出産と育児の歴史をたどると、変わったのは「昔の習慣」だけではありません。赤ちゃんが生まれる場所、出産を支える人、授乳の方法、産後を助ける家族、そして国の制度までが、医療・衛生・交通・家族構造の変化とともに組み替えられてきました。
日本では、20世紀半ばまで自宅での出産が多数を占めましたが、1970年には病院・診療所での出生が85.4%となり、2021年には99.3%に達しています。ベトナムでも家族や地域に根ざした産後慣習が続く一方、都市の産科施設や助産職の教育、全国的な母子保健制度が整備されてきました。
2026年は60年ぶりの丙午です。1966年には出生数が前年より約46万人減りました。日本とベトナムの出産・育児を並べると、家庭の中の営みが医療・公衆衛生・法制度と結びついていく過程が具体的に見えてきます。
昔の出産はどこで、誰が支えた?
江戸時代の日本では、出産の中心は家でした。妊産婦の家族や親族、近隣の女性が手を貸し、経験を積んだ産婆が出産を助ける地域もありました。江戸後期には産婆に加えて産科を専門とする医師も活動し、難しい出産に医師が関与する例も確認されています。
江戸時代の産婆は、国家資格成立以前の経験的な担い手でした。経験、評判、地域の慣行などをもとに出産を支える人びとが存在し、呼び方や役割も土地によって異なりました。家族と地域の助け合いの中に、専門的な経験を持つ女性が加わる形が長く続きました。
明治になると、出産は国家の衛生行政の対象にもなります。各府県で産婆を取り締まる規則がつくられ、1899年には全国的な「産婆規則」が制定されました。制度化以前の産婆と、登録・試験・業務規制の下に置かれた近代の産婆は、分けて考える必要があります。
産婆から助産師へ、病院出産はどう広がった?
1899年の「産婆規則」は、日本の出産を支える職業を全国制度の中に置く大きな転換点でした。同年には産婆試験規則も定められ、試験や登録を通じて資格を管理する仕組みが整えられました。産婆規則は、異常があると認めた場合に医師の診療を求めることや、産科器械・薬品の使用を制限することも定めています。
戦後は名称と制度が変わります。1947年の助産婦規則、同年の保健婦助産婦看護婦令を経て、1948年の保健婦助産婦看護婦法で「助産婦」が法制度上の職種となりました。2002年には男女で名称を統一する法改正に伴い、現在の「助産師」という名称になっています。
1950年から20年で、出生場所は大きく変わった
厚生労働省の資料では、1950年の出生の95.4%が「自宅・その他」でした。1970年には「自宅・その他」は3.9%まで低下し、病院・診療所85.4%、助産所10.6%となります。2021年には病院・診療所99.3%、助産所0.5%、自宅・その他0.2%です。
| 年 | 病院・診療所 | 助産所 | 自宅・その他 |
|---|---|---|---|
| 1950年 | 少数 | 少数 | 95.4% |
| 1970年 | 85.4% | 10.6% | 3.9% |
| 2021年 | 99.3% | 0.5% | 0.2% |
この転換は、病院が一度に家庭出産を置き換えた結果ではありません。産科医療の整備、助産職の教育と資格制度、交通の改善、衛生行政、医療保険、施設の増加、家族構造の変化などが重なり、分娩の場が家庭から施設へ移っていきました。
赤ちゃんの授乳と日常の育児はどう変わった?
乳児を養う基本は長く母乳でした。実母が授乳できないときには、親族や近隣女性の「もらい乳」、あるいは乳母が乳を与える方法がありました。上層家では乳母が授乳だけでなく日常の世話や教育まで担うこともあります。乳母の選ばれ方や政治との関係は、乳母の歴史を扱った関連記事で詳しく紹介しています。
近代になると、牛乳、練乳、粉乳、調製乳などの人工栄養が広がり、衛生的な水、哺乳瓶、消毒器具、保存・流通の改善が授乳の選択肢を増やしました。人工栄養の普及には地域差や所得差があり、もらい乳や乳母を含む複数の方法が並存しながら比重が変わりました。
育児書が「育て方」を家庭へ届けた
明治末から大正期には、乳幼児の発育、食事、生活、教育を家庭向けに説明する育児書が流通しました。国立国会図書館には1917年刊『どうして小児を育てるか』のような育児書が残り、乳幼児期の発育を章立てして説明しています。こうした本は「当時、どのような育児が推奨されたか」を知る資料で、家庭の実践そのものを記録した資料とは性格が異なります。
記事冒頭の1902年以前の写真には、子どもを背負う母親が写っています。おんぶのように大人の身体に子どもを密着させる育児は、仕事や移動と子守を両立する方法でもありました。一枚の写真が示すのは一つの生活場面ですが、近代初期の育児を具体的に伝える史料です。
産後の母親を支える習慣と家族
家庭で出産する時代、産後の生活も家庭と地域の人間関係の中にありました。母親が休んでいる間の炊事、洗濯、上の子の世話、赤ちゃんの世話には、夫、祖父母、親族、近隣女性、子守、乳母など複数の人が関わりました。支援の形は、同居家族の人数、家業、農繁期、都市か農村かといった生活条件によって変わります。
日本各地の産育習俗を集めた民俗資料には、産後の食事、休養、産婦が過ごす場所、里帰り、祝いの時期など多様な慣行が記録されています。産後慣行は地域ごとの暮らしの中で形づくられ、食事や休養、里帰りの形にも違いがありました。
20世紀後半に施設出産が一般化すると、出産直後の支援には病院・診療所・助産所の専門職が大きく関わるようになります。一方、退院後の家事や育児では家族の役割が残り、家庭内の支援と医療・保健制度が組み合わされる形へ変わっていきました。
1966年の丙午でなぜ出生数が減った?
丙午は、十干と十二支を組み合わせた60年周期の干支の一つです。江戸時代には、丙午生まれの女性について婚姻や性格に結びつける迷信が広まりました。八百屋お七の物語も後世に結び付けられ、浄瑠璃や読み物などの大衆文化を通じてイメージが強化されました。
迷信の影響は1966年の出生統計にはっきり現れます。厚生労働省「人口動態統計」の確定数では、出生数は1965年の1,823,697人から、1966年には1,360,974人へ減少し、1967年には1,935,647人へ増加しました。
| 年 | 出生数 | 前年との差 |
|---|---|---|
| 1965年 | 1,823,697人 | — |
| 1966年(丙午) | 1,360,974人 | −462,723人 |
| 1967年 | 1,935,647人 | +574,673人 |
内閣府は、1966年に出産が避けられて期間合計特殊出生率が大きく低下した一方、その多くは出生時期のずれで、1967年に急回復したと説明しています。総務省統計局も、1966年生まれの人口が少ない理由として丙午の影響を挙げています。男女を含む出生全体が減った社会現象でした。
2026年は次の丙午に当たります。2026年8月現在は年の途中で、年間出生数は未確定です。1966年との比較は、年間の人口動態統計が確定した後に評価できます。
ベトナムの出産・産後文化はどう変わった?
ベトナムでも、出産は長く家族や地域の女性の経験に支えられてきました。その一方で、フランス植民地期にはハノイやサイゴンなどの都市で病院・産科施設が整備され、近代的な医療教育と産科サービスが広がりました。ベトナムの大学資料では、1930年代には助産(hộ sinh)の教育が行われ、専門職養成が制度化されていったことが確認できます。

この写真は1920年代サイゴンの産科施設を写したものです。確認できる範囲は都市サイゴンの一施設で、当時のベトナム全土の出産場所を代表する資料ではありません。植民地期の都市では病院や学校、道路などが整備される一方、利用できる施設や生活条件には地域・階層による差がありました。背景はフランス植民地時代のベトナムで詳しく扱っています。
その後も都市と農村、低地と山地、キン族と少数民族のあいだで、医療施設へのアクセスには差が残りました。WHOがベトナムの母子保健利用を分析した研究でも、農村部や少数民族の女性は施設出産を利用しない可能性が高いことが示されています。ベトナムの出産文化は、地域、民族、所得、医療への距離によって異なります。
ベトナムの産後習慣「ở cữ」と現代の母子ケア
ベトナムには「ở cữ」と呼ばれる、産後の一定期間に休養や食事、行動上の禁忌を設ける慣習があります。内容は家庭や地域で異なり、温かい食事を取る、活動を控える、入浴や洗髪を避ける、身体を温めるといった実践が語られてきました。
Thái Nguyên大学医薬学系学術誌に2024年掲載された研究は、2022年にThái Nguyên中央病院産科の産婦と介護者140人を対象に「ở cữ」への認識を調べました。回答では、温かい食事をよいとする考え、活動を控える慣行、入浴・洗髪・歯磨きを避ける実践(57.1%)、炭火で身体を温める「nằm than」(30.0%)などが確認されています。これは一つの病院での調査で、ベトナム全国を代表する統計ではありません。
現代の母子ケアは、こうした家族内の慣行と並行して国の医療制度によって標準化されています。ベトナム保健省は2025年に「Hướng dẫn Quốc gia về các dịch vụ chăm sóc và điều trị sơ sinh 2025(新生児ケア・治療サービス国家ガイドライン)」を公表し、出生直後から継続するケア、家族中心の支援、根拠に基づく医療を強調しました。ガイドラインには出生直後の保温、肌と肌の接触、必要時の呼吸支援などが整理されています。
さらに2026年5月6日には、保健省が新生児ケア・治療の技術手順をまとめたDecision 1269/QĐ-BYT(第1巻)と1270/QĐ-BYT(第2巻)を公布し、7月1日に施行しました。伝統的な産後慣習が家族の生活文化として残る一方、医療側では標準化された新生児ケアと継続的な支援が拡充されています。
日本とベトナムの出産・育児を比べる
| 比較項目 | 日本 | ベトナム |
|---|---|---|
| 主な出産場所の歴史的変化 | 家庭中心から、20世紀後半に病院・診療所中心へ急速に移行 | 家庭・地域の出産と都市の産科施設が並存し、地域差を伴いながら施設医療が拡大 |
| 出産を支える専門職 | 地域の産婆から1899年の制度化、戦後の助産婦、現在の助産師へ | 家族・地域の支援に加え、植民地期から都市で助産教育・産科医療が形成され、現在はhộ sinhが母子保健を担う |
| 授乳・乳児養育 | 母乳、もらい乳、乳母から、人工栄養・育児用品を含む複数の選択肢へ | 家族内の授乳・養育慣行と医療機関の母子ケアが併存 |
| 産後の家族支援 | 祖父母・親族・近隣・子守などの支援から、家族支援と専門サービスの組み合わせへ | 家族・介護者の関与が強く、医療機関でも家族中心のケアが重視される方向へ |
| 産後の伝統習慣 | 地域ごとの産後休養、食事、里帰りなど多様な産育習俗 | ở cữとして休養、食事、行動上の慣行が地域・家庭ごとに残る |
| 現代の母子保健制度 | 医療機関での出産を基盤に、助産師・産科医療・地域保健が連携 | 保健省の国家ガイドラインと技術手順により、新生児ケアを標準化 |
日本では、統計上は1950年から1970年の20年間に出生場所が家庭から施設へ大きく移りました。ベトナムでは、都市の近代医療、農村・山地の医療アクセス、民族ごとの生活文化を同じ時間軸で一括できません。それでも両国とも、出産・育児が家族や地域だけに支えられる営みから、専門職、医療、公衆衛生、法制度と強く結びつく領域へ変化してきました。
出生後に赤ちゃんの「名前」が国家へ登録される仕組みも、家族の慣習と制度が交わる領域です。日本の戸籍とベトナムの出生登録、名付け文化の違いは、日本人の名前はどう変わった?江戸・明治の戸籍から令和、ベトナムの名付けまでで比較しています。
参考文献・主要資料
- 厚生労働省「疾病・事業及び在宅医療に係る医療体制について」
- 厚生労働省「出生の場所別に見た年次別出生数と出生数百分率」
- 厚生労働省「医療安全の確保に向けた保健師助産師看護師法等のあり方に関する検討会」資料
- 国立国会図書館 日本法令索引「産婆規則(明治32年7月19日勅令第345号)」
- 国立国会図書館 日本法令索引「産婆試験規則(明治32年9月6日内務省令第47号)」
- 国立国会図書館『どうして小児を育てるか』(1917年)
- 内閣府「第2章 第2節 少子化と家計経済」
- e-Stat「人口動態統計 年次別にみた出生数・出生率・出生性比及び合計特殊出生率」
- 総務省統計局「午(うま)年生まれの人口」
- Lê Thị Bích Ngọcほか「Nhận thức về vấn đề “ở cữ” sau sinh của sản phụ và người chăm sóc tại khoa sản Bệnh viện Trung ương Thái Nguyên」
- Bộ Y tế「Hướng dẫn Quốc gia về các dịch vụ chăm sóc và điều trị sơ sinh 2025」
- Bộ Y tế, Decision 1269/QĐ-BYT(2026年5月6日)
- Bộ Y tế, Decision 1270/QĐ-BYT(2026年5月6日)
- World Health Organization, Viet Nam: Maternal health
- University of Medicine and Pharmacy at Ho Chi Minh City, Bộ môn Hộ sinh
- 科学技術振興機構 Science Portal「『ひのえうま迷信』をデータから科学的に読み解く」
- 柳園順子「『日本産育習俗資料集成』にみる育児」
- Wikimedia Commons「Japanese mother with her child. Before 1902」
- Wikimedia Commons「Nouvelle maternité annamite, Saïgon (PV0008292)」

