上野毛の住宅街から二子玉川の商業エリアまでは、徒歩でつながる近さです。その間には、約1600年前の古墳、国分寺崖線の起伏、瀬田の旧村、大山道と二子の渡し、路面電車、郊外開発という異なる時代が重なっています。2026年10月3日(土)は、上野毛から瀬田を経て二子玉川へ、昼の約2時間でこの変化をたどります。
2026年10月3日に歩く上野毛・瀬田・二子玉川
出発側の上野毛は、多摩川へ向かって下る国分寺崖線の上にあります。そこから瀬田の坂と旧村の痕跡を経て二子玉川へ向かうと、地図上の移動がそのまま「古墳時代→江戸の街道と渡し→近代の鉄道→現代都市」という時間の流れになります。
世田谷区の散策マップでも、上野毛・瀬田周辺と大山道周辺には徒歩コースが設定され、急な坂が地域の特徴として示されています。今回の歴史散歩では、距離だけでなく、高台から低地へ下る地形そのものが大切な観察対象です。
約1600年前、国分寺崖線の高台に残る上野毛稲荷塚古墳
世田谷区指定史跡の上野毛稲荷塚古墳は、上野毛2丁目12番の上野毛2丁目緑地にあります。古墳時代中期初頭、約1600年前の古墳で、国分寺崖線上の高台に展開する野毛古墳群の1基です。全長約33メートル、後円部の高さ約3メートルの小規模な前方後円墳と推定されています。前方後円墳は、円形の後円部と方形の前方部を組み合わせた墳形です。
1995年と2009年の発掘調査では、墳丘を囲む周溝、埋葬施設の粘土槨、鉄刀、管玉などが確認されました。副葬品から4世紀末ごろの築造と考えられ、野毛古墳群で最初に現れた古墳とされています。現在は古墳内への立ち入りはできないため、周囲から高台と墳丘の位置関係を捉える史跡です。
多摩川下流左岸では、4世紀から7世紀にかけて台地の縁に多くの古墳が築かれました。世田谷デジタルミュージアムによると、野毛大塚古墳、上野毛稲荷塚古墳、八幡塚古墳、御岳山古墳、狐塚古墳はいずれも台地先端部に位置します。河川側からの見え方と有力者の権威表現を結びつける見方も紹介されており、まず確かめたいのは、古墳が「高台のどこに置かれたか」という地形上の事実です。
国分寺崖線を歩くと東京の地形が見える
国分寺崖線は、多摩川が長い時間をかけて武蔵野台地を削ってできた段丘崖の連なりです。世田谷区は上野毛地区について、北側は平坦で、南側は国分寺崖線によって多摩川へ向かって下り、急な坂が多いと説明しています。

平らな住宅街から坂へ入り、視線の高さや道路の勾配が変わるところが、崖線を実感しやすい境目です。上野毛稲荷塚古墳がこの高台側にあることも、遺跡と地形を別々に見ないための手掛かりになります。国分寺崖線の別エリアで、地形・湧水と住宅地の関係をたどる例は、国分寺崖線と世田谷のまちづくりでも紹介しています。
瀬田の坂と旧村の痕跡
「瀬田」は、狭い出入口や谷地を表す「瀬戸」が転じた地名とされます。1889年(明治22年)、瀬田村は上野毛村など周辺7村と合併して玉川村となり、大字瀬田になりました。現在の住宅街の道路や坂をたどると、近代以前からの地形と村のまとまりが現在の街路の下に残っています。
徒歩導線と関係が深い場所に、行火坂があります。世田谷区の散策マップでは「行善寺坂」とも呼ばれる急坂として紹介され、近くの行善寺は瀬田1丁目、大山道沿いの高台に位置します。高台の寺と急坂、その先の多摩川低地を一続きに見ると、瀬田の集落と旧道が崖線の高低差に沿っていたことが分かります。
大山道と多摩川――二子の渡しがつないだ往来
世田谷を通る大山道は、矢倉沢往還と呼ばれた脇街道です。江戸の赤坂から渋谷、三軒茶屋、用賀を経て二子の渡しで多摩川を渡り、溝口、厚木、伊勢原の大山方面へ続きました。江戸時代中期以降、大山詣が盛んになると、信仰と物見遊山の人々が行き交いました。
瀬田側の高台から坂を下る旧道と、対岸の二子へ続く道を重ねると、二子の渡しが単独の舟着き場ではなく、街道の一部だったことが分かります。1925年(大正14年)に二子橋が完成すると、二子の渡しは役割を終えました。道、坂、川、橋の順にたどることで、徒歩と渡船を前提にした江戸の移動が、橋と近代交通へ置き換わる転換点が見えてきます。
玉電が入り、二子玉川は行楽地・郊外の街へ変わった
1907年(明治40年)、玉川電気鉄道は三軒茶屋から玉川まで開通し、同年中に渋谷までつながりました。多摩川の砂利輸送を目的の一つとしながら、旅客誘致のための遊園地やプール、住宅地開発にも取り組み、街道と渡しの町に新しい人の流れを生みました。
1929年には大井町線が二子玉川までつながり、市街地化が進みます。二子玉川の駅名は「二子玉川」「二子読売園」「二子玉川」「二子玉川園」を経て、2000年に現在の「二子玉川」へ戻りました。時代ごとに駅名が変わるため、古写真では撮影時の名称を見ることが大切です。

上の写真は1968年秋の二子玉川園駅砧線ホームです。玉川線渋谷―二子玉川園間と砧線は1969年に廃止されました。その後も二子玉川は商業地・住宅地として変化し、2000年に二子玉川東地区第一種市街地再開発事業の都市計画が決定、2008年には街全体の名称が「二子玉川ライズ」と決まりました。鉄道と沿線開発の広い流れは、五島慶太と東急の沿線開発の歴史で詳しく扱っています。
古墳時代から現代まで、2時間でつながる街の時間
現地で時代を見分ける手掛かりは、地形、道、史跡、交通施設、街区の重なりにあります。上野毛では古墳と台地の縁の位置関係、瀬田では坂・寺・旧道のつながり、多摩川沿いでは街道から渡し、橋へ移った交通の痕跡、二子玉川では歴史写真と現在の駅・再開発街区の対比が目印になります。
約1600年前の古墳が残る高台から崖線を下り、旧村と街道を抜け、鉄道と再開発の街へ入る。上野毛・瀬田・二子玉川は、短い徒歩移動の中で東京郊外の長い時間を連続して読める地域です。
