ブラジルには、海外最大となる約270万人の日系社会があります。その歴史の大きな起点が、1908年6月18日にサントス港へ着いた第一回ブラジル移民船・笠戸丸です。
熊本県出身の上塚周平は、笠戸丸の一般乗客ではなく、皇国殖民合資会社の代理人兼移民輸送監督として移民を引率しました。到着後は、コーヒー農園で起きた契約移民の混乱に対処し、プロミッソンに上塚植民地を開設し、干害で困窮した日本人農業者への低利融資や医療施設の整備運動にも関わりました。
上塚が「ブラジル移民の父」と呼ばれる理由は、笠戸丸への乗船に加え、第一回移民事業の厳しい結果を現地で引き受け、移民が契約労働者から自作農へ移るための基盤づくりを続けた点にあります。
30秒で分かる上塚周平
- 1876年、現在の熊本市南区城南町赤見に生まれ、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業しました。
- 1908年、皇国殖民合資会社の代理人兼輸送監督として笠戸丸に乗り、第一回ブラジル移民を引率しました。
- 笠戸丸には契約移民781人と自由移民12人が乗り、4月28日に神戸を出港、6月18日にサントスへ到着しました。
- 到着後、移民は6か所のコーヒー農園へ配属されましたが、凶作、低収入、住環境、契約との食い違いから離散が相次ぎました。
- 上塚は1918年にプロミッソンで第一上塚植民地、1922年に第二上塚植民地を開設しました。
- 1926年には干害などで困窮した日本人農業者を救う85万円の低利融資実現運動を主導し、北西地方の病院建設運動にも関わりました。
- 1933年、移民開始25周年に水野龍とともに移民功労者として表彰・叙勲され、1935年にブラジルで亡くなりました。
上塚周平の基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 上塚周平(うえつか しゅうへい) |
| 号 | 瓢骨(ひょうこつ) |
| 生年 | 1876年 |
| 出身地 | 熊本県下益城郡杉上村赤見(現在の熊本市南区城南町赤見) |
| 学歴 | 第五高等学校法科、東京帝国大学法科大学 |
| 笠戸丸での立場 | 皇国殖民合資会社の代理人、移民輸送監督 |
| 主な事績 | 第一回ブラジル移民の引率、移民の現地支援、上塚第一・第二植民地、85万円低利融資運動、北西地方の病院建設運動 |
| 没年 | 1935年。墓所はサンパウロ州プロミッソン |
生没日には資料差があります。本記事は国立国会図書館の記載に従い、1876年7月12日生、1935年7月6日没を基本とします。サンパウロ人文科学研究所は誕生日を7月19日、熊本市塚原歴史民俗資料館の展示ページは没日を7月9日としています。
熊本から東京帝国大学へ──移民事業に入るまで
上塚は1896年に第五高等学校へ入り、1900年に法科を卒業しました。その後、東京帝国大学法科大学へ進み、1907年に卒業します。翌1908年には、卒業したばかりの法学士として皇国殖民合資会社のブラジル移民事業に加わりました。
第一回移民事業を計画し、サンパウロ州との契約をまとめた中心人物は水野龍です。上塚は水野のもとで、会社の現地代理人と移民輸送監督を担いました。水野が「渡航の道を開いた人物」なら、上塚は「移民到着後の問題を引き受けた人物」と整理すると、二人の役割の違いが分かります。
なぜ日本人はブラジルへ渡ったのか
20世紀初頭、日本は海外移住先を広げようとしていました。北米やハワイでは日本人移民への制限が強まり、農村では土地や仕事を求める人々がいました。一方のブラジル、とくにサンパウロ州では、コーヒー農園の労働力確保が大きな課題でした。
1905年、駐ブラジル公使の杉村濬は、サンパウロ州を有望な移住先として紹介する復命書を外務省へ送りました。報告を読んだ水野龍は現地へ渡り、1907年11月、サンパウロ州と移民輸送契約を結びます。
契約では、皇国殖民会社が3年間に3,000人の家族移民を募集し、コーヒー農園の労働者として送ることが定められました。ブラジル側が家族を求めたのは、単身の出稼ぎよりも農園へ長く定着すると考えたためです。短期間で家族を集めるのは難しく、実際には血縁のない男女を夫婦や兄弟として組み合わせた「構成家族」も含まれました。
第一回ブラジル移民船・笠戸丸
笠戸丸は1908年4月28日、神戸港を出ました。シンガポールと喜望峰を経由し、50日余り、およそ1万2,000カイリを航海して、6月18日にサントス港第14埠頭へ接岸しました。
国立国会図書館は乗船者を「契約移民781人、自由移民12人」と整理しています。781人はサンパウロ州との契約に基づく移民の数です。自由移民や会社関係者をどこまで含めるかにより、792人、793人、794人という表記も見られます。人数の違いは、集計範囲の違いから生じています。
上塚は航海中、ケープタウンとサンパウロから日本へ状況報告を送りました。俳号を瓢骨といい、サントス到着時の句「涸滝を見上げて着きぬ移民船」は、ブラジルで最初に詠まれた俳句と紹介されています。
6つのコーヒー農園で起きたこと
移民たちはサントスから列車でサンパウロ市へ移り、6月25日まで移民収容所に滞在しました。その後、ドゥモント、グワタパラ、サン・マルチーニョ、フロレスタ、カナン、ソブラードの6農園へ、コロノと呼ばれる契約農業労働者として配属されました。
農園の現実は、募集時の期待と大きく異なりました。住居には床板や家具がなく、土間で眠る家族もいました。到着が収穫期の途中だったうえ、1908年はコーヒーが不作でした。作業経験もない移民の収穫量は伸びず、食費を賄うだけの収入も得にくい状況でした。
とくにドゥモント農園では、老木と凶作が重なり、移民の不満が爆発しました。8月、上塚、水野、公使館の通訳官が現地へ入り、州政府と協議して移民をサンパウロ市の収容所へ戻しました。独身者は鉄道工事へ、家族は別の農園へ移す措置が取られました。
第一回移民の定着率は低く、1908年末に最初の6農園へ残っていたのは359人、転耕先を含めても439人でした。1909年秋には転耕先を含め239人まで減りました。多くはサンパウロ、サントス、鉄道工事、周辺国へ移動しました。
上塚周平は移民たちとどう向き合ったのか
上塚の評価を決めたのは、第一回移民事業の失敗から距離を置かず、現地で対応を続けたことです。農園を巡回し、移民の訴えを聞き、農園主や州政府との調整に入りました。ドゥモント農園では、移民を困窮させた責任を自分たちに認め、支援を続ける意思を伝えたと記録されています。
皇国殖民会社の現地事務所も資金難に陥り、上塚が紙製玩具を考案して販売し、運営費を補ったという逸話が残ります。1914年にいったん日本へ戻り、新たな移植民計画の実現を図りました。計画は実現に至らず、1917年に再びブラジルへ渡り、移民を農園労働から自立した農業経営へ移す事業に取り組みます。
プロミッソンへ──上塚第一・第二植民地
上塚は1918年、サンパウロ州内陸部のノロエステ線沿いで、エイトール・レグルー駅、のちのプロミッソン駅から約4キロのイタコロミーに土地を購入しました。面積は1,400アルケール、約3,388ヘクタールです。ここに第一上塚植民地を開きました。
1922年には、リンスの西方に第二上塚植民地を設けました。上塚のもとには、契約農園を離れて土地を求める日本人や、上塚を慕う青年たちが集まりました。コロノとして農園主の土地で働く生活から、自分の土地を持つ農業者へ移ることが、植民地の大きな意味でした。
熊本市塚原歴史民俗資料館は、1923年には上塚植民地周辺で548家族約3,000人が約7,300ヘクタールを開墾し、314万本のコーヒーを栽培する規模になったと紹介しています。同館の記述は集計範囲を明示していないため、規模を示す参考値として扱います。プロミッソン一帯が大きな日系農業地域へ成長したことを伝える記録です。
上塚植民地は、のちに南米各地で展開した日系農業移住と同じく、土地取得、家族労働、共同体づくりを軸にしていました。南米の日系農業史を広く知るには、パラグアイの大豆農業を支えた日本人移民や、アマゾンで多品目農業を育てたトメアス移民とアグロフォレストリーも関連します。
85万円の低利融資──干害から自作農を救う
1924年から1925年にかけて、サンパウロ州内陸部は干ばつと政治的混乱による不況に見舞われました。コーヒー栽培に投資した日本人自作農は返済と生活に行き詰まり、日本政府へ低利資金を求める運動を始めます。
上塚はノロエステ地方の代表として、ソロカバナ地方の星名謙一郎らと請願運動の先頭に立ちました。田付七太大使の働きかけもあり、1926年3月、帝国議会は「在伯剌西爾居留民旱害救済貸付金」85万円を追加予算で承認しました。「八五融資」「八五低資」と呼ばれる資金です。
この運動には批判もありました。当時の邦字紙には、困窮の背景に干害だけでなく土地投機があり、植民地経営者にも責任があるという指摘が掲載されています。低利融資は救済策であると同時に、急速な土地開発が抱えた問題を映す出来事でした。
病院と地域団体──農業以外の生活基盤を支える
内陸部の日系社会には、農地だけでなく医療、教育、相互扶助の仕組みが必要でした。上塚はノロエステ日本人会の設立に関わり、同会会長として北西地方に病院を建てる協議を進めました。1924年の邦字紙には、上塚の発起による病院建設相談会に、沿線各地の代表など約80人が集まったと記録されています。
上塚は、その後の在伯日本人同仁会をめぐる医療整備運動にも関わりました。病院建設は多くの関係者による事業です。その中で上塚が、農業経営に加えて病気に対応できる地域制度を整えようとした点は重要です。
「ブラジル移民の父」と呼ばれる理由
ブラジル移民の構想と日系社会の形成には、移民輸送契約を実現した水野龍、各農園に同行した通訳、植民地を開いた農業者、家族、邦字新聞、県人会、医療関係者など、多くの人々が関わりました。
その中で上塚は、第一回移民の引率者として失敗の現場に立ち、離散する移民の調整に入り、のちに土地、資金、医療、地域団体の問題へ関わりました。「父」という呼称は、唯一の創設者という意味より、移民の生活を長期に支えた先導者への敬称として理解できます。
1933年の日本移民渡伯25周年記念式典では、水野龍と上塚周平が移民事業の功労者として表彰され、日本政府から勲章を受けました。上塚が詠んだ「夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」は、初期移民の厳しい生活を伝える句として残っています。
上塚周平の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1876年 | 熊本県下益城郡杉上村赤見に生まれる。 |
| 1896年 | 第五高等学校へ入学。 |
| 1900年 | 第五高等学校法科を卒業。 |
| 1907年 | 東京帝国大学法科大学を卒業。 |
| 1908年4月28日 | 皇国殖民合資会社代理人兼輸送監督として笠戸丸で神戸を出港。 |
| 1908年6月18日 | サントス港に到着。移民の農園配属と、その後の紛争処理に関わる。 |
| 1914年 | 日本へ帰国し、新たな移植民計画を進める。 |
| 1917年 | ブラジルへ再渡航。 |
| 1918年 | プロミッソンに第一上塚植民地を開設。 |
| 1922年 | 第二上塚植民地を開設。 |
| 1924年 | 北西地方の病院建設運動を進める。 |
| 1926年 | 日本人自作農救済の85万円低利融資が帝国議会で承認される。 |
| 1933年 | ブラジル移民25周年に移民功労者として表彰・叙勲。 |
| 1935年 | ブラジルで死去。プロミッソンに葬られる。 |
上塚周平の功績をどう評価するか
上塚の生涯には、二つの側面があります。第一は、皇国殖民会社の代理人として、条件の厳しい契約移民事業を実施した当事者だったことです。第一回移民の募集には構成家族が含まれ、農業経験の乏しい人も多く、現地の労働条件との間に大きなずれがありました。
第二は、その結果生じた問題から離れず、移民の転耕、自作農化、資金融通、医療、地域組織へ活動を広げたことです。上塚の評価には、功績の顕彰と、移民会社側の責任者だった事実の両面が必要です。失敗を含む移民事業の当事者が、その後の生活基盤づくりに生涯を費やした人物として捉えられます。
上塚の歩みは、個人の成功談よりも、制度の不足を現場で埋めていった歴史です。現在の約270万人に及ぶブラジル日系社会は、初期移民とその家族、地域団体、農業者、教育者、医療関係者が世代を重ねて築いた社会です。
よくある質問
上塚周平は何をした人ですか?
笠戸丸の移民輸送監督として第一回移民を引率し、到着後の農園紛争への対応、プロミッソンの植民地建設、日本人自作農への低利融資、病院建設運動に関わった人物です。
上塚周平と水野龍はどう違いますか?
水野龍はサンパウロ州との契約を結び、第一回ブラジル移民事業を実現した中心人物です。上塚周平は会社代理人兼輸送監督として移民を引率し、到着後の支援と日系社会の生活基盤づくりを長く担いました。
笠戸丸の移民は781人、793人、794人のどれですか?
国立国会図書館の整理では契約移民781人、自由移民12人です。合計すると793人になります。資料によって会社関係者などの数え方が異なるため、792人や794人という表記もあります。契約移民数としては781人が基準です。
プロミッソンとはどこですか?
ブラジル南東部のサンパウロ州内陸にある都市です。20世紀初頭にノロエステ鉄道沿線の開発が進み、上塚第一植民地を中心に日系農業地域が形成されました。上塚の墓もプロミッソンにあります。
上塚周平は一度日本へ帰国したのですか?
1914年に帰国し、新たな移植民計画の実現に動きました。計画がまとまらず、1917年にブラジルへ戻り、翌年からプロミッソンで植民地建設を進めました。
ブラジルの日系人は現在何人ですか?
外務省は約270万人と推定しています。海外で最大の日系社会です。
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参考文献・参考サイト
- 国立国会図書館「上塚周平|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館「ブラジル移民の100年 第2章 ブラジル移民の開始から初期の移民まで(1)」
- 国立国会図書館「ブラジル移民の100年 第2章 ブラジル移民の開始から初期の移民まで(2)」
- 国立国会図書館「コラム 笠戸丸」
- 国立国会図書館「ブラジル移民の100年 第3章 日本人集団地の建設(1)」
- 国立国会図書館「国からの低利融資問題」
- 国立国会図書館「開拓十周年記念塔前に立てる上塚周平翁」
- 外務省外交史料館「移民社会の発展」
- 外務省外交史料館『日本とブラジルの120年』
- 熊本大学五高記念館「五高の歴史 卒業生」
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- サンパウロ人文科学研究所「上塚周平」
- 外務省「ブラジル基礎データ」
- 児玉正一『ブラジル移民の父 上塚周平』
- 竹崎八十雄『上塚周平』上塚周平刊行委員会、1940年

