明治の博覧会を総まとめ|万博参加・内国勧業博覧会5回・日英博覧会まで

明治の博覧会を象徴的に描いたアイキャッチ画像。海外万博、国内博覧会、日英博覧会への流れを表現

上野公園、京都の岡崎公園、大阪の天王寺公園には、明治時代の博覧会場だった歴史があります。

日本は幕末からパリやウィーンなどの万国博覧会に参加し、1910年にはロンドンで大規模な日英博覧会を開きました。制度や開催地は異なりますが、海外で展示と運営を学び、国内の博覧会で産業と都市を育て、やがて海外で日本を大規模に展示する流れで結ばれています。植物、農業、都市環境を主題とする現代の国際園芸博覧会については、GREEN×EXPO 2027の解説で紹介しています。

30秒で分かる結論――別々の催しだが、歴史的にはつながっている

海外万博への参加、京都博覧会、湯島聖堂博覧会、内国勧業博覧会、日英博覧会は、制度上は別の催しです。

  • 海外万博への参加:外国で開かれる国際博覧会へ、日本が参加しました。
  • 京都博覧会:京都の産業振興と都市再生を目的に、京都府と民間が進めました。
  • 湯島聖堂博覧会:文部省博物局が開催し、博物館制度とウィーン万博出品準備の起点になりました。
  • 内国勧業博覧会:日本政府が国内産業の育成を目的に開催しました。
  • 日英博覧会:1910年にロンドンで開かれた、日本とイギリスを中心とする二国間博覧会です。

湯島聖堂博覧会は第1回内国勧業博覧会ではなく、日英博覧会も第6回内国勧業博覧会ではありません。

各博覧会は、展示品の収集・分類、審査、輸送、会場運営、文化財調査、輸出振興、国家宣伝などの実務を通じて結ばれています。

全体像を一枚で見る

段階 主な出来事 日本の立場 歴史的な意味
第1段階 1862年ロンドン、1867年パリなど 見る側・学ぶ側・出品する側 産業、展示、博物館、貿易の仕組みを知る
橋渡し 1871年京都、1872年湯島聖堂、1873年ウィーン 国内展示の主催者と国家出品者 国内で展示を試し、博物館制度と万博出品を結ぶ
第2段階 1877~1903年の内国勧業博覧会5回 国内博覧会の主催者 製品を比較・審査し、産業と都市を育てる
第3段階 1910年の日英博覧会 国際的な大展示の中心国 伝統、産業、軍事、帝国を含む日本像を海外で演出する

博覧会とは何だったのか――商品見本市と国家の舞台

19世紀の博覧会は、工業製品、機械、農産物、美術工芸品を集め、各国・地域の生産力を比較する場でした。優れた製品への褒賞は品質改良を促し、外国人の注目は輸出や外交につながりました。鉄道、電灯、電話、エレベーターなどを実演し、来場者に新技術を体験させる役割もありました。

  • 新しい機械や製品を紹介する産業展示
  • 製品を審査し、品質改良を促す競争の場
  • 輸出先や取引相手を探す商談の場
  • 国民に近代国家の姿を見せる教育の場
  • 開催都市を整備し、大勢の人を呼ぶ観光・娯楽イベント
  • 国の文化、歴史、領土、国力を海外へ示す外交の舞台

幕末日本は海外万博で何を見たのか

1862年ロンドン万博――まずは視察者として

開国交渉のためヨーロッパへ派遣された幕府使節団は、1862年の第2回ロンドン万国博覧会を視察しました。会場には欧米各国の機械、工業製品、美術品、各地の産物が集められていました。

使節団は、国家が産業を分類し、技術を比較し、製品を世界市場へ売り込む仕組みを目にしました。

1867年パリ万博――幕府と諸藩が別々に日本を見せた

1867年のパリ万博には、幕府のほか薩摩藩、佐賀藩などが参加しました。明治政府成立前であり、幕府と諸藩がそれぞれの立場を示す政治宣伝の場にもなりました。

陶磁器、漆器、染織、刀装具などの日本品は西欧の関心を集め、日本の美術工芸が海外市場へ進出し、ジャポニスムが広がる一因となりました。

内国勧業博覧会の前にあった二つの重要な博覧会

1877年の第1回内国勧業博覧会に先立ち、京都と東京で国内博覧会が開かれました。

1871年京都博覧会――京都の産業と都市を立て直す

京都市の資料によれば、1871年に西本願寺で博覧会が開かれました。京都市はこれを「日本最初の博覧会」と紹介しています。

翌1872年には、京都府と民間が設立した京都博覧会社によって、西本願寺、建仁寺、知恩院を会場とする第1回京都博覧会が開催されました。その後も1928年まで、ほぼ毎年続きました。

東京遷都後の京都にとって、博覧会は工芸、商業、観光を振興し、外国人客を呼び込む都市再生策でした。中央政府が全国産業を統括する内国勧業博覧会とは異なり、地域社会が産業と都市を立て直す事業でした。

1872年湯島聖堂博覧会――博覧会と博物館が同時に始まった

1872年3月10日、文部省博物局は東京の湯島聖堂大成殿で博覧会を開催しました。東京国立博物館は、この博覧会を自館の創立・開館の起点としています。

会場には名古屋城の金鯱、絵画、書跡、金工品、染織品、漆器、陶器、剥製、骨格標本などが並びました。江戸時代の物産会や見世物の性格を残す一方、資料を収集、分類、保存し、恒久的に公開する近代博物館の出発点にもなりました。

この博覧会は翌1873年のウィーン万博準備と結びついていました。全国から特産物などを2点ずつ集め、1点を万博出品用、もう1点を博物館の常設陳列用として保管する方針が取られました。

同じ1872年には、社寺や旧家の宝物を調査する壬申検査も実施されました。万博への出品選定、文化財調査、博物館の収集が一体で進められました。

1873年ウィーン万博――明治政府の実地研修

明治政府が国家として初めて本格的に参加した万博が、1873年のウィーン万国博覧会です。

日本は工芸品、生活用品、農具、仏具、建築模型などを出品し、会場には神社と日本庭園も造りました。政府関係者は展示品の分類、審査、会場運営、博物館、産業振興の方法を調査しました。

外務省の解説によれば、準備段階から将来日本で博覧会を開く構想が示されていました。京都と湯島聖堂での国内展示、ウィーンでの運営調査は、4年後の第1回内国勧業博覧会につながりました。

内国勧業博覧会5回――日本国内で産業と都市を育てる

「内国」は国内、「勧業」は産業を奨励するという意味です。

内国勧業博覧会は、1877年から1903年までに5回開かれました。東京・上野で3回、京都・岡崎で1回、大阪・天王寺今宮で1回です。

年・会場 入場者数 大きな変化
第1回 1877年・東京上野 454,168人 殖産興業を目的とする最初の全国的産業博覧会
第2回 1881年・東京上野 823,094人 出品と来場者が増え、制度が定着
第3回 1890年・東京上野 1,023,693人 外国人客と海外販路を意識
第4回 1895年・京都岡崎 1,136,695人 地方都市振興、電力利用、文化地区形成
第5回 1903年・大阪天王寺今宮 4,350,693人 国際化、大衆娯楽化、植民地展示

第1回――西南戦争のさなかに始まった産業国家づくり

第1回内国勧業博覧会は、1877年に西南戦争が続くなか、上野公園で開かれました。中心人物の一人は初代内務卿の大久保利通です。

政府はウィーン万博を参考に、美術、農業、機械、園芸、動物などの展示館を設けました。産業に役立つ製品や技術を比較し、審査と褒賞によって生産者へ品質向上を促しました。

第2回――出品者と観客が増え、仕組みが定着する

1881年の第2回も上野で開催されました。国立国会図書館によれば、出品数は第1回の約4倍、入場者は82万人を超えました。

製品を発表して評価を受ける定期的な機会として定着し始め、ジョサイア・コンドル設計の博物館建築も使われました。

第3回――国内博覧会から世界市場を意識する段階へ

1890年の第3回には、当初「アジア博覧会」として規模を広げ、将来の万博開催へつなげる構想がありました。財政上の反対などから内国博にとどまりましたが、外国人客を招き、出品物の海外販路を広げることが意識されました。

第4回――博覧会が京都の都市再生を動かす

1895年の第4回は、初めて東京を離れ、京都の岡崎で開催されました。

開催は平安遷都1100年の記念事業と結びつき、平安神宮の創建や時代祭の始まりとも重なります。主要館には美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館があり、機械館の動力は石炭から電力へ変わりました。

会場跡には1904年に岡崎公園が開設され、その後、美術館、図書館、動物園、劇場などが集まる文化地区へ発展しました。

第5回――「産業を教える場」から巨大な大衆イベントへ

1903年の第5回は、大阪の天王寺今宮で開かれました。会場と会期は過去最大で、入場者数は435万人を超えました。

農業、林業、水産、工業、機械、教育、美術などの各館に加え、外国製品を展示する参考館、台湾館、堺の水族館などが設けられました。電灯、自動車、エレベーター、活動写真などの新技術や娯楽も注目を集めました。

鉄道で全国から人が訪れ、夜間照明や娯楽を楽しむ巨大都市イベントとなりました。跡地の東側は天王寺公園、西側は新世界として整備されました。

成功物語だけではない――植民地と「人間の展示」

19世紀後半の欧米の万博では、植民地の産物や住居を展示し、現地の人々を会場で生活・演技させる「人間の展示」が行われました。欧米を文明の中心に置き、他地域を観察や支配の対象とする展示でした。

日本も同じ展示方法を取り込みました。第5回内国勧業博覧会には台湾館が設けられ、場外の学術人類館では沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮などの人々が「民族」の見本のように扱われました。沖縄の新聞人らが抗議した、いわゆる人類館事件も起きています。

産業発展と帝国拡張は、同じ会場で進められていました。

1910年の日英博覧会――日本は世界に何を見せたのか

内国勧業博覧会の第6回ではない

日英博覧会は、1910年5月から10月にかけて、ロンドン西部のホワイトシティで開催されました。

日本とイギリスを中心とする二国間博覧会であり、内国勧業博覧会の後継大会ではありません。日本側の日英博覧会事務局と、イギリス側の博覧会事業者が協力して運営しました。

幕末以来の海外万博参加と国内博覧会の経験が投入され、日本が中心となって海外で開く初の大規模な国際的博覧会となりました。

背景には日英同盟と日露戦争後の日本があった

1902年、日本とイギリスは日英同盟を結びました。日清・日露戦争後、日本の国際的地位が高まる一方、欧米には日本への警戒や黄禍論もありました。

日英博覧会には両国の友好を示し、日本を同盟国として印象づける外交的な狙いがありました。古美術や庭園に加え、産業、教育、農林水産業、軍事、統治制度を展示し、伝統を持つ近代国家という日本像を構成しました。

伝統の日本と近代国家の日本を同時に展示した

会場には、美術工芸品、歴史資料、建築模型、産業製品、日本庭園などが並びました。

近代工業国としての姿と、寺社、武士、工芸、庭園など来場者が期待する「日本らしさ」を同時に示し、長い文化を持つ日本が近代国家へ発展したという物語を作りました。

帝国日本も展示された

1910年は、日本が韓国併合を行った年です。日英博覧会では、台湾、朝鮮、満州、アイヌなどに関する展示が、日本の統治領域や勢力を示す構成へ組み込まれました。

日本は欧米列強の仲間入りを主張すると同時に、自らも植民地を統治する帝国として振る舞いました。

よくある誤解を整理する

「明治最初の博覧会は第1回内国勧業博覧会」?

1877年の第1回内国勧業博覧会より前に、1871年の京都博覧会と1872年の湯島聖堂博覧会がありました。

「日本最初」の位置づけは定義によって異なります。京都市は1871年の西本願寺での催しを日本最初の博覧会とし、東京国立博物館は1872年の湯島聖堂博覧会を「わが国最初の博覧会」と説明しています。

「内国勧業博覧会は日本の万博だった」?

内国勧業博覧会は、国内産業の振興を目的とする国内博覧会で、国際的な万国博覧会ではありません。

第3回以降は海外市場や外国人客を意識し、第5回では外国製品も大規模に展示されました。将来の万博開催を目指す準備段階という面はありました。

「海外万博をまねただけ」?

海外万博をモデルにしながら、国内の農業、伝統工芸、在来技術を審査制度へ取り込み、地方の生産者を全国市場へ結びつけました。京都や大阪では都市振興とも結びつきました。

「博覧会によって日本は一方的に近代化した」?

博覧会は技術移転や産業発展を促す一方、政府の評価基準によって地域の技術や美意識を輸出向け商品へ変化させました。

植民地展示や人間の展示には、差別と支配の構造がありました。

現在歩ける博覧会の跡地

東京・湯島聖堂

1872年の博覧会が開かれた場所です。現在の建物は関東大震災後の再建ですが、日本の博物館と博覧会制度の出発点を歩けます。

東京・上野公園

第1回から第3回までの内国勧業博覧会が開かれた場所です。現在は東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館、上野動物園などが集まっています。

博覧会、博物館、美術館、動物園が同じ上野の山で発展したつながりを現地で確認できます。

京都・京都御苑と岡崎公園

京都博覧会の常設会場が置かれた京都御苑には、京都博覧会碑が残ります。岡崎公園は第4回内国勧業博覧会の会場跡です。

平安神宮、京都市京セラ美術館、京都府立図書館、京都市動物園、ロームシアター京都、みやこめっせなどが集まり、博覧会を契機に形成された文化地区が現在も同じ役割を担っています。

大阪・天王寺公園と新世界

第5回会場の東側は天王寺公園、西側は新世界になりました。天王寺動物園、慶沢園、新世界、通天閣周辺に、博覧会を起点とする都市開発の跡が残ります。

ロンドン・ハマースミス公園

日英博覧会の会場だったホワイトシティ周辺には、当時造られた日本庭園の一部が残っています。ハマースミス公園の「平和の庭」は、1910年の日英博覧会の記憶を伝えています。

まとめ――日本は博覧会で「見る側」から「見せる側」へ変わった

海外万博への参加、京都・湯島の初期博覧会、5回の内国勧業博覧会、日英博覧会は、制度上は別の催しですが、次のようにつながっています。

  1. 幕末から海外万博を視察・参加し、産業展示と国家宣伝の方法を知る
  2. 京都博覧会で地域産業と観光を振興し、湯島聖堂博覧会で収集・分類・保存・展示を一体化する
  3. ウィーン万博への本格参加で国際博覧会の運営を学ぶ
  4. 内国勧業博覧会で全国の製品を集め、比較・審査し、国内産業を育てる
  5. 博覧会を鉄道、電力、博物館、都市開発、大衆娯楽と結びつける
  6. 日英博覧会で、伝統文化と近代産業を併せ持つ日本像を海外へ提示する

日本は評価される側から、国内外の人々や地域を分類し、展示する側にもなりました。その過程には、産業発展や文化交流とともに、帝国主義と差別の問題がありました。

参考文献・参考サイト

  1. 国立国会図書館「博覧会―近代技術の展示場 第1部 1900年までに開催された博覧会」
  2. 国立国会図書館「ウィーン万博への道程」
  3. 東京国立博物館「館の歴史」
  4. 東京国立博物館「湯島聖堂博覧会」
  5. 東京国立博物館「壬申検査 150年前の文化財調査」
  6. 京都市「都市史29 京都の博覧会」
  7. 京都市「京都博覧会碑」
  8. 国立国会図書館「第1回内国勧業博覧会」
  9. 国立国会図書館「第2回内国勧業博覧会」
  10. 国立国会図書館「第3回内国勧業博覧会」
  11. 国立国会図書館「第4回内国勧業博覧会」
  12. 国立国会図書館「第5回内国勧業博覧会」
  13. 国立公文書館「内国勧業博覧会―明治初年の殖産興業」
  14. 外務省「博覧会の実施と明治の万博計画」
  15. 東京国立博物館「内国勧業博覧会―殖産興業と博物館」
  16. 大阪市「ルックバック浪速区 第5回内国勧業博覧会」
  17. 国立公文書館アジア歴史資料センター「英京倫敦ニ於ケル日英博覧会開設一件」
  18. 楠元町子「日英博覧会における日本の展示」
  19. 林みちこ「1910年日英博覧会の両義性」
  20. 在英国日本国大使館「Japanese Garden Community Day」