2001年10月、暗い海上から巡航ミサイルが発射されました。20年後の2021年8月、カブール空港では、国外へ逃れようとする人々が輸送機へ乗り込みました。
この二つの場面の間にあったのが、一般に「アフガニスタン戦争」と呼ばれる長い戦争です。
ただし、この戦争を「アメリカ軍がタリバンと20年間戦った」とだけ説明すると、全体像は見えません。2001年の介入は、9・11同時多発テロを実行したアルカイダを攻撃し、その組織を保護していたタリバン政権を崩すことから始まりました。ところが、その後の目標は、治安維持、選挙、行政、軍・警察、教育、医療、道路、農業を含む国家建設へ広がります。タリバンは反乱勢力として再編され、戦争は長期化しました。
この記事では、2001年の軍事作戦開始から2021年の政府崩壊と退避までを、27点の写真・地図でたどります。
最初に、写真資料の限界も確認しておきましょう。掲載画像の大半は、米軍、米国政府、NATO・ISAFが撮影・公開したものです。これらは、作戦、補給、援助、訓練、撤収の仕組みを知るうえで有用です。一方、タリバン支配地域の日常、空爆や夜間急襲を受けた住民、拘束された人々、現地の反政府側が見た戦争は、同じ量では記録されていません。
写真に写るものだけでなく、誰が撮影し、何を写さなかったのかも考えながら読み進めてください。
- まず30秒でわかるアフガニスタン戦争
- 2001年以前|タリバンとアルカイダは同じ組織ではない
- 9・11から軍事介入へ
- 政権を倒した後、誰が国をつくるのか
- 軍事作戦と人道支援は同時に始まった
- 医療制度の整備と、その内側にあった問題
- 戦闘が終わった場所にも不発弾は残る
- 2004年の選挙|国家建設の希望
- タリバン反乱はなぜ再拡大したのか
- 「住民を守る」対反乱作戦
- 山岳内陸国を戦う巨大な補給網
- 教育・保育の拡大と、成果の地域差
- 教育支援は情報政策でもあった
- 医療支援と民間人被害
- 村の長老と話すことも軍事作戦だった
- アフガン治安部隊を一からつくる
- 高価な装備を維持できるか
- 2014年以後|外国軍は助言任務へ
- 20年の戦争を支えた国際物流
- 2020年ドーハ合意|和平か、撤退合意か
- 2021年、なぜ政府は急速に崩壊したのか
- カブール空輸|20年の終幕
- アメリカは「負けた」のか
- 犠牲者数はなぜ資料によって違うのか
- 戦争犯罪と人権侵害
- 日本はアフガニスタン戦争と無関係だったのか
- 2021年以後|戦争が終わっても問題は終わらない
- まとめ|20年で見えたのは、軍事力と国家建設の違い
- よくある質問
- 関連記事
- 参考文献・一次資料
まず30秒でわかるアフガニスタン戦争
| 時期 | 主な出来事 | 戦争の意味 |
|---|---|---|
| 1979~1989年 | ソ連軍がアフガニスタンへ介入 | ムジャヒディン諸勢力が抵抗 |
| 1989~1996年 | ソ連撤退後も内戦が続く | 国家機構が崩れ、軍閥が対立 |
| 1996年 | タリバンがカブールを制圧 | 厳格なイスラム統治、アルカイダを保護 |
| 2001年9月11日 | アルカイダが米国で同時多発テロ | 米国が対テロ戦争を開始 |
| 2001年10~12月 | 米軍と反タリバン勢力が攻勢 | タリバン政権崩壊、暫定政権発足 |
| 2002~2006年 | 復興、憲法、選挙、ISAF拡大 | 軍事介入が国家建設へ広がる |
| 2006~2014年 | タリバン反乱が激化 | 国際部隊増派、民間人被害も拡大 |
| 2015~2020年 | アフガン治安部隊が戦闘の中心へ | 外国軍は訓練・助言中心へ |
| 2020年 | 米国とタリバンがドーハ合意 | 外国軍撤退の道筋が決まる |
| 2021年8月 | タリバンが全国を急速に制圧 | 共和国政府崩壊、カブール空輸 |
| 2021年8月30日 | 米軍が撤退完了 | 米国最長の戦争が終了 |
結論を先に述べると、タリバン政権を倒すことと、安定した国家をつくることは別の課題でした。前者は数週間で達成されましたが、後者には政治的正統性、地方社会との関係、汚職対策、持続可能な財政、独立して動ける軍・警察、周辺国を含む和平が必要でした。
米国と国際社会は巨額の資金と人員を投入しました。しかし、短い期限で成果を求め、現地制度への理解が不足し、外国の資金・航空支援・請負業者へ依存する国家と軍をつくりました。タリバンも、国境を越える避難場所、麻薬や課税を含む資金源、地域ネットワークを利用して戦い続けました。
2001年以前|タリバンとアルカイダは同じ組織ではない
アフガニスタンは1979年のソ連軍介入、その撤退後の内戦によって長く破壊されました。反ソ勢力として戦ったムジャヒディンは一枚岩ではなく、民族、地域、指導者、外国支援先の異なる複数勢力でした。1992年に共産政権が崩壊しても、内戦は終わりませんでした。
その混乱のなかで台頭したのがタリバンです。タリバンは主に南部のパシュトゥーン人地域を基盤とし、治安回復とイスラム秩序を掲げました。1996年にカブールを制圧し、国土の大部分を支配します。女性の就学・就労を大きく制限し、公開処刑など厳しい統治を行いました。
一方、アルカイダは国際的なジハード主義組織です。指導者オサマ・ビンラディンはアフガニスタンを拠点に訓練施設を運営し、各国の支持者を結びました。
タリバンとアルカイダは協力関係にありましたが、同じ組織ではありません。タリバンはアフガニスタンの支配を主目的とし、アルカイダは国境を越えた攻撃を目指しました。この違いは、開戦理由と、その後の和平交渉を理解するうえで重要です。
9・11から軍事介入へ
2001年9月11日、アルカイダの実行犯が旅客機を乗っ取り、ニューヨークの世界貿易センタービルと米国防総省を攻撃しました。米国はタリバン政権に対し、ビンラディンらの引き渡し、アルカイダ施設の閉鎖などを要求します。
交渉と要求は決着せず、10月7日、米国と英国はアフガニスタンへの攻撃を開始しました。
写真は2001年10月7日、米艦から発射されるトマホーク巡航ミサイルです。戦争の始まりを象徴する写真ですが、ミサイルだけで政権が崩れたわけではありません。
米国は空爆、特殊部隊、CIA要員を投入し、タリバンと敵対していた北部同盟などの現地勢力を支援しました。

馬に乗る米特殊部隊員の姿は、最新兵器と現地の地理・政治ネットワークが組み合わされた初期作戦の特徴を示します。米軍は地上で大部隊を一から展開するのではなく、現地勢力へ航空支援、情報、資金、助言を提供しました。
タリバン政権は短期間で主要都市を失い、2001年12月にはカンダハルからも撤退します。しかし、タリバンという組織が消滅したわけではありません。指導者や戦闘員の多くは地方や国境地帯へ退き、後に反乱を再開しました。
政権を倒した後、誰が国をつくるのか
タリバン政権崩壊後、国際社会とアフガニスタン各勢力はドイツのボンで新しい政治体制を協議しました。ボン合意に基づき暫定行政機構が設けられ、ハミド・カルザイがその中心となります。

カルザイと米特殊部隊員を写した写真は、新政権の形成が軍事介入と密接に結びついていたことを示します。
新しい体制は、旧タリバン政権に代わる中央政府をつくり、憲法、選挙、行政、軍、警察、司法を整備しようとしました。ただし、ボン会議にタリバンは参加していません。反タリバン勢力や国外にいた政治家が中心となった制度は、当初からすべての地域・勢力を包み込めたわけではありません。
国連安全保障理事会は2001年12月、国際治安支援部隊ISAFを承認しました。当初の任務地域は主にカブールと周辺でしたが、2003年にNATOが指揮を引き継ぎ、のちに任務範囲は全国へ拡大します。
軍事作戦と人道支援は同時に始まった

写真は、航空投下用に準備された人道支援用の食料パックです。米国は爆撃と並行して食料を投下しました。
これは、介入が初めから「敵を攻撃する軍事行動」と「住民を支援する援助活動」を同時に含んでいたことを示します。
ただし、軍事作戦と援助を同じ主体が行うと、住民から見て支援者と戦闘員の区別が曖昧になります。援助団体にとっては、中立性や安全確保が難しくなる問題がありました。

2002年、USAIDの小麦を積み上げる作業員の写真です。食料援助は飢餓を防ぐ重要な役割を果たしましたが、外国から大量の穀物を持ち込むことは、地域の農業市場へ影響を与える場合もあります。
緊急援助と長期的な自立は、必ずしも同じ方向を向くわけではありません。
医療制度の整備と、その内側にあった問題

カブールのダウド・ハーン軍病院は、アフガン治安部隊の医療を支える重要施設でした。外国の資金と訓練によって設備や制度が整えられました。
しかし、国際支援で立派な建物をつくることと、その施設を長期的に運営することは別です。医薬品の調達、人事、給与、監督、患者の扱い、汚職防止が必要でした。
米国の監察機関は、この病院をめぐる横領、患者への不適切な扱い、監督不足を調査しました。国家建設の失敗は、建物がないことだけではなく、制度を運営する責任と監査が機能しないことにも表れました。
戦闘が終わった場所にも不発弾は残る

2004年、不発弾で負傷した少年を搬送するため、医療ヘリがガルデーズへ到着した場面です。
アフガニスタンには、ソ連介入期、内戦、タリバン政権期、2001年以後の戦闘で残された地雷や不発弾が広く存在しました。戦闘が終わった地域でも、子どもや農民が爆発物に触れて負傷する危険が続きます。
戦争の被害は、停戦や政権交代の日に終わるわけではありません。
2004年の選挙|国家建設の希望

2004年、アフガニスタンでは新憲法に基づく大統領選挙が行われました。写真は投票する女性です。
女性が公的な政治参加を行うことは、タリバン政権下の制限からの大きな変化でした。学校へ通う女子、大学で学ぶ女性、議会や行政で働く女性も増えました。
ただし、選挙が行われたことだけで、国家への信頼が定着したわけではありません。不正疑惑、地方有力者の影響、治安悪化、投票所へのアクセス格差がありました。
都市部で見える制度的成果と、地方での安全・慣習・経済条件には大きな差がありました。
タリバン反乱はなぜ再拡大したのか
タリバンは2001年末に政権を失いましたが、2000年代半ばから反乱を拡大しました。
理由は一つではありません。
- パキスタン国境地帯を含む避難場所と補給路
- 中央政府や地方警察への不信
- 汚職、縁故主義、司法への不満
- 外国軍の空爆や夜間急襲による反発
- 地方有力者や軍閥への反感
- 麻薬取引、課税、寄付などの資金源
- 宗教学校、親族、村落を通じた動員網
ケシ栽培と麻薬経済も重要でした。ただし、麻薬を「タリバンだけの産業」と見るのは正確ではありません。農民、仲買人、運送業者、政府関係者、武装勢力、国際犯罪市場が結びつく複雑な経済でした。
「住民を守る」対反乱作戦

写真は2009年、ラジャン・カラで人道支援物資を降ろす兵士です。
米軍とNATOは、敵を倒すだけでなく、住民を守り、政府への支持を高める「対反乱作戦」を重視しました。道路、井戸、学校、診療所、農業支援などを通じ、地域社会との関係を築こうとしました。
しかし、軍が援助を配ると、支援は治安上の目的と結びつきます。協力した住民がタリバンから狙われる危険もありました。
また、短期間の部隊交代では、地域の言語、権力関係、土地紛争、親族関係を十分に理解しにくいという問題がありました。
山岳内陸国を戦う巨大な補給網

2007年、ケシ畑でCH47ヘリから補給物資を降ろす米兵です。
アフガニスタンは海に面していません。山岳地帯が多く、道路も限られています。燃料、水、食料、弾薬、医薬品、交換部品を前線基地へ届けるには、航空機、ヘリ、トラック、周辺国を通る輸送路が必要でした。

2010年、ザーブル州の前線基地へ物資を届けたCH47ヘリです。
外国軍は、空輸、衛星通信、精密な整備、請負業者、世界規模の物流によって戦争を続けました。
この仕組みは強力でしたが、非常に高価でした。そして、同じ仕組みをアフガニスタン政府が自力で維持することは困難でした。
教育・保育の拡大と、成果の地域差

写真は、アフガニスタン農業省内の幼稚園で過ごす子どもたちです。
2001年以後、学校数、就学者数、女子教育、大学、職業訓練は大きく拡大しました。都市部では、女性が働くための保育施設も重要でした。
ただし、この写真は首都の政府施設内で撮影されたものです。全国の子どもが同じ環境を得たわけではありません。
地方では、学校までの距離、教師不足、治安、貧困、家族の判断、タリバンの圧力によって通学できない子どもも多くいました。

地方復興チームPRTが学用品を配る写真です。PRTは軍人と文民専門家が協力し、治安と復興を結びつける仕組みでした。
学校建設や物資配布は目に見える成果です。一方、誰が教師の給与を払い、教材を更新し、校舎を修理し、安全を守るのかという持続性の問題が残りました。
教育支援は情報政策でもあった

ガズニのリンカーン・ラーニング・センターで、学生と話す米国副大使と州知事です。
英語教育、図書館、インターネット、職業訓練は、若者の機会を広げました。同時に、米国は教育支援を、民主主義や国際協力への理解を広げる外交政策としても位置づけました。
支援は善意だけでなく、政治的目的を持つことがあります。受け取る側も、単に価値観を受け入れるのではなく、雇用、資格、海外留学、地域の名声など、さまざまな目的で利用しました。
医療支援と民間人被害

負傷した子どもを救護する米軍医療要員の写真です。
外国軍は、戦闘で負傷した兵士や住民を搬送し、設備の乏しい地域で治療を行いました。
一方、国際部隊とアフガン政府側の空爆、地上戦、夜間急襲でも民間人が死傷しました。タリバンなど反政府勢力による自爆攻撃、路肩爆弾IED、標的殺害も、多数の民間人を犠牲にしました。
民間人被害をどちらか一方の陣営だけの問題として語ることはできません。
同じ軍が、ある場面では子どもを救い、別の作戦では住民を危険にさらす。この矛盾も、戦争の現実です。
村の長老と話すことも軍事作戦だった

村の長老と話す米兵です。
アフガニスタンの地方社会では、国家の行政機関より、村の長老、宗教指導者、部族・親族関係、地方有力者が重要な場合があります。
外国軍は、情報を得るため、紛争を仲介するため、道路や学校の場所を決めるため、地域の指導者と会談しました。
しかし、誰を「地域の代表」とみなすかは簡単ではありません。ある長老を支援すれば、別の一族や勢力との対立を強める場合もあります。
国家建設は、制度を上から導入するだけでなく、地域社会の権力関係を理解する必要がありました。
アフガン治安部隊を一からつくる
外国軍がいつか撤退するためには、アフガニスタンの軍と警察が自国の治安を担う必要がありました。

新兵に識字教材を教える場面です。
読み書きが十分でない兵士にとって、命令書、地図、整備記録、給与台帳、薬品、通信機器を扱うことは難しい課題でした。軍隊づくりは、銃の訓練だけでなく、基礎教育から始める必要がありました。

ガルデーズの訓練センターで、アフガン国軍教官が戦闘訓練を監督しています。
外国人教官が直接教えるだけでは、撤退後に制度が残りません。アフガン人がアフガン人を訓練する仕組みをつくることが重視されました。

航空隊員の射撃訓練です。外国製の武器、制服、階級制度、教範が導入されました。

歩兵戦闘課程の訓練です。
問題は、訓練を終えた人数と、実際に継続勤務して戦える人数が同じではないことでした。
名簿に載るが実在しない「幽霊兵士」、給与の抜き取り、脱走、長期休暇、死傷、部隊間の人数重複がありました。
30万人を超えるとされた治安部隊の数字は、実際の稼働兵力や持続可能な戦力をそのまま意味しませんでした。
高価な装備を維持できるか

悪路運転訓練を行う機動打撃部隊です。
車両、無線、暗視装置、航空機、監視機器は、戦闘能力を高めます。しかし、高度な装備には燃料、部品、整備士、物流、契約管理が必要です。
アフガン空軍や特殊部隊は、外国軍が縮小した後も重要な戦力でした。しかし、航空機の整備や補給は外国人請負業者に強く依存していました。

2013年、兵士になるため訓練を受ける新兵たちです。
個々の兵士が勇敢であっても、弾薬が届かず、負傷者を搬送できず、給与が支払われず、上官が逃げれば、部隊は戦えません。
軍の強さは、人数や武器の数だけではなく、補給、指揮、信頼、将来への見通しで決まります。
2014年以後|外国軍は助言任務へ
ISAFは2014年末に終了しました。2015年からNATOは「確固たる支援任務」を開始し、主に訓練、助言、支援を担当しました。
アフガン治安部隊が戦闘の中心となり、外国軍は直接戦闘を縮小しました。ただし、米軍は対テロ作戦、空爆、特殊作戦を続けました。
表面上は「アフガン化」が進みましたが、航空支援、情報収集、整備、資金、補給の多くは国外支援に依存していました。
20年の戦争を支えた国際物流

画像は、中央アジアを経由する北方補給網の地図です。
アフガニスタンへ物資を運ぶ主要経路は、パキスタンの港と道路でした。しかし、国境封鎖や政治関係の悪化に備え、米国とNATOはロシア、中央アジア、コーカサス、欧州を結ぶ北方補給網も利用しました。
戦争は、アフガニスタン国内だけで完結していません。周辺国の鉄道、港、道路、空域、外交関係に支えられていました。
この巨大な仕組みは、外国軍には維持できても、アフガニスタン政府が独力で再現できるものではありませんでした。
2020年ドーハ合意|和平か、撤退合意か
2020年2月29日、米国とタリバンはカタールのドーハで合意に署名しました。
重要なのは、この合意の署名当事者が米国とタリバンであり、アフガニスタン共和国政府は署名していないことです。
合意には、外国軍撤退、タリバン側のテロ対策保証、捕虜問題、アフガン人同士の協議開始が含まれました。
しかし、恒久停戦、憲法、女性の権利、権力分配、軍の統合について最終合意が成立したわけではありません。
ドーハ合意は、和平への入口であると同時に、外国軍撤退の期限を具体化した合意でした。
2021年、なぜ政府は急速に崩壊したのか
2021年、外国軍が撤退を進めると、タリバンは地方都市を次々に制圧しました。
政府軍崩壊の理由は、兵士個人の「臆病さ」ではありません。
- 航空支援と整備支援の縮小
- 補給・給与・食料の不足
- 政府指導部への不信
- 地方司令官とタリバンの降伏交渉
- 米軍撤退が生んだ「いずれ政府は倒れる」という予測
- 腐敗と指揮系統の混乱
- 長年の死傷と疲弊
多くの部隊は、首都から孤立し、弾薬や食料が尽き、地域ごとに降伏しました。
8月15日、タリバンはカブールへ入り、ガニー大統領は国外へ退避しました。共和国政府は崩壊しました。

8月17日、カブール空港で米中央軍司令官らが撤収を協議しています。
この時点で、戦争の目的は国家建設や反乱鎮圧ではなく、空港を確保して人々を国外へ運ぶことへ縮小していました。
カブール空輸|20年の終幕

8月21日、避難者がC17輸送機へ乗り込む場面です。
米国と同盟国は、自国民、外交官、協力者、危険にさらされたアフガニスタン人を退避させました。

米軍部隊は空港の航空機と滑走路を警護しました。
8月26日、空港のアビー・ゲート周辺でISIS-Kが自爆攻撃を行い、米兵と多数のアフガニスタン人が死亡しました。この攻撃はタリバンによるものではありません。
8月末、米軍は撤退を完了しました。

ラムシュタイン基地に到着した避難者です。
空輸は多くの人を救いましたが、退避できなかった協力者、活動家、女性、少数派も残されました。
20年の戦争は、勝利式典ではなく、空港での退避によって終わりました。
アメリカは「負けた」のか
米軍が通常戦闘で全面壊滅したわけではありません。米国はタリバン政権を倒し、アルカイダの拠点を破壊し、ビンラディンを殺害しました。
しかし、目標は途中で拡大しました。持続可能な共和国政府、独立して機能する治安部隊、タリバンを含む安定した政治秩序を残すことはできませんでした。
その意味で、米国と同盟国は、設定した政治的目標を達成できなかったといえます。
一方、タリバンは政権へ復帰しましたが、国際的承認、経済、人道危機、統治能力、ISIS-Kとの戦いという問題を抱えています。
戦争の勝敗は、戦場で誰が多く勝ったかだけでなく、どの政治秩序が残ったかで判断する必要があります。
犠牲者数はなぜ資料によって違うのか
アフガニスタン戦争の犠牲者数は、資料によって異なります。
理由は、集計する期間、地域、軍人と民間人の区分、行方不明者、間接死、報告できなかった地域、二重計上の除外方法が違うためです。
戦闘による直接死だけを数える資料もあれば、医療崩壊、避難、栄養失調など戦争の間接的影響を含める研究もあります。
したがって、一つの数字を絶対値として断定するより、何を数えた数字なのかを確認する必要があります。
戦争犯罪と人権侵害
タリバンや他の反政府勢力は、自爆攻撃、IED、民間施設への攻撃、標的殺害、拉致を行いました。
政府側治安部隊、外国軍、CIA関連施設でも、拘束者への虐待、拷問、超法規的殺害、空爆による民間人被害が問題となりました。
国際刑事裁判所、各国軍の調査、国連、報道機関、人権団体は、複数陣営の行為を調べてきました。
ここでも重要なのは、ある側の犯罪を指摘することが、別の側の犯罪を否定する理由にはならないという点です。
日本はアフガニスタン戦争と無関係だったのか
日本はアフガニスタンで地上戦を行った交戦国ではありません。しかし、戦争と復興に関与しました。
2001年のテロ対策特別措置法に基づき、海上自衛隊はインド洋で、海上阻止活動などに参加する外国艦艇への補給支援を行いました。
外交・復興面では、日本は2002年に東京でアフガニスタン復興支援国会議を開催しました。武装解除・動員解除・社会復帰DDR、道路、農業、教育、保健、警察、選挙、文化財保護などを支援しました。
日本人医師の中村哲とペシャワール会は、医療に加えて用水路建設を進め、干ばつ地域の農業と生活を支えました。ただし、政府支援と民間活動は同じものではないため、区別して理解する必要があります。
日本の関与は、武力を使わない支援が何を達成できるか、治安悪化のなかで支援者をどう守るか、援助を現地社会に根づかせるには何が必要かという問いを残しました。
2021年以後|戦争が終わっても問題は終わらない
タリバン復権後、戦闘の規模は以前より縮小しました。しかし、ISIS-Kによる攻撃は続き、旧政府関係者や少数派の安全も問題となりました。
女性と女子に対する教育・就労・移動・公共生活の制限は拡大しました。外国援助の縮小、経済制裁、資産凍結、干ばつ、失業が重なり、人道危機が深刻化しました。
米国とNATOにとって戦争は終わりましたが、アフガニスタンの人々にとっては、政治体制、人権、貧困、避難、国際的孤立という問題が続いています。
まとめ|20年で見えたのは、軍事力と国家建設の違い
アフガニスタン戦争は、9・11への対テロ作戦として始まりました。タリバン政権は短期間で崩れましたが、戦争の目的は国家建設へ広がりました。
国際社会は、選挙、教育、医療、道路、通信、軍・警察へ巨額の資金を投入しました。成果はありました。しかし、国外資金、外国軍の航空・情報、請負業者、複雑な補給網へ依存する制度は、支援が引いたときに急速に弱体化しました。
タリバンの復権は、「最新兵器が山岳ゲリラに負けた」という単純な物語ではありません。政治的正統性、地方社会、周辺国、汚職、財政、補給、士気、和平交渉、撤退時期が重なった結果です。
公文書写真は、そのすべてを写してはいません。それでも、ミサイル、馬上の特殊部隊、食料、病院、投票所、補給ヘリ、識字教室、訓練施設、空港、避難者を順に見ると、戦争がどのように「攻撃」から「国家建設」へ広がり、最後に「退避」へ縮んだのかが見えてきます。
よくある質問
アフガニスタン戦争はなぜ始まったのですか?
直接の契機は2001年9月11日の同時多発テロです。米国は、攻撃を実行したアルカイダと、その指導部を保護していたタリバン政権を攻撃しました。ただし、その後は対テロ作戦だけでなく、新政府の設立、復興、治安部隊育成、反乱鎮圧へ目的が拡大しました。
タリバンとアルカイダは同じ組織ですか?
違います。タリバンは主にアフガニスタンの支配を目標とする運動で、アルカイダは国際的な攻撃を目標とする組織です。両者は協力関係にありましたが、目的、組織、構成は同一ではありません。
NATOはいつから参加したのですか?
国連安全保障理事会は2001年12月にISAFを承認しました。NATOは2003年8月にISAFの指揮を引き継ぎ、任務地域はカブール周辺から全国へ拡大しました。ISAFは2014年末に終了し、2015年から訓練・助言中心の「確固たる支援任務」へ移行しました。
2021年にアフガン軍はなぜ短期間で崩壊したのですか?
兵士が一斉に戦意を失ったという一因だけでは説明できません。外国軍の航空・情報・整備支援の縮小、補給と給与の問題、政府指導部への不信、タリバンによる地域ごとの降伏交渉、撤退決定が生んだ将来予測などが重なりました。
ドーハ合意で戦争は終わったのですか?
終わっていません。2020年の合意は米国とタリバンの間で結ばれ、外国軍撤退の道筋を定めました。アフガニスタン政府とタリバンの恒久停戦・権力分配は成立せず、戦闘は2021年まで続きました。
日本は何をしたのですか?
海上自衛隊がインド洋で補給支援を行い、日本政府は復興会議、DDR、道路、農業、教育、保健、警察支援などに関与しました。JICAやNGOも活動しました。中村哲とペシャワール会の活動は政府事業ではなく、民間の長期的支援です。
アフガニスタン戦争は終戦したのですか?
米国とNATOの戦争は2021年8月の撤退で終了しました。ただし、タリバン統治下でもISIS-Kの攻撃、人権問題、人道危機、政治的承認の問題は続いています。
関連記事
- 写真でたどるベトナム戦争|分断・米軍介入・テト攻勢・撤退まで
- 写真でたどる朝鮮戦争|分断・侵攻・中国参戦・休戦まで
- 写真でたどる米軍統治下の沖縄|「アメリカ世」の27年間に何が起きたのか
- 「戦争・記憶・人権」の解説記事一覧
参考文献・一次資料
- The 9/11 Commission Report
- Bonn Agreement
- United Nations Security Council Resolution 1386 (2001)
- NATO and Afghanistan
- NATO, Resolute Support Mission in Afghanistan
- SIGAR, What We Need to Learn: Lessons from Twenty Years of Afghanistan Reconstruction
- UNAMA, Protection of Civilians Reports
- U.S. Department of State, Agreement for Bringing Peace to Afghanistan
- Brown University Watson Institute, Costs of War
- 外務省「アフガニスタン」
- JICA「アフガニスタン」
- 防衛省「テロ対策特別措置法に基づく活動」

