インドネシア独立に加わった日本人たち|市来龍夫・吉住留五郎と戦後アジアの複雑な記憶

東京・港区の青松寺には、インドネシア初代大統領スカルノが、市来龍夫と吉住留五郎という2人の日本人に寄せた言葉を刻んだ碑があると伝えられています。

なぜ、インドネシアの独立を宣言したスカルノが、日本人2人を記憶したのでしょうか。

その答えは、オランダ植民地支配、日本軍政、1945年8月17日の独立宣言、そして1949年まで続いた独立戦争の中にあります。

ただし、この物語は「日本人の美談」としてだけ読むと、かえって見えなくなるものがあります。インドネシア独立の主体は、あくまでスカルノ、ハッタをはじめとするインドネシアの人々でした。一方で、日本の敗戦後に帰国せず、インドネシア側に身を投じた日本人がいたことも事実です。

この記事では、「世界で記憶される日本人」シリーズの第2弾として、市来龍夫・吉住留五郎を軸に、戦後アジアの複雑な記憶を初心者向けにたどります。

30秒で分かる結論

  • インドネシアは長くオランダ領東インドとして支配され、1942年から1945年までは日本軍政下に置かれました。
  • 日本の敗戦直後の1945年8月17日、スカルノとハッタがインドネシア独立を宣言しました。
  • その後、再支配をめざすオランダとの間で独立戦争が起こり、1949年にオランダが独立を承認しました。
  • この混乱の中で、復員せずインドネシア側に加わった日本人がいました。市来龍夫と吉住留五郎は、その象徴的存在として語られています。
  • ただし、残留日本兵の動機は一様ではありません。理想、現地への愛着、帰国困難、恐怖、強制的事情などが入り混じっていました。
  • 日本軍政には、オランダ支配を崩し、軍事・政治経験を生んだ面がありました。一方で、労務動員、物資不足、暴力、抑圧などの苦難もありました。
  • 市来・吉住の物語は、単純な友好美談でも、単純な断罪でもありません。植民地支配、戦争、独立、記憶の政治が交差する歴史です。

まずインドネシア独立戦争とは何か

市来龍夫と吉住留五郎の話に入る前に、舞台となったインドネシア独立戦争を整理しておきましょう。

現在のインドネシアは、1万を超える島々からなる大きな国です。ジャワ、スマトラ、カリマンタン、スラウェシ、パプアなど、地域ごとに言語も文化も異なります。その広い島々が近代に「オランダ領東インド」として支配されていたことが、この物語の出発点です。

外務省のインドネシア基礎データによれば、1596年にオランダ商船隊が西部ジャワのバンテン港へ来航し、1602年にオランダ東インド会社が設立されました。1799年に東インド会社が解散された後、オランダはインドネシアを直接統治下に置きました。

出来事 この物語での意味
1596年 オランダ商船隊がバンテンへ来航 ヨーロッパ勢力が香辛料交易を通じて関与を深める
1602年 オランダ東インド会社設立 交易会社が政治・軍事的支配力を持つようになる
1799年 オランダが直接統治へ オランダ領東インドとしての植民地支配が固定化する
1942年 日本軍がオランダ領東インドを占領 オランダ支配が崩れ、日本軍政が始まる
1945年8月15日 日本が降伏 日本軍政が終わり、権力の空白が生まれる
1945年8月17日 スカルノとハッタが独立を宣言 インドネシア共和国の出発点となる
1945〜1949年 インドネシア独立戦争 共和国側とオランダ側の軍事・外交の争いが続く
1949年 オランダが独立を承認 長い植民地支配が国際的に終わる

1942年、日本軍はオランダ領東インドを占領しました。これはインドネシアの人々に自由を与えるためではなく、日本の戦争遂行に必要な資源と拠点を確保するためでした。

それでも、日本軍の進出によってオランダの植民地支配機構がいったん崩れたことは、インドネシア独立史に大きな転換をもたらしました。日本軍政下では、スカルノやハッタら民族運動の指導者が一定の政治的役割を与えられ、インドネシア語の使用や軍事訓練の機会も広がりました。

しかし同時に、日本軍政は占領でした。労務動員、物資の徴発、食糧不足、弾圧、暴力の記憶が残りました。ここを曖昧にすると、インドネシア独立の歴史は急に平板な話になってしまいます。

日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノとハッタはインドネシアの独立を宣言しました。しかし、独立宣言を出したからといって、すぐに世界が認めたわけではありません。オランダは再び支配を回復しようとし、インドネシア側はそれに抵抗しました。

ライデン大学の資料は、1945年8月17日の独立宣言から1949年12月27日の主権移譲まで、4年以上にわたる交渉と戦闘が続いたと説明しています。米国務省の歴史文書も、日本降伏後にイギリス軍が到着した時点で、ジャワ島では共和国がすでに根を下ろしていたと記しています。

この「日本軍政が終わった後の空白」と「オランダの再支配をめぐる戦い」の中に、帰国しない日本人たちが現れました。

「残留日本兵」とは誰だったのか

「残留日本兵」という言葉だけを聞くと、同じ目的を持った一つの集団のように見えるかもしれません。しかし実際には、その背景はかなり複雑でした。

日本国際問題研究所に掲載された林英一氏の論考によれば、インドネシア残留日本兵のうち個人名まで判明している人は903人とされています。その多くは、1942年3月から約3年半続いた日本軍のオランダ領東インド占領のために動員された若い下級兵士でした。

彼らが日本へ復員しなかった理由は、一つではありません。林氏は、自発的な参加だけでなく、現地の言葉や土地勘、戦犯になることへの恐れ、軍隊生活への嫌気、帰国後の生活不安、流言飛語、インドネシア側による拉致・監禁など、さまざまな事情を挙げています。

つまり、残留日本兵を「全員が理想に燃えて独立のために戦った人々」と見るのは正確ではありません。もちろん、インドネシア独立に強く共感した人もいました。現地社会と深く結びついた人もいました。しかし、戦争直後の混乱の中で、選択肢が狭まり、流れに押されるように残った人もいたのです。

一方、インドネシア側にも切実な事情がありました。共和国は独立を宣言したばかりで、国家の軍隊も行政もまだ固まりきっていません。そこへオランダの再支配が迫ってきます。日本軍が残した兵器、軍事技術、訓練経験を持つ人材は、共和国側にとって無視できない存在でした。

ジャカルタのカリバタ英雄墓地には、残留日本兵の墓標もあります。林氏の論考では、同墓地には残留日本兵28人の墓標があると紹介されています。これは、彼らがインドネシア独立戦争の記憶の中で、一定の位置を与えられてきたことを示しています。

ただし、「墓地にある」「研究や記念碑で語られる」ということと、「誰もが知る国民的な象徴である」ということは同じではありません。市来龍夫と吉住留五郎も、インドネシア独立史、歴史メディア、残留日本兵研究、記念碑の文脈で語られる人物として理解するのがよいでしょう。

市来龍夫とは何者か

市来龍夫は、戦前からオランダ領東インドに関わった日本人として語られる人物です。インドネシア側の資料では、Ichiki Tatsuo、またはAbdul Rachmanという名で紹介されることがあります。

市来の経歴には、新聞、言論活動、インドネシア民族運動との接点、アジア主義的な思想が重なっています。ここでいうアジア主義とは、欧米の植民地支配に対してアジアの連帯を唱える考え方です。ただし、この思想はきれいな理念だけでなく、日本の南方進出や軍事行動と結びついて使われることもありました。市来の行動も、この明るさと危うさの両方を持つ文脈の中で見なければなりません。

日本国際問題研究所の林英一氏の論考では、市来はジョクジャカルタで残留日本兵の小野盛と出会い、遊撃戦の参考書作成やインドネシア正規軍の部隊教育に関わった人物として登場します。また、後に東部ジャワで組織された特別ゲリラ隊(PGI)では副隊長だったとされています。

市来の行動は、単に「日本軍の命令」だけでは説明しにくいものです。日本は敗戦し、軍としての命令系統も崩れていきます。その中で市来は、インドネシア側へ身を寄せました。

しかし、市来を日本軍政と切り離して、純粋な個人の理想だけで語ることもできません。市来が活動した場は、日本軍が占領した後のインドネシアであり、彼の思想や人脈も、戦前・戦中の日本の南方関与と無関係ではありません。

市来龍夫を理解するには、「理想を持った人物だったのか」という問いだけでなく、「その理想は、戦争と植民地支配の現実の中でどう働いたのか」と考える必要があります。

吉住留五郎とは何者か

吉住留五郎は、山形県出身とされ、戦前からオランダ領東インドに渡った人物として語られています。インドネシアの歴史メディアHistoriaは、吉住が1911年に生まれ、若くしてオランダ領東インドへ渡った人物として紹介しています。

吉住については、日本側・インドネシア側の資料で、諜報員、ジャーナリスト、新聞関係者、インドネシア独立運動との接点を持った人物といった複数の顔が描かれます。

Historiaの記事「Tomegoro Yoshizumi, Intel Negeri Sakura」は、吉住を「桜の国のインテリジェンス関係者」という角度から紹介しています。ただし、この種の人物像は、史料の性格によって強調点が変わります。諜報員としての顔を強調する資料もあれば、新聞人、独立運動の支援者、残留日本兵部隊の指導者として描く資料もあります。

林英一氏の論考によれば、特別ゲリラ隊(PGI)の隊長は吉住留五郎、副隊長は市来龍夫でした。2人は戦前にオランダ領東インドへ渡り、バタビアの日蘭商業新聞社で働き、愛国社の岩田愛之助の人脈に連なっていた旧知の仲だったとされています。

吉住は戦後、インドネシア側に加わり、東部ジャワで活動しました。林氏の論考では、特別ゲリラ隊の中で吉住が病死し、その後に部隊内で内紛が起きたことが説明されています。吉住の死は、残留日本兵部隊が決して安定した英雄的集団ではなく、戦場・停戦・再編の圧力の中にあったことを示しています。

吉住を語るときも、市来と同じように注意が必要です。彼はインドネシア独立戦争に関わった日本人として記憶されています。しかし、それをもって、戦時中の日本の南方政策全体を肯定することはできません。個人の選択と国家の戦争責任は、重なりながらも同じものではないからです。

市来と吉住はどこでつながったのか

市来龍夫と吉住留五郎は、突然インドネシア独立戦争の場に現れたわけではありません。

2人の背景には、戦前からの日本人ネットワークがありました。バタビアの日蘭商業新聞社、現地の日本人社会、南方に関心を持った国家主義者やアジア主義者の人脈です。そこには、新聞、商業、情報活動、政治思想が絡み合っていました。

人物 戦前からの接点 戦後の位置づけ 記憶のされ方
市来龍夫 オランダ領東インド、日本語新聞、独立運動家との接点、アジア主義的思想 インドネシア側に加わり、PGI副隊長とされる スカルノ碑、残留日本兵研究、現地歴史記事で語られる
吉住留五郎 山形県出身とされ、戦前からオランダ領東インドへ渡航。新聞・情報活動に関わったとされる インドネシア側に加わり、PGI隊長とされる。東部ジャワで活動し病死 スカルノ碑、Historia記事、PGI研究で語られる

2人に共通するのは、インドネシアを「任地」や「占領地」としてだけで見ていなかった点です。彼らは戦前から現地と関わり、言葉、人脈、思想を通じてインドネシア社会に入り込んでいました。

しかし、その関わりは純粋な国際交流だけでもありません。日本が南方へ進出していく時代、現地に渡った日本人の活動には、商業、新聞、諜報、政治運動、軍事が重なっていました。市来と吉住の物語は、個人の友情や理想と、帝国日本の拡張が交差する場所にあります。

特別ゲリラ隊(PGI)と東部ジャワの戦い

市来龍夫と吉住留五郎を語るうえで重要なのが、東部ジャワで組織された特別ゲリラ隊(PGI)です。

PGIは、インドネシア語のPasukan Gerilya Istimewaの略称とされます。直訳すれば「特別ゲリラ部隊」に近い意味です。林英一氏の論考によれば、ジャワ島東部の第1師団第2旅団長R・スラフマッド中佐の下で組織され、ジャワ島東部に散らばっていた残留日本兵およそ30人が参加しました。隊長が吉住留五郎、副隊長が市来龍夫でした。

なぜ、このような部隊が必要になったのでしょうか。

独立戦争の中で、残留日本兵はしばしば非公式な存在でした。彼らはインドネシア側に加わっていても、国家の正規制度の中にすっきり収まるわけではありません。停戦協議が進むと、前線で戦う人々と外交交渉を進める政府との間で方針の違いも生まれます。軍の再編が行われれば、所属や待遇も不安定になります。

林氏の論考では、オランダとの停戦協議中や国軍の再編合理化の中で残留日本兵たちが苦境に陥り、その閉塞状況を打開するためにPGIが結成されたと説明されています。

PGIは、停戦中にオランダ軍の前線基地を攻撃し、停戦協定の破棄を目論んだとされます。ここだけを見ると、いかにも劇的なゲリラ戦の物語に見えます。しかし、実際には部隊内の混乱もありました。吉住が病死すると内紛が生じ、分裂しました。さらに市来の戦死後、部隊は別の部隊として再編されました。

つまりPGIの物語は、整った軍記ではありません。戦争の終わりから独立戦争へと移る混乱の中で、帰る場所を失った人々、戦い続ける人々、国家建設の中で整理されていく人々がいたという話です。

市来と吉住は、その中で象徴的な位置を占めました。しかし、彼らだけが独立戦争を動かしたわけではありません。独立戦争の中心にいたのは、共和国政府、インドネシア国軍、各地の青年組織、民兵、政治家、外交官、そして戦火の中で生きた無数の住民でした。

スカルノはなぜ2人を記憶したのか

市来龍夫と吉住留五郎の名前が現在も語られる大きな理由の一つが、東京・青松寺のスカルノ碑です。

インドネシアの歴史メディアHistoriaは、1958年2月15日、スカルノが西嶋重忠に市来龍夫と吉住留五郎への追憶の文を託し、それが東京・港区の青松寺に保存されたと紹介しています。記事によれば、碑には「独立は一民族だけのものではなく、すべての人間のもの」という趣旨の言葉が刻まれています。

この言葉が示しているのは、スカルノが2人を単なる「日本人」としてではなく、インドネシア独立という理念に関わった存在として記憶しようとしたことです。

ただし、ここでも慎重さが必要です。スカルノが2人を記憶したことは重要です。しかし、それをもって、インドネシア社会全体が同じ温度で2人を記憶しているとまでは言えません。歴史の記憶には、国家、地域、研究者、遺族、メディア、訪問者によって濃淡があります。

青松寺の碑は、むしろ「日本とインドネシアの記憶が交差する場所」として見ると分かりやすいでしょう。

東京にあるこの碑は、日本人にとっては「なぜここにインドネシア独立の記憶があるのか」という入口になります。インドネシア側から見ると、独立戦争に加わった外国人の記憶を、遠い東京でたどる場所になります。

一つの碑が、二つの国の記憶をつないでいるのです。

日本軍政はインドネシア独立を助けたのか

この問いは、とても慎重に扱う必要があります。

答えを一文で言うなら、「一部の制度や経験は独立後に影響したが、独立を与えた主体は日本ではない」ということです。

まず、インドネシア民族運動は日本軍政以前から存在していました。スカルノやハッタは、日本軍が来て初めて政治家になったわけではありません。オランダ領東インドの中で、教育、新聞、政党、青年運動、イスラム組織などを通じて、民族意識と独立運動は育っていました。

次に、日本軍政の目的は、インドネシアの自由ではありませんでした。日本は石油、ゴム、米、労働力、軍事拠点を必要としていました。ケンブリッジ大学出版の研究論文も、日本軍政がインドネシアを戦争に必要な資源と労働力の供給地として見ていたことを指摘しています。

一方で、日本軍政がオランダ支配を崩し、独立後につながる経験を生んだ面もあります。たとえば、郷土防衛義勇軍(PETA)は日本軍政下のジャワとバリで編成されたインドネシア人軍事組織で、PETA出身者は後の独立闘争や国軍将校の中心になりました。

つまり、日本軍政は独立運動の条件を変えました。しかし、それは「善意の支援」とは言えません。占領者としての日本が戦争のために作った制度や動員が、敗戦後に別の意味を持つようになった、という方が近いでしょう。

さらに、日本軍政下の苦難を忘れることはできません。労務者として動員されたロームシャ、物資不足、飢餓、弾圧、暴力、軍事警察による恐怖など、多くの人々がつらい経験をしました。ロームシャに関する研究では、ジャワから他地域へ送られた強制労働者の規模や、募集がしだいに欺瞞・強制を帯びていったことが指摘されています。

ですから、この問題は次の三つを同時に見る必要があります。

視点 見落とすとどうなるか 押さえるべきこと
インドネシア人の独立運動 独立の主体が見えなくなる スカルノ、ハッタ、青年たち、地域組織、国軍、住民が中心だった
オランダ植民地支配 なぜ独立が求められたのかが見えなくなる 長い植民地支配への抵抗が背景にあった
日本軍政と残留日本兵 戦争の加害性か、個人の関与のどちらかが消える 占領の苦難と、独立戦争に加わった日本人の存在を分けて考える

市来龍夫と吉住留五郎の物語は、この三つの視点が交差する場所にあります。彼らを知ることは、日本の「功績」を探すことではありません。日本が関わった歴史が、現地でどのように記憶され、同時にどのような傷を残したのかを考えることです。

なぜ日本ではあまり知られていないのか

市来龍夫と吉住留五郎の物語は、日本では広く知られているとは言えません。

理由の一つは、日本の戦後記憶の中心が、敗戦、空襲、原爆、復員、占領、戦後復興に置かれてきたことです。もちろん、それらは日本社会にとって大きな経験でした。しかしその反面、東南アジアに残った日本人や、現地社会から見た日本軍政の記憶は、一般向けの歴史の中では周辺化されやすくなりました。

もう一つの理由は、このテーマが語りにくいからです。

美談として語りすぎると、日本軍政の加害性やインドネシア人自身の独立運動が見えなくなります。逆に、占領の暴力だけに焦点を当てると、戦後に現地へ残り、インドネシア側に加わった個人の選択が見えにくくなります。

また、残留日本兵の中にも、英雄として扱われた人、忘れられた人、無国籍状態に苦しんだ人、現地で家庭を持った人、戦後日本との関係を失った人など、さまざまな人生がありました。ひとつの言葉でまとめるには、あまりにも複雑なのです。

だからこそ、この歴史は読む価値があります。

市来龍夫と吉住留五郎は、「すごい日本人」として消費するには重すぎる人物です。彼らを通じて見えてくるのは、日本人の誇りだけではなく、日本がアジアでどう行動し、どう記憶され、どう語りにくくなったのかという問いです。

現地で見られる場所・資料

このテーマをもう少し深く知りたい人は、次の場所や資料からたどると分かりやすいです。

東京・青松寺のスカルノ碑

東京・港区の青松寺には、市来龍夫と吉住留五郎に関するスカルノの言葉を刻んだ碑があると紹介されています。実際に訪れる場合は、寺院の参拝環境や公開状況に配慮し、写真撮影や立ち入りの可否を現地の案内に従って確認してください。

ジャカルタ・カリバタ英雄墓地

南ジャカルタのカリバタ英雄墓地は、インドネシア独立戦争で命を落とした人々を追悼する重要な場所です。林英一氏の論考では、残留日本兵の墓標もあることが紹介されています。

国立国会図書館サーチ

国立国会図書館サーチには、2024年に掲載された西澤和明「インドネシア独立に貢献した二人の日本人:市来龍夫と吉住留五郎の戦い」の書誌情報があります。本文をオンラインで読めない場合でも、日本語でこのテーマが近年扱われていることを確認できます。

JIIA・林英一氏の論考

日本国際問題研究所の林英一氏「インドネシアの英雄墓地に眠る残留日本兵の話」は、残留日本兵の人数、動機の多様性、PGI、市来・吉住、英雄墓地の記憶を知るうえで重要な入口です。

インドネシア側歴史メディア Historia

Historiaの記事は、市来龍夫や吉住留五郎がインドネシア語圏でどのように紹介されているかを知る手がかりになります。ただし、記事の一部は会員向けで、すべての記述を確認できない場合があります。利用する際は、研究書や一次資料と照らし合わせる姿勢が必要です。

よくある誤解

誤解1:インドネシア独立は日本人が主導した?

違います。独立の主体はインドネシアの人々です。日本軍政がオランダ支配を崩し、後に影響する制度や経験を生んだ面はありますが、それは日本が独立を授けたという意味ではありません。

誤解2:残留日本兵は全員が同じ理想で戦った?

違います。残留の理由は多様でした。独立への共感、現地との結びつき、帰国困難、生活不安、戦犯処罰への恐れ、強制的事情などが入り混じっていました。

誤解3:市来龍夫と吉住留五郎はインドネシア中で誰もが知る人物?

そこまでは言い切れません。2人はスカルノ碑、Historiaの記事、残留日本兵研究、独立戦争の記憶の中で語られる人物です。現地で記憶されていることと、全国的な知名度があることは分けて考える必要があります。

誤解4:日本軍政は悪い面しかなかった?

それも単純化です。日本軍政は占領であり、多くの苦難をもたらしました。一方で、オランダ支配を崩し、インドネシア語や軍事経験、政治動員の場を広げた面もあります。重要なのは、どちらか一方だけで説明しないことです。

FAQ

市来龍夫と吉住留五郎は日本軍の命令で残ったのですか?

少なくとも、2人の戦後の行動を「命令だけ」で説明するのは難しいです。戦前からの現地人脈、思想、インドネシア独立運動との接点がありました。ただし、彼らの活動は日本の南方進出や軍政と無関係ではありません。

PGIとは何ですか?

PGIは、東部ジャワで残留日本兵を中心に組織された特別ゲリラ隊です。林英一氏の論考によれば、約30人の残留日本兵が参加し、隊長が吉住留五郎、副隊長が市来龍夫でした。

青松寺の碑は何を示しているのですか?

スカルノが市来龍夫と吉住留五郎を、インドネシア独立の理念に関わった存在として記憶しようとしたことを示しています。同時に、日本とインドネシアの歴史記憶が東京で交差していることも示しています。

この歴史をどう受け止めればよいですか?

「誇らしい話」としてだけ受け止めるのでも、「触れてはいけない話」として避けるのでもなく、複雑な歴史として読むことが大切です。市来と吉住の選択、インドネシア人の主体性、オランダ植民地支配、日本軍政の加害性を同時に見る必要があります。

まとめ

市来龍夫と吉住留五郎は、インドネシア独立戦争に関わった日本人として、スカルノの言葉、現地メディア、研究、記念碑の中で語られてきました。

しかし、彼らの物語を読むときには、インドネシア独立の主体がインドネシアの人々であったことを忘れてはいけません。また、日本軍政が占領であり、多くの苦難をもたらしたことも消してはいけません。

2人の人生は、戦争が終わった後も続いたアジアの独立と記憶の物語です。

「世界で記憶される日本人」を知ることは、日本人の誇りを探すだけの作業ではありません。日本が世界でどう行動し、どう記憶され、どの記憶が語られ、どの記憶が語られにくくなったのかを考える入口でもあります。

東京の一つの碑から、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、東部ジャワ、カリバタ英雄墓地へ。市来龍夫と吉住留五郎の物語は、日本とインドネシアの関係を、単純な加害と被害、単純な友好美談のどちらにも閉じ込められないことを教えてくれます。

参考資料

  1. 外務省「インドネシア基礎データ」
  2. 林英一「インドネシアの英雄墓地に眠る残留日本兵の話」日本国際問題研究所、2023年7月6日
  3. 林英一「インドネシアの英雄墓地に眠る残留日本兵の話」PDF版
  4. Historia “Kekecewaan Seorang Jepang”
  5. Historia “Tomegoro Yoshizumi, Intel Negeri Sakura”
  6. 国立国会図書館サーチ「インドネシア独立に貢献した二人の日本人:市来龍夫と吉住留五郎の戦い」
  7. Leiden University “Images Of The Indonesian War Of Independence, 1945-1949”
  8. Office of the Historian, U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, 1952–1954, Indonesia
  9. L. Sluimers, “The Japanese Military and Indonesian Independence,” Journal of Southeast Asian Studies, 1996
  10. Takuma Melber, “The Labour Recruitment of Local Inhabitants as Rōmusha in Japanese-Occupied South East Asia,” International Review of Social History, 2016
  11. コトバンク「郷土防衛義勇軍(PETA)」山川 世界史小辞典 改訂新版
  12. 林英一『残留日本兵の真実――インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録』作品社、2007年
  13. 林英一『東部ジャワの日本人部隊――インドネシア残留日本兵を率いた三人の男』作品社、2009年
  14. 小野盛著、林英一編・解説『南方軍政関係史料42 インドネシア残留日本兵の社会史――ラフマット・小野盛自叙伝』龍溪書舎、2010年