2026年9月20日(日)9:30~11:00、JR蒲田駅周辺から約3kmを歩く蒲田歴史散歩を行います。現在の駅前からは想像しにくいですが、約100年前の蒲田には松竹キネマ蒲田撮影所があり、映画人と新しい文化が集まる「映画の都」でした。1920年の撮影所開設から1936年の大船移転まで、蒲田は「流行は蒲田から」といわれるほどの活気を見せます。
当日はJR蒲田駅周辺から松竹キネマ蒲田撮影所跡、蒲田八幡神社、京急蒲田周辺、稗田神社をたどり、JR蒲田駅方面へ戻って東急プラザ蒲田の屋上「かまたえん」へ向かいます。最後は、昭和の屋上遊園地文化を今に伝える「幸せの観覧車」周辺です。現地の工事・通行状況や施設運営状況により、歩く順序や細部は変わる場合があります。
100年前の蒲田は「映画の都」だった
松竹キネマ蒲田撮影所は1920年に開設され、1936年に大船へ移転するまで蒲田に置かれました。大田区は、当時の蒲田周辺には俳優も多く住み、「流行は蒲田から」といわれるほど華やかで活気があったと紹介しています。現在の大田区民ホール・アプリコ周辺が撮影所跡です。
撮影所跡には、1986年の映画『キネマの天地』の撮影で再現された「松竹橋」が残っています。かつて撮影所前に架かっていた橋を再現したもので、建物が失われた現在でも撮影所時代を具体的に想像できる手がかりです。
小津安二郎は1923年に松竹蒲田撮影所へ入り、1927年に監督デビューしました。蒲田時代は、小津をはじめ後の日本映画を支える監督や俳優が育った時期でもあります。人物を追うより、撮影所に多くの職種と人が集まり、映画を継続的につくる仕組みが街の中にあったことを押さえると、現地の見え方が変わります。
蒲田駅の誕生と「モダン蒲田」
蒲田駅は1904年に開業しました。大田区の資料では、1902年に現在の蒲田小学校付近で開かれた蒲田菖蒲園の人気が駅開業の追い風になったとされています。駅の開業後、大正から昭和初期にかけて住宅地や工業地が広がり、1920年には松竹の撮影所が加わりました。行楽地、鉄道の街、映画の街、工場の街、商業地という性格が短い期間に重なっていきます。

現在の駅前は大型施設や商店街が中心ですが、街の成長をたどると、蒲田駅が人の流れをつくり、その周囲へ住宅・工場・娯楽・商業が集まった経緯が分かります。蒲田の映画、工場、鉄道、戦後の街、黒湯温泉や飲食街まで詳しく知りたい場合は、蒲田の通史をまとめた解説記事で背景を確認できます。
松竹キネマ蒲田撮影所跡で見るもの
撮影所跡で最初に見たいのは、アプリコとアロマスクエア周辺の位置関係です。現在はホール、広場、オフィスなどが並び、撮影所の建物そのものは残っていません。大田区が所在地として案内する蒲田五丁目37番付近を歩くと、JR蒲田駅東口から数分の場所に大規模な撮影拠点があった近さを体感できます。
松竹橋は、失われた撮影所を示す最も分かりやすい目印です。橋そのものを眺めるだけでなく、周囲の広さと駅までの距離を合わせて見ると、俳優、監督、撮影、美術、衣装など多くの人が出入りしていた1920~30年代の仕事場を想像しやすくなります。
蒲田八幡神社と稗田神社に残る、映画以前の蒲田
蒲田八幡神社の公式由緒では創祀の時期は不詳とされ、蒲田村から新宿が分村した際、鎮守として稗田神社から神体を分けて祀ったと伝えられています。1945年4月の戦災で社殿が焼失し、戦後に復興。1949年に「新宿八幡神社」から現在の「蒲田八幡神社」へ改称されました。映画撮影所ができる以前から地域の信仰が続いてきたことを知る場所です。
稗田神社では石鳥居に注目です。大田区によると、寛政12年(1800年)に北蒲田村の氏子が寄進したもので、区内の石鳥居の中でも古いものの一つです。神社は平安時代に編さんされた『延喜式』に記載のある古社として紹介されています。また『日本三代実録』の貞観6年(864年)の「蒲田神」に関する記述が、この神社であろうといわれています。映画の街になるはるか前の蒲田へ時間をさかのぼれる場所です。
隣の寺院に残る、戦国時代の蒲田
神社の隣にある寺院を見ると、蒲田の歴史はさらに戦国時代へつながります。圓頓寺には、行方弾正直清の供養塔があります。大田区によると、直清は後北条氏の家臣で、蒲田から六郷にかけての六郷領を支配した領主でした。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで討ち死にしたと伝えられ、弟の日芸が直清と行方一族を供養するため石塔を建てました。大田区の橋資料では、直清は現在の圓頓寺付近に屋敷を構え、その屋敷跡に寺が建てられたとされています。呑川の「弾正橋」の名も直清に由来します。
一方、蒲田八幡神社の隣にある日蓮宗行方山妙安寺は、神社と直接つながる寺でした。蒲田八幡神社の公式由緒には、明治の神仏分離で神体が「別当妙安寺」へ移されたとあります。つまり妙安寺は、かつて蒲田八幡神社を管理した別当寺でした。これに対し、薭田神社の旧別当は圓頓寺ではなく栄林寺です。薭田神社公式も、別当栄林寺の僧が吉田家へ申請し、「薭田神社」の社号を認められた経緯を紹介しています。
妙安寺には、もう一つ戦国武士の記憶があります。寺の縁起では、当地の地頭だった行方修理亮義安の妻・妙安尼が、義安の死後、兄である豪族斎藤政賢の屋敷内に庵を結んだことが寺の始まりと伝えられています。このため妙安寺一帯は「斎藤氏館跡」として紹介されています。圓頓寺には行方氏の館の記憶、妙安寺には斎藤氏の屋敷と行方氏に嫁いだ女性の記憶が残り、二つの寺を合わせて見ると、映画の街になる約350年前の蒲田に在地武士が暮らしていた姿まで重なります。なお、行方直清と義安の具体的な親族関係は、今回確認できた大田区資料からは確定できません。
JR蒲田と京急蒲田の間を歩く
JR・東急の蒲田駅と京急蒲田駅は離れており、その間に商店街、飲食店、公共施設、住宅が連続しています。二つの駅が一体の駅ではないこと自体が、異なる鉄道と街路を軸に蒲田が発展してきたことを体感できる材料です。

京急蒲田商店街「あすと」は、JR蒲田方面と京急蒲田駅をつなぐ商業地の一つです。現在のアーケードや駅周辺の再整備を見ながら歩くと、古い市街地の細かな街路と、交通拠点として更新され続ける蒲田の両方が同じ区間に重なっています。
最後は「かまたえん」へ|屋上観覧車が生き残った理由
散歩の最後は東急プラザ蒲田の屋上「かまたえん」へ向かいます。東急プラザ蒲田は「幸せの観覧車」を都内唯一の屋上観覧車として紹介しています。屋上観覧車は1968年に設置され、初代は通称「お城観覧車」。1989年には二代目「グレ太の観覧車 フラワーホイール」へ交代しました。
2014年3月、東急プラザ蒲田の一時閉店に伴って観覧車は閉鎖の危機を迎えましたが、地域から存続を望む声が集まり、同年10月のリニューアルで復活しました。名称公募には2,938通が寄せられ、その中から「幸せの観覧車」に決まりました。大正・昭和初期の映画文化を歩いた後に、戦後の百貨店・屋上遊園地文化へつながる蒲田の時間を見渡せます。
東急プラザ蒲田の現行公式案内では、通常営業時間は10:00~18:00、観覧車は1周300円です。荒候時は中止となり、前日17時または当日朝5時の時点で東京都に熱中症警戒アラートまたは熱中症特別警戒アラートが発表されている場合は、幸せの観覧車などの運営を休止すると案内されています。
当日ここだけ覚えておけば楽しめるポイント
- 1920~1936年、蒲田には松竹キネマ蒲田撮影所がありました。
- 撮影所跡では、アプリコ周辺の位置関係と再現された松竹橋に注目です。
- 稗田神社の石鳥居は1800年の寄進で、区内でも古い石鳥居の一つです。
- JR蒲田と京急蒲田の間の市街地は、複数の鉄道と商業地が重なって発展した蒲田を体感できる区間です。
- 最後は1968年から続く屋上観覧車の歴史をたどり、映画の街から戦後の屋上遊園地文化までをつなげます。

