明治の博覧会を総まとめ|万博参加・内国勧業博覧会5回・日英博覧会まで

明治の博覧会を象徴的に描いたアイキャッチ画像。海外万博、国内博覧会、日英博覧会への流れを表現 日本史・社会制度

上野公園、京都の岡崎公園、大阪の天王寺公園を歩いていると、「ここは明治時代の博覧会場だった」という説明に出会うことがあります。

一方、日本は幕末からパリやウィーンなどの万国博覧会に参加し、1910年にはロンドンで大規模な日英博覧会を開きました。

これらは名前も開催地も異なるため、別々の出来事に見えます。しかし歴史の流れに沿って並べると、強い連続性が見えてきます。

日本は海外の万博で近代国家の「見せ方」を学び、京都博覧会や湯島聖堂博覧会で国内展示の形を試し、内国勧業博覧会で産業と都市を育て、最後には日英博覧会で世界へ日本を見せる側に回りました。

この記事では、幕末のロンドン・パリ万博から、1871年の京都博覧会、1872年の湯島聖堂博覧会、5回の内国勧業博覧会、1910年の日英博覧会までを、一続きの物語としてたどります。

30秒で分かる結論――別々の催しだが、歴史的にはつながっている

海外万博への参加、京都博覧会、湯島聖堂博覧会、内国勧業博覧会、日英博覧会は、制度上は別の催しです。

  • 海外万博への参加:外国で開かれる国際博覧会へ、日本が参加しました。
  • 京都博覧会:京都の産業振興と都市再生を目的に、京都府と民間が進めました。
  • 湯島聖堂博覧会:文部省博物局が開催し、博物館制度とウィーン万博出品準備の起点になりました。
  • 内国勧業博覧会:日本政府が国内産業の育成を目的に開催しました。
  • 日英博覧会:1910年にロンドンで開かれた、日本とイギリスを中心とする二国間博覧会です。

したがって、湯島聖堂博覧会を第1回内国勧業博覧会と呼ぶことも、日英博覧会を第6回内国勧業博覧会と呼ぶこともできません。

それでも各博覧会は、展示品の収集・分類、審査、輸送、会場運営、文化財調査、輸出振興、国家宣伝といった実務と思想を通じて結ばれています。

全体像を一枚で見る

段階 主な出来事 日本の立場 歴史的な意味
第1段階 1862年ロンドン、1867年パリなど 見る側・学ぶ側・出品する側 産業、展示、博物館、貿易の仕組みを知る
橋渡し 1871年京都、1872年湯島聖堂、1873年ウィーン 国内展示の主催者と国家出品者 国内で展示を試し、博物館制度と万博出品を結ぶ
第2段階 1877~1903年の内国勧業博覧会5回 国内博覧会の主催者 製品を比較・審査し、産業と都市を育てる
第3段階 1910年の日英博覧会 国際的な大展示の中心国 伝統、産業、軍事、帝国を含む日本像を海外で演出する

博覧会とは何だったのか――商品見本市と国家の舞台

現在の「万博」という言葉からは、未来技術や巨大パビリオンを想像しがちです。しかし19世紀の博覧会には、より幅広い役割がありました。

工業製品、機械、農産物、美術工芸品を一か所に集めれば、どの国や地域が何を作れるかを比較できます。優れた製品へ賞を与えれば、生産者に改良を促せます。外国人の注目を集めれば、輸出や外交にもつながります。

さらに、鉄道、電灯、電話、エレベーターなどを実際に見せることで、来場者へ「近代」を体験させる教育施設にもなりました。

  • 新しい機械や製品を紹介する産業展示
  • 製品を審査し、品質改良を促す競争の場
  • 輸出先や取引相手を探す商談の場
  • 国民に近代国家の姿を見せる教育の場
  • 開催都市を整備し、大勢の人を呼ぶ観光・娯楽イベント
  • 国の文化、歴史、領土、国力を海外へ示す外交の舞台

この複合的な仕組みを、幕末・明治の日本は海外で目撃し、自国へ取り込んでいきました。

幕末日本は海外万博で何を見たのか

1862年ロンドン万博――まずは視察者として

日本と万国博覧会の本格的な接触は、1862年の第2回ロンドン万国博覧会にさかのぼります。

開国交渉のためヨーロッパへ派遣された幕府使節団は、ロンドンで博覧会を視察しました。巨大な展示館には、欧米各国の機械、工業製品、美術品、各地の産物が集められていました。

当時の日本にとって重要だったのは、珍しい品を見たことだけではありません。国家が産業を分類し、技術を比較し、製品を世界市場へ売り込む仕組みそのものを目にしたことでした。

1867年パリ万博――幕府と諸藩が別々に日本を見せた

1867年のパリ万博では、幕府のほか薩摩藩佐賀藩などが参加しました。これは明治政府成立前であり、日本が統一された一つの国家像を示したわけではありません。

しかし、陶磁器、漆器、染織、刀装具などの日本品は西欧の関心を集めました。こうした博覧会への出品は、日本の美術工芸が海外市場へ進出し、ジャポニスムと呼ばれる日本趣味が広がる一因となりました。

同時に、幕府と薩摩藩がそれぞれの立場を示したことは、博覧会が外交と政治宣伝の舞台でもあったことを物語ります。

内国勧業博覧会の前にあった二つの重要な博覧会

明治の国内博覧会史は、1877年の第1回内国勧業博覧会から突然始まったわけではありません。その前に、京都と東京で重要な試みがありました。

1871年京都博覧会――京都の産業と都市を立て直す

京都市の資料によれば、京都では1871年、西本願寺を会場として博覧会が開かれました。京都市はこれを「日本最初の博覧会」と紹介しています。

翌1872年には、京都府と民間が設立した京都博覧会社によって、西本願寺、建仁寺、知恩院を会場とする第1回京都博覧会が開催されました。その後も京都博覧会は1928年まで、ほぼ毎年続きました。

東京遷都によって人口や産業の流出に直面していた京都にとって、博覧会は工芸、商業、観光を振興し、外国人客を呼び込む都市再生策でした。

これは中央政府が全国産業を統括する後の内国勧業博覧会とは異なり、地域社会が自らの産業と都市を立て直そうとした博覧会です。のちに第4回内国勧業博覧会が京都で開催された背景を理解するうえでも欠かせません。

1872年湯島聖堂博覧会――博覧会と博物館が同時に始まった

1872年3月10日、文部省博物局は東京の湯島聖堂大成殿で博覧会を開催しました。東京国立博物館は、この博覧会を自館の創立・開館の起点としています。

会場には名古屋城の金鯱、絵画、書跡、珊瑚、金工品、染織品、漆器、楽器、陶器、剥製、骨格標本、オオサンショウウオなど、多種多様な品が並びました。

展示内容には、江戸時代の物産会や見世物に通じる「珍しい物を集める」性格が残っていました。しかし同時に、物を体系的に収集、分類、保存し、恒久的に公開する近代博物館への出発点でもありました。

さらに重要なのは、湯島聖堂博覧会が翌1873年のウィーン万博準備と結びついていたことです。全国から特産物などを2点ずつ集め、1点をウィーンへの出品用、もう1点を博物館の常設陳列用として保管する方針が取られました。

同じ1872年には、社寺や旧家に伝わる宝物を調査する壬申検査も実施されました。博覧会への出品選定、文化財調査、博物館の収集が一体となって進められたのです。

湯島聖堂博覧会は、内国勧業博覧会そのものではありません。しかし「集める・分類する・保存する・展示する」という近代日本の博覧会と博物館の基礎を作った、重要な橋渡しでした。

1873年ウィーン万博――明治政府の実地研修

明治政府が国家として初めて本格的に参加した万博が、1873年のウィーン万国博覧会です。

日本は工芸品だけでなく、生活用品、農具、仏具、建築模型なども広く出品しました。会場には神社と日本庭園も造られ、日本文化を空間全体で見せる試みが行われました。

この参加は海外宣伝にとどまりません。政府関係者は、展示品の分類、審査、会場運営、博物館、産業振興の方法を調査しました。外務省の解説によれば、ウィーン万博参加の準備段階から、将来日本で博覧会を開く構想が示されていました。

京都博覧会と湯島聖堂博覧会で国内展示を試し、ウィーンで国際博覧会の運営を学んだ経験が、4年後の第1回内国勧業博覧会へつながります。

内国勧業博覧会5回――日本国内で産業と都市を育てる

「内国」は国内、「勧業」は産業を奨励するという意味です。

内国勧業博覧会は、1877年から1903年までに5回開かれました。東京・上野で3回、京都・岡崎で1回、大阪・天王寺今宮で1回です。

年・会場 入場者数 大きな変化
第1回 1877年・東京上野 454,168人 殖産興業を目的とする最初の全国的産業博覧会
第2回 1881年・東京上野 823,094人 出品と来場者が増え、制度が定着
第3回 1890年・東京上野 1,023,693人 外国人客と海外販路を意識
第4回 1895年・京都岡崎 1,136,695人 地方都市振興、電力利用、文化地区形成
第5回 1903年・大阪天王寺今宮 4,350,693人 国際化、大衆娯楽化、植民地展示

第1回――西南戦争のさなかに始まった産業国家づくり

第1回内国勧業博覧会は、1877年に上野公園で開かれました。西南戦争が続く時期でしたが、政府は産業振興を止めませんでした。

中心人物の一人が、初代内務卿の大久保利通です。政府は1873年のウィーン万博を参考に、美術、農業、機械、園芸、動物などの展示館を設けました。

ここで重視されたのは、珍品を集める従来の見世物ではなく、産業に役立つ製品や技術を比較することでした。審査と褒賞を通じて、全国の生産者へ品質向上を促したのです。

第2回――出品者と観客が増え、仕組みが定着する

1881年の第2回も上野で開催されました。国立国会図書館によれば、出品数は第1回の約4倍に増え、入場者も82万人を超えました。

博覧会は一度きりの国家行事ではなく、製品を発表し評価を受ける定期的な機会として定着し始めます。ジョサイア・コンドル設計の博物館建築も使われ、博覧会と博物館の制度が近接して発展しました。

第3回――国内博覧会から世界市場を意識する段階へ

1890年の第3回には、当初「アジア博覧会」として規模を広げ、将来の万博開催へつなげる構想がありました。財政上の反対などから純粋な内国博にとどまりましたが、外国人客を招き、出品物の海外販路を広げることが意識されました。

同じ1890年には、第1回衆議院議員総選挙と帝国議会の開設がありました。政治制度の面で近代国家の形が整う一方、博覧会では産業国家としての姿が可視化されていたのです。

第4回――博覧会が京都の都市再生を動かす

1895年の第4回は、初めて東京を離れ、京都の岡崎で開催されました。

東京遷都後の京都では、都市の活力を取り戻すことが大きな課題でした。開催は平安遷都1100年の記念事業と結びつき、平安神宮の創建や時代祭の始まりとも重なります。

会場の主要館には美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館があり、機械館の動力は従来の石炭から電力へ変わりました。

会場跡には1904年に岡崎公園が開設され、その後、美術館、図書館、動物園、劇場などが集まる文化地区へ発展しました。博覧会が終わっても、都市空間そのものが遺産として残った代表例です。

第5回――「産業を教える場」から巨大な大衆イベントへ

1903年の第5回は、大阪の天王寺今宮で開かれました。会場と会期は過去最大で、入場者数は435万人を超えました。

農業、林業、水産、工業、機械、教育、美術などの各館に加え、外国製品を展示する参考館、台湾館、堺の水族館などが設けられました。電灯、自動車、エレベーター、活動写真といった新しい技術や娯楽も、人々の関心を集めました。

この段階で博覧会は、政府が産業技術を教えるだけの場ではありません。鉄道で全国から人が訪れ、夜間照明や娯楽を楽しむ巨大都市イベントになっていました。

跡地の東側は天王寺公園、西側は新世界として整備されます。現在の大阪の観光地にも、博覧会の都市計画がつながっています。

成功物語だけではない――植民地と「人間の展示」

明治の博覧会は、技術や都市を発展させた明るい物語だけでは説明できません。

19世紀後半の欧米の万博では、植民地の産物や住居を展示し、現地の人々を会場で生活・演技させる「人間の展示」が行われました。そこには、欧米を文明の中心に置き、他地域を観察や支配の対象とする視線がありました。

日本も国際秩序へ参加する過程で、同じ展示方法を取り込みました。

第5回内国勧業博覧会には台湾館が設けられ、場外の学術人類館では沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮などの人々が「民族」の見本のように扱われました。沖縄の新聞人らが抗議した、いわゆる人類館事件も起きています。

博覧会は「日本が西洋からどう見られたか」だけでなく、「日本がアジアや国内の少数者をどう見せたか」を映す鏡でもありました。

近代化と差別、産業発展と帝国拡張は、別々に進んだのではありません。同じ会場の中に並んでいたのです。

1910年の日英博覧会――日本は世界に何を見せたのか

内国勧業博覧会の第6回ではない

日英博覧会は、1910年5月から10月にかけて、ロンドン西部のホワイトシティで開催されました。

日本とイギリスを中心とする二国間博覧会であり、内国勧業博覧会の正式な後継大会ではありません。日本側には日英博覧会事務局が置かれ、イギリス側の博覧会事業者と協力して運営しました。

制度は別でも、幕末以来の海外万博参加と、国内博覧会で蓄積した経験が投入されました。日本にとっては、自国が中心となって海外で開く、初の大規模な国際的博覧会と位置づけられます。

背景には日英同盟と日露戦争後の日本があった

1902年、日本とイギリスは日英同盟を結びました。日本は日清戦争、日露戦争を経て国際的な地位を高めましたが、欧米には日本への警戒や黄禍論も存在しました。

日英博覧会には、両国の友好を示すとともに、日本を「理解できる同盟国」として印象づける外交的な狙いがありました。

日本側が見せようとしたのは、古美術や庭園だけではありません。産業、教育、農林水産業、軍事、統治制度などを通して、伝統を持ちながら近代化に成功した国家という像を構成しました。

伝統の日本と近代国家の日本を同時に展示した

会場には、日本の美術工芸品、歴史資料、建築模型、産業製品、日本庭園などが並びました。

これは一見すると矛盾した展示です。日本は近代工業国として認められたい一方、来場者が期待する寺社、武士、工芸、庭園といった「日本らしさ」も見せる必要がありました。

そのため日英博覧会では、伝統と近代を対立させるのではなく、長い文化を持つ日本が近代国家へ発展したという物語が作られました。

帝国日本も展示された

1910年は、日本が韓国併合を行った年でもあります。日英博覧会では、台湾、朝鮮、満州、アイヌなどに関する展示も、日本の統治領域や勢力を示す構成へ組み込まれました。

これは日本が欧米列強の仲間入りを主張する際、自らも植民地を統治する帝国として振る舞ったことを示します。

日英博覧会は日英友好の祭典であると同時に、近代日本がどのような国家になったのかを、光と影の両面から映す出来事でした。

よくある誤解を整理する

「明治最初の博覧会は第1回内国勧業博覧会」?

違います。1877年の第1回内国勧業博覧会より前に、1871年の京都博覧会と1872年の湯島聖堂博覧会がありました。

ただし「日本最初」という表現は、何を博覧会と定義するか、地方開催を含めるか、政府主催を重視するかで説明が変わります。京都市は1871年の西本願寺での催しを日本最初の博覧会とし、東京国立博物館は1872年の湯島聖堂博覧会を「わが国最初の博覧会」と説明しています。記事では両者の性格を分けて理解するのが適切です。

「内国勧業博覧会は日本の万博だった」?

一般に「明治の万博」と呼ばれることはありますが、厳密には国際的な万国博覧会ではありません。日本国内の産業振興を目的とする国内博覧会です。

ただし第3回以降は海外市場や外国人客を意識し、第5回では外国製品も大規模に展示されました。万博開催を目指す練習台・準備段階という面はありました。

「海外万博をまねただけ」?

初期には海外万博をモデルにしましたが、単純な模倣ではありません。

国内の農業、伝統工芸、在来技術を審査制度へ取り込み、地方の生産者を全国市場へ結びつけました。京都や大阪では都市振興とも結びつき、日本独自の役割へ変化しています。

「博覧会によって日本は一方的に近代化した」?

博覧会は技術移転や産業発展を促しましたが、すべての出品者が利益を得たわけではありません。政府の評価基準が地域の技術や美意識を作り替え、輸出向けの商品へ変化させた面もあります。

また、植民地展示や人間の展示には、明確な差別と支配の構造がありました。発展と抑圧を同時に見る必要があります。

現在歩ける博覧会の跡地

東京・湯島聖堂

1872年の博覧会が開かれた場所です。現在の建物は関東大震災後に再建されたものですが、日本の博物館と博覧会制度の出発点となった場所を歩けます。

東京・上野公園

第1回から第3回までの内国勧業博覧会が開かれた場所です。現在は東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館、上野動物園などが集まっています。

当時の建物の多くは残っていませんが、博覧会、博物館、美術館、動物園が同じ上野の山で発展したつながりを現地で確認できます。

京都・京都御苑と岡崎公園

京都博覧会の常設会場が置かれた京都御苑には、京都博覧会碑が残ります。岡崎公園は第4回内国勧業博覧会の会場跡です。

平安神宮、京都市京セラ美術館、京都府立図書館、京都市動物園、ロームシアター京都、みやこめっせなどが集まり、博覧会を契機に形成された文化地区が現在も同じ役割を担っています。

大阪・天王寺公園と新世界

第5回会場の東側は天王寺公園、西側は新世界になりました。

天王寺動物園、慶沢園、新世界、通天閣周辺を歩くと、博覧会が大阪南部の都市開発を動かした広がりを実感できます。

ロンドン・ハマースミス公園

日英博覧会の会場だったホワイトシティ周辺には、当時造られた日本庭園の一部が残っています。現在のハマースミス公園にある「平和の庭」は、1910年の日英博覧会と日本の記憶を伝える貴重な遺構です。

まとめ――日本は博覧会で「見る側」から「見せる側」へ変わった

海外万博への参加、京都・湯島の初期博覧会、5回の内国勧業博覧会、日英博覧会は、制度上は別の催しです。しかし、歴史的には次のようにつながっています。

  1. 幕末から海外万博を視察・参加し、産業展示と国家宣伝の方法を知る
  2. 京都博覧会で地域産業と観光を振興し、湯島聖堂博覧会で収集・分類・保存・展示を一体化する
  3. ウィーン万博への本格参加で国際博覧会の運営を学ぶ
  4. 内国勧業博覧会で全国の製品を集め、比較・審査し、国内産業を育てる
  5. 博覧会を鉄道、電力、博物館、都市開発、大衆娯楽と結びつける
  6. 日英博覧会で、伝統文化と近代産業を併せ持つ日本像を海外へ提示する

この流れは、単純な成功物語ではありません。日本は西洋から評価される側から、国内外の人々や地域を分類し、展示する側にもなりました。その過程には、産業発展や文化交流とともに、帝国主義と差別の問題が含まれています。

明治の博覧会を見ることは、日本がどのような国になろうとし、自国と他者をどのように見せたのかを読むことです。

参考文献・参考サイト

  1. 国立国会図書館「博覧会―近代技術の展示場 第1部 1900年までに開催された博覧会」
  2. 国立国会図書館「ウィーン万博への道程」
  3. 東京国立博物館「館の歴史」
  4. 東京国立博物館「湯島聖堂博覧会」
  5. 東京国立博物館「壬申検査 150年前の文化財調査」
  6. 京都市「都市史29 京都の博覧会」
  7. 京都市「京都博覧会碑」
  8. 国立国会図書館「第1回内国勧業博覧会」
  9. 国立国会図書館「第2回内国勧業博覧会」
  10. 国立国会図書館「第3回内国勧業博覧会」
  11. 国立国会図書館「第4回内国勧業博覧会」
  12. 国立国会図書館「第5回内国勧業博覧会」
  13. 国立公文書館「内国勧業博覧会―明治初年の殖産興業」
  14. 外務省「博覧会の実施と明治の万博計画」
  15. 東京国立博物館「内国勧業博覧会―殖産興業と博物館」
  16. 大阪市「ルックバック浪速区 第5回内国勧業博覧会」
  17. 国立公文書館アジア歴史資料センター「英京倫敦ニ於ケル日英博覧会開設一件」
  18. 楠元町子「日英博覧会における日本の展示」
  19. 林みちこ「1910年日英博覧会の両義性」
  20. 在英国日本国大使館「Japanese Garden Community Day」