韓国・ソウルの忘憂里(マンウリ)に、今も墓が守られている一人の日本人がいます。名前は浅川巧。日本統治期の朝鮮で林業技師として働きながら、朝鮮の山、人々の暮らし、民芸、陶磁器を深く見つめた人物です。
浅川巧が生きた朝鮮は、日本の植民地支配下にありました。支配する側の国から来た日本人が、朝鮮の文化や人々を敬い、韓国で記憶される存在になった経緯をたどります。
30秒で分かる結論
- 浅川巧は、日本統治期の朝鮮で働いた林業技師です。
- 朝鮮の山林、暮らし、民芸、陶磁器を敬い、記録した人物として知られます。
- 兄の浅川伯教や柳宗悦らとともに、朝鮮工芸を見つめ直す流れにも関わりました。
- 40歳で亡くなり、ソウルの忘憂里に葬られました。
- 墓は現在も韓国で守られています。
- 浅川の活動は、日本の植民地支配下で行われました。
浅川巧の生涯を年表で見る
| 時期 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1891年 | 山梨県に生まれる | のちに朝鮮へ渡る林業技師の出発点 |
| 1910年代 | 朝鮮へ渡る | 日本統治期の朝鮮で働く |
| 朝鮮滞在期 | 林業、山林、民芸、陶磁器に関わる | 朝鮮の自然と生活文化を深く見つめる |
| 1931年 | 40歳で死去 | 忘憂里に葬られる |
韓国に墓が守られる日本人、浅川巧とは
浅川巧は、朝鮮総督府の林業関係の仕事に携わった人物です。同時に、朝鮮の生活文化、工芸、陶磁器に深い関心を寄せました。朝鮮の人々や文化に敬意を払い、そこにある美しさや知恵を記録しようとしました。
日本統治期の朝鮮という時代背景
浅川が生きた朝鮮は、日本の植民地支配下にありました。日本人である浅川は、支配する側の社会に属していた人物です。
浅川を友好の象徴として扱うだけでは、植民地支配の不平等な構造が見えにくくなります。支配下で日本人が現地社会に関わった複雑さは、インドネシア独立に加わった日本人たちの記事にも共通します。
朝鮮の山を歩き、民芸を見つめる
浅川巧は林業技師として朝鮮の山を歩き、山林や暮らしを観察しました。同時に、朝鮮の膳や陶磁器など、日々の生活の中にある工芸へ目を向けました。
浅川は、名品や高価な作品に限らず、暮らしの中で使われるものに美を見いだしました。
浅川伯教と柳宗悦——朝鮮工芸を伝えた人々
浅川巧の兄・浅川伯教も、朝鮮陶磁を研究した人物です。また、柳宗悦らの民芸運動とも関わりながら、朝鮮工芸の価値を日本側へ伝える流れが生まれました。
朝鮮工芸は、もともと朝鮮の人々の暮らしの中にありました。日本人研究者や民芸関係者は、その価値を日本語圏へ紹介しました。
忘憂里の墓と追慕碑
浅川巧は40歳で亡くなり、ソウルの忘憂里に葬られました。墓は現在も守られています。
戦後和解・現地で記憶される日本人として
浅川巧の物語は、戦後に和解の象徴となった藤田信雄とブルッキングズの物語とは異なります。浅川は戦後和解の当事者ではなく、植民地支配下の朝鮮で生きた人物です。
よくある誤解
浅川巧は植民地支配を免罪する人物ですか?
違います。浅川の生き方を評価することと、植民地支配を正当化することは別です。
浅川巧は韓国全国で誰もが知る人物ですか?
そこまでは言い切れません。関係者や研究、忘憂里の墓を通じて記憶されてきた人物として理解するのが適切です。
このシリーズはどのような記事ですか?
「日本人が知らない、海外で語り継がれる日本人」シリーズでは、日本国内ではあまり知られていないものの、海外の地域史・移民史・医療史・文化交流史の中で記憶されている日本人や日系社会の足跡を紹介しています。
まとめ|浅川巧は、日韓の歴史を静かに考えさせる人物だった
浅川巧は、日本統治期の朝鮮で林業技師として働き、山林と暮らしを観察し、工芸や陶磁器を記録しました。40歳で亡くなり、忘憂里に葬られた墓は現在も守られています。
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参考文献・参考サイト
- 浅川巧、浅川伯教、柳宗悦、朝鮮民芸に関する各種資料
- 国立国会図書館サーチ 関連資料

