ブラジル移民の父・上塚周平|笠戸丸からプロミッソンへ、日系社会を支えた男

ブラジルには、海外で最大の日系社会があります。外務省の推計では、ブラジルの日系人は約270万人。サンパウロのリベルダーデ地区や各地の日系団体、農業・食文化・教育の場には、いまも日本にルーツをもつ人々の歴史が息づいています。

その始まりを語るとき、必ず登場する出来事が1908年の第一回ブラジル移民船・笠戸丸です。そして、その船に乗り、移民たちとともに海を渡った一人が、熊本県出身の上塚周平(うえつか・しゅうへい)でした。

上塚は「ブラジル移民の父」と呼ばれます。しかし、この言葉だけを聞くと、まるで一人の偉人が移民を成功へ導いた美談のように見えてしまいます。実際のブラジル移民史は、もっと複雑でした。希望、貧困、移民会社、コーヒー農園、契約との食い違い、病気、言葉の壁、離散、そして日系社会の連帯が重なり合っています。

この記事では、上塚周平を単なる「偉人」としてではなく、日本近代史、ブラジルのコーヒー農園経済、笠戸丸、プロミッソンの上塚植民地、そして日系ブラジル社会の形成という大きな流れの中で見ていきます。

30秒で分かる結論

  • 上塚周平(1876〜1935)は、熊本県出身のブラジル移民功労者です。
  • 1908年、皇国殖民会社の代理人として、第一回ブラジル移民とともに笠戸丸でブラジルへ渡りました。
  • 初期移民は、コーヒー農園での厳しい労働、低収入、住環境、言葉の壁、契約との食い違いに苦しみました。
  • 上塚は、移民会社側の人間でありながら、困窮する移民たちと向き合い、その後も在ブラジル日本人のために尽くした人物として記憶されました。
  • 1918年にはサンパウロ州奥地のプロミッソンに上塚植民地を拓き、日系社会の定着に関わりました。
  • ただし、日系ブラジル社会は上塚一人が作ったものではなく、多くの移民家族、通訳、移民会社、現地社会、後続移民、日系団体の積み重ねによって形成されました。

上塚周平とは?「ブラジル移民の父」と呼ばれた熊本出身の日本人

上塚周平は、1876年に熊本県で生まれた人物です。国立国会図書館「近代日本人の肖像」では、生没年を1876年7月12日〜1935年7月6日とし、「ブラジル移民功労者、『ブラジル移民の父』と呼ばれる」と紹介しています。熊本市の塚原歴史民俗資料館は、出生地を杉上村赤見、現在の熊本市南区城南町赤見と説明しています。

上塚は東京帝国大学法科大学を卒業したのち、皇国殖民会社の代理人として第一回ブラジル移民に関わりました。国立国会図書館の資料では、上塚は「東京帝国大学法科大学卒業したて」で皇国殖民会社代理人として第1回移民とともに渡伯した人物と説明されています。

検索ではまれに「植塚周平」と誤って書かれることがありますが、一般的な表記は「上塚周平」です。本記事でもこの表記で統一します。

上塚が特別なのは、単に移民船に乗ったからではありません。彼は、第一回移民の困難に直面し、その後もブラジルに残る日本人移民の生活、入植地、互助、医療、低利資金運動などに関わり続けました。そのため、ブラジルの日系社会では「移民の父」として記憶されてきたのです。

なぜ日本人はブラジルへ渡ったのか──明治日本と海外移民

ブラジル移民は、突然始まった冒険ではありません。背景には、日本側とブラジル側の事情がありました。

明治期の日本では、近代化が進む一方で、人口増加、農村の貧困、仕事不足が深刻な問題になっていました。海外へ出て働き、賃金を得て故郷へ送金することは、貧しい農村にとって一つの選択肢でした。ハワイ、北米、ペルーなどへの移民は、ブラジル移民より前から始まっています。

しかし、北米では日本人移民への反発が強まり、排日感情や移民制限が大きな問題になっていきました。外務省の資料は、1924年のいわゆる「排日移民法」によってアメリカへの移民が禁止されたことで、ブラジルが移民送出先として一層注目されたと説明しています。もちろん、上塚が笠戸丸で渡った1908年はそれ以前ですが、アメリカ方面が難しくなりつつある流れの中で、南米が重要な移民先として意識されていったことは押さえておく必要があります。

一方、ブラジル側には労働力需要がありました。1888年にブラジルで奴隷制が廃止されると、特にサンパウロ州のコーヒー農園では労働力の確保が重要な課題となりました。ブラジルはヨーロッパ移民を多く受け入れていましたが、やがて日本人移民もその労働力の候補となりました。

つまり、ブラジル移民は「日本人が夢を求めて海外に出た」という個人の物語だけではありません。日本側の人口・貧困・海外移民政策と、ブラジル側のコーヒー農園経済・労働力需要が結びついた結果として起こった出来事でした。

第一回ブラジル移民船・笠戸丸とは何だったのか

1908年4月28日、笠戸丸は神戸港を出航しました。国立国会図書館の「ブラジル移民の100年」は、笠戸丸を「ブラジルにおける日系人の歴史のゼロ地点」と表現し、第一回契約移民781名を乗せて、6月18日にサントス港へ到着したと説明しています。

外務省の外交史料館展示でも、第一回移民船笠戸丸は781名の移民を乗せ、1908年4月28日に神戸を出航し、同年6月18日にサントスへ到着したとされています。一方、熊本市の塚原歴史民俗資料館では、上塚が「170家族794人を率いて渡伯」と説明しています。これは資料によって、契約移民の数、家族数、集計対象に差があるためです。本記事では、国立国会図書館・外務省が示す「781名」を第一回契約移民の代表的な人数として扱い、熊本市資料の「170家族794人」という表記も参考値として紹介します。

笠戸丸の移民事業を実現させた中心人物の一人が、水野龍(みずの・りょう)です。外務省資料によれば、水野はブラジル移民実施の機が熟しつつあると見て、単身で渡伯し、サンパウロ州と契約を結び、日本移民送出につなげました。上塚周平は、その水野とともに皇国殖民会社の代理人として笠戸丸に乗りました。

笠戸丸は、のちの日系ブラジル社会にとって象徴的な船になりました。しかし、出航時点の移民たちは「世界最大の日系社会の始まり」を作るつもりで旅立ったわけではありません。多くの人々にとって、ブラジルは短期間で働いてお金を貯め、故郷へ戻るための場所でした。

希望の移民か、過酷な現実か──コーヒー農園で待っていたもの

サントス港に着いた移民たちは、汽車でサンパウロ市へ移動し、移民収容所に滞在したのち、コーヒー農園へ配耕されました。国立国会図書館の展示によれば、第一回移民はドゥモント、グワタパラ、サン・マルチーニョ、フロレスタ、カナン、ソブラードの6つの大農場に、農業労働者「コロノ」として送られました。

コロノとは、農園で働く契約労働者のことです。日本での募集では、コーヒー農園で働けば収入を得て貯蓄できるという期待が語られました。しかし、現実は厳しいものでした。

国立国会図書館の資料は、耕地での生活は移民たちにとって「最初から幻滅」だったと説明しています。あてがわれた住居は粗末で、家具も床板もなく、土間に寝なければならないこともありました。農園では鐘や角笛に従って時間に縛られ、労働には監視がつきました。奴隷制廃止からまだ20年ほどしか経っていない時代で、農場監督の中には奴隷制時代の扱いを引きずる者もいたとされています。

さらに、第一回移民の到着は収穫期の半ばを過ぎていました。加えて、その年は不作でした。慣れない作業で収穫量は伸びず、収入は少なく、物価は高い。貯金どころか生活費を賄うことも難しい状況でした。外務省の資料でも、ブラジル側が求めていた「コーヒーコロノ」に定着したのは、全渡航者の4分の1にすぎなかったとする公使館報告が紹介されています。

この現実を、ただ「移民たちが弱かった」と見るのは誤りです。彼らは、募集時の説明と現地の実態のずれ、言葉の壁、病気、生活習慣の違い、農園主や移民会社との関係、帰国費用の不足など、いくつもの困難に同時に直面しました。契約農園を離れる人や、別の仕事を求める人が出たのは、その状況の中で生きるための選択でもありました。

上塚周平は移民たちとどう向き合ったのか

上塚周平は、移民たちを送り出した側に近い立場でした。皇国殖民会社の代理人であり、移民事業の当事者です。そのため、初期移民の困難は、上塚自身にとっても重い責任としてのしかかりました。

ドゥモント耕地では不満が高まり、移民たちが騒ぎ出しました。国立国会図書館の展示によれば、1908年8月、皇国殖民会社の上塚周平と水野龍、公使館の三浦荒次郎通訳官が現地へ駆けつけ、移民全員をサンパウロ市の移民収容所に引き揚げさせ、独身者は鉄道工事へ、家族持ちは別のコーヒー耕地へ転耕させることにしました。

サンパウロ人文科学研究所の人物紹介は、上塚について「ブラジル移民の道を開いたのは水野龍氏であるが、移民のあと始末に生涯の精根を尽したのは上塚周平氏である」と記しています。これは、水野を貶めるための言葉ではありません。移民事業は、契約を結び船を出すだけでは終わらない、ということを示しています。

上塚は「瓢骨(ひょうこつ)」という号で俳句も詠みました。外務省資料は、上塚の句として「夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」を紹介し、初期移民の苦労を綴った句として知られていると説明しています。夕暮れ、木陰で涙をこぼしながらコーヒーを摘む。短い句の中に、希望を抱いて渡った人々が直面した苦しみが凝縮されています。

ただし、この句を感動話として消費してはいけません。移民たちが泣いたのは、単なる郷愁ではありません。説明と違う労働、収入の少なさ、住環境、言葉が通じない不安、帰るに帰れない現実がそこにありました。上塚が後に「移民の父」と呼ばれたのは、その苦味を見ないふりにせず、移民社会の中に身を置き続けたからでした。

プロミッソンへ──上塚植民地の開拓

上塚は1914年ごろ一度帰国し、移民事業の改善や新たな計画に奔走しました。しかし思うようには進まず、1917年に再びブラジルへ渡ります。そして1918年、サンパウロ州奥地のプロミッソンで上塚植民地を拓きました。

国立国会図書館の資料は、上塚が1918年にプロミッソン植民地を設立したと説明しています。熊本市の塚原歴史民俗資料館は、上塚がプロミッソンに第1・第2の上塚植民地を拓き、大正12年には548家族3000人の移民が約7300ヘクタールの開墾地で314万本のコーヒーを栽培するほどになったと紹介しています。

ここでいう「植民地」は、現代の植民地主義を正当化する意味ではありません。当時の日本語資料では、海外移民の入植地、農業開拓地、移住者集団地を指す言葉として使われていました。この記事でも、史料上の名称として「上塚植民地」と記します。

ただし、開拓を美化しすぎることにも注意が必要です。プロミッソンは「何もない空白の土地」ではなく、ブラジル社会の土地制度、鉄道、農業経済、地域社会の中にありました。日本人移民の努力を評価することと、「未開の土地を日本人が切り開いた」と一方的に語ることは別です。上塚植民地は、移民がコーヒー農園の雇われ労働者から、より安定した生活を求めて自作農や集団入植へ進んでいく流れの一部として理解する必要があります。

プロミッソンは、上塚の名が具体的な場所として残った重要な地点です。上塚の墓や記念碑は、現地で彼が記憶されていることを示しています。

日系ブラジル社会の形成と上塚周平の役割

ブラジルの日系社会は、上塚周平一人が作ったものではありません。笠戸丸の移民家族、移民会社、通訳、農園労働者、後続移民、県人会、日本語学校、互助組織、医療機関、宗教団体、農業組合、都市へ移った人々、そしてブラジル社会との関わりが積み重なって形成されました。

外務省資料によれば、1923年にはブラジル移民に対する渡航費補助が始まり、1924年のアメリカの排日移民法以後、ブラジルは日本の主要な移民送出先としていっそう重要になりました。1933年には、戦前最多の23,299人がブラジルへ送り出されたとされています。

この流れの中で、日系社会は単なる農園労働者の集まりから、教育、医療、文化、農業、商業を含む共同体へと広がっていきました。サンパウロ市のリベルダーデ地区、各地の県人会、日本語教育、日系病院、農業組合などは、その後の発展の中で重要な役割を果たしました。

上塚の役割は、その初期にあります。彼は、移民を率いた人物であると同時に、移民の失望と怒りを正面から受け止めた人物でした。さらに、プロミッソンの入植、低利資金運動、日系社会の互助活動などを通じて、移民がブラジルに根を下ろす過程に関わりました。

だからこそ、上塚を「移民を連れて行った人」とだけ説明すると、彼の本質を見落とします。上塚は、移民事業の光と影の両方を背負った人物だったのです。

「夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」──移民の苦しみを詠んだ句

上塚周平を語るとき、この句は避けて通れません。

夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ

外務省の外交史料館展示は、この句を「初期移民の苦労を綴った句」として紹介しています。サンパウロ人文科学研究所のページにも、上塚が俳句を好んだこととともに、同趣旨の句が掲載されています。

この句が強いのは、移民の苦しみを説明しすぎないところにあります。夕暮れ、コーヒーの木、泣きながら働く人。たったそれだけで、読者は「なぜ泣いているのか」と考えざるを得ません。

故郷に仕送りしたい。家族を連れてきてしまった。思ったように稼げない。言葉が分からない。農園を逃げても先が見えない。帰国するお金もない。第一回移民の苦難は、そうした現実の積み重ねでした。

上塚がこの句を残したことは、彼が移民たちの苦しみを見ていたことを示しています。ただし、見ていたことと、すべてを解決できたことは同じではありません。そこに、上塚周平という人物の重さがあります。

なぜブラジルで記憶され、日本ではあまり知られていないのか

上塚周平は、ブラジルの日系社会では移民功労者として記憶されています。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」は、1933年の日本移民渡伯25周年記念祭で移民功労者として表彰されたことを紹介しています。外務省資料も、ブラジル移民25周年の式典で水野龍と上塚周平が移民事業創設者として顕彰されたことを示しています。

一方、日本国内で上塚の名を知る人は多くありません。理由はいくつか考えられます。

第一に、日本の学校教育では、海外移民史が大きく扱われにくいことがあります。日本史はどうしても国内の政治、戦争、産業、文化を中心に語られがちです。日本人が海外へ渡り、現地社会の中で世代を重ねた歴史は、国内史の外側に置かれやすいのです。

第二に、上塚は政治家、軍人、大実業家のような「日本国内で分かりやすい有名人」ではありませんでした。彼の仕事は、移民の世話、調整、入植地、互助、日系社会の基盤づくりです。こうした仕事は、歴史の教科書では目立ちにくい分野です。

第三に、ブラジル日系社会の歴史そのものが、日本から見ると遠い存在になりやすいこともあります。しかし、外務省の推計ではブラジルの日系人は約270万人にのぼります。これは、日本の外に広がった日本人の歴史を考えるうえで、決して小さな数字ではありません。

上塚周平が「日本人が知らない、海外で語り継がれる日本人」として重要なのは、彼の名を知ることで、日本史が日本列島の外にも広がっていたことに気づけるからです。

現地でたどれる場所・資料

プロミッソン

サンパウロ州プロミッソンは、上塚植民地の記憶が残る場所です。プロミッソン市の観光案内では、上塚周平の墓や記念碑が、日本移民の歴史をたどる場所として紹介されています。

ブラジル日本移民史料館

サンパウロのブラジル日本文化福祉協会(Bunkyo)が運営するブラジル日本移民史料館は、日本移民の歴史を伝える重要な施設です。公式サイトによれば、移民の文書、写真、新聞、マイクロフィルム、書籍、生活・労働用具など、9万7000点以上の資料を所蔵しています。

JICA横浜 海外移住資料館

日本国内では、JICA横浜の海外移住資料館が、ハワイを含む北米と、JICAが戦後に関わった中南米の移住を中心に、海外移住の歴史資料を展示しています。ブラジル移民を理解する入口として訪れたい施設です。

熊本市・塚原歴史民俗資料館

上塚の出身地に近い熊本市南区の塚原歴史民俗資料館では、「移民の父 上塚周平」として関連展示が紹介されています。上塚を日本側からたどる貴重な手がかりです。

よくある誤解

誤解1:ブラジル移民は最初から成功した

第一回移民は、むしろ大きな困難から始まりました。外務省資料は、第一回移民のうちコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1に過ぎなかったとする報告を紹介しています。成功の物語だけでなく、失望、退耕、夜逃げ、離散も含めて見る必要があります。

誤解2:上塚周平一人が日系ブラジル社会を作った

上塚は重要人物ですが、日系社会は一人の英雄によって作られたものではありません。移民家族、水野龍、皇国殖民会社、通訳、公使館、後続移民、日系団体、現地社会の関係が重なって形成されました。

誤解3:「植民地」という言葉は現代の植民地主義と同じ意味で使われている

上塚植民地という名称は、当時の日本語資料で移民入植地・開拓地を指して使われた言葉です。ただし、現代の読者にとっては重い意味を持つ言葉でもあるため、歴史用語として注意して扱う必要があります。

誤解4:上塚周平の正式表記は「植塚周平」

誤記として「植塚周平」と書かれることがありますが、国立国会図書館、外務省、熊本市資料などで確認できる一般的な表記は「上塚周平」です。

FAQ

上塚周平は何をした人ですか?

1908年に第一回ブラジル移民とともに笠戸丸で渡伯し、初期移民の困難に向き合い、その後プロミッソンに上塚植民地を拓いた人物です。ブラジル日系社会では「ブラジル移民の父」と呼ばれています。

なぜ第一回移民の人数に781人、794人などの違いがあるのですか?

資料によって集計対象が異なるためです。国立国会図書館や外務省は第一回契約移民を781名と説明し、熊本市資料は170家族794人と説明しています。本文では781名を代表的な数字として使い、794人という資料も併記しました。

上塚植民地はどこにありましたか?

ブラジル・サンパウロ州のプロミッソンです。上塚は1917年に再渡伯し、1918年にプロミッソンで入植地を拓いたとされています。

上塚周平は水野龍とどう違うのですか?

水野龍は、サンパウロ州との契約を結び、第一回ブラジル移民事業を実現させた中心人物です。上塚周平は、その事業の代理人として第一回移民に同行し、特に移民たちの困難への対応や、その後の日系社会支援、プロミッソン入植に深く関わった人物として記憶されています。

ブラジルの日系社会は今も大きいのですか?

はい。外務省のブラジル基礎データや海外日系人数推計では、ブラジルは海外で最大の日系社会を持ち、日系人総数は約270万人とされています。

まとめ|上塚周平は、日本人移民の希望と苦難を背負った人物だった

上塚周平は、1876年に熊本で生まれ、1908年に第一回ブラジル移民とともに笠戸丸で海を渡りました。彼は、皇国殖民会社の代理人として移民事業に関わった人物であり、同時に、現地で困窮する移民たちの怒りと悲しみに向き合った人物でもありました。

第一回移民は、成功物語として始まったわけではありません。コーヒー農園での現実は厳しく、住環境、収入、労働条件、言葉の壁、契約との違いが人々を苦しめました。上塚の句「夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」は、その苦味を今に伝えています。

しかし、その苦難の中から、移民たちは農園労働者、自作農、入植者、商業者、教育者、医療関係者として道を切り開いていきました。上塚は、その初期にプロミッソンの上塚植民地を拓き、日系社会の基盤づくりに関わりました。

彼を称えることは、移民史を美談にすることではありません。むしろ、移民を送り出した日本、労働力を求めたブラジル、利益を追った移民会社、そして生きるために海を渡った家族たちの複雑な歴史を見つめることです。

上塚周平の物語は、日本史を日本列島の中だけで考えるのではなく、ブラジルの大地へ広がった日本人の歴史として見直す入口になります。

参考文献・参考サイト

  1. 国立国会図書館「近代日本人の肖像 上塚周平」
  2. 国立国会図書館「ブラジル移民の100年」
  3. 国立国会図書館「コラム『笠戸丸』」
  4. 国立国会図書館「第2章 ブラジル移民の開始から初期の移民まで(2)」
  5. 国立国会図書館「上塚周平からの航海の状況の速報」
  6. 外務省外交史料館「III 笠戸丸と初期移民」
  7. 外務省外交史料館「V 移民社会の発展」
  8. 外務省「ブラジル基礎データ」
  9. 外務省「海外日系人数推計」
  10. 熊本市塚原歴史民俗資料館「03 移民の父 上塚周平」
  11. サンパウロ人文科学研究所(CENB)「上塚周平」
  12. Bunkyo「Museu da Imigração Japonesa」
  13. JICA横浜 海外移住資料館「海外移住資料館について」
  14. Promissão市「Rota da Imigração Japonesa em Promissão」