ブラジル北部、アマゾン河口に近いパラー州トメアスーには、日本人移民と日系農家が育ててきた、少し不思議な農業の歴史があります。
その農業は、しばしば「森をつくる農業」と紹介されます。コショウ、カカオ、アサイー、クプアス、果樹、高木を一つの畑の中で組み合わせ、畑を単一作物の工場のようにするのではなく、森のような多層構造へ近づけていく農法です。
この仕組みは、トメアス式アグロフォレストリーシステム、またはSAFTAと呼ばれます。SAFTAは、英語では Tomé-Açu Agroforestry System、ポルトガル語では Sistema Agroflorestal de Tomé-Açu と説明されます。
ただし、これは最初から理想的な環境思想として完成していたわけではありません。1929年に始まったトメアスーへの入植は、カカオ栽培の失敗、マラリア、退耕、戦争、差別、コショウ栽培の成功と病害、単一作物依存の危機をくぐり抜けてきました。その危機の中で、日系農家とトメアス総合農業協同組合(CAMTA)が、アマゾンの地域社会、研究機関、国際協力、消費市場と関わりながら形にしていったのがSAFTAです。
この記事では、トメアス移民とアグロフォレストリーの歴史を、「日本人がアマゾンを救った」という単純な美談ではなく、移民史・農業史・環境史が重なった物語として解説します。
- 30秒でわかる結論
- まず全体像|トメアス移民からSAFTAまでの流れ
- トメアスーとは?アマゾンに生まれた日系移民の町
- 1929年、アマゾンへの日本人入植が始まる
- 移民たちを待っていた現実──カカオの失敗、マラリア、退耕
- 戦争が日系社会に落とした影
- コショウ栽培の成功と「黒いダイヤ」の時代
- 単一作物に頼る危うさ──病害と価格変動がもたらした危機
- CAMTAとは何か──日系農家を支えた農協の力
- トメアス式アグロフォレストリー(SAFTA)の誕生
- 森をつくる農業──アサイー、カカオ、クプアス、コショウの多品目栽培
- なぜ世界がトメアスーに注目するのか
- ただの成功物語にしてはいけない理由
- なぜ日本ではあまり知られていないのか
- 現地で見られる場所、施設、資料
- よくある誤解
- まとめ|トメアス移民の歴史は、失敗から生まれた持続可能な農業の物語だった
- 参考文献・参考サイト
30秒でわかる結論
- トメアスー(Tomé-Açu)は、ブラジル北部パラー州にある、アマゾン日系移民史の重要な地域です。
- 1929年以降、日本人移民が入植しましたが、熱帯農業の知識不足、カカオ栽培の失敗、マラリア、退耕、戦争期の制約など、出発点は非常に厳しいものでした。
- 戦後、コショウ栽培が成功し、トメアスーは大きく発展しました。しかし、フザリウム病などの病害と価格変動によって、単一作物に依存する危うさも明らかになりました。
- その危機を受けて、日系農家とCAMTAは、コショウ、カカオ、アサイー、クプアス、果樹、高木などを組み合わせる多品目栽培へ向かいました。
- この地域で発展したSAFTAは、収入の安定、荒れた土地の回復、森林保全、生物多様性、気候変動対策の観点から、ブラジル国内外で注目されています。
- ただし、アグロフォレストリーは世界各地の伝統農法や在来知とも関わる広い概念です。トメアスーの日系農家は、それをアマゾン東部の地域条件に合わせて独自に体系化・発展させた、と理解するのが適切です。
まず全体像|トメアス移民からSAFTAまでの流れ
| 時期 | 出来事 | 歴史の意味 |
|---|---|---|
| 1920年代後半 | 南米拓殖株式会社がアカラ植民地を開発 | 日本側の海外移民政策、企業投資、ブラジル側の土地開発が結びついた |
| 1929年 | 最初の日本人移民がトメアスー地域へ入植 | アマゾン日系移民史の大きな出発点となった |
| 1930年代 | カカオ栽培の失敗、マラリア、退耕が相次ぐ | 熱帯農業の難しさ、医療・交通・市場の弱さが表面化した |
| 1940年代 | 第二次世界大戦の影響で日系社会が厳しい制約を受ける | 農業だけでなく、国際政治が移民社会を揺さぶった |
| 1950年代 | コショウ栽培が発展し、「黒いダイヤ」と呼ばれる時代へ | トメアスー農業の成功体験が生まれた |
| 1960年代後半〜1970年代 | コショウの病害と価格変動で単一栽培が危機に | 一つの作物だけに頼る農業の弱点が明らかになった |
| 1970年代以降 | 多品目栽培とアグロフォレストリーが広がる | 危機への対応が、のちにSAFTAと呼ばれるモデルへ発展した |
| 1980年代以降 | 果実加工、パルプ化、販売、輸出が進む | 農業だけでなく、加工・流通・市場づくりが重要になった |
| 2010年代〜2020年代 | カカオの地理的表示、JICA関連事業、COP30関連発信などで注目 | 持続可能な農業、森林保全、気候変動対策の文脈で再評価された |
トメアスーとは?アマゾンに生まれた日系移民の町
トメアスーは、ブラジル北部パラー州にある町です。アマゾン河口に近い大都市ベレンの南方に位置します。距離は資料によって「約200km」「約230km」「250km」など表記に幅があります。これは、道路距離、直線距離、説明の丸め方が異なるためと考えられるので、この記事では「ベレンの南方、約200〜250km」として扱います。
表記もいくつかあります。日本語では「トメアス」「トメアスー」と書かれ、英語やポルトガル語では Tomé-Açu と表記されます。この記事では、地名としては基本的に「トメアスー」、組織名や農法名では必要に応じて「Tomé-Açu」「SAFTA」も併記します。
トメアスーを理解するときに大切なのは、ここを「日本人だけの空白地」だったかのように描かないことです。アマゾンには、もともと先住民、川沿いで暮らすリベリーニョと呼ばれる住民、地域のブラジル社会、森林とともに生きる知識が存在していました。トメアスーの日系農業史は、その土地に外から来た日本人移民が、地域の自然・人・市場・制度の中で試行錯誤した歴史です。
だからこそ、この物語は「開拓成功物語」だけでは足りません。そこには、移民会社の計画、家族の生活、病気、戦争、作物の失敗、農協の組織力、国際協力、そしてアマゾン環境問題が重なっています。
1929年、アマゾンへの日本人入植が始まる
トメアスーへの日本人入植は、1929年以降に始まります。国立国会図書館の「ブラジル移民の100年」では、トメアスーは戦前期に鐘紡が出資した南米拓殖株式会社が開発した移住地で、戦前期にはアカラ植民地と呼ばれていたと説明されています。
国立国会図書館の別ページでは、アカラ植民地の本部がトメアスーに置かれ、最初の移民は43家族と単身者などを含む計189人だったとされています。人数については資料によって「42家族と単身者9人」といった書き方も見られますが、いずれも「最初の一団が家族単位を中心とする約190人規模だった」点では一致します。
彼らがアマゾンへ向かった背景には、日本側の海外移民政策、ブラジル側の土地開発、企業による移住地経営、そして「熱帯で新しい農業を築けるのではないか」という期待がありました。ただし、当時の移民たちが向かったのは、整った農村ではありません。交通、医療、販売先、農業技術、気候への適応など、生活を支える仕組みは弱く、家族が生きていくには過酷な条件が多くありました。
初期の計画では、カカオが主作物として期待されました。カカオは将来性のある熱帯作物でしたが、収穫まで時間がかかります。植えればすぐに現金収入になる作物ではありません。そのため、移民たちは生活費を得るために米や野菜なども作り、ベレンへ販売しようとしました。
ここで早くも問題が見えてきます。農業は、作物を植えるだけでは成立しません。土地に合う技術、病害への知識、交通、販売先、共同出荷、資金、医療、家族の労働力が必要です。トメアスーの初期移民が直面したのは、まさにその総合的な不足でした。
移民たちを待っていた現実──カカオの失敗、マラリア、退耕
トメアスーの歴史を語るとき、戦後のコショウ栽培や現在のアグロフォレストリーだけを見ると、苦難の深さが見えにくくなります。出発点は、むしろ失敗の連続でした。
国立国会図書館の解説では、移民たちは熱帯農業の知識がなかったため、主作物と想定されたカカオ栽培に失敗し、移住地の経営は行き詰まったとされています。さらに悪性のマラリアが蔓延し、退耕者が相次ぎました。
別の国立国会図書館の記述では、最初の3年間に入植した202家族のうち61家族が植民地を離れ、1935年から1942年にかけては374家族2,104人が入植した一方、263家族1,603人が去り、残ったのは98家族483人だったとされています。数字だけでも、どれほど定着が難しかったかが分かります。
この退耕は、単に「根性が足りなかった」という話ではありません。作物が育たない、病気が広がる、医療が届かない、交通が不便で市場に出せない、移住会社の経営が苦しい。こうした問題が重なると、農家は作り続けたくても続けられません。
アマゾンの環境は、外から来た人にとって豊かであると同時に厳しい場所でした。気温、湿度、病害虫、土壌、雨季と乾季、川の交通、都市市場との距離。日本の農村での経験だけでは対応できないことが多かったのです。
戦争が日系社会に落とした影
トメアスーの農業史は、第二次世界大戦の影響も避けて通れません。
ブラジルが1942年に日本との外交関係を断つと、アカラ植民地に関わる会社や農業協同組織の資産は接収され、州政府の管理下に置かれました。国立国会図書館の記述では、アカラ植民地はアマゾン地域の枢軸国系住民の収容地となり、上流地域から移された日本人やドイツ人が道路建設の労働を強いられたとされています。
日系社会は、農業の困難だけでなく、国際政治によっても生活基盤を揺さぶられました。戦時下の制約、移動や市場へのアクセスの問題、ブラジル社会の中での緊張は、移民家族の生活に大きな影響を与えました。
この時期を省いてしまうと、戦後のコショウ栽培の成功が、まるで自然に訪れた幸運のように見えてしまいます。しかし実際には、トメアスーの日系農家は、農業・健康・政治の複数の危機を経験したあとに、ようやく次の段階へ進んでいきました。
コショウ栽培の成功と「黒いダイヤ」の時代
戦後、トメアスーの状況を大きく変えた作物がコショウでした。
コショウは戦前に地域へ持ち込まれていましたが、本格的に広がったのは戦後です。1950年代には、国際市場でコショウ価格が高騰し、トメアスーでは「胡椒長者」が生まれました。黒い粒が高値で取引されたため、コショウは「黒いダイヤ」とも呼ばれました。
この成功は、トメアスーの日系農家にとって大きな転機でした。初期移民の失敗、マラリア、退耕、戦争の後、ようやく「この土地で農業によって生活を立てられる」という実感が生まれたからです。コショウ栽培は、農家の所得を高め、地域の発展を支え、農協の役割を強めました。
しかし、ここに次の危機の種もありました。コショウが儲かるほど、多くの農家はコショウに集中します。畑が単一作物に近づくと、病気が広がったときの被害は大きくなります。価格が下がったときの打撃も深くなります。
つまり、コショウはトメアスーを救った作物であると同時に、トメアスーに「単一作物依存の危うさ」を教えた作物でもありました。
単一作物に頼る危うさ──病害と価格変動がもたらした危機
1960年代後半から、トメアスーのコショウ栽培は大きな打撃を受けます。原因の一つが、フザリウム菌などによる病害でした。国立国会図書館の解説では、1960年代後半からフザリウム菌などの病害によってコショウ栽培が壊滅的な打撃を受けたとされています。
CAMTAの公式サイトも、1960年代末にコショウ単一栽培の黄金期が衰退し、「Fuzariose」と呼ばれる病害が単一栽培を壊滅させたことで、生産システムの多様化が必要になったと説明しています。
単一作物に頼る農業は、初心者にも次のように考えると分かりやすいです。
- 同じ作物ばかり植えると、その作物を好む病害虫が広がりやすい。
- 一つの作物の価格が下がると、家計や経営全体が直撃を受ける。
- 収穫時期が偏ると、収入の時期も偏りやすい。
- 市場や輸出先の事情に、地域全体が左右されやすい。
トメアスーでは、病害を避けるために汚染されていない土壌を求めて地域を離れる農家もありました。一方、残った農家は、コショウに代わる作物を探し、自宅の庭先や畑でさまざまな作物を試しました。この「生き残るための試行錯誤」が、やがてアグロフォレストリーへつながっていきます。
ここが重要です。トメアスーのアグロフォレストリーは、最初から「環境にやさしい理想の農業を作ろう」として始まったというより、危機に追い込まれた農家が、収入を分散し、病害に強く、土地を使い続ける方法を探した結果として発展しました。
CAMTAとは何か──日系農家を支えた農協の力
トメアスーの歴史は、個々の農家だけでは語れません。重要な役割を果たしたのが、CAMTAです。
CAMTAは、Cooperativa Agrícola Mista de Tomé-Açu の略称で、日本語では「トメアス総合農業協同組合」と訳されます。日本語資料では「トメアス農業協同組合」「トメアスー総合農業協同組合」などの表記も見られます。
CAMTAの起点については、資料によって表現に差があります。国立国会図書館は、1931年に共同販売のためのアカラ野菜組合がつくられ、のちにアカラ農業組合へ発展した流れを説明しています。学術論文では、CAMTAは1949年に設立された組織として説明されることがあります。一方、CAMTA自身の公式サイトでは、移民の入植と結びつけて1929年から活動が始まったと説明しています。
この違いは、「現在のCAMTAにつながる協同活動の始まり」を見るのか、「現在の名称・制度としての協同組合の設立」を見るのかで表現が変わるためです。この記事では、1931年の共同販売組織から続く協同の流れがあり、1949年に現在のCAMTAへつながる組織として整えられていった、と整理します。
CAMTAが重要なのは、農家が一人でできないことを担ったからです。
- 作物の共同出荷
- 販売先や輸出先との交渉
- 栽培技術や病害情報の共有
- 加工施設の整備
- アサイー、クプアス、カカオなどの果実加工
- 研究機関、JICA、企業、地域団体との連携
農業は、畑だけでは完結しません。収穫した果実を傷まないうちに加工し、品質をそろえ、流通させ、市場につなぐ仕組みが必要です。CAMTAは、その「畑の外側」を支える組織でした。
CAMTA公式サイトによると、1987年には日本政府の資金支援を受けて果実パルプのアグロインダストリーが整備されました。現在の組合員数や登録生産者数、雇用数についてはCAMTA自身が公表している数字であり、変動しうるものですが、加工・販売・輸出を含む地域農業の基盤として大きな役割を果たしていることは確かです。
トメアス式アグロフォレストリー(SAFTA)の誕生
アグロフォレストリーとは、農業と林業を組み合わせる土地利用の考え方です。国際的には、樹木や低木、作物、場合によっては家畜を同じ土地利用の中で意図的に組み合わせる仕組みとして説明されます。つまり、農地から木を排除するのではなく、木を農業の一部として使う考え方です。
ただし、アグロフォレストリーはトメアスーだけで生まれた発明ではありません。世界各地には、樹木、果樹、作物、家畜、林産物を組み合わせる農法が古くからあります。アマゾンにも、先住民や地域住民が培ってきた植物利用、焼畑、果樹、採集、川沿いの生活知があります。
トメアスーの特徴は、その広い概念を、日系農家とCAMTAがアマゾン東部の商業農業、加工、販売、地域組織と結びつけ、SAFTAとして体系化していった点にあります。
SAFTAでは、作物を時間差と空間差で組み合わせます。たとえば、最初に米、豆類、かぼちゃ、トマト、葉物野菜などの短期作物を植え、次にコショウやパッションフルーツのような中期作物を入れます。それらが日陰や防風効果を作り始めるころ、カカオ、アサイー、クプアス、果樹、ブラジルナッツ、マホガニー、パラゴムなどの高木や有用樹を組み合わせていきます。
国立国会図書館の解説では、この農法は、アマゾンの自然植生が時間をかけて回復していく「遷移」を模倣するため、学術上「遷移型アグロフォレストリ」と呼ばれると説明されています。
初心者向けに言えば、SAFTAは「畑を一枚の平面として見る」のではなく、「高さ」と「時間」で見る農業です。
| 視点 | 単一栽培の発想 | SAFTAの発想 |
|---|---|---|
| 高さ | 同じ高さの作物を並べる | 地表作物、低木、果樹、高木を重ねる |
| 時間 | 同じ作物の収穫を待つ | 短期・中期・長期の収穫を組み合わせる |
| 収入 | 一つの作物価格に左右される | 複数の作物で収入時期と市場を分散する |
| 病害 | 同じ病気が広がりやすい | 多様な作物でリスクを分ける |
| 環境 | 畑が単純化しやすい | 日陰、防風、落葉、有機物、多様な生き物を利用する |
森をつくる農業──アサイー、カカオ、クプアス、コショウの多品目栽培
SAFTAが「森をつくる農業」と呼ばれるのは、単に木を植えるからではありません。作物の種類、高さ、収穫時期、根の深さ、日当たり、作業効率を組み合わせ、時間とともに畑が森のような多層構造へ近づいていくからです。
代表的な作物には、次のようなものがあります。
- コショウ:トメアスーの戦後発展を支えた高収益作物。
- カカオ:初期には失敗したが、のちにアグロフォレストリーの中で重要な作物となった。
- アサイー:アマゾン果実として知られ、加工・冷凍・パルプ化によって市場と結びついた。
- クプアス:カカオの仲間で、果肉や加工品として利用されるアマゾン果実。
- パッションフルーツ、バナナ、パパイヤなど:収穫時期や生育の早さを生かして組み合わされる。
- ブラジルナッツ、マホガニー、パラゴムなどの有用高木:長期的な木材・林産物、日陰、防風などの役割を持つ。
ここで重要なのは、作物を「たくさん植えればよい」という単純な話ではないことです。日陰を好む作物もあれば、日当たりを必要とする作物もあります。すぐ収穫できる作物もあれば、収穫まで何年もかかる作物もあります。農家は、畑ごとに組み合わせを変え、失敗と観察を通じて調整していきました。
この仕組みが農家にもたらした大きな変化は、収入の分散です。一つの畑から一年中何かしらの収穫が得られれば、家計は安定しやすくなります。コショウだけ、カカオだけ、アサイーだけに頼るより、病害や価格下落に対しても耐えやすくなります。
さらに、果実加工やパルプ化が進むと、傷みやすいアマゾン果実を遠い市場へ届けやすくなります。CAMTAの加工施設は、農家の作物を市場につなぐうえで重要な役割を果たしました。ここで、農業は単なる「栽培」から、「栽培・加工・流通・販売」を含む地域産業へ広がっていきます。
なぜ世界がトメアスーに注目するのか
トメアスーのアグロフォレストリーが世界的に注目される理由は、いくつかあります。
第一に、農家の収入安定と環境負荷の低減を同時に目指している点です。国立国会図書館の解説では、トメアスーのアグロフォレストリーは、複数の作物を一つの畑で栽培することで絶えず生産があり、農地ごとに異なる組み合わせを作ることで安定的な収入を得られると説明されています。
第二に、荒れた土地や病害後の農地を、再び生産的な土地へ変えていく可能性です。JICAは、SAFTAを、荒廃地の回復や森林保全と結びついた家族農業の成功例として紹介しています。
第三に、知識の作り方です。学術論文では、SAFTAは日系農家の危機から生まれた一方で、アマゾンの伝統的な農業実践、研究者、農協、地域の多様な知識が相互に組み合わさって発展した事例として分析されています。つまり、外部の専門家が上から教えた技術でも、日系農家だけが孤立して発明した技術でもありません。複数の知識が現場で混ざり合い、作り替えられたのです。
第四に、国際協力との関係です。外務省のODA白書やJICA資料では、日本の技術協力、EMBRAPA(ブラジル農牧研究公社)との研究協力、周辺国への研修などが紹介されています。2025年には、COP30がベレンで開催されたことと関連して、JICAブラジル事務所がCAMTAやACTAなどと連携し、SAFTAセミナーやトメアスー見学ツアーを実施しました。
第五に、カカオなどの地域ブランド化です。東京農工大学とJICAの発信によれば、2019年にブラジル知的財産庁が「Tomé-Açu」のカカオ製品について地理的表示の一種である原産地表示を承認しました。これは、トメアスーのカカオが、地域の歴史、品質、農法と結びついて評価されていることを示しています。
ただし、世界的評価があるからといって、SAFTAを万能薬のように見るべきではありません。導入には知識、労働力、時間、加工・販売の仕組み、組織、資金が必要です。どこにでも同じ形で移植できるものではなく、地域ごとの自然、社会、土地制度、市場に合わせた調整が必要です。
ただの成功物語にしてはいけない理由
トメアスーの物語は前向きに読めます。失敗から学び、病害を乗り越え、農協を育て、環境負荷の小さい農業へ進んだ歴史だからです。
しかし、これを「日本人がアマゾンを救った」と書いてしまうと、大切なものを失います。
第一に、アマゾンにはもともと人がいました。先住民、リベリーニョ、地域のブラジル社会、森林の植物を利用する知識がありました。トメアスーの日系農家の経験は重要ですが、アマゾンの農業知を日本人だけの成果として語ることはできません。
第二に、初期移民の歴史は苦いものです。カカオの失敗、マラリア、退耕、会社経営の行き詰まり、戦争期の制約、差別、資産接収、強制労働。こうした経験を消してしまうと、SAFTAがなぜ「危機から生まれた農業」なのかが分からなくなります。
第三に、アマゾン農業には森林破壊、牧場開発、土地利用、先住民の権利、国際市場、企業活動、気候変動が関わります。アグロフォレストリーは重要な解決策の一つですが、これだけでアマゾン全体の問題が解決するわけではありません。
第四に、SAFTAは市場と切り離せません。アサイー、カカオ、クプアス、コショウが売れるからこそ農家は栽培を続けられます。その一方で、市場に依存すれば、価格変動や流行にも左右されます。持続可能な農業は、畑の中だけでなく、加工、物流、価格、消費者、企業、政策まで含めて考える必要があります。
だから、この記事では次のように整理します。
トメアスーの日系農家とCAMTAは、アマゾンを「救った」のではありません。失敗と危機の中で、地域の自然と市場に向き合い、アマゾンで農業を続けるための、より環境負荷の小さいモデルを育てていきました。その実践が、現在、持続可能な農業の一例として世界的に注目されているのです。
なぜ日本ではあまり知られていないのか
トメアスーの歴史は、日本ではまだ広く知られているとはいえません。
理由の一つは、日本の学校教育で海外移民史が大きく扱われにくいことです。ブラジル移民そのものは、笠戸丸やサンパウロ州のコーヒー農園と結びつけて語られることがあります。しかし、アマゾンのトメアス移民、CAMTA、SAFTAまで知っている人は多くありません。
もう一つは、この歴史が複数のジャンルに分かれてしまうことです。
- 移民史として見れば、日本人がブラジルへ渡った歴史です。
- 農業史として見れば、熱帯農業と作物転換の歴史です。
- 環境史として見れば、森林破壊と持続可能な土地利用の問題です。
- 経済史として見れば、コショウ、カカオ、アサイーなどの商品作物と市場の歴史です。
- 国際協力史として見れば、JICA、EMBRAPA、大学、農協が関わった技術協力の歴史です。
それぞれ別々に読むと、全体像が見えにくくなります。けれども、トメアスーを一つの場所として見れば、これらはすべてつながっています。
日本史は、日本列島の中だけで完結しません。アマゾンの森にも、日本人移民と日系社会が残した足跡があります。それは、単なる「海外で成功した日本人」の話ではなく、移動した人々が、異なる自然と社会の中で生きる方法を作り直した歴史なのです。
現地で見られる場所、施設、資料
トメアスーの歴史に関心を持ったら、現地や公開資料で確認できるものもあります。
- トメアスーの農場:SAFTAを実践する農場では、コショウ、カカオ、アサイー、クプアス、果樹、高木が組み合わされた畑の構造を確認できます。訪問には現地団体やツアー情報の確認が必要です。
- CAMTA:トメアス総合農業協同組合は、農家、加工、販売、輸出をつなぐ中心的組織です。公式サイトでは歴史や商品、持続可能性の説明が公開されています。
- 果実加工施設:アサイーやクプアスなどの果実をパルプ化・冷凍・加工する仕組みは、SAFTAが市場と結びつくうえで重要です。
- 移民史資料館・地域の記憶:JICAの2025年ツアーでは、農場、ジュース加工場、移民博物館が訪問先として紹介されました。現地訪問の際は、最新の公開状況を確認してください。
- オンライン資料:国立国会図書館「ブラジル移民の100年」、JICA、CAMTA、学術論文などで、日本語・英語・ポルトガル語の情報を確認できます。
関連する世界史・文化の記事として、商品作物と帝国・都市文化の関係を知りたい方は、コーヒーの世界史|一杯の飲み物が宗教・帝国・都市文化を動かしたもあわせて読むと、ブラジルや熱帯作物をめぐる歴史がつながって見えます。
よくある誤解
トメアスーのアグロフォレストリーは、日本人が発明したのですか?
そう断定するのは正確ではありません。アグロフォレストリーは、世界各地の伝統農法や在来知とも関わる広い概念です。トメアスーでは、日系農家とCAMTAが、アマゾン東部の地域条件、商業農業、加工・販売、研究機関との連携の中で、SAFTAとして独自に体系化・発展させたと見るのが適切です。
トメアスーの日系農家は最初から環境保全を目的にしていたのですか?
最初から環境思想として始まったというより、コショウ単一栽培の病害と価格変動を乗り越えるための経営上の試行錯誤が出発点でした。その結果として、森林的な多層構造、土地の回復、収入の分散につながる農法が評価されるようになりました。
コショウ栽培は失敗だったのですか?
失敗だけではありません。コショウは戦後のトメアスーを発展させた重要な作物でした。ただし、成功が大きかったために単一作物への依存が進み、病害や価格変動の打撃も大きくなりました。成功と危機の両方を見なければなりません。
SAFTAならアマゾンの森林破壊をすべて止められますか?
SAFTAは重要な選択肢ですが、万能薬ではありません。土地制度、道路、牧場開発、違法伐採、市場価格、政策、地域住民の権利など、アマゾンの問題は複雑です。SAFTAは、農業と森林保全を両立させる一つの実践例として理解するのがよいでしょう。
まとめ|トメアス移民の歴史は、失敗から生まれた持続可能な農業の物語だった
トメアスーの歴史は、遠いアマゾンに渡った日本人移民と日系社会が、失敗と危機を通じて新しい農業モデルを育てていった物語です。
1929年以降の入植は、希望だけで始まったものではありません。カカオ栽培の失敗、熱帯農業の知識不足、マラリア、退耕、戦争期の制約、差別、経済危機がありました。戦後のコショウ栽培は大きな成功をもたらしましたが、その成功はやがて病害と価格変動による単一作物依存の危機を招きました。
その危機の中で、農家は庭先や畑で代替作物を試し、CAMTAは加工・販売・技術共有の仕組みを支えました。カカオ、コショウ、アサイー、クプアス、果樹、高木を組み合わせるSAFTAは、こうした長い試行錯誤の中から生まれました。
それは「日本人がアマゾンを救った」という単純な話ではありません。アマゾンにもともと存在した人々と知識、ブラジル社会、研究機関、国際協力、企業、消費市場が関わる複雑な歴史です。
けれども、その複雑さを含めて、トメアスーの物語は大切です。なぜなら、ここには、移民が異なる自然と社会の中で生きるために、失敗から学び、組織を作り、作物を組み合わせ、森と農業の関係を作り直していった歴史があるからです。
日本史は、日本列島だけで完結しません。アマゾンの森にも、日本人移民と日系社会の足跡が残っています。そしてその足跡は、現在、持続可能な農業、気候変動、生物多様性、農家の収入安定という世界的な課題とつながっています。
参考文献・参考サイト
- 国立国会図書館「ブラジル移民の100年」コラム「アマゾンのアグロフォレストリ」
- National Diet Library, 100 Years of Japanese Emigration to Brasil, “Establishment of the Acara Colony”
- Fabio de Castro and Celia Futemma, “Farm Knowledge Co-Production at an Old Amazonian Frontier: Case of the Agroforestry System in Tomé-Açu, Brazil,” Rural Landscapes
- M. S. M. Saes and T. M. Gomes, “A Cooperative Founded by Japanese Immigrants in the Amazon Rainforest: The Case of CAMTA,” International Journal of Business and Social Science
- CAMTA公式サイト「História」
- JICA Brazil Office, “Agroforestry Tour in Tomé-Açu: Exploring Forest-Growing Agriculture in the Amazon”
- JICA, “SAFTA Seminar and Tomé-Açu Tour: A Vector of innovation for Agroforestry Systems in the 21st Century Amazon”
- 外務省『政府開発援助(ODA)白書2008』コラム「Strengthening Agriculture through the Three-Track Approach」
- 東京農工大学 “Indication of Origin ‘Tomé-Açu’ for the Cocoa Product” is approved by the Brazilian Intellectual Property Office
- World Agroforestry, “What is Agroforestry?”
- FAO, “About agroforestry – Overview”
- FRUTAFRUTA “CAMTA”(企業資料。CAMTAの沿革・加工・流通に関する補助資料として参照)
