インドネシア独立に加わった日本人たち|市来龍夫・吉住留五郎と戦後アジアの複雑な記憶

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東京・港区の青松寺には、インドネシア初代大統領スカルノの言葉を刻んだ「故市来・吉住両君の記念碑」があります。

正面の碑文は、市来龍夫と吉住留五郎に向けて「独立は一民族のものならず、全人類のものなり」と記します。2人は戦前からオランダ領東インドで暮らし、日本の敗戦後はインドネシア独立軍に加わりました。吉住は1948年に病死し、市来は1949年に戦死しています。

2人の行動を理解するには、オランダ植民地支配、日本軍政、1945年8月17日の独立宣言、オランダとの独立戦争を分けて見る必要があります。インドネシア独立の主体はインドネシアの人々であり、市来と吉住はその闘争に参加した日本人でした。

30秒で分かる結論

  • 市来龍夫は1906年に熊本県、吉住留五郎は1911年に山形県で生まれ、戦前にオランダ領東インドへ渡りました。
  • 2人はバタビアの日蘭商業新聞社で働き、現地の民族運動や日本人のアジア主義者の人脈と接点を持ちました。
  • 日本軍政期、市来は陸軍第16軍の宣伝班員、吉住は海軍関係の嘱託として活動しました。
  • 吉住は1945年8月16日夜、前田精海軍少将の部下として独立宣言文の起草が行われた公邸に同席しました。宣言文をまとめた中心人物はスカルノ、ハッタ、アフマド・スバルジョです。
  • 独立戦争期、東部ジャワの日本人部隊・特別ゲリラ隊(PGI)で、吉住が隊長、市来が副隊長を務めました。
  • インドネシアに残った日本人の動機は、独立への共鳴、現地での生活、帰国後の不安、処罰への恐れ、勧誘や強制など多様でした。
  • 日本軍政は独立につながる軍事・行政経験を生む一方、労務動員、食料供出、飢餓、弾圧をもたらしました。

市来龍夫・吉住留五郎の人物早見表

項目 市来龍夫 吉住留五郎
生年・出身 1906年、熊本県 1911年、山形県
インドネシア名 アブドゥル・ラフマン アリフ
戦前の活動 日蘭商業新聞の記者、現地民族運動との交流 日蘭商業新聞の記者、市来と旧知の関係
日本軍政期 陸軍第16軍宣伝班員 海軍関係の嘱託、前田精少将の周辺で活動
独立戦争期 PGI副隊長、のち隊長 PGI隊長
最期 1949年1月、東部ジャワで戦死 1948年、東部ジャワで病死

インドネシア独立戦争までの流れ

オランダ領東インドから日本軍政へ

現在のインドネシアにあたる地域は、長くオランダ領東インドとして植民地支配を受けました。民族運動は20世紀初頭から組織化され、スカルノやモハマド・ハッタらは日本軍の到来以前から独立を目指して活動していました。

1942年3月、日本軍がオランダ領東インドを占領します。日本にとってインドネシアは石油、ゴム、食料などを確保する重要地域であり、軍政は戦争遂行を優先しました。

その一方、オランダ人を中心とする植民地統治機構が崩れ、インドネシア語の公的使用、行政へのインドネシア人登用、青年組織や軍事組織の編成が進みました。1943年にはジャワ防衛義勇軍(PETA)が組織され、独立後の国軍を担う人材の一部が軍事経験を得ます。ただし、PETAは日本軍の占領地防衛を目的として作られた組織であり、1945年2月には東部ジャワのブリタルで反日蜂起も起きました。

1945年8月17日の独立宣言

日本の敗戦が伝えられた後、独立を急ぐ青年層と、政治的手続きを重視するスカルノ、ハッタらの間で緊張が高まりました。1945年8月16日夜から17日未明にかけて、ジャカルタの前田精海軍少将公邸で独立宣言文が起草されます。

翌17日午前10時、スカルノとハッタはスカルノ邸で独立を宣言しました。これは日本政府の命令による独立ではなく、インドネシア人指導者が日本の降伏によって生じた政治状況を捉えて実行した宣言です。

宣言から主権移譲まで4年以上を要した

1945年9月以降、連合国を代表するイギリス軍が進駐し、その後ろでオランダが植民地支配の回復を図りました。共和国側では正規軍、民兵、青年組織などが各地で戦い、外交交渉も続きます。

1947年と1948年にはオランダ軍が大規模な軍事攻勢を行い、1948年12月には共和国の首都ジョクジャカルタを占領してスカルノとハッタを拘束しました。共和国軍はゲリラ戦を続け、国際的な圧力も強まります。

1949年のハーグ円卓会議を経て、同年12月にオランダからインドネシア連邦共和国へ主権が移譲されました。1950年8月、連邦制を解消して現在につながる単一共和国となります。1945年8月17日は独立宣言の日、1949年12月は主権移譲の日として区別できます。

インドネシア独立戦争の年表

出来事 市来・吉住との関係
1942年 日本軍がオランダ領東インドを占領 市来は陸軍宣伝班、吉住は海軍関係の活動に加わる
1943年 ジャワ防衛義勇軍(PETA)が組織される 日本軍政下でインドネシア人の軍事経験が広がる
1945年8月 日本の敗戦、独立宣言 吉住が前田公邸での宣言文起草の場に同席する
1945~1947年 イギリス軍進駐、オランダ軍との戦闘が拡大 2人はインドネシア側に加わり、軍事教育や戦闘に関わる
1948年 停戦と国軍再編、オランダの第2次軍事攻勢 PGIが活動し、隊長の吉住が病死する
1949年1月 共和国軍がゲリラ戦を継続 PGIを率いた市来が東部ジャワで戦死する
1949年12月 オランダが主権を移譲 2人は最終的な主権移譲を見届ける前に亡くなる
1958年 日本とインドネシアの国交樹立 スカルノの言葉を刻んだ記念碑が東京・青松寺に建つ

「残留日本兵」「残留日本人」とは誰か

日本国際問題研究所に掲載された林英一の研究によると、インドネシアに残った人のうち、個人名が判明している日本人は903人です。大半は日本軍の若い下級兵士でしたが、将校、軍属、民間人、朝鮮人・台湾人の日本兵も含まれます。このため、研究では「残留日本兵」と「残留日本人」の両方の語が使われています。

残留の理由には複数の事情が重なりました。独立運動への共鳴、現地の言葉や生活への適応、結婚や人間関係、日本へ戻った後の生活不安、敗戦への反発、軍紀違反や戦争犯罪で処罰される恐れが重なりました。インドネシア側から勧誘された例、武器や技術を求める勢力に拘束された例も確認されています。

「約1,000人の日本兵が全員、自ら独立の理想に殉じた」という説明は、個々の事情を均一化します。市来や吉住の思想と行動を、ほかの残留者全体の動機として一般化するのは不適切です。

インドネシア側はなぜ日本人を必要としたのか

独立直後の共和国は、武器、弾薬、軍事教育、組織運営の経験が不足していました。日本軍が残した兵器を確保し、修理や改造ができる人材を得ることは、オランダ軍に対抗するうえで切実な課題でした。

残留日本人は、武器の整備、青年への軍事訓練、遊撃戦の指導、前線での戦闘などに関わりました。日本軍の元兵士だから一律に歓迎されたわけではなく、共和国軍の正規化や停戦交渉が進むと、所属が曖昧な外国人部隊は整理の対象にもなりました。この制度上の不安定さが、東部ジャワでPGIが作られた背景の一つです。

市来龍夫とは何者か

熊本からオランダ領東インドへ

市来龍夫は1906年、熊本県に生まれました。昭和初期にオランダ領東インドへ渡り、パレンバン、バンドン、バタビアなどで生活しながらインドネシア語を学びました。のちに日蘭商業新聞の記者となり、インドネシア人の民族主義者や現地社会との関係を深めます。

2025年に刊行された後藤乾一『火の海の墓標』は、市来が当初、日本人としての優越意識を抱きながら渡航し、植民地社会の底辺で暮らすうちにインドネシア民族運動へ共感を強めた過程を描いています。市来は単純な反植民地主義者として出発した人物ではなく、帝国日本の「南進」と現地での生活経験の間で考えを変えていった人物です。

日本軍政への期待と失望

日本軍の占領後、市来は陸軍第16軍の宣伝班員となりました。彼は日本がインドネシア独立を支えることを期待しましたが、軍政の中心が資源獲得と戦争遂行に置かれている現実に直面します。

日本政府が将来の独立を認める方針へ動いたのは戦局が悪化した後で、占領初期の政策は即時独立より資源確保と戦争遂行を優先していました。市来の経歴には、日本の国策に参加しながら、その政策との距離を広げていく過程がありました。

アブドゥル・ラフマンとして独立軍へ

敗戦後、市来はアブドゥル・ラフマンの名を用い、インドネシア側に加わりました。残留日本兵・小野盛の陣中日誌によると、市来は小野と遊撃戦の参考書を作り、共和国軍の部隊教育に取り組み、その後は前線で戦闘指導を行いました。

PGIでは当初、副隊長を務めました。吉住の死後に部隊を率い、1949年1月、東部ジャワのスメル山南麓でオランダ軍との戦闘中に死亡しました。主権移譲の約11か月前でした。

吉住留五郎とは何者か

市来と同じ新聞社で働いた旧知の仲

吉住留五郎は1911年、山形県に生まれました。オランダ領東インドへ渡り、日蘭商業新聞の記者として働いた時期に市来と知り合います。2人は国家主義団体・愛国社の岩田愛之助につながる人脈にも属していました。

日本軍政期の吉住は海軍関係の嘱託として活動し、前田精海軍少将の周辺でインドネシア民族運動の関係者と接触しました。インドネシア名はアリフです。

独立宣言文が起草された夜に同席した

1945年8月16日夜、スカルノとハッタらは前田精少将の公邸へ入り、独立宣言文をまとめました。インドネシア政府の公式サイトは、前田が部下の西嶋重忠、吉住留五郎らに会議への付き添いを指示したと説明しています。

吉住の役割は、宣言文の作者としてではなく、前田の部下として場を支えたことにあります。草案を書いたのはスカルノで、ハッタとアフマド・スバルジョが文案を協議しました。吉住の同席と、インドネシア人指導者による決断・起草は区別が必要です。

PGI隊長となり、1948年に病死

独立戦争が続く中、吉住はアリフの名で東部ジャワの部隊に加わり、PGIの隊長となりました。長期の戦闘生活の中で体調を崩し、1948年に東部ジャワで病死しました。

吉住の死後、PGIでは内紛と分裂が起き、市来が部隊を率いる立場へ移りました。個人の信念だけで部隊が動いていたのではなく、停戦、共和国軍の再編、指揮系統、地域部隊との関係が活動を左右していました。

特別ゲリラ隊(PGI)はどのような部隊だったのか

PGIはPasukan Gerilya Istimewa、特別ゲリラ隊の略称です。日本国際問題研究所の林英一論考では、東部ジャワの第1師団第2旅団長R・スラフマッド中佐の下に置かれ、周辺に散在していた残留日本兵およそ30人が参加したとされています。

隊長は吉住留五郎、副隊長は市来龍夫でした。PGIは日本人だけで構成された特殊な部隊であり、停戦中にオランダ軍の前線基地を攻撃して停戦体制を崩そうとする行動も取りました。共和国政府が外交交渉を進める一方、現地部隊には戦闘継続を求める勢力があり、PGIはその緊張の中で活動しました。

吉住の病死後、部隊は分裂します。市来の戦死後は杉山長幹が指揮を引き継ぎ、第4旅団傘下のPUS18へ再編されました。1949年2月の戦闘については、残されたインドネシア語の戦闘詳報から部隊の活動が確認されています。

PGIを「スカルノ直属の日本人部隊」と単純に呼ぶと、実際の指揮系統を誤ります。東部ジャワの共和国軍組織の中に置かれ、地域の指揮官や部隊再編の影響を受けた部隊でした。

青松寺のスカルノ碑は何を伝えるのか

1958年1月20日、日本とインドネシアは平和条約に署名し、国交を樹立しました。その年、東京・青松寺に「故市来・吉住両君の記念碑」が建立されます。

正面にはスカルノ自筆の言葉として、次の碑文が刻まれています。

市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり
一九五八年二月十五日 東京にて スカルノ

裏面には、2人の出身、生年、ジャワへの渡航、新聞記者としての活動、独立軍への参加、死亡地が記されています。碑は独立戦争中に建てられたものではなく、戦後の日インドネシア国交樹立と、関係者による顕彰の中で成立しました。

碑文は2人への敬意を示す史料であり、インドネシア社会全体の評価とは区別が必要です。国家間の友好、スカルノの政治的メッセージ、関係者の記憶が重なった記念碑として読む必要があります。

日本軍政はインドネシア独立を助けたのか

答えは、独立に利用された制度と、占領による被害を同時に見ることです。

独立につながった要素として、オランダ植民地統治の崩壊、インドネシア語の普及、行政経験、PETAなどでの軍事訓練、民族主義者が大衆を組織する機会が挙げられます。日本軍が残した武器も独立戦争で使われました。

一方、日本軍政の目的は日本の戦争遂行でした。食料や物資の供出、ロームシャと呼ばれた労務動員、移送先での過酷な労働、飢餓、軍や憲兵による弾圧が多くの人々を苦しめました。日本軍政への抵抗も各地で起きています。

インドネシア民族運動は日本軍政以前から続いていました。独立宣言はスカルノ、ハッタらインドネシア人が実行し、独立戦争の圧倒的多数を戦ったのもインドネシアの人々です。日本軍政が生んだ条件の一部が独立に転用されたことと、日本が独立を実現したという主張は別です。

国家の政策と個人の行動が一致しない構図は、ベトナム独立運動家を支えた浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの関係にも見られます。また、植民地統治下の功績と支配構造を併せて考える例として、台湾の八田與一と嘉南大圳があります。

2人を美談だけで語れない理由

市来と吉住はインドネシア独立軍に参加し、命を落としました。その事実は、日本軍政による占領と同時に存在します。個人の行動への評価と、帝国日本の政策への評価は別の問題です。

市来は日本軍政に参加した後、その政策に失望し、敗戦後にインドネシア側へ移りました。吉住も海軍関係者として軍政の内部にいながら、独立宣言文起草の場に同席し、のちに独立軍へ参加しました。2人の生涯には、協力と離反、帝国への参加と脱植民地化への参加が連続しています。

戦後に一人の日本人が敵国との和解の象徴になった藤田信雄とブルッキングズの物語と同じく、市来と吉住の記憶も、戦時中の立場だけでは捉えきれないものです。海外に残る日本人の記憶を比較する場合は、海外で語り継がれる日本人たちも参照できます。

なぜ日本で広く知られてこなかったのか

日本の戦後史では、空襲、原爆、敗戦、復員、占領、復興が中心的に語られてきました。東南アジアで日本軍の解体後に起きた脱植民地化と、現地へ残った日本人の行動は、その枠外に置かれやすいテーマでした。

さらに、市来と吉住は「日本がアジアを解放した」という物語と、「日本人は全員が帰国した」という物語の外に位置します。インドネシア側でも、独立を成し遂げた国民の物語が中心となり、外国人部隊の細部は地域史や関係者の記憶に残る形になりました。

残留日本人の活動は長く回想や証言に依存していました。2004年に研究者の林英一が小野盛の陣中日誌を発掘し、独立戦争中の行動を一次資料から検証できる範囲が広がりました。現在の研究は、美談と否定の二択ではなく、個別の動機、軍組織、地域社会、史料を照合する方向へ進んでいます。

ゆかりの場所と資料

東京・青松寺

青松寺の境内には、市来・吉住の記念碑があります。碑文と裏面の顕彰文は、1958年当時に2人がどのように記憶されたかを示す史料です。寺院の境内にあるため、見学時は参拝者や法要への配慮が必要です。

ジャカルタ・独立宣言文起草博物館

前田精少将の旧公邸は、現在、独立宣言文起草博物館として公開されています。スカルノ、ハッタ、スバルジョが宣言文を協議した場所で、吉住が同席した1945年8月16日夜の状況をたどれます。

東部ジャワ

PGIが活動した地域は東部ジャワです。吉住が亡くなったセゴン周辺、市来が戦死したスメル山南麓、後継部隊が活動した地域を追うには、林英一の研究書と現地史料が重要です。

英雄墓地と残留日本人研究

ジャカルタのカリバタ英雄墓地には残留日本兵28人の墓標があります。ただし、市来・吉住を含むすべての残留日本人が同墓地に葬られているわけではなく、地方の英雄墓地や一般墓地に眠る人もいます。墓地の所在と国家的顕彰の有無は個人ごとに確認が必要です。

よくある質問

日本人がインドネシア独立を実現したのですか?

独立を実現した主体はインドネシアの人々です。日本軍政によって生まれた軍事・行政経験や残された武器が独立戦争に利用され、市来・吉住ら一部の日本人も参加しました。

吉住留五郎は独立宣言文を書いたのですか?

吉住は前田精少将の部下として起草の場に同席しました。草案を書いたスカルノと、文案を協議したハッタ、アフマド・スバルジョが起草の中心です。

残留日本兵は何人いましたか?

林英一の研究では、個人名が判明しているインドネシア残留日本兵・残留日本人は903人です。資料では約1,000人と概括されることもあります。

全員が自ら進んで独立戦争に加わったのですか?

動機は多様です。独立への共鳴だけでなく、現地での家族や生活、帰国後の不安、処罰への恐れ、勧誘、拘束などがありました。戦闘参加の形や期間も人によって異なります。

市来と吉住はインドネシアの国家英雄ですか?

2人はスカルノの碑や残留日本人研究を通じて顕彰されています。一方、インドネシア全土で同じ知名度を持つ人物ではなく、国家英雄という法的称号の有無、墓地、勲章、地域の記憶は分けて確認する必要があります。

青松寺の碑はスカルノ本人が建てたのですか?

碑にはスカルノ自筆の言葉が刻まれています。建立は1958年、国交樹立後に2人を知る関係者によって進められました。スカルノの揮毫と、実際の建立作業を区別すると経緯が明確です。

まとめ

市来龍夫と吉住留五郎は、戦前のオランダ領東インドで新聞記者として活動し、日本軍政に関わった後、敗戦後はインドネシア独立軍へ加わりました。吉住は独立宣言文が起草された前田邸に同席し、のちにPGI隊長となります。市来は部隊教育とゲリラ戦に関わり、吉住の死後にPGIを率いました。

2人はインドネシア独立の主役ではなく、インドネシア人が進めた独立革命に参加した外国人です。その行動は、日本軍政の占領と被害、反植民地主義への共鳴、戦後の個人的選択が交差する場所にあります。

青松寺の碑は、2人を英雄として称える言葉を現在へ伝えます。研究史は、その顕彰を尊重しながら、残留日本人の多様な動機、PGIの指揮系統、日本軍政の実態、インドネシア側の主体性を具体的な史料から明らかにしています。

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植民地化以前のシュリーヴィジャヤ、ジャワ諸王国、マジャパヒトまで含む長期的背景は、東南アジア王国史|アンコール、アユタヤ、シュリーヴィジャヤ、マジャパヒトから見る海と森の文明を参照してください。

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参考資料

  1. 外務省「インドネシア基礎データ」
  2. 林英一「インドネシアの英雄墓地に眠る残留日本兵の話」日本国際問題研究所、2023年
  3. Indonesia.go.id, “Malam Proklamasi Kemerdekaan Indonesia di Rumah Laksamana Maeda”
  4. インドネシア国家官房「Membuka Catatan Sejarah: Detik-Detik Proklamasi, 17 Agustus 1945」
  5. 後藤乾一『火の海の墓標―草莽のアジア主義者・市来龍夫とインドネシア』めこん、2025年
  6. 林英一『残留日本兵の真実――インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録』作品社、2007年
  7. 林英一『東部ジャワの日本人部隊――インドネシア残留日本兵を率いた三人の男』作品社、2009年
  8. 林英一『残留日本兵――アジアに生きた一万人の戦後』中央公論新社、2012年
  9. 小野盛著、林英一編・解説『インドネシア残留日本兵の社会史――ラフマット・小野盛自叙伝』龍溪書舎、2010年
  10. 国立国会図書館リサーチ・ナビ「Indonesian imprints(日本占領期インドネシア刊行資料)」