1983年4月15日、東京ディズニーランドが千葉県浦安に開園しました。現在の舞浜駅周辺にはホテルや商業施設が並び、国内外から多くの人が訪れます。
来園者が歩く土地の一部は、ほんの十数年前まで東京湾の海面でした。そこは、浦安の漁師たちが舟を出し、魚や貝を採り、海苔を育てた生活の場でもありました。
海とともに生きてきた浦安は、なぜ漁業権を手放し、埋立地の上にディズニーの街をつくることになったのでしょうか。
水質汚染、本州製紙工場事件、漁獲量の減少、京葉臨海部の開発、交通不便の解消、住宅地と鉄鋼流通基地を含む都市計画、民間企業のレジャー構想、ディズニー社との交渉、金融機関の融資が、二十年以上にわたって重なりました。
- 30秒で分かる結論
- 浦安変貌の主要年表
- ディズニー以前の浦安は、どんな町だったのか
- 1958年、海が黒くなった——本州製紙工場事件
- 法律ができても海は戻らない——汚染は一つの工場だけではなかった
- 漁業の危機と、もう一つの浦安構想は並行していた
- 海を守りたい漁業者と、埋立を進めたい行政・企業
- 一部放棄しても漁業は終わらなかった——そして1971年へ
- 海だった場所に新しい町が広がる
- 最初からディズニーランドだったわけではない
- 川﨑千春・髙橋政知・堀貞一郎——役割の違う三人
- 1974年、ヘリコプターから見た浦安
- 夢だけでは造れない——契約、融資、建設
- 誤解しやすいポイント
- 浦安は何を失い、何を得たのか
- 浦安の歴史を歩く——元町から埋立地へ
- FAQ
- まとめ——夢の国の地面の下にある浦安史
- 関連記事
- 参考文献・参考資料
30秒で分かる結論
- 浦安は、遠浅の海で魚・貝・海苔を得る半農半漁の町でした。
- 1958年の本州製紙工場事件は、すでに進んでいた水質悪化を社会問題として可視化し、水質二法制定の大きな契機の一つになりました。
- 漁業権放棄の原因は一事件だけではなく、工場排水・生活排水・湾岸開発・漁場縮小・漁獲減少などの複合要因です。
- 1962年に一部放棄した後も漁業は続きましたが、環境は回復せず、1971年に全面放棄されました。
- 埋立はディズニーランド専用ではなく、住宅地、大規模レジャー施設、鉄鋼流通基地を柱とする都市開発でした。
- オリエンタルランドは1960年に設立されましたが、現在の東京ディズニーランド計画が確定したのはずっと後です。
- 1974年の誘致交渉、1979年の基本契約、22金融機関の協調融資、建設を経て、1983年に開園しました。
浦安変貌の主要年表
| 年 | 浦安で起きたこと | 意味 |
|---|---|---|
| 1958年 | 本州製紙工場事件。黒い排水、魚介類被害、陳情、工場での衝突 | 水質汚染が全国的な社会問題として認識される |
| 1959年 | 浦安沖の埋立・大規模遊園地構想が具体化。オリエンタルランド設立計画趣意書 | 漁業危機と開発構想が並行して始まる |
| 1960年 | オリエンタルランド設立 | 商住地域とレジャーランド開発を担う企業が発足 |
| 1961年 | 漁業補償交渉が本格化 | 埋立実現の前提となる合意形成へ |
| 1962年 | 共同漁業権・区画漁業権の一部放棄。県とOLCが造成・分譲協定 | 漁業を残しつつ第1期埋立へ進む |
| 1964~65年 | 第1期埋立の工事着手・造成事業本格化 | 海岸線と市域が変わり始める |
| 1969年 | 地下鉄東西線開通 | 「陸の孤島」から首都圏住宅都市へ |
| 1970年 | OLC資料では舞浜地区の埋立工事完了 | レジャー用地の基盤が形成される |
| 1971年 | 漁業権全面放棄 | 浦安の沿岸漁業が制度上大きな終点を迎える |
| 1972~74年 | 第2期埋立開始、欧米施設調査、独自レジャー基本計画、ディズニー誘致 | 独自構想からディズニーランドへ軸足が移る |
| 1977年 | 名称を「東京ディズニーランド」に決定 | 計画が具体的なテーマパーク事業へ |
| 1979年 | 4月30日にディズニー社と基本契約 | 設計・建設・運営の枠組みが確定 |
| 1980年 | 22金融機関の協調融資団結成、着工式 | 巨大事業を資金面・建設面で実行へ |
| 1983年 | 4月15日、東京ディズニーランド開園 | 漁師町から住宅・観光都市への転換を象徴 |
埋立年には、資料によって「1964年開始」「1965年造成事業着手」などの表記差があります。協定、工事の委託・着工、造成事業の期間、町域への編入をどの時点で数えるかが異なるためです。浦安市の沿革は1964年の開始、海面埋立事業ページは1965年の造成事業着手としています。
ディズニー以前の浦安は、どんな町だったのか
堀江・猫実・当代島からできた水辺の町
浦安は1889年、堀江、猫実、当代島の三村が合併して浦安村となり、1909年に町制を施行しました。西を旧江戸川、南と東を東京湾に囲まれ、東京に近い一方で陸上交通は不便でした。浦安市は戦前までの浦安を「三方を海と川に囲まれた陸の孤島」と説明しています。
人びとは舟で東京側と行き来し、魚介類を東京へ運びました。境川は、漁船の係留、荷の上げ下ろし、生活用水や往来と結びついた町の軸でした。現在の境川は埋立地を通って東京湾へ延びていますが、元町の蛇行する流れには古い集落の地形が残っています。

遠浅の海が支えた魚・貝・海苔
東京湾奥の遠浅の海と干潟は、多種の魚、アサリなどの貝、海藻を得られる豊かな漁場でした。海苔養殖や貝の加工も盛んで、海苔干し、貝むき、選別・加工、出荷には家族や地域の労働が組み合わされていました。
小型の「べか舟」は、浅い海や水路を動く浦安の漁業を象徴する舟です。現在の浦安市郷土博物館「海とともに」では、干潟、漁業、海苔養殖、貝加工、舟と道具を通して、この生活を知ることができます。
台風や高潮、洪水が繰り返し起こり、収入は天候や漁獲に左右されました。旧大塚家住宅の屋根裏は、水害時の避難や家財の保管に使われたとされます。
1958年、海が黒くなった——本州製紙工場事件
4月7日、旧江戸川から異変が広がった
1958年4月7日、旧江戸川の水が本州製紙江戸川工場の排水で黒く濁り、浦安沿岸から葛西沖にかけて海水が変色しました。魚介類の大量死が見られ、漁場と生活は直接の被害を受けました。浦安ではこの出来事を、通称「黒い水事件」とも呼びます。
浦安市の本州製紙工場事件の記録によれば、漁民は異変の直後から会社側との折衝を始め、関係官庁へ取り締まりを求めて陳情しました。それでも被害は広がり続けました。
浦安市立図書館の地域史紹介は、4月以後も汚水が流され続け、5月にも集団抗議が行われた経過を記しています。6月10日の衝突は、二か月にわたる折衝と陳情の後に起きました。
国会と都庁への陳情から、工場前の衝突へ
6月10日、漁民代表約800人は国会と東京都庁へ陳情しました。その帰路に工場へ向かいましたが、会社側は面会に応じず、監督官庁からの中止勧告後も操業を続けていたと浦安市は説明しています。
漁民は工場内へ入り、会社側の要請で出動していた機動隊と衝突しました。浦安市公式ページは、漁民の重軽傷者105人、逮捕者8人、ほかの負傷者36人と、区分を分けて記録しています。
工場設備の破壊と警察との衝突に至るまでに、被害発生から二か月にわたる折衝、陳情、操業停止要求がありました。漁民にとって排水問題は、仕事、家族の収入、将来も海で暮らせるかに直結していました。
事件は水質行政を動かしたが、海を元に戻せなかった
事件の同年12月、政府は「公共用水域の水質の保全に関する法律」と「工場排水等の規制に関する法律」を公布しました。二つは「水質二法」と呼ばれます。江戸川工場事件は、その制定を促した重要な契機の一つと位置づけられています。
戦後の工業化で各地の水質汚濁が深刻化し、規制法案の検討は事件以前から進んでいました。事件は、排水規制の遅れを政治課題として浮上させました。
水質二法は後の水質汚濁防止法へつながりましたが、浦安の漁場の回復には時間がかかりました。
法律ができても海は戻らない——汚染は一つの工場だけではなかった
本州製紙江戸川工場の排水は、1958年の被害と衝突の直接的な要因です。浦安の漁業衰退には、それ以外の要因も重なりました。
高度経済成長期には、東京湾へ流れ込む河川の上流・沿岸に工場や住宅が増えました。工場排水に加え、下水道整備が追いつかない市街地からの生活排水も水質を悪化させました。京浜・京葉臨海部では埋立と工業用地造成が進み、潮の流れ、干潟、漁場の範囲も変わりました。
浦安市の漁業権放棄の解説は、工場排水と生活排水による汚染、本州製紙工場事件、京葉工業地帯造成のための海面埋立が重なり、水揚げが年々減少したと説明しています。
法規制や行政対応を待つ間にも漁獲は減り、転業や生活再建を考える世帯が増えました。
漁業の危機と、もう一つの浦安構想は並行していた
1959年、海面埋立と大規模遊園地の構想
黒い水事件の翌1959年ごろ、浦安沖の海面を埋め立てて大規模な遊園地をつくる構想が具体化しました。浦安市は、日本プラスチック社から「海面の一部を埋め立て、東洋一の遊園地を作りたい」という申し出があり、町、議会、漁業協同組合が協議して千葉県へ埋立事業の促進を要望したと説明しています。
同じ1959年、京成電鉄社長だった川﨑千春、三井不動産社長だった江戸英雄らは「オリエンタルランド設立計画趣意書」をまとめました。翌1960年7月11日、株式会社オリエンタルランドが設立されました。
オリエンタルランド公式沿革によると、設立目的は浦安沖を埋め立て、商住地域の開発と一大レジャーランドの建設を行うことでした。創業時の事務所は当時の京成電鉄本社の片隅で、机三つ、役職員三人から始まりました。
1959~60年は独自の大規模遊園地構想の段階で、ディズニー誘致が本格化するのは1974年です。
開発の三本柱は住宅・レジャー・鉄鋼流通
浦安市の公式説明では、土地利用の基本方針は「住宅地の造成」「大規模遊園地の誘致」「鉄鋼流通基地の形成」の三点でした。
東京に近い浦安には、首都圏の人口増加を受け止める住宅地としての価値がありました。工業用地としては首都圏整備上の制約がある一方、鉄鋼流通基地、商業地、レジャー用地を組み合わせる都市計画が選ばれました。
海を守りたい漁業者と、埋立を進めたい行政・企業
漁業権とは何か——土地の所有権ではない
漁業権は、一定の水面で特定の漁業を排他的に営むための権利で、土地の所有権とは異なります。漁業権の放棄は、水面利用の権利を手放すことです。
埋立によって漁場が失われる場合、漁業権や漁業上の利益に対する補償と合意形成が必要になります。浦安沖の造成には、漁業者側の権利関係を整理し、千葉県の事業として実施できる条件を整える必要がありました。
二つの漁業協同組合と髙橋政知
当時の浦安には二つの漁業協同組合がありました。オリエンタルランド側で交渉を担ったのが、常務だった髙橋政知です。企業の沿革では、髙橋が漁業者との「膝詰め談判」を重ね、1961年の交渉開始から半年ほどで妥結したとされています。
交渉時も漁場環境は回復せず、漁獲量は減少していました。漁業を完全にやめず一部を残す案は、生活再建と漁業継続を両立させる選択でした。
1962年の「一部放棄」
1962年、浦安の漁業者は共同漁業権の一部と区画漁業権の一部を放棄しました。共同漁業権は地域の漁業者が共同で利用する漁場に関わり、区画漁業権は一定区域で養殖などを営む権利です。
同年7月、千葉県とオリエンタルランドは「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を結び、埋立を千葉県の事業として実施する見通しが立ちました。
一部放棄しても漁業は終わらなかった——そして1971年へ
残された海で続ける
1962年以後、浦安の漁業者は残された漁場で操業を続けました。浦安市も「その後も漁業継続の努力はなされた」と記しています。
埋立工事は海岸線と漁場を物理的に変えました。海だった場所に堤防が伸び、土砂が入り、舟を出す地点と漁場の距離や経路が変わりました。東京湾全体の汚染も進み、漁場の生産力と空間が縮小しました。
転業は「近代化を喜んで選んだ」ことではない
浦安市立図書館は、漁業権の一部放棄に伴う漁業者の転職が町の様相を変える要因になったと説明しています。漁業者と家族は、海を中心に組み立ててきた働き方の見直しを迫られました。
海で身につけた技能を別の職業で生かせる範囲は限られ、家族の働き方も組み替える必要がありました。補償後も収入と転業の安定は各世帯の課題として残りました。
一方、交通不便の解消、住宅整備、雇用、税収、生活再建への期待があり、浦安町・議会・組合も開発の協議主体でした。
1971年、全面放棄
東京湾の汚染と漁場環境の悪化は止まらず、1971年、浦安の漁業権は全面放棄されました。制度上、浦安の沿岸漁業は大きな終点を迎えます。
1958年の抗議と陳情、1962年の一部放棄と漁業継続を経て、1971年に全面放棄へ至りました。
海だった場所に新しい町が広がる
市域は4.43平方キロメートルから約4倍へ
埋立前の浦安の面積は4.43平方キロメートルでした。1968年には東野、富岡、今川、弁天、鉄鋼通りが誕生し、市域は6.77平方キロメートルへ拡大。1971年には海楽、美浜、入船が加わって8.65平方キロメートル、1975年には舞浜が誕生して11.34平方キロメートルになりました。第2期埋立完了後は16.98平方キロメートルとなり、埋立前の約4倍です。
オリエンタルランド公式は舞浜地区の埋立工事が1970年に完了したとし、浦安市の市域変遷は舞浜の誕生を1975年11月29日と記録しています。工事完了と町名の誕生・行政区域への編入は別の時点です。

第1期と第2期の埋立
第1期埋立は、住宅地、大規模レジャー用地、鉄鋼流通基地の基盤をつくりました。第2期は1971年の漁業権全面放棄を受け、1972年12月から1980年12月まで進められ、市域をさらに東京湾側へ広げました。
埋立は遠浅の海に堤防を築き、土砂を投入・排水して地盤を造成する大規模土木事業です。道路、上下水道、学校、公園、住宅が整備される一方、干潟と漁場は失われ、海岸線は元町から遠ざかりました。
東京湾の埋立と都市インフラの歴史は、関連する「日本の土木の歴史をわかりやすく解説」でも紹介しています。
東西線が「陸の孤島」を変えた
1969年、地下鉄東西線が開通し、浦安は東京都心と鉄道で直結しました。通勤手段が整ったことで、埋立地の住宅開発が現実的になりました。
東西線開通後、住宅開発と人口増加が進みました。1980年には鉄鋼通りを中心とする鉄鋼流通基地が形成され、1981年に市制を施行。1990年のJR京葉線全線開通後は、新浦安と舞浜が東京湾岸の新しい玄関口になりました。
現在の浦安は、旧集落の元町、第1期埋立を中心とする中町、第2期埋立を中心とする新町から成ります。細い道と古い家が残る元町、計画的な住宅地の中町、幅広い道路と大規模施設の新町では、都市景観が異なります。
最初からディズニーランドだったわけではない
独自の総合レジャーランド計画
オリエンタルランドは、埋立工事と並行して独自のレジャーランド計画を検討しました。1974年に千葉県が承認した「オリエンタルランド(レジャー施設)基本計画」では、プレイランド、ホール、ファッションスクエア、ホテルなどを集める総合施設が描かれていました。
1972~73年の欧米調査
オリエンタルランドは1972年から1973年にかけて欧米の施設を調査しました。1972年5月には米国のディズニーランドとウォルト・ディズニー・ワールドへ調査団を派遣しています。
比較の結果、構想の核をディズニーランド型テーマパークに置く方針が強まりました。乗り物だけでなく、空間全体の物語と演出、運営・清掃・接客を一つの体験として設計する方式です。
埋立地が別の用途へ変わった東京湾岸の例は、関連する「東京港野鳥公園とは?埋立地によみがえった干潟と野鳥の歴史」でも紹介しています。
川﨑千春・髙橋政知・堀貞一郎——役割の違う三人
異体字は資料や表示環境によって「川崎」「高橋」と表記される場合があります。ここでは、オリエンタルランド公式の表記に合わせて川﨑千春、髙橋政知とします。
| 人物 | 当時の立場 | 主な役割 |
|---|---|---|
| 川﨑千春 | 京成電鉄社長、OLC社長 | 浦安沖の開発と大規模レジャー構想を掲げ、ディズニー社へ誘致を申し入れた |
| 髙橋政知 | OLC常務、のち社長 | 漁業補償、県・金融機関・ディズニー社との交渉、資金・契約・建設を現実化した |
| 堀貞一郎 | プロデューサー、OLC取締役 | 欧米施設調査、レジャー計画の再構成、誘致プレゼンテーションと体験設計に関わった |
川﨑千春——最初に大きな構想を掲げた経営者
川﨑は京成電鉄の経営者として、東京東部・千葉県北西部の交通と沿線開発を考える立場にありました。1959年、江戸英雄らと設立計画をまとめ、1960年のオリエンタルランド設立へ進みます。1974年にはディズニー社を訪れ、日本誘致の希望を直接伝えました。
髙橋政知——交渉を事業へ変えた人
髙橋は二つの漁業協同組合との補償交渉を担当し、後には社長としてディズニー社との契約や金融機関との調整を担いました。
漁業者は、汚染と漁獲減少が進む海で生活をどう再建するかを迫られていました。企業側の交渉と地域側の選択は、この条件のなかで進みました。
堀貞一郎——構想に内容と演出を与えたプロデューサー
堀は放送や博覧会の企画経験を持つプロデューサーで、欧米レジャー施設の調査、独自計画の整理、ディズニーランド誘致のプレゼンテーションなどに関わりました。堀自身の著書『“感動”が人を動かす』は、誘致と開業を支えた関係者の仕事を記録しています。
1974年、ヘリコプターから見た浦安
1974年2月、オリエンタルランドはディズニー社へ正式に誘致を申し入れました。6月には川﨑が米国でディズニー社社長と会談し、7月には浦安の立地と市場性をまとめた調査報告書を提出しました。
同年12月4日、ディズニー社首脳が来日し、帝国ホテルでプレゼンテーションが行われました。オリエンタルランド側は航空写真、マーケティングデータ、首都圏人口と東京への近さを示しました。続いてデラックスバスで浦安を案内し、双方の幹部はヘリコプター三機に分乗して上空から開発用地を視察しました。
企業側は、東京に近いこと、三方を海と川に囲まれて日常空間から区切りやすいこと、まとまった用地を確保できることを訴えました。12月6日、ディズニー社はオリエンタルランドとともにテーマパーク建設の可能性を検討する意思を表明しました。
夢だけでは造れない——契約、融資、建設
五年に及んだ条件交渉
1975年1月からディズニー社による適地調査が始まり、浦安がテーマパーク建設に適するとの結論が示されました。1976年には次段階の検討契約を締結し、1977年3月に名称を「東京ディズニーランド」と正式決定しました。
運営権、設計、建設、ロイヤルティなどの条件交渉を経て、1979年4月30日、カリフォルニア州バーバンクのディズニー本社で「東京ディズニーランドの建設および運営に関する契約」に調印しました。
22金融機関の協調融資
数百億円規模と見込まれた資金の調達は難航しました。千葉県の支援を受け、当時の日本興業銀行が中心となり、1980年8月に22金融機関による協調融資団が結成されました。
協調融資は、複数の金融機関が条件をそろえて資金を分担する仕組みです。巨大事業のリスクを分散し、長期資金を確保しました。
1983年4月15日、開園
1980年11月に千葉県が建設実施計画を認可し、12月3日に着工式、1981年1月に本格工事が始まりました。建設費は当初見込みを上回り、オリエンタルランド公式では最終総事業費を約1,800億円としています。
建物と設備に加え、運営マニュアル、従業員研修、衣装、採用、交通手段の準備が進められました。1983年4月15日、東京ディズニーランドが開園しました。
誤解しやすいポイント
誤解1 黒い水事件が直接ディズニーランドを生んだ
黒い水事件は漁業危機と水質行政の転換点でした。ディズニーランド建設には、汚染、湾岸埋立、交通、住宅需要、地域振興、民間レジャー構想が重なりました。
誤解2 漁業権放棄は土地売却である
漁業権は水面で漁業を営む権利で、土地所有権とは異なります。放棄は埋立の前提となる権利調整でした。
誤解3 浦安は最初からディズニーランド用地として埋め立てられた
埋立の基本方針は住宅地、大規模レジャー施設、鉄鋼流通基地でした。初期のレジャー計画は独自の総合施設でした。
誤解4 オリエンタルランド設立時にディズニー社との契約があった
会社設立は1960年、正式な誘致申し入れは1974年、基本契約は1979年です。
誤解5 1962年に浦安の漁業は終わった
1962年は一部放棄です。残された漁場で操業は続き、全面放棄は1971年でした。
浦安は何を失い、何を得たのか
浦安では漁業権に加え、干潟、漁場、舟を出す海岸、海苔を干す風景、貝加工を含む家族労働、海と結びついた仕事の継承が失われました。海岸線は元町から遠ざかり、境川の先には長い人工の河口が加わりました。
一方、地下鉄と鉄道、住宅、学校、公園、道路、上下水道、鉄鋼流通基地、商業、観光産業、雇用、自治体財政の基盤が整いました。浦安は、交通が不便な漁師町から首都圏を代表する住宅・観光都市へ変わりました。
東京湾の自然と都市の関係は、関連する「都市の生き物の現在地」でも扱っています。
浦安の歴史を歩く——元町から埋立地へ
東京ディズニーリゾートの施設内へ入らなくても、浦安の変化は歩いて確認できます。東西線浦安駅から元町を歩き、浦安市郷土博物館で全体像をつかむ約3~4時間のコースです。博物館を先に見る場合はバス移動を組み合わせると歩行距離を調整できます。
1 浦安駅からフラワー通りへ
浦安駅から南へ進み、堀江のフラワー通りへ向かいます。現在は静かな商店と住宅の道ですが、かつては演芸館や映画館があった浦安有数の繁華街でした。細い道、家の向き、境川への近さから、埋立地の計画道路とは異なる元町の成り立ちが分かります。
2 旧宇田川家住宅・旧大塚家住宅
旧宇田川家住宅は1869年築で、建築年代が明確なものとして市内最古の民家です。商家として使われ、道路側の店と奥の住まいが一体になっています。
旧大塚家住宅は江戸時代末期の建築と推定され、屋根裏に水害への備えが見られます。両住宅は浦安駅から徒歩約7分、入館無料。開館は午前10時15分~午後4時で、12月から3月は午後3時まで。月曜・木曜などが休館です。祝日による変更があるため、訪問当日に公式ページを確認してください。
3 境川を歩く
境川沿いでは、蛇行する元町部分と、埋立で延長された直線部分の違いに注目します。古い集落では川が生活と舟運の中心でした。市役所・博物館付近から海側へ進むと、川幅と護岸、道路の規模が変わり、海岸線が遠ざかったことを地形として確認できます。

4 浦安市郷土博物館
浦安市郷土博物館は、漁師町の展示、舟、道具、屋外の町並み再現、埋立後の都市史を一か所で見られる中核施設です。開館は午前9時30分~午後5時、入館は午後4時30分まで、入館料無料。月曜、館内整理日、祝日の翌日、年末年始などが休館です。
黒い水事件の前の漁業から、漁業権放棄、都市化までを連続して見られます。べか舟や貝加工の道具を見た後に舞浜や新浦安へ移動すると、埋立地の広さを実感できます。

5 若潮公園・漁業記念碑、または高洲の漁業記念公園へ
時間があれば、新浦安駅近くの若潮公園にある漁業記念碑を訪ねます。べか舟をかたどったモニュメントが、埋立地がかつて漁場だったことを伝えます。高洲の漁業記念公園では、漁場の境界などを示した「ぼんぎ」と水神祭の記憶に触れられます。
浦安周辺をより長く歩く記録は、サイト内の「葛西~浦安~行徳~妙典~野鳥の楽園」散歩レポートで紹介しています。
FAQ
浦安は本当に昔は漁師町だったのですか
はい。遠浅の東京湾で魚・貝・海苔を得る漁業が盛んで、貝加工や海苔干しなど家族・地域の仕事も発達しました。浦安市郷土博物館で舟、道具、写真、町並み再現を見ることができます。
黒い水事件とは何ですか
1958年、本州製紙江戸川工場の排水で旧江戸川と浦安沿岸が黒く濁り、魚介類に大きな被害が出た事件です。漁民は折衝と陳情を重ね、6月10日に工場で機動隊と衝突しました。
本州製紙工場事件が直接ディズニーランド建設につながったのですか
事件は漁業危機を深刻化・可視化した要因の一つです。生活排水、東京湾岸開発、漁獲減少、地域振興、住宅・流通・レジャーを組み合わせた埋立計画が重なり、後にディズニー誘致へ発展しました。
なぜ漁業権を一部放棄したのですか
漁場環境と漁獲が悪化するなか、埋立補償と町の開発を受け入れつつ、残る漁場で漁業を続けるためでした。事情は漁業者ごとに異なり、一部放棄後も残された漁場で操業が続きました。
浦安の漁業はいつ終わったのですか
制度上の大きな区切りは1971年の漁業権全面放棄です。1962年は一部放棄で、その後も漁業継続の努力が行われました。
浦安は最初からディズニーランド用地として埋め立てられたのですか
いいえ。基本方針は住宅地、大規模レジャー施設、鉄鋼流通基地でした。初期のレジャー案は独自の総合施設で、ディズニーランド誘致が本格化するのは1970年代です。
なぜ東京ではなく千葉県浦安市に「東京ディズニーランド」ができたのですか
東京に隣接する大都市圏への近さ、まとまった開発用地、海と川で日常空間から区切りやすい立地、千葉県と浦安の開発政策がそろっていたためです。名称は1977年に「東京ディズニーランド」と正式決定されました。
現在も漁師町だったころの浦安を見られますか
浦安駅周辺の元町、境川、旧宇田川家住宅、旧大塚家住宅、浦安市郷土博物館で見られます。若潮公園の漁業記念碑、高洲の漁業記念公園にも記憶を伝えるモニュメントがあります。
まとめ——夢の国の地面の下にある浦安史
1958年の黒い水事件後も、工場排水、生活排水、湾岸開発、漁場縮小が重なりました。漁業者は1962年に権利の一部を放棄した後も操業を続けましたが、1971年に全面放棄へ至りました。
その一方で、1959年から海面埋立とレジャーランド構想が進み、住宅、鉄鋼流通、交通の整備によって新しい町が形成されました。オリエンタルランドの設立、漁業補償、行政手続き、ディズニー社との交渉、22金融機関の融資、建設と運営準備を経て、1983年に東京ディズニーランドが開園しました。
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- 葛西~浦安~行徳~妙典~野鳥の楽園 散歩レポート
参考文献・参考資料
浦安市・浦安市郷土博物館
- 浦安市「本州製紙工場事件」
- 浦安市「漁業権放棄」
- 浦安市「海面埋立事業」
- 浦安市「沿革と市域の変遷」
- 浦安市「浦安市の海面埋め立て」
- 浦安市郷土博物館「テーマ展示室 海とともに」
- 浦安・聞き書き隊編『ハマん記憶を明日へ 聞き書き報告書1』浦安市文化財調査報告書第5集、2009年。
- 浦安市史編さん委員会『浦安市史 まちづくり編』浦安市、1999年。
浦安市立図書館
官公庁・公的資料
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「水質汚濁防止法の制定のきっかけの一つとなった事件」
- 『公共用水域の水質の保全に関する法律』(昭和33年法律第181号、1971年廃止)。
- 『工場排水等の規制に関する法律』(昭和33年法律第182号、1971年廃止)。

