テレビを発明したのは誰?機械式・電子式の競争と高柳健次郎、日本のテレビ史

夜の実験室で、回転する円板の向こうにぼんやりと顔が浮かぶ。別の研究室では、光を電子へ変え、真空管の中を走らせる。浜松では、ブラウン管に片仮名の「イ」が現れる――。テレビは、ある日一人の発明家が完成品を作ったのではなく、映像を分解し、電気信号へ変え、送り、同じ順序で組み直すための競争から生まれました。

そのため、「テレビを発明したのは誰か」という問いには、何をもって発明と呼ぶかを先に決める必要があります。機械式テレビを人前で実演し放送へ近づけた人、全電子式の撮像を実現した人、企業研究所で実用システムへ育てた人、日本で独自に研究を進めた人は、それぞれ異なるからです。

この記事では、「もう一人の発明者」シリーズの一編として、ジョン・ロジー・ベアード、フィロ・ファーンズワース、ウラジミール・ツヴォルキン、高柳健次郎たかやなぎ けんじろうの役割を分けて整理します。さらにBBC、RCA、NHK、大学、メーカー、行政が、装置を「放送産業」へ変えた過程までたどります。

30秒で分かる結論――テレビの発明者は一人ではない

テレビの発明者を一人に決めることはできません。ベアードは機械式テレビの公開実演と初期放送、ファーンズワースは全電子式撮像、ツヴォルキンとRCAは電子式テレビの改良・実用化・産業化、高柳健次郎と研究チームは日本における電子式テレビ研究の先駆けを担いました。

人物・組織 主な役割
ジョン・ロジー・ベアード 機械式テレビで認識可能な人物像を公開実演し、BBCの初期実験放送へつなげた
フィロ・ファーンズワース 撮像から表示まで電子で行うテレビの核心、イメージ・ディセクターを実現した
ツヴォルキンとRCA アイコノスコープなどを改良し、放送設備・受像機・特許・販売を結ぶ産業システムへ育てた
高柳健次郎と研究チーム 1926年にブラウン管へ「イ」を表示し、日本の電子式テレビ研究と戦後産業の基礎を築いた
BBC・NHK・メーカー・行政 方式選定、周波数、標準規格、番組、送信網、量産、保守を整え、テレビを社会制度にした

最終的に主流になったのは、回転円板で映像を分解する機械式ではなく、撮像と表示を電子的に行う方式です。ただし、電子式が勝った理由は「一人の天才が正しかった」からではありません。高い解像度、明るさ、安定性、量産可能性に加え、放送局、標準化、企業資本、送信網がそろったからです。

何ができれば「テレビが完成した」といえるのか

静止した文字が一度映ったこと、人物の輪郭を短距離で送れたこと、家庭で毎日番組を見られることは、同じ「テレビ」でも達成段階が違います。完成条件を分けると、発明者論争が整理しやすくなります。

テレビを成立させる六つの基本動作

走査とは、画面を細い線や点に分け、一定の順番で読み取ることです。撮像は光の明暗を電気信号へ変えること、送信は信号を電線や電波で運ぶこと、受信は信号を取り出すこと、表示は再び光の像へ戻すことです。そして同期は、送信側と受信側が同じ速度・同じ位置から走査するよう合わせることです。

たとえば送信側が画面の左上を読んでいるのに、受信側が右下を描いていれば、像は崩れます。映画のフィルムを一こまずつ順番に見せるのと似ていますが、テレビは各こまをさらに線へ分け、遠くへ送って、ほぼ同時に組み直します。

実験装置から放送へ進むための追加条件

人の顔が判別できる解像度、ちらつきが少ないフレーム数、十分な明るさ、長時間動かしても崩れない安定性、映像と音声の同時伝送、遠距離中継が必要です。さらに社会で使うには、放送局が定時に番組を送り、多数の受像機が同じ規格で受信し、メーカーが安価に量産し、修理・販売網を維持しなければなりません。

したがって、次の言葉は区別する必要があります。

  • 公開実演:限られた会場で装置の動作を人に見せる
  • 実験放送:技術検証のため、一定範囲へ電波を送る
  • 定期放送:予定された時間に繰り返し放送する
  • 本放送・商用放送:制度、番組、料金や広告、受像機市場を伴って継続する
  • 全国放送:中継回線と地方局を結び、広い地域へ同時に届ける

「最初」の答えが変わるのは、この段階を混ぜるからです。

機械式から電子式へ――先行技術と方式競争

電信・写真・映画・ラジオが合流した

テレビの構想は、突然現れたものではありません。電信は情報を電気信号に変えて遠くへ送り、電話は音の波を連続的な電気信号へ変えました。写真は光を像として固定し、映画は連続する静止画を動きとして見せました。無線とラジオ放送は、一つの送信所から多数の受信者へ同時に届ける仕組みを整えました。

そこへ、光を受けると電気的性質が変わる光電変換、信号を強くする真空管、電子線で光る画面を作る陰極線管(ブラウン管)が加わります。19世紀末から20世紀初頭に複数の開発者が現れたのは、必要な部品が同じ時期にそろい始めたためです。

ニプコー円板――画面を線へ分ける発想

1884年、ポール・ニプコーは、らせん状に穴を開けた回転円板で像を順番に読み取る方式を特許化しました。円板が回ると穴が画面を横切り、一本ずつ走査できます。送信側と受信側の円板を同じ速度で回せば、像を再構成できるという考えです。

この機械式は、原理が目で見て理解しやすく、初期の光電素子でも実験できる利点がありました。一方、解像度を上げるほど穴を小さく正確にし、円板を高速で安定回転させる必要があります。入る光が少なく、画面も暗くなりやすいため、大画面・高精細化には物理的な限界がありました。

方式・装置・主張を比べる

方式・主役 撮像と表示 強み 限界・後世への継承
ベアードの機械式 ニプコー円板などで機械走査し、光電変換して表示 早期に人物像を公開実演し、長距離伝送や放送を具体化 低解像度・暗さ・回転機構の制約。走査、同期、番組放送の考えは継承
ファーンズワースの電子式 イメージ・ディセクターで像を電子走査し、ブラウン管表示 可動円板なしで全電子式撮像を実証し、重要特許を確立 初期装置は感度が低く、強い照明が必要。電子撮像の基本を前進
ツヴォルキン・RCA方式 蓄積型のアイコノスコープとキネスコープ、送受信一式 感度、安定性、研究設備、放送・受像機事業との接続 個人だけでなく大規模研究所の成果。電子式放送の産業基盤へ
高柳方式 1926年は送像側が機械式、受像側がブラウン管。のち全電子式へ 日本で早期に電子表示を実証し、研究チームと技術者を育成 「1926年に全電子式完成」ではない。戦争で中断後、放送・産業へ継承

英国では1936年、高精細テレビ放送の開始時にベアード方式とMarconi-EMIの電子式を比較運用しました。技術委員会は同年12月に電子式へ一本化する方針を決め、1937年には機械式の運用が終わります。これは「発明の真偽」を決めた裁判ではなく、解像度、安定性、運用性を比べた放送方式の選定でした。[1]

四人の発明者と、発明を産業へ変えた組織

ベアード――機械式テレビを公開の場へ出した

スコットランド出身のジョン・ロジー・ベアードは、ニプコー円板を用いて、人物の明暗が動く像を送る装置を作りました。1926年1月、ロンドンで科学者らに認識可能なテレビ像を実演したことは、テレビ史の重要な節目です。映像は30本の走査線からなる小さく粗いものでしたが、単なる点や影ではなく、人の表情を遠隔で再現する方向を示しました。[2]

ベアードは長距離伝送、カラー、立体テレビも試み、BBCは1929年から30走査線の実験放送を行い、1930年には映像と音声を同時に放送しました。[3] 彼の功績は、機械式が最終方式にならなかったことでは消えません。テレビを研究室の珍しい装置から、出演者、番組、放送時間を伴う公共的なメディアへ近づけたからです。

ファーンズワース――像を電子の流れに分解した

米国のフィロ・ファーンズワースは、画面を線ごとに走査する発想を、回転円板ではなく電子で実現しようとしました。農場の畝を見て走査を思いついたという逸話は本人や家族の回想で広まりましたが、後年の物語化も含むため、着想の唯一の瞬間として断定するより、若い時期から電子式撮像を構想し、資金を集めて装置にしたことが重要です。

1927年に作られたイメージ・ディセクターは、光学像から電子像を作り、電子の流れを順番に取り出す撮像管でした。スミソニアン所蔵品の記録も、1927年設計・製作の装置として位置付けています。[4] 1930年に成立した米国特許第1,773,980号は、動く像を電子的に送るテレビシステムを示しました。[5]

ただし、初期のイメージ・ディセクターは感度が低く、強い照明を必要としました。ファーンズワースの価値は、すぐに家庭用テレビを完成させたことではなく、全電子式撮像が実際に動くことを示し、後の特許体系に無視できない基礎を置いた点にあります。

ツヴォルキンとRCA――研究所、特許、放送局、受像機を結ぶ

ロシア帝国出身のウラジミール・ツヴォルキンは、革命後に米国へ移り、ウェスティングハウス、のちRCAで電子式テレビを研究しました。1923年に電子式テレビに関する特許を出願し、その後、光を受けた電荷を撮像面に蓄えてから読み出すアイコノスコープを開発します。蓄積効果によって、初期のイメージ・ディセクターより高い感度を得やすいことが大きな利点でした。[6]

ここで重要なのは、ツヴォルキン個人とRCAを分けることです。RCAには研究者、ガラス・真空管製造、送信機、放送局、受像機販売、広報を結ぶ力がありました。デイヴィッド・サーノフは撮像管の発明者ではありませんが、ラジオ企業をテレビ事業へ進ませ、研究費、特許、万国博覧会での公開、NBCの放送、受像機販売を一つの戦略にまとめました。

特許争いは「発明を奪った」だけでは説明できない

RCAはファーンズワースの特許に異議を唱えましたが、特許手続では、若い時期の図面や証言がファーンズワースの優先性を支える材料となりました。RCAは最終的に1939年、ファーンズワース側とライセンス契約を結びます。[7]

ただし、この経緯を「大企業が完成品を盗んだ」とだけ描くのも正確ではありません。ファーンズワースは電子撮像の重要原理と特許を持ち、RCA側は別系統の撮像管改良、送信設備、標準化、受像機量産を進めました。テレビは一つの特許だけでは動かず、多数の回路・部品・規格を組み合わせる複合システムだったためです。

高柳健次郎――「イ」の一文字から日本の研究基盤へ

浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)で研究していた高柳健次郎は、ラジオ放送が始まった時代に、次は映像を送る技術が必要になると考えました。1926年12月25日、研究チームは送像側でニプコー円板を回し、受像側のブラウン管に片仮名の「イ」を表示しました。

この実験は、送像側まで電子式だったわけではありません。送像は機械走査、受像は電子走査のブラウン管という組み合わせです。静岡大学の公式アーカイブも、光電管、ニプコー円板、同期信号、ブラウン管からなる構成を説明しています。[8]

したがって「高柳が1926年に世界初の全電子式テレビを完成させた」という表現は広すぎます。一方で、ブラウン管を受像表示に用いて文字を再現した早い実証として重要です。高柳のチームは人物像、走査線数、フレーム数を改良し、1935年には撮像側も電子化した全電子式へ進みました。研究者を育て、NHK技術研究所や戦後の電機産業へ人材と知識を渡した点まで含めて評価すべきです。

誰がどの段階を担い、なぜ電子式が残ったのか

段階 人物・組織 成し遂げたこと 限界・注意点
走査原理 ニプコーほか先行者 像を線・点へ分解して順番に送る考えを示した 原理だけでは撮像、増幅、表示、同期が不足
機械式試作・公開 ベアードと協力者 人物像の公開実演、長距離伝送、初期放送を実現 解像度、明るさ、回転機構に限界
全電子式撮像 ファーンズワース イメージ・ディセクターと電子式テレビ特許を成立 初期装置は感度と資金・量産力に課題
電子式改良 ツヴォルキン、RCA研究所、EMIなど 蓄積型撮像管、受像管、送信設備を高精細化 多数の研究者と特許の集積で、個人名だけでは説明不能
日本での先駆研究 高柳研究室、浜松高等工業学校 ブラウン管表示、人物像、全電子式へ段階的に発展 1926年実験は送像が機械式
方式選定・標準化 BBC、FCC、NHK、行政・標準化機関 走査線、フレーム数、周波数、放送免許を共通化 規格は国・時期で異なり、技術だけで決まらない
量産・事業化 RCA、英米日メーカー、放送局、販売店 送信機、カメラ、受像機、部品、修理網を整備 受像機価格と番組不足は普及の壁
社会的普及 BBC、NBC、NHK、民放、番組制作者、広告主 ニュース、スポーツ、娯楽を定時放送し生活習慣を形成 公共性、広告、政治、情報格差の課題も生んだ

どの条件なら誰を「発明者」と呼べるのか

認識可能な機械式テレビの公開実演と初期放送を基準にすれば、ベアードは代表的発明者です。全電子式撮像を実際に動かし、重要特許を確立したことを基準にすれば、ファーンズワースが中心です。高感度撮像管を改良し、放送・受像機産業へ接続したことを重視すれば、ツヴォルキンとRCA研究所の功績が大きくなります。日本でブラウン管受像と電子式研究を早期に進め、組織と人材を残した点では、高柳と研究チームが先駆者です。

電子式が残った理由

電子式は、高速に動く大きな円板を必要とせず、走査線を増やしやすく、撮像管の感度や増幅回路を改良する余地が大きく、安定した高精細映像へ進みやすい方式でした。放送局側ではカメラ切替や同期、長時間運用がしやすく、メーカー側では真空管・回路・ブラウン管の量産技術と結びつきました。

電子式の中でも、撮像管はアイコノスコープ、イメージオルシコン、ビジコンなどへ変わり、のちにCCD・CMOSの半導体撮像素子へ移ります。表示はブラウン管が長く主流となった後、液晶や有機ELへ置き換わりました。部品は変わっても、画面を画素とフレームに分け、時刻を合わせ、規格化した信号として送る構造は受け継がれています。

敗れた機械式から残ったもの

機械式テレビは商用の主流から消えましたが、走査、同期、フレーム、送受信の分業というテレビの基本問題を、目に見える装置で実証しました。ベアードの放送は、カメラだけでなく照明、出演、編成、送信所、受像機がそろわなければ視聴体験にならないことも示しました。敗れた方式は「無駄」ではなく、電子式が解くべき課題を社会に見せたのです。

日本へ伝わり、国産放送産業になった道

海外情報を読み、浜松で研究を始める

日本のテレビ研究は、完成品をそのまま輸入して始まったのではありません。海外の学術誌、特許、ラジオ技術、研究者の報告を通じて、機械走査やブラウン管の情報が入りました。1925年にラジオ放送が始まると、音声の次に映像を送る可能性が現実的な研究課題になります。

高柳は浜松高等工業学校で少人数の研究を始め、ニプコー円板、光電管、増幅器、同期回路、ブラウン管を自作・改良しました。1926年の「イ」は、文字を選んだ小さな実験でしたが、受像側を電子化すれば機械式表示の制約を越えられることを示す一歩でした。その後は人物像、屋外伝送、走査線数の向上へ進みます。

NHK技術研究所と1940年東京大会構想

テレビが個人研究を越えるには、放送局の設備と資金が必要でした。NHKは1930年に技術研究所を設け、ラジオとテレビの研究を組織化します。高柳は1937年にNHKへ移り、研究者・技術者とともに全電子式テレビの開発を進めました。

1940年に予定された東京オリンピックをテレビ中継する構想は、カメラ、送信機、受像機、スタジオ、中継の研究を加速させました。大会は戦争の拡大で返上されましたが、1939年には公開実験が行われます。戦時下では研究が中断・軍事技術へ転用され、テレビ放送の実用化は戦後へ持ち越されました。[9]

1953年――実験から本放送へ

終戦後、研究は1946年に再開され、放送法と電波法を含む戦後制度、送信所、番組制作、受像機生産を整える作業が進みました。NHKは1953年2月1日、東京でテレビ本放送を開始しました。開始時の受信契約は866件で、14型受像機が17万円を超えたのに対し、当時の平均的な月給は約1万5千円とされ、家庭には非常に高価でした。[10]

同年8月28日には日本テレビが民間テレビ放送を開始します。公共放送の受信料モデルと、民放の広告モデルが並ぶ体制が生まれ、メーカーにとっては番組が増えるほど受像機が売れ、放送局にとっては受像機が増えるほど視聴者と広告価値が増える相互依存ができました。

国産化は、受像機だけでなく部品・送信・修理の総合力だった

戦後の電機メーカーは、ブラウン管、真空管、チューナー、偏向回路、電源、筐体、アンテナ、送信機、スタジオ機器を国産化し、量産と品質管理を進めました。東芝、日本ビクター、松下電器、早川電機(シャープ)、日立、三菱電機、NEC、ソニーなどは、それぞれ部品、受像機、放送設備、録画、トランジスタ化、小型化、カラー化に関わります。

ここでいう「国産第1号」は、研究用試作機、公開展示機、市販機、量産機のどれを指すかで変わります。初期の一台だけを選ぶより、海外特許や技術を学びつつ、国内で部品を安定生産し、販売店と修理網を作り、価格を下げた過程こそ産業化の本体です。

街頭テレビから茶の間へ――社会的な国産化

高価な受像機を一家庭で買えない時期、日本テレビは街頭や駅前などへ受像機を設置しました。1953年8月の放送開始前後から街頭テレビが展開され、1954年のプロレス中継などには多くの人が集まりました。日本テレビの公式沿革は、1953年8月18日の街頭テレビ設置と、同月28日の本放送開始を記録しています。[11]

街頭テレビは、テレビを個人所有の家電より先に、群衆が同じ瞬間を見る公共スクリーンとして体験させました。1959年の皇太子御成婚は家庭購入を促し、テレビは冷蔵庫・洗濯機と並ぶ「三種の神器」と呼ばれるようになります。茶の間の家具配置、家族の生活時間、スポーツや歌番組の話題、CMと消費行動まで変えました。

白黒からカラー、衛星、録画、デジタルへ

日本のカラーテレビ本放送は1960年9月10日に始まりましたが、受像機は高価で、すぐ全国の家庭がカラー化したわけではありません。1964年の東京オリンピックはカラー中継、衛星中継、スローモーションなどの技術を大規模に示し、1970年代にカラー契約が白黒を上回ります。[12]

その後、日本企業は家庭用ビデオ、CCDカメラ、液晶、ハイビジョン、薄型テレビで大きな存在感を持ちました。技術的な国産化は、高画質化、小型化、省電力化、量産へ進み、社会的・文化的な独自化は、紅白歌合戦、大河ドラマ、野球・プロレス、ワイドショー、教育番組、災害報道、テレビタレント、視聴率と広告市場を生みました。

地上デジタル放送への移行では、2011年7月24日に44都道府県でアナログ放送が終了し、東日本大震災の影響を受けた岩手・宮城・福島は2012年3月31日に終了しました。[13] これは画面の買い替えだけでなく、送信所、周波数、受信設備、字幕・データ放送、地方局運用を一斉に切り替える国家規模の標準化事業でした。

ブラウン管からスマートフォンへ――現在とのつながりと現地案内

テレビの核は、受像機の形が変わっても残る

ブラウン管は電子線を画面上で走査しました。液晶や有機ELは同じ物理方式ではなく、画素を電子回路で制御して光らせます。それでも、画素、フレーム、解像度、色の符号化、同期、圧縮、標準規格という考えは連続しています。撮像側も撮像管からCCD・CMOSへ変わりましたが、光を電気信号へ変え、連続する画像として送る目的は同じです。

地上波、衛星、ケーブルは一つの番組を多数へ同時に送る「放送」を中心にします。動画配信は、インターネット上で視聴者の要求に応じて送るオンデマンドが中心ですが、ライブ配信、広告、番組編成、視聴率に相当するデータ分析、映像制作の文法はテレビから多くを受け継ぎました。

スマートフォン動画、ビデオ通話、オンライン会議、遠隔授業、監視カメラ、デジタルサイネージも、「離れた場所の映像を撮り、時間を合わせ、再構成する」というテレビの問題を別の通信網と端末で解いています。テレビ受像機の中心性が下がっても、遠くの出来事を同時に見るという発明の核は消えていません。

日本の通信網全体との関係は、関連記事「日本の通信史をわかりやすく」でも、電信・電話・ラジオ・テレビ・インターネットを一続きに解説しています。

現地で実物・資料を見る

  • NHK放送博物館(東京都港区):ラジオ、テレビ、放送機器、番組資料を通して日本の放送史を見られます。展示替えがあるため、目的の実物が常設かは公式案内で確認してください。
  • 静岡大学 高柳記念未来技術創造館(浜松市):高柳健次郎とテレビ研究の資料を扱う大学施設です。見学日・予約条件は公式ページで確認が必要です。
  • 放送ライブラリー(横浜市):保存番組・CMの視聴、放送史展示があります。原則無料ですが、休館日や利用方法を事前に確認してください。
  • Science Museum「Information Age」(ロンドン):ベアードの1926年受像機など、通信・放送史資料を扱います。展示内容は変更されるため、訪問前に確認してください。
  • Smithsonian National Museum of American History:ファーンズワースのイメージ・ディセクターを所蔵し、オンラインで資料情報を公開しています。所蔵品ページでは現在展示中ではないと案内されています。

よくある疑問・誤解

テレビを発明したのは誰ですか?

結論:一人ではありません。公開実演ならベアード、全電子式撮像ならファーンズワース、実用化・産業化ならツヴォルキンとRCA、日本の先駆研究なら高柳健次郎と研究チームが重要です。誤解が生まれるのは、「装置が一度動く」「放送する」「量産して普及させる」を同じ発明と呼ぶためです。

ベアードとファーンズワースはどちらが先ですか?

結論:比べる条件が違います。ベアードは1926年に機械式で認識可能な人物像を公開実演しました。ファーンズワースは1927年に全電子式撮像装置を動かしました。日付だけでなく、機械式か電子式か、公開実演か装置実験かを併記するのが正確です。

ツヴォルキンはファーンズワースの発明を奪ったのですか?

結論:特許の優先をめぐる激しい争いと、RCAによるライセンス契約は事実ですが、単純な盗用物語では説明できません。ファーンズワースの先行特許、ツヴォルキンらの撮像管改良、RCAの研究・放送・量産システムは、それぞれ別の役割を持ちます。

高柳健次郎は世界で初めてテレビを発明したのですか?

結論:1926年の実験は重要ですが、「世界初の全電子式テレビ」と断定するのは不正確です。送像側はニプコー円板、受像側はブラウン管でした。正確には、ブラウン管受像による文字表示を早期に実証し、日本の全電子式研究と人材育成へつないだ先駆者です。

日本で最初のテレビ放送はいつですか?

結論:実験と本放送を分けます。戦前に公開実験・実験放送があり、一般向けの本放送はNHKが1953年2月1日に開始しました。民間テレビ放送は日本テレビが同年8月28日に開始しました。

テレビとインターネット動画は別の発明ですか?

結論:配信網と受け取り方は違いますが、完全に切れた別世界ではありません。テレビが築いた撮像、フレーム、圧縮、同期、ライブ制作、編成、広告、受信端末の考えを、インターネットの双方向通信と個別配信が組み替えています。

まとめ・シリーズ記事・参考文献

テレビは、映像を分解し、光を信号へ変え、遠くへ送り、同期して再構成する装置として始まりました。しかし社会で使えるテレビになるには、音声、安定性、放送局、周波数、規格、受像機量産、番組、広告・受信料、修理網まで必要でした。

ベアードは機械式テレビを公開実演と放送へ近づけ、ファーンズワースは全電子式撮像の核心を実証し、ツヴォルキンとRCAは撮像管・放送設備・受像機事業を組織的に結びました。高柳健次郎と研究チームは、浜松の「イ」から全電子式研究へ進み、NHKと戦後の電機産業へ知識と人材を残しました。

最終的に電子式が残ったのは、高精細化、明るさ、安定性、量産に向き、放送標準と企業の製造力に接続できたためです。それでも機械式は、走査と同期を実演し、テレビを人前で見るメディアにした重要な段階でした。

日本では、戦前研究が戦争で中断された後、1953年の本放送、街頭テレビ、茶の間への普及、カラー化、衛星・録画・デジタル化を経て、動画配信とスマートフォンへつながりました。「テレビを発明したのは誰か」という問いの答えは、一人の名前ではなく、複数の方式、研究室、放送局、メーカー、制度がつないだ工程そのものです。

シリーズ・関連記事

参考文献・公式資料

  1. BFI Screenonline, “The Baird and Marconi-EMI Television Systems”
  2. National Science and Media Museum, “Seven pioneers of television”
  3. National Science and Media Museum, “A history of British television”
  4. Smithsonian, “Farnsworth Image Dissector”
  5. U.S. Patent 1,773,980, Television System
  6. Engineering and Technology History Wiki, “Iconoscope”
  7. WIPO Magazine, “IP intrigue: from patent battle to bestseller”
  8. 静岡大学 高柳健次郎アーカイブ
  9. IEEE Milestone, Development of Electronic Television, 1924–1941
  10. 国立公文書館「テレビ放送の開始」
  11. 国立公文書館「NHKテレビ本放送開始」
  12. 日本テレビ「沿革」
  13. 参議院調査室「テレビ放送の歴史と制度」
  14. 放送サービス高度化推進協会「地上デジタル放送移行関係資料」
  15. Science Museum, “Information Age”
  16. 放送番組センター 放送ライブラリー