東京・港区の青松寺には、インドネシア初代大統領スカルノが、市来龍夫と吉住留五郎という2人の日本人に寄せた言葉を刻んだ碑があると伝えられています。
なぜ、インドネシアの独立を宣言したスカルノが、日本人2人を記憶したのでしょうか。その答えは、オランダ植民地支配、日本軍政、1945年8月17日の独立宣言、そして1949年まで続いた独立戦争の中にあります。
ただし、この物語は「日本人の美談」としてだけ読むと、かえって見えなくなるものがあります。インドネシア独立の主体は、あくまでスカルノ、ハッタをはじめとするインドネシアの人々でした。一方で、日本の敗戦後に帰国せず、インドネシア側に身を投じた日本人がいたことも事実です。
この記事は「日本人が知らない、海外で語り継がれる日本人」シリーズの一つです。日本国内ではあまり知られていないものの、海外の地域史・移民史・医療史・文化交流史の中で記憶されている日本人や日系社会の足跡を紹介しています。
30秒で分かる結論
- インドネシアは長くオランダ領東インドとして支配され、1942年から1945年までは日本軍政下に置かれました。
- 日本の敗戦直後の1945年8月17日、スカルノとハッタがインドネシア独立を宣言しました。
- その後、再支配をめざすオランダとの間で独立戦争が起こり、1949年にオランダが独立を承認しました。
- この混乱の中で、復員せずインドネシア側に加わった日本人がいました。市来龍夫と吉住留五郎は、その象徴的存在として語られています。
- ただし、残留日本兵の動機は一様ではありません。理想、現地への愛着、帰国困難、恐怖、強制的事情などが入り混じっていました。
- 市来・吉住の物語は、単純な友好美談でも、単純な断罪でもありません。植民地支配、戦争、独立、記憶の政治が交差する歴史です。
まずインドネシア独立戦争とは何か
市来龍夫と吉住留五郎の話に入る前に、舞台となったインドネシア独立戦争を整理しておきましょう。現在のインドネシアは、多数の島々、言語、文化からなる大きな国です。その広い地域が近代に「オランダ領東インド」として支配されていたことが、この物語の出発点です。
1942年、日本軍はオランダ領東インドを占領しました。これはインドネシアの人々に自由を与えるためではなく、日本の戦争遂行に必要な資源と拠点を確保するためでした。
しかし日本軍政は、オランダ支配を崩し、インドネシア人の軍事・政治経験を広げる一面も持ちました。1945年8月15日に日本が降伏すると、権力の空白が生まれ、8月17日にスカルノとハッタが独立を宣言します。その後、再支配をめざすオランダとの間で独立戦争が続きました。
「残留日本兵」とは誰だったのか
残留日本兵とは、敗戦後に日本へ復員せず、現地に残った日本人兵士や関係者を指す言葉です。ただし、その実態は一つではありません。インドネシア独立を支持して自ら残った人もいれば、帰国困難、現地での生活、人間関係、処罰への恐れなど、複数の事情を抱えた人もいました。
この複雑さは、戦後に現地で記憶される日本人を考えるうえで重要です。医療協力の現場で名前を残したネパールの赤ひげ・岩村昇や、植民地支配下の朝鮮で文化と人々を敬った韓国に眠る日本人・浅川巧とは異なり、市来・吉住の記憶は戦争と独立のただ中にあります。
市来龍夫とは何者か
市来龍夫は、戦前からオランダ領東インドと関わり、日本語新聞や現地社会との接点を持った人物として知られています。戦後はインドネシア側に加わり、東部ジャワの独立戦争に関わったとされます。
市来の人生を読むときには、彼を「インドネシア独立の英雄」と単純に称えるのではなく、戦前日本の南方進出、アジア主義、新聞・情報活動、現地民族運動との接点を重ねて見る必要があります。
吉住留五郎とは何者か
吉住留五郎もまた、戦前からインドネシアに関わった人物として語られています。独立戦争期には東部ジャワで活動し、特別ゲリラ隊(PGI)に関わったとされます。
吉住の行動も、市来と同じく、理想だけで説明できるものではありません。個人の信念、現地社会との関係、日本軍政の記憶、独立戦争の混乱が絡み合っています。
市来と吉住はどこでつながったのか
市来龍夫と吉住留五郎は、突然インドネシア独立戦争の場に現れたわけではありません。2人の背景には、戦前からの日本人ネットワークがありました。バタビアの日蘭商業新聞社、現地の日本人社会、南方に関心を持った人脈、新聞、商業、情報活動、政治思想が絡み合っていました。
彼らに共通するのは、インドネシアを「任地」や「占領地」としてだけで見ていなかった点です。一方で、その関わりは純粋な国際交流だけでもありません。個人の友情や理想と、帝国日本の拡張が交差する場所に、市来と吉住の物語があります。
特別ゲリラ隊(PGI)と東部ジャワの戦い
市来龍夫と吉住留五郎を語るうえで重要なのが、東部ジャワで組織された特別ゲリラ隊(PGI)です。PGIは、インドネシア語の Pasukan Gerilya Istimewa の略称とされます。
PGIの物語は、整った軍記ではありません。戦争の終わりから独立戦争へと移る混乱の中で、帰る場所を失った人々、戦い続ける人々、国家建設の中で整理されていく人々がいたという話です。
この「戦争の後に何が残るのか」という問いは、のちに敵機搭乗員から和解の象徴となった藤田信雄とブルッキングズの物語にも通じます。
スカルノはなぜ2人を記憶したのか
市来龍夫と吉住留五郎の名前が現在も語られる大きな理由の一つが、東京・青松寺のスカルノ碑です。碑に刻まれた言葉は、2人を単なる「日本人」としてではなく、インドネシア独立という理念に関わった存在として記憶しようとしたものと考えられます。
ただし、それをもって、インドネシア社会全体が同じ温度で2人を記憶しているとまでは言えません。歴史の記憶には、国家、地域、研究者、遺族、メディア、訪問者によって濃淡があります。
日本軍政はインドネシア独立を助けたのか
この問いは、とても慎重に扱う必要があります。答えを一文で言うなら、「一部の制度や経験は独立後に影響したが、独立を与えた主体は日本ではない」ということです。
インドネシア民族運動は日本軍政以前から存在していました。スカルノやハッタは、日本軍が来て初めて政治家になったわけではありません。一方で、日本軍政がオランダ支配を崩し、独立後につながる経験を生んだ面もあります。
同時に、労務動員、物資不足、飢餓、弾圧、暴力など、日本軍政下の苦難を忘れることはできません。市来龍夫と吉住留五郎の物語は、この三つの視点──インドネシア人の独立運動、オランダ植民地支配、日本軍政と残留日本兵──が交差する場所にあります。
なぜ日本ではあまり知られていないのか
市来龍夫と吉住留五郎の物語は、日本では広く知られているとは言えません。理由の一つは、日本の戦後記憶の中心が、敗戦、空襲、原爆、復員、占領、戦後復興に置かれてきたことです。
もう一つの理由は、このテーマが語りにくいからです。美談として語りすぎると、日本軍政の加害性やインドネシア人自身の独立運動が見えなくなります。逆に、占領の暴力だけに焦点を当てると、戦後に現地へ残り、インドネシア側に加わった個人の選択が見えにくくなります。
現地で見られる場所・資料
東京・港区の青松寺に伝わるスカルノ碑は、日本とインドネシアの記憶が交差する場所です。また、インドネシア側の英雄墓地、現地メディアの記事、残留日本兵研究なども、市来・吉住をたどる手がかりになります。
よくある誤解
日本人がインドネシア独立を実現したのですか?
違います。独立の主体はインドネシアの人々です。市来・吉住を含む残留日本兵は、その大きな流れの中に関わった存在として理解する必要があります。
市来龍夫と吉住留五郎はインドネシア中で誰もが知る人物ですか?
そこまでは言い切れません。現地で記憶されていることと、全国的な知名度があることは分けて考える必要があります。
このシリーズはどのような記事ですか?
「日本人が知らない、海外で語り継がれる日本人」シリーズでは、日本国内ではあまり知られていないものの、海外の地域史・移民史・医療史・文化交流史の中で記憶されている日本人や日系社会の足跡を紹介しています。
まとめ
市来龍夫と吉住留五郎は、インドネシア独立戦争に関わった日本人として、スカルノの言葉、現地メディア、研究、記念碑の中で語られてきました。
しかし、彼らの物語を読むときには、インドネシア独立の主体がインドネシアの人々であったことを忘れてはいけません。また、日本軍政が占領であり、多くの苦難をもたらしたことも消してはいけません。
2人の人生は、戦争が終わった後も続いたアジアの独立と記憶の物語です。
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参考資料
- 外務省「インドネシア基礎データ」
- 林英一「インドネシアの英雄墓地に眠る残留日本兵の話」日本国際問題研究所
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