カリフォルニア州ソノマ郡サンタローザで、州内最大級のワイナリーを率いた日本人がいました。長沢鼎(ながさわ かなえ、Kanaye Nagasawa)です。薩摩藩の留学生として13歳で英国へ渡り、帰国せずにアメリカへ移住しました。
長沢は、宗教共同体の農場で栽培と運営を学び、ファウンテングローブ・ワイナリーを引き継ぎました。ワインをニューヨークやヨーロッパへ送り、日米の要人を迎えたことから「葡萄王」「ワイン王」と呼ばれました。しかし、晩年には排日法制が資産継承を阻みます。成功と差別の両方を経験した生涯から、幕末留学、カリフォルニアワイン、日系移民史が一つにつながります。
- 30秒で分かる長沢鼎
- 長沢鼎とは何者か|基本プロフィールと年表
- 13歳の薩摩藩留学生は、なぜ密かに英国へ渡ったのか
- スコットランドで学んだこと|語学と異文化生活が経営の土台になった
- なぜ日本へ帰らなかったのか|ハリスの共同体と1867年の渡米
- ファウンテングローブ誕生|サンタローザで葡萄園を任されるまで
- なぜ「ワイン王」になれたのか|成功を生んだ4つの要因
- 長沢鼎はカリフォルニアワインの創始者なのか
- ジョージ・シマとの比較|同じ「王」でも成功の道は違った
- 成功後に立ちはだかった外国人土地法|相続問題を時系列で整理
- 日米交流の拠点としてのファウンテングローブ
- 1983年、レーガン大統領が日本の国会で紹介
- サンタローザに残る長沢鼎の記憶
- なぜ日本では長く知られにくかったのか
- よくある質問
- まとめ|長沢鼎がワイン王になった理由
- 関連記事
- 前後の記事
- 参考文献・参考サイト
30秒で分かる長沢鼎
- 1852年に鹿児島で生まれ、1865年に薩摩藩英国留学生の最年少者として渡英しました。
- 1867年に渡米し、1875年からサンタローザのファウンテングローブで葡萄栽培と経営を担いました。
- ワイナリーを州内最大級へ成長させ、州外・海外へ販路を広げました。
- 「葡萄王」「ワイン王」は公式称号ではなく、事業規模と名声を示す通称です。
- 資産継承は外国人土地法と法務処理に阻まれ、成功の成果を親族へ残せませんでした。
長沢鼎とは何者か|基本プロフィールと年表

| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1852年 | 鹿児島に生まれます。出生名は磯永彦助とされ、薩摩藩英国留学に際して長沢鼎を名乗りました。 |
| 1865年 | 薩摩藩英国留学生の最年少者として英国へ渡ります。 |
| 1867年 | 留学資金が行き詰まり、森有礼ら5人とともにトマス・レイク・ハリスを頼ってアメリカへ渡ります。 |
| 1875年 | ハリスらとニューヨーク州からカリフォルニア州サンタローザへ移り、ファウンテングローブ共同体を築きます。 |
| 1880年頃 | 葡萄園の管理を担います。 |
| 1882年 | ファウンテングローブ・ワイナリーが本格稼働し、サンタローザ市の記録では年間7万ガロンを生産しました。 |
| 1891年 | ハリスがカリフォルニアを離れ、長沢が事業の中心となります。 |
| 1900年頃 | 共同体とワイナリーを継承し、のちに単独所有者となりました。 |
| 1934年 | 82歳で死去しました。 |
| 1983年 | ロナルド・レーガン米大統領が日本の国会演説で長沢の功績を紹介しました。 |
| 2007年 | サンタローザ市が旧所有地の一部をナガサワ・コミュニティ・パークとして顕彰しました。 |

13歳の薩摩藩留学生は、なぜ密かに英国へ渡ったのか
1863年の薩英戦争で、薩摩藩は英国艦隊の火力と工業力を目の当たりにしました。戦後の薩摩は英国との関係を修復し、軍事・産業・教育・外交を学ぶための留学計画を進めます。
1865年、薩摩藩は留学生15人と視察員らを含む19人を英国へ送りました。当時は幕府の許可を得ない海外渡航が禁じられていたため、一行は変名を使い、羽島浦から秘密裏に出発しました。長沢は英学を学ぶ薩摩藩開成所の生徒で、一行の最年少者でした。

渡英時の年齢は、サンタローザ市が12歳、薩摩藩英国留学生記念館と在サンフランシスコ日本国総領事館が13歳と記しています。満年齢と数え年、誕生日を基準にした数え方の違いによる表記差と考えられます。
幕末の遣米・遣欧使節、長州ファイブ、薩摩藩英国留学生の違いは、当サイトの幕末・明治の海外使節団まるわかりガイドで時系列に整理しています。
スコットランドで学んだこと|語学と異文化生活が経営の土台になった
長沢は年齢が若く、ロンドン大学へ進んだ留学生たちとは別に、スコットランドのアバディーンで学びました。薩摩藩英国留学生記念館によると、長崎で薩摩と深い関係を築いた商人トーマス・グラバーの実家に寄宿し、現地の学校へ通っています。
確認できる資料では、英国時代の学習内容は語学と一般教育です。専門的なワイン醸造を学んだとする記録は見当たらず、英国で培った英語力と異文化への適応力が、のちの共同体運営、商取引、日本からの訪問者との交流に生かされました。
なぜ日本へ帰らなかったのか|ハリスの共同体と1867年の渡米
1867年、薩摩藩留学生の資金は苦しくなりました。長沢は森有礼、鮫島尚信、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵とともに、宗教家トマス・レイク・ハリスを頼ってアメリカへ渡ります。
ハリスはニューヨーク州で「新生兄弟会(Brotherhood of the New Life)」という宗教的共同体を率いていました。留学生たちは共同体で働きながら教育を続けましたが、森有礼らは次第に離れ、日本へ帰国しました。長沢だけはハリスのもとに残り、共同体の後継者の一人となります。
長沢が残留した理由を一つに絞れる本人の明確な証言は乏しいものの、少年期から共同体の中で成長し、農業と運営を担う立場を得たことが、その後の進路を決めました。帰国して官僚となった留学生とは異なり、長沢はアメリカの地域産業の中で生涯を築きます。
ファウンテングローブ誕生|サンタローザで葡萄園を任されるまで
1875年、ハリスと長沢らはニューヨーク州からカリフォルニア州ソノマ郡サンタローザへ移りました。サンタローザ市の記録では、町の北約2マイルに400エーカーの土地を取得し、ファウンテングローブを築いたとされます。

ソノマ郡は地中海性気候に近く、乾燥した夏と雨の多い冬が葡萄栽培に適した地域です。共同体は葡萄園、果樹園、牧畜などを営み、長沢は1880年までに葡萄園の監督を任されました。
1882年にはワイナリーが本格的に稼働し、同年の生産量は7万ガロンに達したとサンタローザ市は記録しています。約26万5,000リットルに相当する量です。13歳で日本を離れた長沢は、20代後半には大規模な葡萄園の実務責任者となっていました。
土地面積が400エーカー、1,500エーカー、2,000エーカーと違う理由
ファウンテングローブの面積は資料によって異なります。サンタローザ市は1875年の創設時を400エーカーとし、後年の地域史や研究には1,500~2,000エーカー前後の数字も登場します。創設時の取得地、拡張後の農園全体、葡萄畑だけを数えた場合で対象範囲が異なるためです。
なぜ「ワイン王」になれたのか|成功を生んだ4つの要因
1.葡萄栽培から経営継承まで長期間携わった
長沢は完成した事業を突然受け取った人物ではありません。1875年の移住から葡萄栽培に関わり、1880年頃には葡萄園を監督しました。1891年にハリスがカリフォルニアを離れると経営の中心となり、1900年頃に共同体とワイナリーを継承します。
栽培、醸造、労働者の管理、販売、資産運営を長年経験したことが、事業を引き継いだ後の安定につながりました。
2.州内最大級の生産規模と広い販路を築いた
長沢の指揮下で、ファウンテングローブはカリフォルニア州内の十大ワイナリーの一つに数えられる規模へ成長しました。ワインは地元だけでなく、ニューヨークやヨーロッパへ出荷されました。
在サンフランシスコ日本国総領事館の資料は、長沢をカリフォルニアワインを英国・ヨーロッパへ紹介した先駆者として位置づけています。「ワイン王」という呼び名は、葡萄畑を所有したことだけでなく、生産と遠距離販売を結びつけた経営者としての実績から生まれました。
3.日米の人的ネットワークを販売と交流に生かした
ファウンテングローブはワイナリーであると同時に、来訪者を迎える社交の場でした。在サンフランシスコ日本国総領事館の資料は、ヘンリー・フォード、トーマス・エジソン、新渡戸稲造らが訪れたと紹介しています。
明治以降、日本からアメリカを訪れる外交官、実業家、文化人にとって、英語と日本語を使い、両国の事情を理解する長沢は貴重な案内役でした。宴席と交流は人脈を広げ、ファウンテングローブとそのワインの知名度を高めました。
4.フィロキセラ被害と禁酒法の時代を乗り越えた
サンタローザ市は、長沢が1908年頃のフィロキセラ被害と、1920年から1933年まで続いた禁酒法の時代にもワイナリーを維持したと記しています。フィロキセラは葡萄の根を害する害虫で、各地の葡萄園に深刻な被害を与えました。禁酒法は酒類の製造・販売を大きく制限しました。
二つの危機を越えて事業を存続させたことは、長沢が一時的な成功者ではなく、長期の経営者だったことを示します。
長沢鼎はカリフォルニアワインの創始者なのか
カリフォルニアの葡萄栽培とワイン造りは、長沢が到着する約1世紀前のスペイン統治期に始まっています。1769年以降、フランシスコ会の宣教師たちが伝道所で葡萄を育て、19世紀前半には商業的な葡萄園も成立しました。
長沢を「カリフォルニアワインの創始者」と呼ぶと、先行する約1世紀の歴史が抜け落ちます。長沢の功績は、すでに形成されていた産業の中で、日本出身の経営者として大規模ワイナリーを運営し、州外と海外へ販路を広げたことにあります。
ジョージ・シマとの比較|同じ「王」でも成功の道は違った
| 比較点 | 長沢鼎 | ジョージ・シマ |
|---|---|---|
| 渡米の経緯 | 薩摩藩留学生として渡英後、宗教共同体を通じて1867年に渡米 | 英語習得を志し、1889年に渡米 |
| 主な事業 | 葡萄栽培・ワイン醸造・輸出 | ジャガイモ栽培・土地改良・流通 |
| 呼び名 | Grape King、Wine King | Potato King |
| 成功の基盤 | 共同体内での長期実務、事業継承、海外販路、日米人脈 | 農業労働からの独立、湿地開発、大規模借地、品質管理と輸送 |
| 共通した制約 | 排日感情、帰化資格の制限、カリフォルニア外国人土地法 | |
カリフォルニアのポテト王・ジョージ・シマも、農業で成功しながら土地制度と排日運動に直面しました。二人を比べると、日系人の成功が個人の努力だけで決まらず、人種によって権利を制限する制度に左右されたことが分かります。
成功後に立ちはだかった外国人土地法|相続問題を時系列で整理
20世紀初頭のカリフォルニアでは、日本人移民の増加と農業での成功を背景に排日運動が強まりました。当時のアメリカの帰化法は日本からの移民一世に帰化の道を事実上閉ざしており、1913年のカリフォルニア外国人土地法は「市民権を得る資格のない外国人」による農地所有と長期賃借を制限しました。1920年の強化法は規制をさらに広げました。
長沢は土地を日系の親族へ譲ろうとしましたが、外国人土地法が資産継承を難しくしました。2025年にオックスフォード大学出版局から刊行されたジョシュア・パディソンの研究は、差別的な土地法に加え、長沢の白人顧問弁護士の行動が親族への移転を妨げたと論じています。
長沢は1934年に亡くなりました。1942年の大統領令9066号はその8年後に出されたもので、長沢本人の相続手続きを直接規制した法令ではありません。長沢の親族が第二次世界大戦中に日系アメリカ人の強制移住・収容を受けた事実とは、時系列を分けて理解する必要があります。
日米交流の拠点としてのファウンテングローブ
長沢は薩摩藩留学生であり、宗教共同体の一員であり、ワイン経営者でもありました。その経歴は、1880年代以降に労働移民として渡米した多くの日本人一世とは異なります。
英語を使い、欧米の生活習慣に通じ、広い農園と迎賓の場を持つ長沢は、日本から訪れる人々とカリフォルニア社会をつなぎました。サンタローザ市は、ファウンテングローブが日本からアメリカへ来る人々の重要な立ち寄り先になったと説明しています。
サンタローザ市の記録では、長沢は日米関係への貢献によって旭日章を受章したとされています。授与年と等級は、同市の掲載資料では確認できません。
1983年、レーガン大統領が日本の国会で紹介
長沢の名が日本で広く知られる契機となったのが、1983年11月11日のロナルド・レーガン米大統領による国会演説です。レーガンは、1865年に西洋の経済力と技術を学ぶため日本を離れた若い侍が、サンタローザでワイナリーを築き、カリフォルニアの「葡萄王」と呼ばれたと紹介しました。

レーガン演説は長沢を日米交流の象徴として紹介しました。ただし、演説中の「1875年にワイナリーを創設した」という説明は経歴を簡略化したものです。1875年に土地を取得して共同体を築いた中心人物はハリスで、長沢は葡萄園の管理から経営を引き継ぎ、事業を発展させました。薩摩藩英国留学生記念館は、この演説をきっかけに長沢が日本で広く知られるようになったと説明しています。
サンタローザに残る長沢鼎の記憶
2007年7月28日、サンタローザ市は旧ファウンテングローブの土地の一部にナガサワ・コミュニティ・パークを開設しました。公園名は、地域のワイン産業と多文化的な歴史に長沢が果たした役割を記念するものです。
旧ファウンテングローブに隣接するパラダイス・リッジ・ワイナリーも、長沢の生涯とワイン事業を紹介してきました。2017年の北カリフォルニア山火事ではワイナリーと展示が被害を受けましたが、同ワイナリーは現在も公式サイトで長沢とファウンテングローブの歴史を紹介しています。
鹿児島県いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館では、渡航の背景、留学生たちの経歴、長沢のアメリカでの歩みをたどれます。長沢の記憶は、出発地の鹿児島と、生涯を過ごしたサンタローザの双方に残されています。
なぜ日本では長く知られにくかったのか
薩摩藩英国留学生の多くは帰国後、政府、外交、教育、産業の中心で活動しました。森有礼は初代文部大臣、五代友厚は大阪財界の指導者となり、日本近代史の教科書や人物伝に登場します。
長沢は帰国せず、活動の舞台もアメリカ西部の宗教共同体とワイン産業でした。日本の国家形成を中心に描く歴史では扱いにくく、移民史、地域史、農業史、日米交流史に資料が分散しました。1983年のレーガン演説と、鹿児島・サンタローザ両地域の顕彰によって、人物像が広く共有されました。
よくある質問
長沢鼎は本当に侍だったのですか?
薩摩藩士の家に生まれ、藩命で英国へ派遣された人物です。英語資料では「samurai student」や「Japanese warrior」と紹介されます。ただし、長沢の主な実績は武人としてではなく、留学生、農業経営者、ワイン事業家として築かれました。
「葡萄王」「ワイン王」は公式称号ですか?
事業規模と地域での名声を表す通称です。「Prince Kanaye」「Baron of Fountaingrove」という呼び名も見られますが、日本の皇族・華族の正式な爵位とは別の通称です。
長沢鼎がファウンテングローブを創業したのですか?
共同体とワイナリーの創設者はトマス・レイク・ハリスです。長沢は初期から葡萄園を管理し、ハリスの離脱後に経営と所有を引き継ぎ、事業を発展させました。「創業者」と「発展させた経営者」を分けると正確です。
長沢鼎はワインの醸造技術を英国で学んだのですか?
確認できる英国時代の学習内容は、語学と一般教育です。葡萄栽培と経営の経験は、アメリカの共同体で積みました。
ファウンテングローブの土地はなぜ親族へ残らなかったのですか?
日本人一世と日系親族の土地取得を制限した外国人土地法に加え、資産移転を扱った顧問弁護士の行動が影響したと近年の研究は指摘しています。長沢の死後に親族が強制収容されたこととは、別の時期に起きた問題です。
まとめ|長沢鼎がワイン王になった理由
長沢鼎は、13歳で薩摩から英国へ渡り、アメリカの共同体で農業と経営を身につけました。葡萄園の実務からファウンテングローブの経営を引き継ぎ、州内最大級のワイナリーへ育て、ニューヨークとヨーロッパへ販路を広げました。
その成功を支えたのは、長年の現場経験、海外販路、日米の人的ネットワーク、危機下でも事業を維持した経営力です。一方、築いた資産の継承は外国人土地法などに阻まれました。長沢の生涯には、幕末留学の可能性と、日系移民が直面した制度的差別の両方が表れています。
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日本国内で山梨・勝沼と牛久シャトーを軸に発展したワイン史は、日本ワインの歴史で詳しく解説しています。
前後の記事
参考文献・参考サイト
- 薩摩藩英国留学生記念館「薩摩藩英国留学生とは」
- City of Santa Rosa, “Kanaye Nagasawa: The Wine King of California”
- 在サンフランシスコ日本国総領事館 “Kanaye Nagasawa: The Wine King of California”
- Ronald Reagan Presidential Library, “Address Before the Japanese Diet in Tokyo,” November 11, 1983
- Joshua Paddison, “The Baron of Fountaingrove,” Unholy Sensations, Oxford University Press, 2025
- Sonoma State University Library, “Fountaingrove: The Wine King of California”
- Wine Institute, “Our History”
- National Park Service, “Anti-Asian Laws and Policies”
- Paradise Ridge Winery, “History: Kanaye Nagasawa Exhibit”

