浦安はなぜ海を手放し、ディズニーの街になったのか|黒い水事件・漁業権放棄・埋立の歴史

浦安が漁師町から水質汚染と埋立を経て現代都市へ変化した歴史を表したアイキャッチ画像 東京・街歩き・都市史

1983年4月15日、東京ディズニーランドが千葉県浦安に開園しました。現在の舞浜駅周辺にはホテルや商業施設が並び、国内外から多くの人が訪れます。

けれども、来園者が歩いている土地の一部は、ほんの十数年前まで東京湾の海面でした。そこは、浦安の漁師たちが舟を出し、魚や貝を採り、海苔を育てた生活の場でもありました。

では、海とともに生きてきた浦安は、なぜ漁業権を手放し、埋立地の上にディズニーの街をつくることになったのでしょうか。

答えを「公害で漁業ができなくなり、その跡地にディズニーランドができた」と一本の線で結ぶのは正確ではありません。旧江戸川と東京湾の水質汚染、本州製紙工場事件、漁獲量の減少、京葉臨海部の開発、浦安の交通不便、住宅地と鉄鋼流通基地を含む都市計画、民間企業のレジャー構想、ディズニー社との交渉、金融機関による融資が、二十年以上にわたって重なりました。

この記事では、企業家の成功談だけでなく、漁業者と家族、二つの漁業協同組合、浦安町、千葉県、オリエンタルランド、金融機関、ディズニー社の選択を、一つの浦安史としてたどります。

30秒で分かる結論

  • 浦安は、遠浅の海で魚・貝・海苔を得る半農半漁の町でした。
  • 1958年の本州製紙工場事件は、すでに進んでいた水質悪化を社会問題として可視化し、水質二法制定の大きな契機の一つになりました。
  • 漁業権放棄の原因は一事件だけではなく、工場排水・生活排水・湾岸開発・漁場縮小・漁獲減少などの複合要因です。
  • 1962年に一部放棄した後も漁業は続きましたが、環境は回復せず、1971年に全面放棄されました。
  • 埋立はディズニーランド専用ではなく、住宅地、大規模レジャー施設、鉄鋼流通基地を柱とする都市開発でした。
  • オリエンタルランドは1960年に設立されましたが、現在の東京ディズニーランド計画が確定したのはずっと後です。
  • 1974年の誘致交渉、1979年の基本契約、22金融機関の協調融資、建設を経て、1983年に開園しました。

浦安変貌の主要年表

浦安で起きたこと 意味
1958年 本州製紙工場事件。黒い排水、魚介類被害、陳情、工場での衝突 水質汚染が全国的な社会問題として認識される
1959年 浦安沖の埋立・大規模遊園地構想が具体化。オリエンタルランド設立計画趣意書 漁業危機と開発構想が並行して始まる
1960年 オリエンタルランド設立 商住地域とレジャーランド開発を担う企業が発足
1961年 漁業補償交渉が本格化 埋立実現の前提となる合意形成へ
1962年 共同漁業権・区画漁業権の一部放棄。県とOLCが造成・分譲協定 漁業を残しつつ第1期埋立へ進む
1964~65年 第1期埋立の工事着手・造成事業本格化 海岸線と市域が変わり始める
1969年 地下鉄東西線開通 「陸の孤島」から首都圏住宅都市へ
1970年 OLC資料では舞浜地区の埋立工事完了 レジャー用地の基盤が形成される
1971年 漁業権全面放棄 浦安の沿岸漁業が制度上大きな終点を迎える
1972~74年 第2期埋立開始、欧米施設調査、独自レジャー基本計画、ディズニー誘致 独自構想からディズニーランドへ軸足が移る
1977年 名称を「東京ディズニーランド」に決定 計画が具体的なテーマパーク事業へ
1979年 4月30日にディズニー社と基本契約 設計・建設・運営の枠組みが確定
1980年 22金融機関の協調融資団結成、着工式 巨大事業を資金面・建設面で実行へ
1983年 4月15日、東京ディズニーランド開園 漁師町から住宅・観光都市への転換を象徴

埋立年には資料によって「1964年開始」「1965年造成事業着手」などの表記差があります。これは、協定、工事の委託・着工、造成事業の期間、町域への編入をどの時点で数えるかが異なるためです。本記事では、浦安市の沿革が示す1964年の開始と、海面埋立事業ページが示す1965年の造成事業着手を、矛盾する年ではなく工程の違いとして扱います。

ディズニー以前の浦安は、どんな町だったのか

堀江・猫実・当代島からできた水辺の町

浦安は1889年、堀江、猫実、当代島の三村が合併して浦安村となり、1909年に町制を施行しました。西を旧江戸川、南と東を東京湾に囲まれ、東京に近い一方で陸上交通は不便でした。浦安市は、戦前までの浦安を「三方を海と川に囲まれた陸の孤島」と説明しています。

ただし、交通が不便だったことは、町が孤立していたという意味ではありません。浦安の人びとは舟で東京側と行き来し、魚介類を東京へ運びました。境川は、漁船の係留、荷の上げ下ろし、生活用水や往来と結びついた町の軸でした。現在の境川は埋立地を通って東京湾へ延びていますが、元町の蛇行する流れには、古い集落の地形が残っています。

遠浅の海が支えた魚・貝・海苔

東京湾奥の遠浅の海と干潟は、多種の魚、アサリなどの貝、海藻を得られる豊かな漁場でした。海苔養殖や貝の加工も盛んで、漁は舟に乗る人だけの仕事ではありませんでした。海苔を干す、貝をむく、選別・加工して出荷するなど、家族や地域の労働が組み合わさって成り立っていました。

小型の「べか舟」は、浅い海や水路を動く浦安の漁業を象徴する舟です。現在の浦安市郷土博物館「海とともに」では、干潟、漁業、海苔養殖、貝加工、舟と道具を通して、この生活を立体的に知ることができます。

もちろん、昔の漁師町を美化はできません。台風や高潮、洪水に繰り返し悩まされ、収入は天候や漁獲に左右されました。旧大塚家住宅の屋根裏は、水害時の避難や家財の保管に使われたとされ、水とともに暮らす町の厳しさも伝えています。

1958年、海が黒くなった――本州製紙工場事件

4月7日、旧江戸川から異変が広がった

1958年4月7日、旧江戸川の水が本州製紙江戸川工場の排水で黒く濁り、浦安沿岸から葛西沖にかけて海水が変色しました。魚介類の大量死が見られ、漁場と生活は直接の被害を受けました。浦安ではこの出来事を、通称「黒い水事件」とも呼びます。

重要なのは、6月の衝突だけを切り取らないことです。浦安市の本州製紙工場事件の記録によれば、漁民は異変の直後から会社側との折衝を始め、関係官庁へ取り締まりを求めて陳情しました。それでも解決の兆しは見えず、被害が広がり続けました。

浦安市立図書館の地域史紹介は、4月以後、漁民が何度も工場側と折衝しても汚水が流され続け、5月にも集団抗議が行われた経過を記しています。つまり、6月10日は突然の爆発ではなく、正規の交渉と陳情を重ねても生活基盤の損失が止まらなかった先にありました。

国会と都庁への陳情から、工場前の衝突へ

6月10日、漁民代表約800人は国会と東京都庁へ陳情しました。その帰路に工場へ向かいましたが、会社側は面会に応じず、監督官庁からの中止勧告後も操業を続けていたと浦安市は説明しています。

漁民は工場内へ入り、会社側の要請で出動していた機動隊と衝突しました。浦安市公式ページの数字では、漁民の重軽傷者105人、逮捕者8人、ほかの負傷者36人です。「重軽傷者105人」と「そのほか負傷者36人」は同じ集計ではないため、合算して「141人の漁民が負傷」とは書けません。誰をどの区分で数えたのかが異なる可能性があり、本記事では公表された区分のまま示します。

工場設備への破壊や警察との衝突は、事実として隠すべきではありません。同時に、それだけを「漁民の暴動」と描けば、被害発生から二か月にわたる折衝、陳情、操業停止要求と、魚介類が死んでいく現実が消えてしまいます。漁民にとって問題は水の色だけではなく、翌日からの仕事、家族の収入、将来も海で暮らせるかという生活の土台でした。

事件は水質行政を動かしたが、海を元に戻せなかった

事件の同年12月、政府は「公共用水域の水質の保全に関する法律」と「工場排水等の規制に関する法律」を公布しました。二つは「水質二法」と呼ばれます。江戸川工場事件は、その制定を促した重要な契機の一つと位置づけられています。

ただし、「浦安の事件だけで法律ができた」と単純化はできません。戦後の工業化で各地の水質汚濁が深刻化し、以前から規制法案の検討がありました。事件は、経済成長を優先して排水規制が遅れていた状況を、流血を伴う形で政治課題に押し上げたのです。

また、水質二法は後の水質汚濁防止法へつながる一段階でしたが、制定されたからといって浦安の漁場が直ちに回復したわけではありません。法制度の進歩と、目の前の海で漁を続けられるかは別の問題でした。

法律ができても海は戻らない――汚染は一つの工場だけではなかった

本州製紙江戸川工場の排水は、1958年の被害と衝突の直接的な要因です。しかし、浦安の漁業衰退を一社の排水だけで説明することはできません。

高度経済成長期には、東京湾へ流れ込む河川の上流・沿岸に工場や住宅が増えました。工場排水だけでなく、下水道整備が追いつかない市街地からの生活排水も水質を悪化させました。京浜・京葉臨海部では埋立と工業用地造成が進み、潮の流れ、干潟、漁場の範囲そのものが変わっていきました。

浦安市の漁業権放棄の解説は、工場排水と生活排水による汚染、本州製紙工場事件、京葉工業地帯造成のための海面埋立が重なり、水揚げが年々減少したと説明しています。

ここに、浦安の難しい選択がありました。海を守る運動を続けることと、悪化する漁場で家計を維持することは同じではありません。法律や行政の対応を待つ間にも、漁獲は減り、転業や生活再建を考えざるを得ない世帯が増えました。

高度成長がもたらした商品、雇用、住宅、交通の利益は広い地域に及びました。一方で、工場や都市の排水、海岸の造成による負担は、漁場を生活基盤とする沿岸の人びとに集中しました。浦安の歴史は、成長の利益と環境負担が同じ場所・同じ人に配分されなかったことを示しています。

漁業の危機と、もう一つの浦安構想は並行していた

1959年、海面埋立と大規模遊園地の構想

黒い水事件の翌1959年ごろ、浦安沖の海面を埋め立て、大規模な遊園地をつくる構想が具体化しました。浦安市は、日本プラスチック社から「海面の一部を埋め立て、東洋一の遊園地を作りたい」という申し出があったとし、町、議会、漁業協同組合が協議し、千葉県へ埋立事業の促進を要望したと説明しています。

同じ1959年、京成電鉄社長だった川﨑千春、三井不動産社長だった江戸英雄らは「オリエンタルランド設立計画趣意書」をまとめました。翌1960年7月11日、株式会社オリエンタルランドが設立されました。

オリエンタルランド公式沿革によると、設立目的は浦安沖を埋め立て、商住地域の開発と一大レジャーランドの建設を行うことでした。創業時の事務所は当時の京成電鉄本社の片隅で、机三つ、役職員三人から始まりました。

ここで注意したいのは、1959~60年の構想が、現在の東京ディズニーランド計画と同じではないことです。オリエンタルランドという社名にはレジャー開発の意志がありましたが、ディズニー社との契約も、現在のパークの設計も決まっていませんでした。

開発の三本柱は住宅・レジャー・鉄鋼流通

浦安の埋立は、遊園地だけを目的にした事業でもありません。浦安市の公式説明では、土地利用の基本方針は「住宅地の造成」「大規模遊園地の誘致」「鉄鋼流通基地の形成」の三点でした。

東京に近い浦安には、首都圏の人口増加を受け止める住宅地としての価値がありました。工業用地としては首都圏整備上の制約がある一方、鉄鋼流通基地や商業地、レジャー用地を組み合わせる都市計画が選ばれました。

したがって、1958年の公害と1959年以後の開発構想は、単純な「原因と結果」ではありません。海の環境悪化に苦しむ漁業者がいる一方で、町の将来を陸上交通・住宅・流通・娯楽に求める構想が進み、二つの歴史が数年間並行しました。

海を守りたい漁業者と、埋立を進めたい行政・企業

漁業権とは何か――土地の所有権ではない

漁業権は、一定の水面で特定の漁業を排他的に営むための権利です。土地の所有権とは異なります。したがって「漁業権を放棄した」は「漁師が自分の土地を企業へ売った」と同じ意味ではありません。

埋立によって漁場が失われる場合、漁業権や漁業上の利益に対する補償と合意形成が必要になります。浦安沖の造成を進めるには、漁業者側の権利関係を整理し、千葉県の事業として実施できる条件を整える必要がありました。

二つの漁業協同組合と髙橋政知

当時の浦安には二つの漁業協同組合がありました。オリエンタルランド側で交渉を担ったのが、常務だった髙橋政知です。企業の沿革では、髙橋が漁業者と「膝詰め談判」を重ね、1961年の交渉開始から半年ほどで妥結したと語られます。

この説明は、企業側が自社の交渉史を振り返ったものです。交渉者の粘り強さは重要ですが、それだけで短期妥結を説明すると、漁業者が置かれていた条件が見えません。1958年以後も漁場環境は回復せず、漁獲量は減少していました。将来不安が強まるなかで、漁業を完全にやめずに一部を残す案は、生活再建と漁業継続を両立させようとする現実的な選択でもありました。

漁業者を一枚岩とも描けません。史料が示すのは、組合を通じて交渉と合意が進んだこと、そして一部放棄後も漁業継続の努力が行われたことです。個々の世帯には、漁業を続けたい事情、転業を考える事情、補償後の暮らしへの不安、開発への期待が異なっていたはずですが、確認できない対立や発言を創作してはいけません。

1962年の「一部放棄」

1962年、浦安の漁業者は共同漁業権の一部と区画漁業権の一部を放棄しました。共同漁業権は地域の漁業者が共同で利用する漁場に関わり、区画漁業権は一定区域で養殖などを営む権利です。

一部放棄を受け、同年7月、千葉県とオリエンタルランドは「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を結びました。これによって埋立は千葉県の事業として実施の見通しが立ちました。

一部放棄は、浦安の漁業が1962年に終わったことを意味しません。放棄していない水面では漁業が続き、漁業者は残された海で生活を維持しようとしました。この点を飛ばすと、1971年の全面放棄が持つ重さが分からなくなります。

一部放棄しても漁業は終わらなかった――そして1971年へ

残された海で続ける

1962年以後、浦安の漁業者は残された漁場で操業を続けました。浦安市も「その後も漁業継続の努力はなされた」と明記しています。

それは、開発を受け入れた瞬間に、漁師町の人びとが一斉に海を捨てたのではないことを意味します。補償を受けた人がいても、長年培った技術、舟、道具、取引先、家族労働の仕組みがすぐ不要になるわけではありません。漁業は職業であると同時に、地域の暮らし方そのものでした。

一方で、埋立工事は海岸線と漁場を物理的に変えました。海だった場所に堤防が伸び、土砂が入り、舟を出す地点と漁場の距離や経路が変わります。汚染も東京湾全体で進みました。漁業を続ける意志があっても、漁場の生産力と空間が縮小すれば、同じ暮らしを維持することは難しくなります。

転業は「近代化を喜んで選んだ」ことではない

浦安市立図書館は、漁業権の一部放棄に伴う漁業者の転職が町の様相を変える要因になったと説明しています。転業の形は一様ではなく、漁業者と家族は、それまで海を中心に組み立ててきた働き方を見直さなければなりませんでした。

これを「漁師が補償を得て豊かになった」「古い産業から新しい産業へ進んだ」とだけ語るのは不十分です。海で身につけた技能が別の職業でそのまま評価されるとは限らず、家族の働き方も組み替える必要があります。補償は将来の漁獲を保証するものではなく、転業後の安定を自動的に約束するものでもありません。

同時に、開発をすべて外から押しつけられたものと描くのも単純です。交通不便の解消、住宅整備、雇用、税収、生活再建を望む声があり、浦安町・議会・組合も開発の協議主体でした。住民の選択は、海への愛着か開発への期待か、どちらか一つに分けられるものではありませんでした。

1971年、全面放棄

東京湾の汚染と漁場環境の悪化は止まらず、1971年、浦安の漁業権は全面放棄されました。制度上、浦安の沿岸漁業は大きな終点を迎えます。

1958年、漁業者は黒い水に抗議し、国会と都庁へ陳情しました。1962年には海の一部を手放しながら、残る漁場で続けようとしました。それでも1971年には、海で暮らす将来を制度として描けなくなりました。

この九年間が、浦安史の感情的な底です。全面放棄は、住民が海を不要と判断した一日の決断ではありません。汚染、漁獲減少、埋立、補償、転業、都市化が積み重なった末の選択でした。

海だった場所に新しい町が広がる

市域は4.43平方キロメートルから約4倍へ

埋立前の浦安の面積は4.43平方キロメートルでした。1968年には東野、富岡、今川、弁天、鉄鋼通りが誕生し、市域は6.77平方キロメートルへ拡大。1971年には海楽、美浜、入船が加わって8.65平方キロメートル、1975年には舞浜が誕生して11.34平方キロメートルになりました。第2期埋立完了後は16.98平方キロメートルとなり、埋立前の約4倍です。

ここでも「工事の完了」と「町名の誕生・行政区域への編入」は別の時点です。オリエンタルランド公式は舞浜地区の埋立工事が1970年に完了したとし、浦安市の市域変遷は舞浜の誕生を1975年11月29日と記録しています。造成工事が終わっても、土地利用や行政手続きには時間がかかります。

第1期と第2期の埋立

第1期埋立は、住宅地、大規模レジャー用地、鉄鋼流通基地の基盤をつくりました。第2期は1971年の漁業権全面放棄を受け、1972年12月から1980年12月まで進められ、市域をさらに東京湾側へ広げました。

埋立は遠浅の海に堤防を築き、土砂を投入・排水し、地盤を造成して土地化する大規模土木事業です。新しい道路、上下水道、学校、公園、住宅を配置できる一方、干潟と漁場は失われ、海岸線は元町から遠ざかりました。

東京湾の埋立と都市インフラの長い歴史は、関連記事「日本の土木の歴史をわかりやすく解説」でも整理しています。浦安は、戦後の巨大土木が都市生活を支えながら、沿岸環境と地域産業を変えた代表例です。

東西線が「陸の孤島」を変えた

1969年、地下鉄東西線が開通し、浦安は東京都心と鉄道で直結しました。交通の変化は埋立と同じくらい重要です。住宅地を造成しても、通勤手段がなければ首都圏のベッドタウンにはなりません。

東西線開通後、住宅開発と人口増加が進みました。1980年には鉄鋼通りを中心とする鉄鋼流通基地が形成され、1981年に市制を施行。1990年のJR京葉線全線開通後は、新浦安と舞浜が東京湾岸の新しい玄関口になりました。

現在の浦安は、旧集落の元町、第1期埋立を中心とする中町、第2期埋立を中心とする新町という異なる都市景観を持ちます。歩いてみると、細い道と古い家が残る元町、計画的な住宅地の中町、幅広い道路と大規模施設の新町の差が見えてきます。

最初からディズニーランドだったわけではない

独自の総合レジャーランド計画

オリエンタルランドは、埋立工事と並行して独自のレジャーランド計画を検討しました。1960年代半ばから構想を修正し、1974年に千葉県が承認した「オリエンタルランド(レジャー施設)基本計画」では、プレイランド、ホール、ファッションスクエア、ホテルなどを集める総合施設が描かれていました。

この計画は、現在の東京ディズニーリゾートとは異なります。会社名と大規模遊園地構想は早くからありましたが、どのようなテーマ、運営方式、コンテンツを持つ施設にするかは決まっていませんでした。

1972~73年の欧米調査

レジャー施設を具体化するため、オリエンタルランドは1972年から1973年にかけて欧米の施設を調査しました。1972年5月には米国のディズニーランドとウォルト・ディズニー・ワールドへ調査団を派遣しています。

比較の結果、構想の核をディズニーランド型テーマパークに置く方針が強まりました。ここで「遊園地」と「テーマパーク」の違いが重要になります。乗り物を集めるだけでなく、空間全体に物語と統一した演出を与え、運営・清掃・接客まで一つの体験として設計する発想です。

埋立地に自然が戻り、別の用途へ変わった東京湾岸の例は、関連記事「東京港野鳥公園とは?埋立地によみがえった干潟と野鳥の歴史」でも紹介しています。埋立地は造成時の目的だけで将来が決まるのではなく、制度、住民運動、企業判断によって意味を変えていきます。

川﨑千春・髙橋政知・堀貞一郎――役割の違う三人

異体字は資料や表示環境によって「川崎」「高橋」と表記される場合があります。本記事では、オリエンタルランド公式の表記に合わせて川﨑千春、髙橋政知で統一します。

人物 当時の立場 主な役割
川﨑千春 京成電鉄社長、OLC社長 浦安沖の開発と大規模レジャー構想を掲げ、ディズニー社へ誘致を申し入れた
髙橋政知 OLC常務、のち社長 漁業補償、県・金融機関・ディズニー社との交渉、資金・契約・建設を現実化した
堀貞一郎 プロデューサー、OLC取締役 欧米施設調査、レジャー計画の再構成、誘致プレゼンテーションと体験設計に関わった

川﨑千春――最初に大きな構想を掲げた経営者

川﨑は京成電鉄の経営者として、東京東部・千葉県北西部の交通と沿線開発を考える立場にありました。1959年、江戸英雄らと設立計画をまとめ、1960年のオリエンタルランド設立へ進みます。1974年にはディズニー社を訪れ、日本誘致の希望を直接伝えました。

ただし、川﨑一人の夢が浦安を変えたわけではありません。埋立には漁業者の権利調整、千葉県の公有水面事業、浦安町の都市計画、資金調達が必要でした。構想を掲げる役割と、地域がその負担を引き受ける過程は分けて見る必要があります。

髙橋政知――交渉を事業へ変えた人

髙橋は二つの漁業協同組合との補償交渉を担当し、後には社長としてディズニー社との契約や金融機関との調整を担いました。企業史では大胆な決断と粘り強い交渉で知られます。

しかし、髙橋の交渉力を語るときも、相手側の条件を忘れてはいけません。漁業者は豊かな海を自由に手放すかどうかを選んだのではなく、汚染と漁獲減少が進む海で生活をどう再建するかを迫られていました。企業側の「説得成功」と地域側の「苦しい選択」は、同じ交渉を違う位置から見たものです。

堀貞一郎――構想に内容と演出を与えたプロデューサー

堀は放送や博覧会の企画経験を持つプロデューサーで、欧米レジャー施設の調査、独自計画の整理、ディズニーランド誘致のプレゼンテーションなどに関わりました。堀自身の著書『“感動”が人を動かす』は、誘致と開業を支えた関係者の仕事を記録しています。

堀の役割は、土地と資金だけではテーマパークにならないことを示します。何を見せ、どの順序で体験させ、来訪者が日常から切り替わる空間をどう設計するか。経営・行政・土木の計画に、娯楽産業の内容を与える仕事でした。

1974年、ヘリコプターから見た浦安

1974年2月、オリエンタルランドはディズニー社へ正式に誘致を申し入れました。6月には川﨑が米国でディズニー社社長と会談し、7月には浦安の立地と市場性をまとめた調査報告書を提出しました。

同年12月4日、ディズニー社首脳が来日し、帝国ホテルでプレゼンテーションが行われました。オリエンタルランド側は航空写真、マーケティングデータ、首都圏人口と東京への近さを示しました。続いてデラックスバスで浦安を案内し、双方の幹部はヘリコプター三機に分乗して上空から開発用地を視察しました。

企業側が訴えたのは、東京に近いこと、三方を海と川に囲まれて日常空間から区切りやすいこと、まとまった用地を確保できることでした。12月6日、ディズニー社はオリエンタルランドとともにテーマパーク建設の可能性を検討する意思を表明しました。

かつて漁師が舟から見ていた海を、今度は企業家とディズニー社幹部が上空から「開発用地」として見ました。これは史料にない当事者の心情を推測する表現ではなく、土地を見る視点が数十年で変わったことを示す対比です。海は漁場から造成地へ、造成地は市場性を持つテーマパーク候補地へと意味を変えていました。

夢だけでは造れない――契約、融資、建設

五年に及んだ条件交渉

1975年1月からディズニー社による適地調査が始まり、浦安がテーマパーク建設に適するとの結論が示されました。1976年には次段階の検討契約を締結し、1977年3月に名称を「東京ディズニーランド」と正式決定しました。

一方で、運営権、設計、建設、ロイヤルティなどのビジネス条件は簡単にまとまりませんでした。両社は基本合意から約五年にわたり交渉し、1979年4月30日、カリフォルニア州バーバンクのディズニー本社で「東京ディズニーランドの建設および運営に関する契約」に調印しました。

22金融機関の協調融資

契約だけでは建設できません。数百億円規模と見込まれた資金の調達は難航しました。千葉県の支援を受け、当時の日本興業銀行が中心となり、1980年8月に22金融機関による協調融資団が結成されました。

協調融資は、一つの銀行が全額を貸すのではなく、複数の金融機関が条件をそろえて分担する仕組みです。巨大事業のリスクを分散し、長期資金を確保するために不可欠でした。

東京ディズニーランドは「熱意が海外企業を動かした奇跡」だけではありません。県の政策的位置づけ、銀行の審査、企業の信用、土地の価値、収支計画がそろわなければ、設計図は工事へ移れませんでした。

1983年4月15日、開園

1980年11月に千葉県が建設実施計画を認可し、12月3日に着工式、1981年1月に本格工事が始まりました。建設費は当初見込みを上回り、オリエンタルランド公式では最終総事業費を約1,800億円としています。

建物と設備だけでなく、運営マニュアル、従業員研修、衣装、採用、交通手段の準備が進められました。そして1983年4月15日、東京ディズニーランドが開園しました。

開園は一日の出来事ですが、その地面には、1950年代の漁業危機、1960年代の権利交渉と埋立、1970年代の企画と契約、1980年代の金融と建設が積み重なっています。

誤解しやすいポイント

誤解1 黒い水事件が直接ディズニーランドを生んだ

黒い水事件は漁業危機と水質行政の重大な転換点ですが、ディズニーランド建設の直接原因ではありません。汚染、湾岸埋立、交通、住宅需要、町の地域振興、民間レジャー構想が並行し、後にディズニー誘致へ発展しました。

誤解2 漁業権放棄は土地売却である

漁業権は水面で漁業を営む権利で、土地所有権とは異なります。放棄は埋立の前提となる権利調整ですが、「海底の土地を漁師がOLCへ売った」ということではありません。

誤解3 浦安は最初からディズニーランド用地として埋め立てられた

埋立の基本方針は住宅地、大規模レジャー施設、鉄鋼流通基地でした。初期のレジャー計画は独自の総合施設で、現在のディズニーランド計画は確定していませんでした。

誤解4 オリエンタルランド設立時にディズニー社との契約があった

会社設立は1960年、正式な誘致申し入れは1974年、基本契約は1979年です。設立から契約まで約19年あります。

誤解5 1962年に浦安の漁業は終わった

1962年は一部放棄です。残された漁場で操業は続き、全面放棄は1971年でした。

浦安は何を失い、何を得たのか

浦安が失ったものは、漁業権という制度だけではありません。干潟、漁場、舟を出す海岸、海苔を干す風景、貝加工を含む家族労働、海と結びついた仕事の継承です。海岸線は元町から遠ざかり、町の中心を流れていた境川の先に、長い人工の河口が加わりました。

得たものも大きくあります。地下鉄と鉄道、住宅、学校、公園、道路、上下水道、鉄鋼流通基地、商業、観光産業、新しい雇用、自治体財政の基盤です。浦安は東京に近いのに交通が不便な町から、首都圏を代表する住宅・観光都市へ変わりました。

開発を成功か失敗かの一語で評価することはできません。住宅や交通の整備を必要とした人も、海での暮らしを失った人も、同じ浦安の歴史の中にいます。東京ディズニーランドの成功は現実ですが、その成功を可能にした土地が、もともと無人の空白だったわけではありません。

東京湾の自然と都市の関係は、関連記事「都市の生き物の現在地」でも扱っています。水質改善や下水道整備が進んだ現在も、都市の自然は開発前へそのまま戻るのではなく、人の管理と土地利用の中で新しい形を取ります。

浦安の歴史を歩く――元町から埋立地へ

東京ディズニーリゾートの施設内へ入らなくても、浦安の変化は歩いて確認できます。おすすめは、東西線浦安駅から元町を歩き、浦安市郷土博物館で全体像をつかむ約3~4時間のコースです。博物館を先に見る場合はバス移動を組み合わせると歩行距離を調整できます。

1 浦安駅からフラワー通りへ

浦安駅から南へ進み、堀江のフラワー通りへ向かいます。現在は静かな商店と住宅の道ですが、かつては演芸館や映画館があった浦安有数の繁華街でした。細い道、家の向き、境川への近さから、埋立地の計画道路とは異なる元町の成り立ちが分かります。

2 旧宇田川家住宅・旧大塚家住宅

旧宇田川家住宅は1869年築で、建築年代が明確なものとして市内最古の民家です。商家として使われ、道路側の店と奥の住まいが一体になっています。

旧大塚家住宅は江戸時代末期の建築と推定され、屋根裏に水害への備えが見られます。両住宅は浦安駅から徒歩約7分、入館無料。開館は午前10時15分~午後4時で、12月から3月は午後3時まで。月曜・木曜などが休館です。祝日による変更があるため、訪問当日に公式ページを確認してください。

3 境川を歩く

境川沿いでは、蛇行する元町部分と、埋立で延長された直線部分の違いに注目します。古い集落では川が生活と舟運の中心でした。市役所・博物館付近から海側へ進むと、川幅と護岸、道路のスケールが変わり、「海岸線が遠ざかった」ことを地形として理解できます。

4 浦安市郷土博物館

浦安市郷土博物館は、漁師町の展示、舟、道具、屋外の町並み再現、埋立後の都市史を一か所で見られる中核施設です。開館は午前9時30分~午後5時、入館は午後4時30分まで、入館料無料。月曜、館内整理日、祝日の翌日、年末年始などが休館です。

展示では、黒い水事件を事件写真だけで終わらせず、その前の漁業と、その後の漁業権放棄・都市化まで連続して見るのがおすすめです。べか舟や貝加工の道具を見た後に舞浜や新浦安へ移動すると、埋立地の広さを実感できます。

5 若潮公園・漁業記念碑、または高洲の漁業記念公園へ

時間があれば、新浦安駅近くの若潮公園にある漁業記念碑を訪ねます。べか舟をかたどったモニュメントが、埋立地がかつて漁場だったことを伝えます。さらに南東の高洲にある漁業記念公園では、漁場の境界などを示した「ぼんぎ」と水神祭の記憶に触れられます。

浦安周辺をより長く歩く記録は、サイト内の「葛西~浦安~行徳~妙典~野鳥の楽園」散歩レポートも参考になります。旧江戸川を挟んだ地域の水運・水害・沿岸の変化をつなげて見られます。

FAQ

浦安は本当に昔は漁師町だったのですか

はい。遠浅の東京湾で魚・貝・海苔を得る漁業が盛んで、貝加工や海苔干しなど家族・地域の仕事も発達しました。浦安市郷土博物館で舟、道具、写真、町並み再現を見ることができます。

黒い水事件とは何ですか

1958年、本州製紙江戸川工場の排水で旧江戸川と浦安沿岸が黒く濁り、魚介類に大きな被害が出た事件です。漁民は折衝と陳情を重ね、6月10日に工場で機動隊と衝突しました。

本州製紙工場事件が直接ディズニーランド建設につながったのですか

直接の一本道ではありません。事件は漁業危機を深刻化・可視化しましたが、生活排水、東京湾岸開発、漁獲減少、地域振興、住宅・流通・レジャーを組み合わせた埋立計画が重なり、後にディズニー誘致へ発展しました。

なぜ漁業権を一部放棄したのですか

漁場環境と漁獲が悪化するなか、埋立補償と町の開発を受け入れつつ、残る漁場で漁業を続けるためでした。個々の漁業者の事情は一様ではありませんが、一部放棄は全面廃業ではありませんでした。

浦安の漁業はいつ終わったのですか

制度上の大きな区切りは1971年の漁業権全面放棄です。1962年は一部放棄で、その後も漁業継続の努力が行われました。

浦安は最初からディズニーランド用地として埋め立てられたのですか

いいえ。基本方針は住宅地、大規模レジャー施設、鉄鋼流通基地でした。初期のレジャー案は独自の総合施設で、ディズニーランド誘致が本格化するのは1970年代です。

なぜ東京ではなく千葉県浦安市に「東京ディズニーランド」ができたのですか

東京に隣接する大都市圏への近さ、まとまった開発用地、海と川で日常空間から区切りやすい立地、千葉県と浦安の開発政策がそろっていたためです。名称は1977年に「東京ディズニーランド」と正式決定されました。

現在も漁師町だったころの浦安を見られますか

浦安駅周辺の元町、境川、旧宇田川家住宅、旧大塚家住宅、浦安市郷土博物館で見られます。若潮公園の漁業記念碑、高洲の漁業記念公園にも記憶を伝えるモニュメントがあります。

まとめ――夢の国の地面の下にある浦安史

浦安が海を手放した理由は、一つではありません。

1958年の黒い水事件は、漁場と暮らしを脅かす汚染を社会へ突きつけました。しかし、法律ができても海はすぐ戻らず、工場排水、生活排水、湾岸開発、漁場縮小が重なりました。漁業者は1962年に権利の一部を放棄した後も続けようとしましたが、1971年に全面放棄へ至りました。

その一方で、1959年から海面埋立とレジャーランド構想が進み、住宅、鉄鋼流通、交通の整備によって新しい町が形成されました。オリエンタルランドの設立からディズニー社との契約までは約19年。構想、漁業補償、行政手続き、プレゼンテーション、条件交渉、22金融機関の融資、建設と運営準備を経て、1983年に東京ディズニーランドが開園しました。

これは、企業家が浦安を救った英雄物語でも、住民が開発に敗れた物語だけでもありません。海で暮らす未来が狭まるなかで生活再建を選んだ人びと、町の将来を開発に求めた行政、土地と娯楽産業の可能性を事業にした企業、資金を支えた金融機関が、それぞれ異なる責任と期待を持って関わった歴史です。

現在の舞浜を歩くとき、その地面がかつて海だったと知るだけで景色は変わります。夢の国の下には、黒い水に抗議し、残る海で漁を続け、それでも海を手放す選択をした浦安の人びとの歴史があります。

関連記事

参考文献・参考資料

浦安市・浦安市郷土博物館

  1. 浦安市「本州製紙工場事件」
  2. 浦安市「漁業権放棄」
  3. 浦安市「海面埋立事業」
  4. 浦安市「沿革と市域の変遷」
  5. 浦安市「浦安市の海面埋め立て」
  6. 浦安市郷土博物館「テーマ展示室 海とともに」
  7. 浦安・聞き書き隊編『ハマん記憶を明日へ 聞き書き報告書1』浦安市文化財調査報告書第5集、2009年。
  8. 浦安市史編さん委員会『浦安市史 まちづくり編』浦安市、1999年。

浦安市立図書館

  1. 浦安市立図書館「黒い水事件と漁業権放棄/公有水面埋立事業」
  2. 浦安市立図書館「都市整備と人口増加」
  3. 浦安市立図書館「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」

官公庁・公的資料

  1. 国立国会図書館レファレンス協同データベース「水質汚濁防止法の制定のきっかけの一つとなった事件」
  2. 『公共用水域の水質の保全に関する法律』(昭和33年法律第181号、1971年廃止)。
  3. 『工場排水等の規制に関する法律』(昭和33年法律第182号、1971年廃止)。

オリエンタルランド

  1. 株式会社オリエンタルランド「株式会社オリエンタルランド創成期」
  2. 株式会社オリエンタルランド「ディズニーランド誘致の実現」
  3. 株式会社オリエンタルランド「東京ディズニーランド開業」

書籍・研究資料

  1. 堀貞一郎『“感動”が人を動かす―東京ディズニーランドの成功を支えた名脇役たち』竹井出版、1992年
  2. 加賀見俊夫『海を超える想像力―東京ディズニーリゾート誕生の物語』講談社、2003年
  3. 能登路雅子『ディズニーランドという聖地』岩波書店、1990年