JR南武線の久地駅から溝の口駅へ向かう道には、江戸時代の用水、洪水対策、街道と宿、明治の自由民権運動、近代陶芸へと続く地域の記憶が重なっています。中心にあるのは、川崎の農村を支えた二ヶ領用水です。水をどう引き、どう分け、どう守るか。その歴史をたどると、久地円筒分水の形にも、溝口の町並みにも理由が見えてきます。

久地から溝の口へ――水と街道が重なる歴史散歩
出発点の久地は、多摩川に近く、二ヶ領用水の水が集まる場所です。ここでは将軍家の鷹狩り、洪水を防ぐ横土手、用水を分ける分量樋と円筒分水が近い範囲に残っています。そこから南東へ進むと、寺社や旧水路を経て、大山街道の宿場として栄えた溝口へ入ります。
距離だけを歩く散歩ではなく、水利施設から農村の暮らしを見て、大山街道から人と物の往来を見て、上田忠一郎や濱田庄司から近代の地域社会を見るコースです。現在の住宅地や商業地の中に、異なる時代の痕跡が連続して残っています。
二ヶ領用水がつくった「水の地域」
二ヶ領用水は、徳川家康の命を受けた小泉次大夫が1597年に測量・工事を始め、1611年に完成したとされる農業用水です。「二ヶ領」は稲毛領と川崎領を合わせた呼び名で、多摩川から取り入れた水が広い水田地帯を潤しました。
江戸の人口が増える時代、川崎周辺の農村では米を安定してつくるための水が重要でした。用水は農業生産を支える一方、渇水時には上流と下流の村で利害が衝突します。二ヶ領用水の歴史は、用水路を掘る技術だけでなく、限られた水を地域でどう配分するかという歴史でもあります。

1725年の久地分量樋と、1821年の溝口水騒動
1725年、田中休愚による二ヶ領用水の大改修で、久地に分量樋が設けられました。水を川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地二子堀の4本へ分け、それぞれが潤す水田の面積に応じて配水しようとした施設です。
木製の樋では、水位が変わると予定した比率どおりに分けることが難しくなります。日照りの年には不足が深刻になり、1821年には「溝口水騒動」が起きました。川崎市の『川崎市水道百年史』には、大渇水で下流の川崎領が生活用水にも困り、溝口村の役宅の打ちこわしや江戸への強訴に至ったことが記されています。用水の水が農業と生活の双方を支えていたことが分かる出来事です。
1941年、円筒分水が「公平」を構造にした
水争いを繰り返した久地に、1941年、土木技師の平賀栄治が設計した久地円筒分水が完成しました。中央から湧き上がった水を外側の円筒へ広げ、円周を4区画に分けて各水路へ流します。全体の水量が増減しても、円周の長さに応じた一定の比率で分けられる仕組みです。
直径16メートルの外側の円筒から水が静かにあふれる景観は美しく見えますが、その形は水配分をめぐる長い対立への技術的な回答でした。1998年には川崎市で初めて国の登録有形文化財(建造物)となり、現在は農業用水としての役割をほぼ終えながら、環境用水と地域の歴史を伝える場所になっています。

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久地でたどる洪水対策と村の記憶
鷹匠橋――将軍家の御鷹場の名残
久地駅近くの二ヶ領用水に架かる鷹匠橋は、江戸時代の御鷹場の記憶を残す橋です。1628年、徳川家光は稲毛・川崎領の各地に御鷹場を設けました。高津区内にもその一つがあり、鷹匠を迎える地域では宿や食事の用意などの負担もありました。現在の橋名が、将軍家の鷹狩りと地域の関係を伝えています。
久地の横土手――下流を守る堤が上流の危険を増やした
多摩川に向かって延びる久地の横土手は、洪水の勢いを弱め、下流の溝口や二子などを守るために築かれた旧堤防の跡です。土手が下流を守る一方、上流側では水が滞留して洪水の危険が高まります。工事をめぐって村々の利害が衝突し、約300メートル進んだところで中止されたと川崎市文化財団の歴史ガイドは伝えています。治水施設が、地域全体では利益と負担を同時に生むことが分かる場所です。
久地神社と浄元寺――神仏分離で変わった関係
久地神社は江戸時代には赤城社と呼ばれ、弁財天と毘沙門天を祀っていました。明治初年の神仏分離で両像は浄元寺へ移され、社は久地神社と改称して天照大御神を主祭神としました。久地神社と浄元寺を続けて訪ねると、明治維新後の宗教制度の変化が一つの地域で具体的に見えます。
溝口へ――大山街道の宿場町に入る
溝口へ近づくと、散歩の主題は水利から街道へ移っていきます。大山街道は江戸の赤坂御門を起点に二子・溝口を通り、大山阿夫利神社方面へ向かう道です。矢倉沢往還、厚木街道とも呼ばれ、1669年には溝口村と二子村が宿として定められました。
江戸時代中期には大山詣りの道としてにぎわい、後期には駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸や乾魚、秦野地方のたばこなどを江戸へ運ぶ商業路としても利用されました。人が休み、荷物を継ぎ、商いが生まれたため、溝口には問屋や商家、蔵が集まりました。
二ヶ領用水と大山街道が近接する一帯では、「水を運ぶ道」と「人や物を運ぶ道」が重なります。久地から歩いてくると、農村を支えたインフラの地域から、往来で発展した町へ景観が変わる理由をつかみやすくなります。

明治の溝口――上田忠一郎と自由民権運動
大山街道沿いで醤油醸造業「稲毛屋」を営んだ家に生まれた上田忠一郎(1848~1914)は、1879年に神奈川県会議員となり、1881年に自由党へ入りました。溝ノ口を中心とする橘樹郡の自由民権運動を率いた人物です。
川崎市によると、上田家には民権運動家が訪れ、地域の政治的な交流の場になりました。1881年には橘樹郡親睦会を結成しています。江戸時代に街道沿いで成長した商家の経済力が、明治になると県会や自由民権運動へ結びついたことが、上田家の歩みから分かります。
宗隆寺と濱田庄司――寺院・学校・近代文化が重なる場所
宗隆寺は、古くは天台宗の本立寺と称し、1496年に日蓮宗へ改宗して現在の寺号となりました。1873年には本堂が溝口学校の仮校舎として使われています。寺院が信仰の場であると同時に、近代教育の出発点にもなったことを伝える場所です。
宗隆寺には上田忠一郎の墓があります。さらに、溝口生まれの陶芸家濱田庄司(1894~1978)の墓所でもあります。濱田は幼少期の一時期を祖父の家「大和屋」で過ごし、のちに栃木県益子を拠点に制作しました。1955年、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝の第1回認定者の一人となり、民藝運動を代表する陶芸家として知られます。
中世から続く寺、明治の学校、自由民権家の墓、近代陶芸家の墓が同じ境内に集まる宗隆寺は、溝口の歴史の層を短い距離で感じられる地点です。
入屋橋・中原堰・さかえ橋――水路の痕跡を追う
現在の溝の口駅周辺は市街地ですが、橋名、堰の跡、親柱には、かつて水路が身近にあった時代の痕跡が残ります。平瀬川はかつて溝ノ口へ流れ込み、中原堰で取水された水が上小田中、下小田中、新城などの農地に利用されました。河川改修や都市化で景観が変わったため、現在の道路だけを見ていると水路の存在を想像しにくい場所です。
入屋橋、中原堰、さかえ橋の親柱石を順に見ると、久地で目にした大きな用水施設とは別の形で、水が町の内部まで入り込んでいたことをたどれます。円筒分水から始まった「水を見る散歩」が、溝口では「消えた水路の痕跡を探す散歩」へ変わります。
久地~溝の口の歴史散歩ルート14地点
現地では次の順に歩くと、水利・治水から宿場・近代史へ時代をつなげやすくなります。各リンクはGoogleマップで場所を確認できます。
- 鷹匠橋――江戸時代の御鷹場の記憶を残す橋。
- 久地の横土手――多摩川の洪水対策と村々の利害対立を伝える旧堤防。
- 久地分量樋跡――1725年に設けられた配水施設の跡。
- 久地神社――江戸時代の赤城社から明治の神仏分離を経た神社。
- 久地円筒分水――1941年完成。4水路へ一定比率で水を分ける国登録有形文化財。
- 浄元寺――神仏分離で久地神社から移された仏像との関係を伝える寺。
- 宗隆寺――1496年改宗。上田忠一郎と濱田庄司の墓所。
- 溝口神社――大山街道沿いの溝口の地域史をたどる地点。
- 民権運動と上田家――明治の自由民権運動を率いた上田忠一郎ゆかりの場所。
- 陶芸家・濱田庄司ゆかりの家――幼少期を過ごした祖父の家「大和屋」ゆかりの地点。
- 溝口・二子宿の問屋 丸屋跡――宿場と物流の歴史を伝える場所。
- 入屋橋跡――市街地に残る水路の記憶。
- 中原堰――平瀬川から周辺農地へ水を送った堰の歴史をたどる地点。
- さかえ橋の親柱石――橋の痕跡からかつての水路景観をたどる。
歩く前後に見たい公式資料
現地の案内板とあわせて、川崎市文化財団の歴史ガイドが便利です。二ヶ領用水編は鷹匠橋、久地の横土手、円筒分水、溝口・二子宿などを一続きに確認でき、大山街道編では街道と宿場の背景を追えます。

