JR鶴見駅から京急・生麦駅へ向かうと、旧東海道の茶屋跡、古代から続く鶴見神社、曹洞宗大本山總持寺、江戸城へ魚を納めた生麦の漁村、そして幕末の生麦事件の現場が一本の道でつながります。数キロの散歩で、江戸の街道から幕末外交、明治の鉄道と寺院移転、戦後の木材流通までをたどれるのが鶴見の魅力です。

鶴見歴史散歩のルートと見どころ
起点はJR・京急の鶴見駅周辺、終点は京急生麦駅です。旧東海道と周辺の史跡を南へたどり、總持寺の広い境内も歩くため、ゆっくり見るなら半日ほどを見込めるコースです。
まず知っておきたい鶴見の歴史
江戸時代の鶴見村は、東海道の川崎宿と神奈川宿の間にあり、旅人が休む「間の宿」としてにぎわいました。茶屋や名物が旅人を迎え、海側の生麦村では漁業が盛んでした。生麦は、将軍家の台所へ魚介を納める特権をもった御菜八ヶ浦の一つに数えられています。
1862年には旧東海道で生麦事件が発生します。1872年に新橋―横浜間の鉄道が開通すると鶴見にも駅が置かれ、町の交通条件は大きく変わりました。さらに1911年、能登から大本山總持寺が移転。大正期以降は臨海部の埋め立てと工場進出が進み、鶴見は街道沿いの村から京浜工業地帯を担う都市へ姿を変えていきます。
| 時代 | 鶴見で起きたこと | 散歩で見る場所 |
|---|---|---|
| 江戸時代 | 旧東海道の間の宿として栄え、生麦は漁村として江戸と結ばれる | 鶴居堂跡、信楽茶屋跡、生麦 |
| 1862年 | 生麦事件が発生 | 生麦事件発生場所 |
| 1872年 | 新橋―横浜間の鉄道開通で鶴見駅が開業 | 鶴見駅周辺 |
| 1911年 | 大本山總持寺が能登から鶴見へ移転 | 總持寺 |
| 大正~昭和 | 臨海部の埋め立てと工業化が進む | 鶴見の市街地・臨海部 |
| 1950年 | 市売木材株式会社が鶴見で創業 | 市売木材発祥之地 |
旧東海道の鶴見―旅人と村人が行き交った町
鶴居堂跡―街道名物の薬を売った黒川家
鶴居堂は、旧東海道沿いで黒川家が営んだ薬屋です。咳の薬「苦楽丸」が街道の名物として知られました。黒川家の黒川荘三は明治期に鶴見村の地域運営に携わり、のちに鶴見神社の宮司を務めています。1883年に建てられた生麦事件碑にも関わった人物で、散歩の出発点と終盤の生麦事件を一人の地域人が結びます。
名主佐久間家―幕末・明治の鶴見を記録した家
佐久間家は代々、鶴見村の名主を務めました。16代の佐久間権蔵が残した日記は、幕末から明治にかけての地域社会を知る史料として横浜開港資料館から刊行されています。街道沿いの標柱の背後には、旅人の往来を支えながら村を運営した人々の暮らしがありました。
身禄道―鶴見に残る富士講の記憶
旧東海道から鶴見神社へ向かう参道は「身禄道」と呼ばれます。名称は、江戸時代に富士講を広めた食行身禄の名を伝えるものです。鶴見神社には富士塚があり、街道のすぐそばに富士山信仰の痕跡が残ります。寺社参詣と旅が結びついていた江戸の暮らしを感じられる場所です。
信楽茶屋跡―梅干しと米饅頭で一服した「間の宿」
鶴見は川崎宿と神奈川宿の中間にあり、宿場を補う休憩地として栄えました。信楽茶屋は享保年間に開かれたとされ、梅干しや梅漬けのショウガなどが名物でした。鶴見では米饅頭も知られ、旅人にとって食べ物は「どこまで来たか」を知らせる旅の記憶でもありました。
江戸の東海道旅行や宿場のしくみは、『東海道中膝栗毛』の要約と街道旅の解説でも紹介しています。

鶴見神社―古代の集落と富士信仰が重なる場所
鶴見神社は、古くは杉山神社と呼ばれ、1920年に現在の社名へ改称されました。境内では1962年に古代の祭祀に関わる遺物が見つかり、2008年の調査では弥生時代から古墳時代前期にかけての遺構・遺物が確認されています。旧東海道の近世史よりもはるか以前から、人の営みが続いてきた土地です。
境内には富士塚があり、参道の身禄道と合わせて江戸時代の富士信仰を伝えます。また、鶴見神社の「田祭り」は明治初期に途絶えた後、1986年に再興されました。古代の祭祀、江戸の信仰、近現代の地域文化が一つの境内に重なっています。

大本山總持寺―能登から鶴見へ移った曹洞宗の大本山
總持寺は曹洞宗の大本山の一つです。1321年、能登で瑩山紹瑾禅師に寺領が寄進されたことを基礎として発展しました。ところが1898年の大火で伽藍の多くを焼失します。これを機に首都近郊への移転が進み、1907年に鶴見で地鎮式、1911年11月5日に移転遷祖式が行われました。
移転先に鶴見が選ばれたことで、寺は鉄道で東京・横浜と結ばれ、多くの参詣者を迎える大本山となりました。現在の境内には仏殿、大僧堂、放光堂など国登録有形文化財の建造物が並びます。総門の三松関は1920年の建築で、鶴見駅側から巨大な伽藍へ入る最初の門です。
總持寺公式の境内マップでは堂宇の位置を確認できます。境内は広く、山門をくぐってから大祖堂まで歩くだけでも、鶴見の市街地とは空気が変わります。

近代・戦後の鶴見―鉄道、工業化、木材市場
1872年に新橋―横浜間の鉄道が開通し、鶴見駅が置かれました。明治末から大正期には臨海部の埋め立てが進み、工場が集積します。旧東海道沿いの村だった鶴見は、鉄道と港湾を背景に京浜工業地帯の一角へ変わりました。總持寺の移転も、こうした交通と都市化の時代に重なります。
「市売木材発祥之地」は戦後の鶴見を伝える小さな史跡です。1950年、現在のナイス株式会社は鶴見で市売木材株式会社として創業し、建築用木材を競りで売買する「市売り」を関東で導入しました。住宅需要が高まった戦後復興期、木材流通の新しい仕組みがこの町から広がりました。
生麦―江戸城へ魚を届けた漁村の記憶
生麦は、東海道沿いの村であると同時に海に生きる漁村でした。江戸時代には御菜八ヶ浦の一つとして、新鮮な魚介を将軍家へ納める役割を担います。明治以降にはノリやアサリの養殖も盛んになりましたが、臨海部の埋め立てと工業化が進み、1971年に漁業は終わりました。

慶岸寺―庚申塔が伝える村の信仰
浄土宗慶岸寺には、1672年造立の庚申塔があります。銘には9人の庚申講の人々が記され、江戸時代の生麦で村人が講を結び、共同で信仰を支えていたことがわかります。街道の歴史は大名や旅人だけでなく、沿道に暮らす人々の日常の信仰にも支えられていました。
生麦水神宮―漁村の水神をまつる
生麦水神宮は、もとは正泉寺の境内にありました。1923年の関東大震災で大きな被害を受けた後、1927年に現在地へ移されています。海と漁業に近い生麦で、水への信仰が地域の暮らしに組み込まれていたことを伝える社です。
生麦事件―旧東海道で起きた幕末外交事件
1862年(文久2年)、生麦村の旧東海道で、薩摩藩主の父・島津久光の行列と、馬で行き交っていた英国人4人が遭遇しました。行列との接触から薩摩藩士が英国人一行を斬りつけ、チャールズ・リチャードソンが死亡します。横浜開港後、日本の大名行列の秩序と外国人居留地の日常が同じ街道上で衝突した事件でした。

英国は幕府と薩摩藩に賠償と犯人処罰を求め、翌1863年には薩英戦争へ発展しました。戦闘を経験した薩摩藩は英国の軍事力を強く認識し、その後は英国との関係を深めていきます。生麦の路上で起きた事件は、幕末外交と薩摩藩の対外姿勢を大きく動かしました。
現在の「生麦事件発生場所」と「生麦事件碑」は別の場所です。発生場所は生麦4丁目25-2付近、1883年に建てられた事件碑は生麦1丁目にあります。現地を歩くと、事件が一点の記念碑ではなく、旧東海道上で起きた出来事だったことがわかります。

鶴見駅から生麦駅まで歩くと見えるもの
鶴見駅を出た直後は、旧東海道の茶屋と名主家が残した近世の記憶が中心です。鶴見神社では古代の集落と江戸の富士信仰が重なり、總持寺では明治の交通と宗教都市の形成が見えてきます。さらに南へ進むと、戦後の木材流通、生麦の漁村史、幕末の生麦事件へ時代が移ります。
年末詣の散策では總持寺を大きな目的地にできますが、この道の魅力は一つの寺だけに収まりません。旧東海道という一本の道を軸に、江戸から幕末、明治、大正、昭和へ変化した鶴見を連続して歩けます。年末年始の拝観時間や行事予定は、總持寺や各社寺の公式案内が最新です。

