1860年、江戸幕府の使節たちは米艦ポーハタン号で太平洋を渡りました。数年後には、海外渡航が禁じられていた時代にもかかわらず、長州藩や薩摩藩の若者たちが英国へ向かいます。そして明治政府成立後の1871年、政府首脳を含む岩倉使節団が欧米へ出発しました。
黒船来航後の日本は、「外国を拒むのか、受け入れるのか」だけで揺れていたわけではありません。幕府も藩も明治政府も、欧米と交渉し、技術や制度を学び、次の時代を担う人材を育てようとしていました。
この記事では、1850年代末から岩倉使節団が帰国する1873年までを中心に、公式使節、幕府留学生、藩の密航留学、明治政府の国家視察団を一つの流れとして整理します。
この記事の中心メッセージ
幕末から明治初期の海外派遣は、日本が欧米に驚いた物語であると同時に、近代国家の作り方を学び、幕府・諸藩・明治政府の人材が次の時代を作っていく過程でした。
まず結論|海外派遣は3種類に分けると分かりやすい
幕末・明治初期の海外派遣は、目的と派遣主体から、次の三つに分けると全体像が見えます。
- 外交のための公式使節:万延元年遣米使節、文久遣欧使節、横浜鎖港談判使節
- 技術と制度を学ぶ留学生・密航留学:幕府留学生、長州ファイブ、薩摩藩英国留学生
- 明治政府の国家視察団:岩倉使節団
最初の段階では、幕府が条約の批准や開港延期など、目前の外交問題を解決するために使節を送りました。同時に、幕府や諸藩は、海軍、造船、法学、国際法、語学、産業などを学ぶ人材を海外へ送り始めます。その蓄積の上に、明治政府が欧米の国家制度を総点検した岩倉使節団が位置しています。
一覧表|幕末・明治初期の海外使節団・留学生
公式使節と国家視察団
| 年 | 名称・主体 | 主な人物 | 目的と重要点 |
|---|---|---|---|
| 1860 | 万延元年遣米使節 江戸幕府 |
新見正興、村垣範正、小栗忠順 | 日米修好通商条約の批准書交換。米国の政治・都市・交通・産業を本格的に見た初期の幕府外交。 |
| 1862 | 文久遣欧使節 江戸幕府 |
竹内保徳、松平康直、京極高朗 | 兵庫・新潟の開港、江戸・大坂の開市延期を交渉。欧州事情の視察も担った。 |
| 1863〜64 | 横浜鎖港談判使節 江戸幕府 |
池田長発、河津祐邦、河田煕 | 横浜鎖港をフランスで交渉。攘夷要求と国際条約の現実が衝突した。 |
| 1871〜73 | 岩倉使節団 明治政府 |
岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳 | 条約改正の予備交渉と欧米の制度・産業・教育などの調査。幕末以来の海外派遣の総仕上げ。 |
留学生・密航留学
| 時期 | 派遣主体・行き先 | 主な人物 | 学んだ分野・帰国後 |
|---|---|---|---|
| 1862年以降 | 幕府留学生 オランダほか |
西周、津田真道、榎本武揚、赤松則良 | 法学、国際法、海軍、造船、測量、技術。旧幕臣の知識は明治政府にも継承された。 |
| 1863 | 長州藩 英国へ密航 |
伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝 | 政治、法律、工学、鉱業、鉄道、経済。帰国後は政府、外交、造幣、工学、鉄道を担った。 |
| 1865 | 薩摩藩 英国へ秘密渡航 |
五代友厚、寺島宗則、森有礼ら | 産業、外交、教育、実業。薩英戦争後の薩摩が、英国を敵ではなく学ぶ相手として捉え直した。 |
なぜ日本人は欧米へ行ったのか|開国・攘夷・条約・近代化
1853年のペリー来航以後、日本は軍事力を背景に通商を求める欧米諸国と向き合いました。1858年に幕府が結んだ日米修好通商条約などには、外国人を日本の裁判権で裁きにくい領事裁判権や、日本側が関税率を自由に決めにくい仕組みが含まれていました。後に「不平等条約」と呼ばれる条約です。
開港後には物価上昇や金貨流出への不安が広がり、外国勢力を排除しようとする攘夷論も強まりました。しかし、欧米の軍艦や工業力を目の当たりにすると、「外国を退けるためにも、まず外国を知らなければならない」という矛盾が生まれます。
幕府にとって海外使節は、条約を守りながら国内政治を安定させるための外交手段でした。諸藩にとって留学は、軍事的危機を乗り越え、藩や日本を存続させるための人材投資でした。明治政府にとって岩倉使節団は、欧米諸国と対等な国家になるために、制度そのものを調べる事業でした。
つまり、海外渡航は珍しい見物旅行ではありません。外交、安全保障、技術導入、人材育成が結びついた生存戦略だったのです。
幕府の公式使節|条約交渉と国際外交の現実
万延元年遣米使節|アメリカを見た最初期の幕府外交
1860年、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らをアメリカへ派遣しました。一行は米艦ポーハタン号に乗り、ハワイ、サンフランシスコ、パナマを経てワシントンへ向かいました。
目的はあくまで正式な外交文書の交換でしたが、一行が目にしたものは議会、造船所、工場、鉄道、ホテル、病院、都市インフラなど、近代国家を支える仕組み全体でした。帰国後、小栗忠順らが幕府の財政・軍事・産業政策に関わったことを考えると、この使節は外交儀礼を超えた学習の場でもありました。
詳しくは、当サイトの小栗忠順とは何者か|幕末幕府の近代化を支えた男もあわせてご覧ください。
よく混同されますが、遣米使節そのものが咸臨丸に乗ったわけではありません。使節本隊はポーハタン号で渡米し、咸臨丸は随伴艦として太平洋を横断しました。咸臨丸には勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎、赤松則良らが乗り込み、日本人による外洋航海の経験を積みました。
文久遣欧使節|開港延期交渉と欧州視察
1862年、幕府は竹内保徳を正使とする使節団を欧州へ派遣しました。最大の課題は、条約で定められていた兵庫・新潟の開港と、江戸・大坂の開市を延期してもらうことでした。
幕府は、開港による経済混乱や攘夷運動の高まりの中で、国内体制を整える時間を必要としていました。使節はフランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルを訪ね、交渉の結果、ロンドン覚書などによって開港・開市の延期を認めさせました。
これは幕府外交の成果です。ただし、列強は無条件で譲歩したのではなく、既開港場での貿易改善などを求めました。使節団は、条約国との交渉には国際的な約束、相手国の利害、軍事力、貿易実務が絡むことを知ります。欧州の軍事施設、工場、議会、教育施設の視察も、幕府が西洋諸国を具体的に理解する機会となりました。
横浜鎖港談判使節|攘夷と外交現実の衝突
1863年末、幕府は池田長発を正使とする使節団をフランスへ派遣しました。朝廷や国内の攘夷要求を受け、開港場である横浜を再び閉ざす「横浜鎖港」を交渉するためです。
しかし、すでに条約に基づく貿易が始まり、外国商人や各国政府の権益が成立していました。日本国内の政治的都合だけで、国際条約を一方的に巻き戻すことはできません。使節団は鎖港を実現できず、逆にパリ約定を結びますが、幕府は帰国後にこれを承認しませんでした。
この使節は成功物語ではありません。むしろ、国内向けの攘夷政策と、条約を前提に動く国際外交の間で、幕府が身動きを取りにくくなっていたことを示します。同時に、実際に欧州を見た池田長発らが鎖国への単純な回帰は困難だと認識した点で、失敗を通じた学習でもありました。
幕府留学生|幕府側も近代知識を学んでいた
幕末の近代化を、薩摩・長州など倒幕側だけの物語にすると重要な部分が抜け落ちます。幕府は長崎海軍伝習所や開成所で人材を育て、さらにオランダ、イギリス、フランスなどへ留学生や研修生を送りました。
西周・津田真道|国際法・法学・思想を学ぶ
1862年にオランダへ派遣された西周と津田真道は、ライデン大学教授シモン・フィッセリングのもとで、自然法、国際法、政治学、経済学、統計学などを学びました。
彼らが持ち帰ったのは、個別の法律知識だけではありません。国家とは何か、国際社会はどのような規則で動くのか、制度をどのような概念と言葉で説明するのかという思考の枠組みでした。西は「哲学」など西洋学術を表す語の整備に関わり、津田は法制度や司法の形成に貢献します。
榎本武揚・赤松則良ら|海軍・造船・技術を学ぶ
同じオランダ留学生には、榎本武揚、赤松則良、沢太郎左衛門、内田正雄らがいました。海軍運用、造船、砲術、測量、機械、火薬製造などを学び、幕府が発注した軍艦開陽丸で帰国した者もいます。
榎本は戊辰戦争で旧幕府側として戦いましたが、降伏後は明治政府に登用され、外交や開拓行政に関わりました。赤松も明治海軍の教育と整備を担います。政治的立場が変わっても、専門知識は新政府に必要とされたのです。
幕府留学生の知識は明治日本へ引き継がれた
江戸幕府が倒れたからといって、幕府が育てた人材や施設、翻訳知識、技術まで消えたわけではありません。横須賀製鉄所、開成所、海軍教育、外交実務、西洋法学など、幕府期の蓄積の多くが明治政府へ受け継がれました。
当サイトの徳川15代将軍と右腕たちで読む江戸時代でも触れているように、幕末の幕府は古い制度の限界を抱えながら、同時に近代化の実務を進めていました。「幕府は遅れ、倒幕側だけが先進的だった」という二分法では、この知識の継承は見えません。
諸藩の密航・留学|倒幕勢力はなぜ欧米を学んだのか
長州ファイブ|攘夷の藩が英国へ送った5人
1863年、長州藩は伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝の5人を英国へ送りました。当時、幕府の許可を得ない海外渡航は禁止されていたため、彼らの渡航は密航でした。
長州藩は攘夷運動の中心にいました。同じ1863年には下関海峡で外国船を砲撃しています。その一方で、藩は西洋の軍事力や技術を知る必要を認め、若い藩士を海外へ送り出しました。ここに「攘夷から学習へ」という転換が表れています。
5人はロンドン大学ユニバーシティ・カレッジを拠点に学び、工場、造船所、鉄道なども見学しました。伊藤と井上馨は、長州と列強の衝突を知って早期に帰国し、戦争回避のために動きます。残った3人も帰国後、それぞれ重要な役割を担いました。
- 伊藤博文:政治制度・外交を担い、初代内閣総理大臣へ
- 井上馨:外交・財政・産業政策を担う
- 遠藤謹助:造幣事業に関わる
- 山尾庸三:工部行政と工学教育を推進
- 井上勝:鉄道建設を主導
5人の功績は、単に「英国で驚いた」ことではありません。見た制度と技術を、帰国後に官庁、学校、工場、鉄道、造幣局という組織へ変えた点にあります。
薩摩藩英国留学生|薩英戦争後、薩摩は英国を学びに行った
1863年の薩英戦争で、薩摩藩は英国艦隊の火力を経験しました。しかし戦後、薩摩と英国は敵対を続けるのではなく、接近していきます。1865年、薩摩藩は五代友厚、寺島宗則、森有礼らを含む一行を英国へ送りました。幕府には秘密の渡航であり、留学生だけでなく、外交・産業調査を担う視察員も含まれていました。
彼らは英国の工業、海軍、教育、議会、商業を見学し、機械や武器の購入、国際的な人脈づくりにも関わりました。
- 五代友厚:大阪を中心に鉱工業・商業の発展へ貢献
- 寺島宗則:外交官として条約改正交渉などを担う
- 森有礼:教育制度の整備に関わり、初代文部大臣となる
薩摩の海外学習もまた、攘夷を単純に捨てたというより、軍事衝突から得た危機感を、技術・外交・産業の学習へ転換したものでした。
長州と薩摩の留学が明治政府へつながる
長州ファイブと薩摩藩英国留学生は、派遣時期も人数も学習内容も異なります。しかし共通するのは、藩が幕府とは別に国際情報と専門人材を確保しようとした点です。
明治維新後、彼らの多くは中央政府、外交、工部行政、教育、鉄道、造幣、実業界へ入りました。藩のために学んだ知識が、やがて新国家の制度を作る力へ変わったのです。
ただし、明治国家を作ったのは薩長出身者だけではありません。幕府留学生や旧幕臣、外国人教師、国内の技術者・職人・官僚も関わりました。近代化は複数の人材経路が合流した結果です。
岩倉使節団|明治政府が欧米を総点検した巨大視察団
目的|条約改正と制度調査
1871年11月、岩倉具視を特命全権大使とする使節団が横浜を出発しました。副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳です。随行員と留学生を含む総勢100人以上の大規模な一行でした。
目的は大きく二つありました。一つは、条約締結国へ国書を届け、不平等条約改正の予備交渉をすること。もう一つは、欧米の政治、司法、産業、軍事、教育、交通、都市、社会制度を調査することです。
誰が参加したのか|政府首脳・官僚・留学生
岩倉使節団の特徴は、政府の中心人物が長期間、日本を離れたことです。幕末の海外使節が外交官や幕臣を中心としていたのに対し、岩倉使節団には新政府の政策決定を担う木戸・大久保・伊藤らが参加しました。
各省の理事官や専門官も同行し、帰国後には司法、教育、工業など分野別の報告書をまとめました。また、津田梅子、永井繁子、山川捨松ら5人の女子留学生を含む留学生も同行しています。使節団は外交団であると同時に、人材育成事業でもありました。
何を見たのか|政治・産業・教育・軍事・都市
一行はアメリカを横断した後、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアなどを巡りました。議会、裁判所、官庁、学校、軍施設、銀行、工場、鉱山、鉄道、港湾、博物館、福祉施設などを視察しています。
重要なのは、欧米を一つの同じ「西洋」として見なかったことです。政治制度、地方自治、教育、軍制、産業政策は国ごとに異なりました。日本はその後、特定の国を丸ごと模倣するのではなく、海軍は英国、陸軍や法制度はフランス・ドイツ、教育や産業は複数国を参照するなど、分野ごとに制度を選び取っていきます。
条約改正は失敗、しかし国家づくりの教材になった
使節団はアメリカで条約改正交渉に踏み込もうとしましたが、必要な全権委任状を持っていませんでした。大久保と伊藤が一時帰国して委任状を得たものの、日本の法制度や国内体制が欧米側の求める水準に達していないこともあり、交渉は中止されました。
したがって、岩倉使節団は条約改正に成功した使節団ではありません。しかし、失敗によって、条約だけを交渉しても対等化は実現せず、司法制度、行政、軍事、財政、教育、産業基盤を整える必要があると認識されました。
帰国後、視察成果は各省の報告書や久米邦武編『米欧回覧実記』にまとめられました。使節団の経験が、個々の政策を直接一つずつ決めたと単純化はできませんが、明治政府の指導者たちが制度の選択肢と国際社会の基準を共有する大きな契機になりました。
岩倉使節団は突然現れた事業ではありません。万延元年遣米使節、文久遣欧使節、幕府留学生、長州・薩摩の海外留学が蓄積した知識と人脈の先に成立した、幕末以来の海外派遣の総仕上げでした。
1873年以降はどうなったのか|大使節団から専門留学の時代へ
岩倉使節団が1873年9月に帰国すると、日本の海外学習は終わったのではなく、形を変えました。欧米全体を大使節団で見て回る段階から、特定分野の制度や技術を詳しく調べる段階へ移ります。
- 憲法・議会制度
- 民法・刑法・裁判制度
- 陸軍・海軍
- 医学・公衆衛生
- 工学・鉱山・鉄道・通信
- 学校教育・教員養成
- 産業政策・金融・農業
たとえば伊藤博文は1882年から欧州で憲法制度を調査し、ドイツ・オーストリアの国家制度を重点的に学びました。こうした渡航は、国全体を一度に観察するよりも、政策課題に応じて専門家が調査する方式です。
本記事は岩倉使節団帰国までを中心範囲とします。1873年以後の官費留学、憲法調査、医学・工学・軍事留学については、今後の「明治の海外留学生まるわかりガイド」で詳しく扱うべきテーマです。
比較表|代表的な使節・留学の違い
| 名称 | 主体 | 性格 | 中心目的 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|---|---|
| 万延元年遣米使節 | 幕府 | 公式外交 | 条約批准書交換 | 幕府が米国の国家と産業を本格的に観察 |
| 文久遣欧使節 | 幕府 | 公式外交・視察 | 開港開市延期 | 交渉で時間を確保し、欧州の現実を学ぶ |
| 横浜鎖港談判使節 | 幕府 | 公式外交 | 横浜鎖港 | 攘夷要求と国際条約の矛盾が表面化 |
| 幕府留学生 | 幕府 | 専門留学 | 海軍・法学・技術 | 知識が明治政府へ継承 |
| 長州ファイブ | 長州藩 | 密航留学 | 西洋の実力と技術を学ぶ | 政治・鉄道・造幣・工学の人材へ |
| 薩摩藩英国留学生 | 薩摩藩 | 秘密留学・視察 | 産業・外交・教育 | 薩英接近と明治の実業・外交・教育へ |
| 岩倉使節団 | 明治政府 | 国家視察団・外交 | 条約改正予備交渉、制度調査 | 近代国家建設の比較材料を政府首脳が共有 |
よくある誤解とFAQ
遣米使節と咸臨丸は同じですか?
同じではありません。遣米使節の本隊は米艦ポーハタン号で渡米し、咸臨丸は随伴艦として太平洋を横断しました。咸臨丸には勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎らが乗っていました。
幕府は近代化に遅れていたのですか?
単純には言えません。幕府は制度疲労や財政難を抱えていましたが、海外使節、海軍伝習、留学生派遣、横須賀製鉄所、翻訳・教育機関の整備も進めていました。その人材と設備の一部は明治政府へ継承されました。
長州ファイブや薩摩藩英国留学生は公式使節ですか?
幕府が条約交渉のために送った公式外交使節とは異なります。藩が独自に送り出した留学生・視察者であり、当時の渡航規制を避けた秘密渡航でした。
攘夷派なのに、なぜ欧米へ学びに行ったのですか?
欧米を退けたいという危機感と、欧米の実力を知らなければ対抗できないという認識が同時にあったからです。軍事衝突や現地視察を通じ、単純な排外から技術・制度の学習へ重点が移りました。
岩倉使節団は条約改正に成功したのですか?
すぐには成功しませんでした。アメリカでの交渉は中止され、条約改正の実現は後の時代に持ち越されました。ただし、その失敗によって、国内法制や国家制度の整備が必要だという認識が強まりました。
なぜ1873年で区切るのですか?
岩倉使節団帰国までが、日本が公式使節、藩留学、国家視察団という形で欧米を集団的に見に行った時代としてまとまりやすいからです。以後は、法律、憲法、軍事、医学、工学など分野別の専門調査が中心になります。
まとめ|日本人は世界を見て、国家の作り方を学んだ
幕末から明治初期の海外派遣は、一つの政権や一部の英雄だけが進めたものではありませんでした。
- 幕府は、条約交渉のために遣米・遣欧使節を送り、留学生に国際法、海軍、造船、技術を学ばせた
- 長州と薩摩は、攘夷と軍事衝突の危機感を、英国から学ぶ行動へ変えた
- 明治政府は、岩倉使節団で欧米の制度と産業を国家規模で比較した
- 幕府・諸藩の人材と知識は、政治的な境界を越えて明治国家へ引き継がれた
- 1873年以後は、大型使節団から分野別の専門留学・制度調査へ移った
使節団や留学生が持ち帰ったのは、蒸気船や機械の驚きだけではありません。条約を結ぶ外交、法を運用する裁判所、技術者を育てる学校、産業を支える銀行や鉄道、政策を実行する官庁など、近代国家を動かす仕組みでした。
岩倉使節団はその到達点でしたが、出発点ではありません。幕府の外交と留学、諸藩の密航と視察が重なり、日本は世界を見ながら次の国家像を組み立てていったのです。
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