夜の蒲田駅を出ると、西口にはアーケード商店街と細い路地、東口には大田区役所、区民ホール・アプリコ、ホテル、飲食店、雑居ビルが集まります。
さらに東へ歩くと、京急蒲田の高架駅と「あすと」の商店街があり、その先には糀谷、六郷、羽田へ続く住宅と工場の町が広がります。
蒲田は、かつて日本映画の中心となり、金属・機械・精密加工を支える町工場が集まり、戦災後に商業を再建した街です。黒湯の銭湯があり、JR、東急、京急、バスが人を運ぶ交通都市でもあります。
松竹蒲田撮影所が存在したのは1920年から1936年までです。町工場の発展は撮影所以前から始まり、戦時・戦後に別の産業ネットワークへ変化しました。
同じ時期のアメリカで、撮影所が都市と巨大映画産業を形成した過程は、ハリウッドの歴史|映画の街はなぜ生まれ、世界を動かす産業になったのかと比較できます。
戦後の露店や闇市は、区画整理と店舗化によって姿を変えました。黒湯は地質と生活文化の歴史です。現在の空港アクセスも、1901年から積み重ねられた京急の歴史の上にあります。
行楽地、鉄道都市、映画都市、工業都市、戦災復興都市、黒湯と商店街の生活都市、夜の飲食都市という異なる時代の層が、駅と平坦な土地の周囲へ重なりました。
まず結論―蒲田には六つの都市が重なった
蒲田を理解するには、次の六つの都市機能を分けて考える必要があります。
| 都市の層 | 主な時期 | 蒲田へ与えた影響 |
|---|---|---|
| 行楽・鉄道都市 | 1900年代以降 | 菖蒲園、蒲田駅、京急、東急が人を集めた |
| 映画都市 | 1920~1936年 | 撮影所、映画人、現代劇、モダン文化が集まった |
| 工業都市 | 1910年代以降 | 工場、技術者、工員、職住混在、企業間分業が育った |
| 戦災復興都市 | 1945年以降 | 露店、仮設商業、区画整理、商店街、飲食街が再編された |
| 黒湯・生活都市 | 近代以降 | 銭湯、入浴、休息、地域交流を支えた |
| 夜間商業都市 | 戦後~現在 | 駅利用者、住民、勤務者、羽田関係者を飲食・宿泊が受け入れた |
撮影所へ通う人、工場勤務者、地域住民、羽田から来る人が駅前を利用し、異なる時間帯に買い物、飲食、入浴、宿泊の需要を生みました。
菖蒲園から鉄道都市へ
江戸時代から明治初期の蒲田は、東海道に近い農村と低地の町でした。周辺には呑川が流れ、多摩川と東京湾にも近い平坦な土地が広がります。
1902年、現在の蒲田小学校付近に蒲田菖蒲園が開かれました。花菖蒲を見に来る行楽客が増え、地域に集客力が生まれます。
大田区立図書館の地域史は、蒲田菖蒲園の人気が駅設置の追い風となり、1904年4月11日に蒲田駅が開業したと説明しています。
行楽地と鉄道が結びついて駅前商業の土台ができ、その後、住宅、工場、映画、商業が別々の理由で集まりました。菖蒲園は都市化の中で姿を消しました。
1904年4月11日、現在のJR蒲田駅が東海道本線上の駅として開業し、後に現在の京浜東北線につながる都市近郊交通の駅となりました。
駅の開業によって行楽客や通勤者が行き交い、工場の原料・製品輸送、住宅開発、駅前の食堂・旅館・商店の形成が進みました。
1922年10月6日、池上電気鉄道の池上線が池上―蒲田間で開業しました。1923年11月1日には目黒蒲田電鉄の丸子―蒲田間が開業し、目黒―蒲田間の目蒲線が全通します。現在の多摩川線につながる路線です。

写真は2010年の蒲田駅です。JRと東急が接続し、駅ビル、バス、東西の商業地へ人が流れる交通拠点となっています。
蒲田駅は都心へ向かう駅であると同時に、池上・多摩川沿いの住宅地と工業地を結ぶターミナルになりました。鉄道会社が沿線開発と交通網を組み合わせた全体像は、東急・京急など私鉄が東京圏をつくった歴史でも詳しく解説しています。
1920年、蒲田に映画撮影所が来た
1920年6月、松竹は松竹キネマ蒲田撮影所を開所しました。場所は現在の大田区民ホール・アプリコ、アロマスクエア周辺です。候補地には井の頭公園付近、国府津海岸、大宮公園、鶴見の花月園付近などがありました。蒲田は国鉄蒲田駅に近く、東京・横浜方面とつながり、まとまった土地を確保できたことから選ばれました。
松竹は中村化学研究所の跡地約9000坪と煉瓦造りの事務所を取得し、自然光を取り入れるグラスステージ、人工光線を使うダークステージ、事務所、俳優学校などを置きました。

映画製作には監督や俳優だけでなく、撮影、照明、美術、大道具、衣装、現像、脚本、編集、宣伝、配給を担う人々が必要でした。蒲田には映画関係者が通い、周辺に住み、飲食、下宿、衣料、運送、娯楽の需要が生まれました。2026年9月20日の散歩で撮影所跡や旧市街を現地で見るポイントは、蒲田歴史散歩の予習ガイドにまとめています。
撮影所産業が成立する前提となった映像装置と上映文化については、撮影機・映写機・スクリーン上映から映画誕生を解説した記事も参照してください。
松竹キネマ蒲田撮影所の開所後、蒲田は「モダン蒲田」と呼ばれるようになりました。俳優や映画関係者が多く住み、「流行は蒲田から」と言われるほど活気があったようです。
当時は農地、住宅、工場、商店、撮影所、鉄道が隣り合い、映画製作と日常生活が近接していました。松竹はアメリカから技術者を招き、監督を中心に製作を進めるシステム、俳優学校、照明・撮影設備を導入しました。家族、夫婦、仕事、都市生活など、観客に近い題材を扱う現代劇が重視されました。
1924年に撮影所長となった城戸四郎を中心に、温かさと希望を持って人間の生活を描く「蒲田調」が形成されたと松竹は説明しています。小津安二郎、島津保次郎、清水宏、五所平之助、田中絹代らは、蒲田期の松竹映画を代表する人物です。1931年、五所平之助監督『マダムと女房』は、日本初の本格的トーキー長編劇映画の成功作として知られます。音声の導入によって撮影所に必要な設備と環境が変わり、後の大船移転につながりました。
蒲田の位置づけを日本全体の流れから見るには、活動写真から撮影所・トーキー・映画黄金期までをたどる日本映画史が役立ちます。
1920年代の蒲田には映画人が集まり、飲食、下宿、娯楽の需要が生まれました。撮影所は駅前の消費文化と街の華やかさを強めました。
撮影所は1936年に閉鎖され、その後、戦時統制、空襲、敗戦、土地の区画整理、高度経済成長、建物更新が続きました。現在の蒲田四丁目、西口路地、バーボンロードの店舗は、この過程を経て形成されています。
映画都市の記憶はアプリコ、松竹橋、地域文化に残りましたが、現在の夜間商業は戦後復興と駅前商業の再編を経て形成されました。
1936年、撮影所が大船へ移転した
1936年、松竹は蒲田撮影所を閉鎖し、神奈川県の大船へ移転しました。トーキー設備、敷地の狭さ、周辺工場の騒音が主な条件として挙げられます。無声映画からトーキーへ移ると、録音室、防音ステージ、ダビング設備などが必要になり、松竹は大量製作に対応する近代的な撮影所を求めました。国立映画アーカイブは、蒲田時代の約7000坪から大船の約3万坪へ拡大したと説明しています。
松竹の社史的資料は、軍備拡大の中で周囲が軍需工場へ変わり、近隣の機械工場の音がトーキー録音の妨げになったと説明しています。
工業化、軍需化、トーキー化、撮影所拡張という複数の変化が同じ土地で衝突しました。移転後、蒲田調は大船調へ受け継がれ、跡地には現在、区民ホール・アプリコが建ちます。敷地には1986年の映画『キネマの天地』で再現された松竹橋が残っています。
蒲田はなぜ町工場の街になったのか
蒲田と大田区の工業化は、松竹撮影所以前から進んでいました。大田区の蒲田西景観資料は、現在の新蒲田に、和文タイプライターの祖とされる黒澤商店が1918年、「黒澤村」と呼ばれた職住一体型の工場を建設したと説明しています。1919年には大倉陶園も拠点を構えました。
職住一体型の工場では、働く人が周辺に住み、商店、食堂、銭湯、学校が必要になります。大田区の工業は、その後、金属、機械、精密加工を中心に発展しました。
現在の大田区公式資料では、製造業事業所は東京都内で最多とされ、2026年公表の説明では従業員9人以下の企業が約8割を占めます。切削、プレス、成形、研磨、鋳造、鍛造、メッキなどを得意とする企業が、設計、材料、加工、表面処理、組立を分担し、短い距離で仕事をつなぎます。
工場集積は下丸子、矢口、大森南、東糀谷、本羽田、六郷など広い範囲にあります。蒲田駅は、工場そのものの中心に加え、行政、商業、教育、交通、産業支援を結ぶ中心地です。大田区東部で工場と住宅が別の時間を刻んだ例は、工場の町と都営住宅が重なった東糀谷6丁目の歴史で詳しく解説しています。
松竹キネマ蒲田撮影所と町工場は別の産業ですが、分業、技能、短納期の調整、都市への近さという共通点がありました。映画は監督、撮影、照明、美術、衣装、現像、編集が分業し、町工場は切削、研磨、メッキ、組立などを分業します。どちらも、光、音、材料、寸法、表面、道具を理解する技能によって成り立ちます。映画の撮影現場も町工場の受発注も、工程間の調整が重要です。顧客、会社、配給、交通、労働者に近い立地が必要でした。
町工場で働く人は仕事の後に食事をし、同僚と飲むことがありました。交替勤務、早番、夜勤によって、夕方以外にも飲食需要が生まれました。取引先、運送業者、出張者、技術者、営業担当者も駅前を利用しました。さらに商店勤務者、行政職員、学生、映画館の観客、地域住民、鉄道利用者、羽田関係者が加わり、飲食街は複数の客層を受け入れました。
1945年、戦災と物資不足が街を変えた
1945年、蒲田周辺は空襲を受け、住宅、商店、工場、鉄道周辺、公共施設など多くの建物が失われました。敗戦後は食料、衣料、燃料、住宅、仕事が不足し、駅前に生活物資を求める人と小商いを始める人が集まりました。露店、仮設店、中古品、食料、飲食、修理、非公式な取引が混在しました。統制品、公定価格外の取引、無許可営業などを含む非公式市場です。道路・空地などで営業する店で、合法・非合法、許可・無許可が混在しました。小屋や簡易建物を集め、一定の管理下で営業する市場です。
蒲田にも戦後の非公式商業や露店がありました。戦後市場を地域ごとに区別して考えるには、新宿・上野・池袋・渋谷の闇市を比較した記事も参照してください。
戦後、駅前商業と飲食街はどう再編されたのか
戦後の蒲田駅周辺は、戦災復興土地区画整理によって現在につながる都市構造を整えました。
露店や仮設店は、移転、共同店舗への入居、常設店舗の建設、商店会の結成、廃業、業態転換などを経ました。蒲田駅西口には、サンロード、サンライズなどのアーケード商店街と周辺の路地飲食街が形成されました。

写真は2009年のサンロード蒲田入口です。アーケード、駅近くの小規模店舗、買い物と飲食が連続する街路を示しています。西口では食品や日用品を買う人、駅ビルや商店街を利用する人、近隣住民、仕事を終えた人が同じ駅前を行き交い、生活商業と夜間飲食が重なりました。
二つの蒲田駅と羽田空港が人を運んだ
JR・東急の蒲田駅と京急蒲田駅は別の駅で、駅間には商店街、飲食店、ホテル、行政施設が並びます。
京急蒲田駅の前身は1901年2月1日に「蒲田」として開業し、1902年6月28日には現在の空港線の前身となる蒲田―稲荷橋間の羽田支線が開業しました。駅名は1925年に京浜蒲田、1987年に京急蒲田となりました。京急蒲田は品川・都心方面、川崎・横浜方面、羽田空港方面を分ける駅です。2012年、連続立体交差事業で上下線の高架化が完了し、28か所の踏切が除去されました。

写真は2022年の京急蒲田商店街「あすと」で、現在の高架駅とJR蒲田方面へ続く東側商業地の関係を示します。
羽田空港は、早朝便・深夜便を利用する宿泊客、空港・航空関連で働く人、出張者、旅行者、乗換客の需要を加えました。地域住民、公共施設利用者、工場・商店勤務者、学生など地元の需要も駅前商業を支えています。
羽田空港で航空機整備が行われる現場は、羽田空港の機体工場を見学した開催レポートで紹介しています。
蒲田の駅周辺は、西口、東口、京急蒲田で人の流れと街区が異なります。東急の駅、駅ビル、サンロード、サンライズ、バーボンロードと呼ばれる路地、住宅地が近接し、買い物、通勤、飲食、黒湯銭湯が重なります。
大田区役所、大田区民ホール・アプリコ、ホテル、飲食店、雑居ビル、蒲田四・五丁目の商業地があり、松竹撮影所跡の記憶と行政・文化・夜間商業が近接します。京急本線・空港線、高架駅、あすと、第一京浜、住宅、町工場、羽田方面への商業軸があり、空港アクセスと地域生活の両方を担います。
黒湯温泉はなぜ蒲田に多いのか
大田区の臨海部周辺には、淡褐色から黒褐色の黒湯が広く分布しています。土中の古代植物などが分解・発酵して生じたフミン酸、腐植質などの有機物が色の要因です。また、臨海部の地層に含まれる古い海水を由来とする「化石水」とされることがあります。
非火山性の温泉で、黒い色と温度は別の性質です。源泉温度が25度以下の施設もあり、銭湯では加温して浴槽へ入れる場合があります。
蒲田周辺に黒湯銭湯が多い背景には、人口密集地で共同浴場の需要があったこと、工場と住宅が混在したこと、自宅に内風呂がない住宅が多かったこと、地下水・温泉を利用できたこと、地域の銭湯文化が営業を支えたことがあります。
黒湯は、工場・住宅・商店街が密集する蒲田で、入浴、休息、地域交流を支える生活文化でした。仕事の後に入浴し、湯上がりに食事をすることはあり、一部の温泉施設は大広間、食事、宴会を組み合わせました。黒湯銭湯の多くは住宅地で日常の入浴に利用されました。
なぜ蒲田に小さな飲食店と路地が残ったのか
現在の蒲田では、大型駅ビルと小さな路地店が隣り合います。
- 戦災復興期の街区に小さな敷地と店舗が残った
- 生活商店街と住宅が近く、地域住民が昼夜に利用する
- 工場、運輸、商店、行政、サービス、空港関連など勤務時間が異なる人がいる
- JR・東急と京急の間を歩く人、バス利用者、羽田へ向かう人がいる
- 一人客、少人数、短時間の食事を受け入れる小規模店がある
路地では店と通りの距離が近く、歩きながら店を選べます。
蒲田駅西口の東急線沿いには、通称「バーボンロード」と呼ばれる飲食街があります。大田区の観光情報でも、夕方になると仕事帰りの人や観光客でにぎわう路地として紹介されています。
- 駅西口に小規模な飲食店が集まる路地がある
- 戦後復興、商店街形成、建物更新を経て現在へ続く
- 工場勤務者、通勤者、住民など多様な客を受け入れてきた
- 現在の呼称・店舗構成と戦後直後の市場は同一ではない
映画館と娯楽は撮影所移転後も残った
1936年に松竹キネマ蒲田撮影所が移転した後も、蒲田は観客の街として映画館、劇場、商業を持ち続けました。戦後の東口には映画館が複数存在し、飲食・買い物と映画鑑賞が結びついた時代がありました。
テレビ、シネマコンプレックス、配信の普及で駅前映画館の多くは姿を変えましたが、撮影所跡のアプリコ、再現された松竹橋、地域の映画イベント、地名の記憶が残ります。
再開発と新空港線は蒲田をどう変えるか
蒲田駅周辺では、交通と都市機能の再編が検討されています。大田区は2026年1月に蒲田駅周辺交通戦略を改定しました。課題には、老朽建物、耐震・防災、歩行者と自転車・車の競合、駅前広場とバス動線、JR・東急蒲田と京急蒲田の連絡、商店街の回遊性、羽田空港へのアクセス、小規模店舗の継続があります。
新空港線は東急線側と京急蒲田・空港方面のアクセスを改善する構想で、未完成の計画です。安全で分かりやすい駅前整備と、小規模飲食店、個人商店、町工場が営業を続けられる環境の両立が課題になります。東京各地の更新を比較するには、東京の再開発を歴史と制度から整理した記事も参照してください。
まとめ―蒲田は一つの産業では説明できない
蒲田では、1901年に現在の京急蒲田駅が開業し、1902年に羽田方面の支線と蒲田菖蒲園、1904年に蒲田駅、1922年に池上線、1923年に目蒲線が加わりました。複数の鉄道が東京南部の交通拠点をつくりました。
1920年には松竹キネマ蒲田撮影所が開所し、映画製作に携わる人々と蒲田調の文化が集まりました。同じ時期に、職住一体型工場や金属・機械・精密加工の産業集積も成長しました。
1936年、撮影所はトーキー量産に必要な設備と広さ、周辺工場の騒音を背景に大船へ移転しました。1945年の空襲と敗戦後、駅前には露店、仮設店、非公式な商いが生まれ、土地区画整理、店舗化、商店街形成を経て現在の商業地へ変化しました。
黒湯銭湯は、工場と住宅が近い街で入浴、休息、地域交流を支えました。JR・東急蒲田駅と京急蒲田駅の間には商店街、行政施設、ホテル、飲食店が広がり、羽田空港への交通が新しい客と働く人を加えました。
映画、工場、戦後商業、黒湯、夜の街は、一つが次の一つへ置き換わったのではなく、鉄道で人が集まる平坦な土地に重なりました。
参考文献・資料
- 大田区「松竹キネマ撮影所跡」
- 大田区「撮影所がやって来た!―大正・昭和 大田区のまちづくり」
- 大田区「16:蒲田東」
- 大田区「15:蒲田西」
- 大田区立図書館「蒲田地区その1」
- 大田区「蒲田地区の歴史・地域情報」
- 松竹「松竹の映画製作の歴史 Part1 日本と松竹の映画の歴史」
- 松竹「松竹の映画製作の歴史 Part2 日本の撮影所と松竹蒲田撮影所の開所」
- 松竹「松竹の映画製作の歴史 Part3 “母もの”と蒲田調」
- 松竹「松竹の映画製作の歴史 Part4 日本初のトーキー、そして大船撮影所へ」
- 松竹「松竹映画100周年」
- 松竹「松竹の歴史」
- 国立映画アーカイブ「戦前期の日本の映画撮影所(1)」
- 大田区「ものづくりのまち大田区」
- 大田区「大田区のものづくりの特徴」
- 大田区「ものづくりに最適な地域特性と操業環境」
- 大田区「令和6年度大田区ものづくり産業等実態調査報告書」
- 大田区「大田区の温泉」
- 大田区「都内最多!大田区の銭湯を巡ろう!」
- Unique Ota「都内最多!大田区は“温泉郷”!」
- Unique Ota「銭湯」
- 大田区「蒲田駅周辺地区」
- 大田区「蒲田駅周辺地区グランドデザインの詳細」
- 京浜急行電鉄「京急蒲田駅」
- 京浜急行電鉄「京急歴史館 現代」
- 東急電鉄「池上線の歴史」
- 東急電鉄「東急多摩川線の歴史」
- 東急「東急100年史 1918―1945 目蒲線」
- 東急「東急100年史 1918―1945 池上電鉄」
- 昭和館「大田区史」
- 昭和館「大田区史 下巻」
- 昭和館「闇市を読むための資料紹介」
- Wikimedia Commons「4 Chome Kamata, Ota-ku, Tokyo」
- Wikimedia Commons「SHOCHIKU Studios kamata 1920s」
- Wikimedia Commons「Kamata station」
- Wikimedia Commons「Keikyu Kamata Shopping Street Asuto」
- Wikimedia Commons「Sunroad kamata entrance」

