた村人と協力して、常林寺に浅羽佐喜太郎公紀念碑を建立しました。
村人が建立に協力した背景には、1909年と1910年の洪水時に小田原の浅羽家から援助を受けた記憶がありました。ファンが浅羽への恩を碑に刻み、村人も浅羽家への恩に応える形で工事を支えました。
碑文に刻まれた感謝
碑文は、国難のため日本へ来たベトナム人に浅羽が無償で援助したこと、その死によって感謝を直接伝えられなくなった悲しみを記しています。表面、裏面、側面に漢文が刻まれ、末尾には「越南光復会同人」とあります。
石碑は高さ2.27メートル、幅約0.9メートルです。1918年当時の制作費は約200円、工期は約1か月とされます。1998年7月31日に袋井市指定文化財の史跡となりました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1867年 | 浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウが生まれる |
| 1905年 | ファンが来日し、東遊運動が始まる |
| 1907年 | 日仏協約が結ばれ、運動への圧力が強まる |
| 1909年 | ファンらが浅羽の援助を受けて日本を離れる |
| 1910年 | 浅羽が43歳で死去する |
| 1917年 | ファンが記念碑建立のため日本へ再入国する |
| 1918年 | 常林寺に浅羽佐喜太郎公紀念碑が完成する |
| 場所 | 意味 |
|---|---|
| 袋井市梅山・常林寺 | 浅羽佐喜太郎公紀念碑が立つ場所 |
| 小田原市前川周辺 | 浅羽医院があり、浅羽が医師として活動した地域 |
| 東京 | 東遊運動の留学生が学び、ファンが出版活動を行った地域 |
| ベトナム・フエ | ファンの晩年の住居と記念施設が残る地域 |
個人の支援と日本政府の方針
東遊運動には、浅羽のほか、犬養毅ら日本人の支援者がいました。留学生の教育費や渡航費を援助した人々がいる一方、日本政府はフランスとの外交関係を優先し、運動を継続できない状況を作りました。
浅羽とファンの関係は、国家間の友好だけでなく、政府の方針と個人の行動が一致しなかった事例です。日本を独立と近代化の手本として見たファンは、日本国内で支援を得ると同時に、外交上の都合によって退去を迫られました。
現在どのように語り継がれているのか
袋井市では、常林寺の碑と浅羽の活動が地域史として紹介されています。2018年には碑建立100年の記念式典が開かれ、浅羽家とファン家の子孫、ベトナムからの関係者や留学生が参加しました。
ベトナム側でも、ファンの活動と浅羽の支援は日越交流史の一部として扱われています。2023年には、日本とベトナムの外交関係樹立50周年に合わせ、フエでファンと浅羽の生涯、東遊運動、両国交流を紹介する展示が開かれました。
よくある誤解
浅羽佐喜太郎はベトナム独立運動家ですか?
浅羽は日本の医師です。ベトナム独立運動を指導したのはファン・ボイ・チャウで、浅羽は東遊運動が困難になった時期に、部屋と資金を提供しました。
東遊運動は成功しましたか?
東遊運動は日本語や近代的知識を学んだ人材を育てましたが、留学生を日本に置いて独立運動を続ける計画は、フランスの弾圧と日本政府の方針によって1909年に終わりました。
浅羽の碑は今も見られますか?
袋井市梅山の常林寺に浅羽佐喜太郎公紀念碑があります。袋井市指定文化財の史跡で、日本語、ベトナム語、英語の説明板も設置されています。寺院の境内にあるため、訪問時は参拝者と地域への配慮が必要です。
まとめ
浅羽佐喜太郎は、小田原で医療と地域支援に取り組み、東遊運動が行き詰まったファン・ボイ・チャウと留学生を援助しました。ファンは浅羽の死後、旧東浅羽村の人々と記念碑を建立しました。碑には、植民地支配からの独立を目指した人々と、政府の外交方針とは別に彼らを助けた医師の関係が刻まれています。
海外で医療を通じて現地社会に名を残した日本人としては、ネパールで活動した医師・岩村昇の歩みも比較できます。
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参考文献
- 袋井市社会科補助資料集デジタル版「浅羽佐喜太郎」
- 袋井市「浅羽佐喜太郎」
- 袋井市教育委員会「浅羽佐喜太郎公紀念碑」
- 袋井市社会科補助資料集デジタル版「浅羽佐喜太郎公紀念碑」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「ファン・ボイ・チャウ『海外血書』」
- 大西和彦編著『歴史と文化から見たベトナム人―人材育成と活用への心構え―』ジェトロハノイセンター、2011年
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「浅羽佐喜太郎について記載のある資料」
- 浅羽佐喜太郎公碑建立100年記念式典パンフレット
- Vietnam Union of Friendship Organizations, Exhibitions featuring Phan Boi Chau, Vietnam-Japan friendship underway

