ベトナムの「アメリカ戦争」とは何だったのか|南北分断からパリ和平協定まで

南ベトナム上空で救難哨戒を行うHH3ヘリコプター乗員 世界史・国際関係
救難哨戒中のHH3ヘリコプター乗員。U.S. Air Force/NARA、Public Domain。

「ベトナム戦争」と聞くと、密林を飛ぶヘリコプター、北爆、テト攻勢、反戦運動など、米軍を中心とした映像が思い浮かぶかもしれません。

しかし、ベトナムではこの戦争を「抗米救国戦争」あるいは「アメリカ戦争」と呼ぶことがあります。呼び名が違うのは、単なる言葉の問題ではありません。誰を中心に歴史を見るかによって、戦争の始まり方も、登場人物も、終わり方も変わって見えるからです。

この記事では、1954年のジュネーブ協定から1973年のパリ和平協定までを対象にします。米軍の作戦だけでなく、北ベトナムの国家建設、南ベトナム共和国の政治、南ベトナム解放民族戦線、南ベトナム軍、都市と農村の暮らし、避難民、枯葉剤、外交交渉を並行してたどります。

1954年、北ベトナムから南ベトナムへ移動する避難民
1954年、ハイフォンからサイゴンへ向かう船に乗り込む避難民。U.S. Navy、Public Domain。

30秒でわかる結論

この戦争は、単純な「北ベトナム対アメリカ」ではありませんでした。

北にはベトナム民主共和国、南にはベトナム共和国がありました。南部では南ベトナム解放民族戦線が政府に反対して武装闘争を進め、1969年には南ベトナム共和国臨時革命政府が成立しました。米国は南ベトナム政府を支援し、1965年から大規模な地上軍を投入します。韓国、オーストラリアなども南側に派兵しました。

一方、北ベトナムは中国とソ連から支援を受け、ラオスやカンボジアを通る補給網を維持しました。戦争は国境を越えた冷戦の戦争であると同時に、ベトナム人同士が異なる国家構想を掲げて戦った内戦的側面も持っていました。

1973年のパリ和平協定で米軍は撤退しましたが、南北ベトナム間の戦争は終わりませんでした。1975年の結末は、次の記事で扱います。

なぜ「ベトナム戦争」と「アメリカ戦争」で見え方が違うのか

英語圏や日本では一般に「ベトナム戦争」と呼ばれます。米国史の文脈では、米国がいつ、なぜ介入し、なぜ撤退したのかが中心になります。

ベトナムの公式的な歴史叙述では、「抗米救国戦争」という表現が使われます。そこでは、外国軍の介入に対する民族解放と統一の戦いという枠組みが前面に出ます。

ただし、どちらか一方の呼び方だけで全体を説明することはできません。南ベトナムには独自の政府、軍、官僚機構、都市社会が存在しました。南部の反政府勢力も、北ベトナムと完全に同一ではありませんでした。さらに、多くの住民は徴兵、爆撃、移住、物価上昇、土地問題、政治弾圧のなかで生活していました。

この記事では「アメリカ戦争」という言葉を入口にしつつ、北側の公式史だけを唯一の説明にはしません。

1954年、ベトナムは恒久的に分割されたのか

第一次インドシナ戦争の停戦を定めた1954年のジュネーブ協定では、北緯17度線付近に暫定的な軍事境界線が置かれました。

重要なのは、これは国境として恒久的にベトナムを二分する決定ではなく、フランス連合軍とベトミン軍をそれぞれ南北へ集結させるための軍事的な線だったことです。最終宣言では、1956年に統一選挙を行う構想が示されました。

しかし、ベトナム国と米国は最終宣言に同意せず、統一選挙も実施されませんでした。その後、北にはベトナム民主共和国、南にはベトナム共和国という二つの政府が並立していきます。

ジュネーブ協定後には、南北をまたぐ大規模な住民移動も起こりました。北から南へ移った人びとにはカトリック信者、フランス側に協力した人、南での生活を選んだ人などがいました。南から北へ移ったベトミン関係者もいました。移動の理由は宗教、政治、家族、仕事、安全への不安など一様ではありません。

北ベトナムでは何が進められたのか

北ベトナムでは、独立国家として行政、軍、教育、経済を整える一方、社会主義化が進められました。

土地改革は地主制を解体し、農民へ土地を配分することを目的としました。しかし、階級区分や告発、処罰の過程では重大な誤りと犠牲が生じました。1956年以降、党指導部は誤りを認め、是正を進めました。

この問題は、「農民解放」と「政治的暴力」のどちらか一方だけで説明すべきではありません。土地を得た農民がいた一方、誤認や過剰な処罰で被害を受けた人びともいました。

その後、北では農業集団化、国営工業の整備、教育拡大が進みます。戦争が本格化すると、生産と生活を維持しながら、兵員と物資を南へ送る体制が築かれました。

南ベトナム共和国とゴ・ディン・ジエム政権

南では1955年、ゴ・ディン・ジエムがバオ・ダイを退け、ベトナム共和国を成立させました。

ジエム政権は反共国家の建設を掲げ、米国の強い支援を受けました。行政の中央集権化、軍の再編、教育やインフラの整備を進める一方、反対派、旧ベトミン関係者、宗派勢力への抑圧も強まりました。

1957年5月、ワシントンでアイゼンハワー大統領らに迎えられるゴ・ディン・ジエム
アイゼンハワー大統領とダレス国務長官に迎えられるゴ・ディン・ジエム。1957年5月8日。NARA、NAID 542189/Public Domain。

ジエム政権は単なる「米国の操り人形」ではありません。ジエム自身は強い民族主義と国家建設構想を持ち、米国側の要求にも抵抗しました。しかし、政権の存立が米国の資金・軍事支援に大きく依存していたことも事実です。

農村では「戦略村」政策によって住民を集住させ、反政府勢力との接触を断とうとしました。しかし、強制移住や地域社会の分断を招き、かえって反発を強めた地域もありました。

南ベトナム解放民族戦線は北ベトナム軍と同じだったのか

1960年、南ベトナム解放民族戦線が結成されました。英語や米軍資料では「ベトコン」と呼ばれることが多い組織です。

南ベトナム解放民族戦線と臨時革命政府を象徴した旗
南ベトナム解放民族戦線・臨時革命政府の旗。現代SVG/Public Domain。

解放民族戦線には共産主義者だけでなく、ジエム政権に反対する民族主義者、知識人、宗教関係者なども参加しました。ただし、軍事・政治の中核では共産主義勢力が重要な役割を担い、北ベトナムからの支援も拡大しました。

したがって、解放民族戦線を「南部住民の自発的運動だけ」と説明するのも、「北ベトナム軍の別名」と説明するのも正確ではありません。

1969年には南ベトナム共和国臨時革命政府が成立し、パリ和平交渉では北ベトナムとは別の当事者として参加しました。

ケネディ政権は何を拡大したのか

米国の関与は1965年に突然始まったわけではありません。アイゼンハワー政権期から軍事・経済援助が続き、ケネディ政権期には軍事顧問、特殊部隊、ヘリコプター部隊、情報活動が急速に拡大しました。

1965年頃、目標地点へ近づくヘリコプターと兵士
目標地点へ近づくヘリコプターと兵士。NARA、Public Domain。

米兵は建前上「顧問」でしたが、実際には作戦計画、訓練、航空支援、戦闘に深く関与しました。ヘリコプターは兵士を素早く移動させ、負傷者を搬送し、火力支援を行う新しい戦争の象徴になりました。

南ベトナム上空で救難哨戒を行うHH3ヘリコプター乗員
救難哨戒中のHH3ヘリコプター乗員。U.S. Air Force/NARA、Public Domain。

しかし、高い機動力が農村の政治問題を解決したわけではありません。政府への支持、土地、治安、地方行政をめぐる問題は残りました。

1963年、南ベトナム政治は大きく揺れた

1963年、仏教徒への対応をめぐってジエム政権への抗議が広がりました。同年11月、南ベトナム軍の将軍たちがクーデターを起こし、ゴ・ディン・ジエムと弟ゴ・ディン・ヌーは殺害されました。

米国政府はクーデター計画を直接指揮したわけではありませんが、将軍たちとの接触を続け、ジエム政権を守らない姿勢を示しました。

ジエム政権崩壊後、南ベトナムでは軍事政権や短命政権が交代し、政治的不安定が続きます。米国は「より協力的で安定した政府」を求めましたが、政変は国家の統治能力を弱めました。

トンキン湾事件は何だったのか

1964年8月2日、米駆逐艦マドックスと北ベトナム魚雷艇がトンキン湾で交戦しました。

8月4日にも第二の攻撃があったと報告されましたが、当時から情報は混乱しており、後の検証では実際に攻撃が行われた可能性は低いとみられています。

1964年8月、駆逐艦マドックス艦上の米海軍指揮官
トンキン湾事件後、駆逐艦マドックス艦上に立つ指揮官。U.S. Navy、Public Domain。
1964年8月10日のトンキン湾決議原文書
トンキン湾決議原文書。1964年8月10日。U.S. Congress/NARA・Public Domain。

米議会はトンキン湾決議を採択し、大統領に広範な軍事行動を認めました。正式な宣戦布告ではありませんでしたが、ジョンソン政権が戦争を大幅に拡大する政治的・法的根拠となりました。

ここでは、8月2日の実際の交戦と、疑義のある8月4日の報告を混同しないことが重要です。

1965年、米地上軍が本格投入された

1965年3月、米海兵隊がダナンへ上陸しました。当初の任務は基地防衛とされましたが、まもなく地上作戦へ拡大します。

ダナンのレッドビーチで物資を降ろす上陸用舟艇
ダナンの海岸で物資を陸揚げする上陸用舟艇。米国政府写真、Public Domain。

米軍の兵力は急増し、大規模な基地、港湾、飛行場、道路、病院、補給網が建設されました。

カムラン湾基地で情報説明を受ける米空軍F4操縦士
カムラン湾基地で情報説明を受けるF4操縦士。U.S. Air Force/NARA、Public Domain。

この戦争を支えたのは前線の兵士だけではありません。輸送、整備、情報、医療、通信、建設、民間企業の労働者が巨大な軍事システムを動かしました。

北爆と空母、そして地上の生活

米国は北ベトナムへの継続的な爆撃を開始しました。目的は、南への浸透を抑え、北ベトナム指導部へ圧力をかけることでした。

トンキン湾を航行する空母エンタープライズ
A4攻撃機を載せてトンキン湾を航行する空母エンタープライズ。U.S. Navy/NARA、Public Domain。

しかし、北ベトナムは防空壕、分散輸送、夜間作業、道路修復を組織し、補給を継続しました。爆撃は軍事施設だけでなく、交通、工業、住宅、農地、住民生活にも大きな被害を与えました。

空爆の規模を説明するときは、「爆弾の量」だけでなく、警報下の通学、生産移転、家族の疎開、負傷者救護など、地上で暮らす人びとの経験を見る必要があります。

ホー・チ・ミン・ルートは一本道ではなかった

北から南への補給網は、米国側で「ホー・チ・ミン・ルート」、ベトナム側で「チュオンソン戦略補給路」と呼ばれました。

1967年のホー・チ・ミン・ルートと補給網の地図
1967年のホー・チ・ミン・ルート地図。U.S. Air Force史料を基にした図/Public Domain。

これは一本の道路ではありません。ラオス、カンボジアを通る道路、歩道、河川、隠された倉庫、パイプライン、通信網からなる変化し続けるシステムでした。

米軍は激しい爆撃と偵察で遮断を試みましたが、北側は経路を修復・迂回し、人員と物資を送り続けました。そのため戦争はラオスとカンボジアへも広がりました。

南ベトナム軍も戦争の中心にいた

この戦争は米軍だけが戦ったわけではありません。ベトナム共和国軍、一般に南ベトナム軍と呼ばれる軍隊が長期間にわたり主要な地上戦力を担いました。

湿地で作戦行動を行う南ベトナム軍兵士
湿地を進む南ベトナム軍部隊。NARA、Public Domain。

南ベトナム軍には、精鋭部隊もあれば、装備・指揮・士気に問題を抱える部隊もありました。評価は時期と部隊によって大きく異なります。

「米軍撤退後にすぐ崩壊した弱い軍」とだけ見ると、長年の戦闘、膨大な死傷者、地域ごとの差、1972年攻勢での防衛戦を見落とします。一方で、米軍の航空・補給支援への依存が大きかったことも否定できません。

戦争は米越二国間だけではなかった

南側には韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンなどが軍や部隊を派遣しました。

1964年、タンソンニャット空港に到着した豪空軍部隊
南ベトナムで輸送任務に参加するため到着した豪空軍部隊。NARA、Public Domain。

各国の役割、派兵規模、活動地域は異なります。北側は中国とソ連から武器、防空装備、技術、経済支援を受け、中国軍部隊は北ベトナムで防空や建設にも従事しました。

したがって、この戦争はベトナム内の対立であると同時に、冷戦諸国が関与する国際戦争でした。

河川とデルタの戦争

メコンデルタでは、川と運河が交通・物流・生活の中心でした。米軍と南ベトナム軍は艇や特殊部隊を投入し、解放民族戦線の移動と補給を遮断しようとしました。

メコンデルタのバサック川を進む米海軍SEAL部隊
バサック川を強襲艇で進む米海軍SEAL部隊。U.S. Navy/NARA、Public Domain。

水上作戦は軍事的な捜索だけでなく、検問、村落管理、交易にも影響しました。住民にとって川は戦場であると同時に、農業と生活を支える場所でした。

戦場のそばで続いた暮らし

戦争中も、人びとは子どもを育て、働き、市場へ行き、学校へ通いました。

フーバイで幼い子どもを背負うベトナム人少年
幼い子どもを背負うベトナム人少年。NARA、Public Domain。
1967年、米特殊部隊のジープに乗るベトナム人の子どもたち
米特殊部隊のジープに乗る子どもたち。U.S. Army/NARA、Public Domain。

軍の写真は、撮影した側の目的や説明を伴っています。子どもと兵士が同じ画面に写っていても、それだけで住民が軍を支持していたとは判断できません。写真は接触の一場面を示すもので、周囲の恐怖、取引、依存、反発までは写しません。

民間人は複数の暴力にさらされた

住民は米軍・南ベトナム軍の空爆、砲撃、掃討作戦だけでなく、解放民族戦線側の暗殺、地雷、徴発、報復にもさらされました。

地雷爆発で民間人が犠牲になったトゥイホアの現場
手製地雷の爆発後のトゥイホア。NARA、Public Domain。

米軍の公式資料には相手側の暴力が強調され、北側の公式資料には米軍・南政府側の被害が強調されます。どちらも重要な証拠ですが、作成主体と目的を確認する必要があります。

避難民と都市化

戦闘、爆撃、村落移転、経済事情によって、多くの住民が農村から都市や難民キャンプへ移動しました。

1968年、ミトーから避難する住民とM113装甲車
ミトーから避難する住民とM113装甲車。NARA、Public Domain。

サイゴンなどの都市は急速に膨張し、住宅不足、失業、物価上昇、売春、闇市場などの問題を抱えました。一方、米軍需要によって運輸、建設、サービス業で働く機会も生まれました。

戦争は「前線」と「銃後」に分かれていたのではなく、都市の家賃、食料価格、仕事、教育、家族構成まで変えました。

枯葉剤はなぜ散布されたのか

米軍は森林や農地に除草剤を散布しました。目的は、解放民族戦線の隠れ場所を減らし、補給路を見つけやすくし、食料供給を妨げることでした。

枯葉剤を散布する米陸軍UH1Dヘリコプター
植生へ枯葉剤を散布するUH1Dヘリコプター。U.S. Army/NARA、Public Domain。

散布剤の一つエージェント・オレンジには、製造過程でダイオキシンが混入していました。環境汚染と健康影響は戦後も長く続き、ベトナム住民、米軍退役軍人、散布地域の生態系をめぐる問題になっています。

個々の疾病と曝露の因果関係は医学的評価が必要ですが、長期的な環境・健康問題が残ったことは、戦争の終結だけでは被害が終わらないことを示します。

1968年、テト攻勢は勝利だったのか

1968年の旧正月、北ベトナム軍と解放民族戦線は南ベトナム各地で大規模攻勢を開始しました。

1968年、破壊された家の跡に幼児を抱いて立つ少女
破壊された家の跡に幼児を抱いて立つ少女。1968年。NARA、Public Domain。
1968年、テト攻勢後のチョロン地区に残る瓦礫
テト攻勢後のチョロン地区。PH1 T. L. Lawson/U.S. Navy、Public Domain。

軍事的には、攻撃側が大きな損害を受け、多くの都市を長期間保持できませんでした。南ベトナム政府が直ちに崩壊することもありませんでした。

しかし政治的には、米国政府が説明していた「勝利が近い」という見通しへの信頼を大きく揺るがしました。米国世論と報道に与えた衝撃は大きく、戦争の転換点とみなされます。

したがって、テト攻勢は「北側の完全な軍事勝利」でも「米側の単純な勝利」でもありません。軍事的結果と政治的効果を分けて考える必要があります。

負傷者、捕虜、政治犯

巨大な医療搬送網が負傷兵を前線から病院へ運びました。

USSトリポリ甲板で移送を待つ傷病者
USSトリポリ甲板で次の医療施設への移送を待つ患者。U.S. Navy/NARA、Public Domain。

捕虜と政治犯の問題も、双方の社会に深い傷を残しました。南ベトナム政府は反政府活動の容疑者を拘束し、北側・解放民族戦線側も捕虜や住民を拘束しました。

タンソンニャット空軍基地で移送を待つ解放民族戦線側捕虜
南ベトナム軍警察の監視下で移送を待つベトコン捕虜。米国政府写真、Public Domain。

「捕虜」「政治犯」「民間抑留者」という分類は、当事者間で一致していませんでした。パリ和平交渉でも、誰をどの枠組みで解放するかが難しい争点になりました。

反戦運動は米国の撤退を決めたのか

米国内では、徴兵、戦死者、戦費、政府発表への不信、民間人被害を背景に反戦運動が拡大しました。

ベトナム戦争に抗議するモフェット基地前のデモ参加者
基地前で反戦のプラカードを掲げるデモ参加者。U.S. Navy/NARA、Public Domain。

ただし、反戦運動だけで撤退が決まったわけではありません。戦場での行き詰まり、南ベトナム政治、財政負担、大統領選挙、ソ連・中国との外交、軍内の問題などが重なりました。

和平交渉は戦争中から進んでいた

1968年、米国と北ベトナムのパリ協議が始まりました。

1968年の米国・北ベトナム間パリ協議に関する米政府文書
米国と北ベトナムのパリ協議に関する予備的見解。1968年。NARA/Public Domain。

交渉では、米軍撤退、北ベトナム軍の南部での存在、南ベトナム政府の将来、臨時革命政府の位置づけ、捕虜解放、停戦監視などが争点になりました。

戦場での軍事圧力と外交は別々ではありません。各陣営は戦況を交渉条件へ反映させようとし、交渉中も戦闘は続きました。

ベトナム化政策とは何だったのか

ニクソン政権は、米地上軍を段階的に撤退させながら、南ベトナム軍へ戦闘の中心を移す「ベトナム化」を進めました。

これは単なる撤退ではありません。南ベトナム軍への装備供与と訓練を強化する一方、米軍の航空戦力は継続され、カンボジアやラオスへの作戦も拡大しました。

1972年、北ベトナム軍は大規模攻勢を開始しました。南ベトナム軍は米空軍の強力な支援を受けて主要都市の防衛に成功しましたが、各地で支配地域が入り組む状態が残りました。

1972年6月の南ベトナム支配地域を示すCIA推定図
1972年6月の南ベトナム支配地域推定図。CIA、Public Domain。

この地図はCIAの推定であり、村落ごとの忠誠や夜間の支配まで正確に示すものではありません。

1973年のパリ和平協定

1973年1月27日、「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定」が署名されました。

署名したのは、米国、ベトナム民主共和国、ベトナム共和国、南ベトナム共和国臨時革命政府の四者です。

1973年1月27日、パリ和平協定へ署名する米国務長官
パリ和平協定へ署名するロジャーズ国務長官。Robert L. Knudsen/NARA、Public Domain。
パリ和平協定に記されたグエン・ズイ・チンとグエン・ティ・ビンの署名
パリ和平協定のグエン・ズイ・チン、グエン・ティ・ビン両外相の署名。1973年1月27日/Public Domain。

協定は停戦、米軍と外国軍の撤退、捕虜解放、南ベトナムの政治問題を南ベトナム人が解決することなどを定めました。

しかし、北ベトナム側部隊は南部に残り、南ベトナム政府と臨時革命政府の支配地域も入り組んでいました。停戦監視は十分に機能せず、戦闘は続きました。

捕虜交換と米軍撤退

協定後、捕虜交換が行われました。

1973年2月、北ベトナムへ帰還する解放捕虜
捕虜交換で北ベトナムへ帰還する解放捕虜。米国政府写真、Public Domain。
1973年2月、捕虜交換に参加する解放民族戦線兵士
捕虜交換に参加する解放民族戦線兵士。1973年2月12日。U.S. Department of Defense/Public Domain。

米軍の戦闘部隊は撤退しましたが、これはベトナム国内の和平完成を意味しませんでした。南北双方は再編・補給を進め、停戦違反を互いに非難しました。

1973年は「ベトナム戦争が完全に終わった年」ではなく、「米国の直接的な大規模軍事介入が終わった年」と理解した方が正確です。

「アメリカ戦争」は誰の戦争だったのか

北ベトナムの兵士にとっては、統一と外国介入への抵抗を掲げた戦争でした。

南ベトナム軍兵士にとっては、自分たちの国家と家族を守る戦争であり、同時に米国支援への依存を抱える戦争でした。

解放民族戦線の参加者にとっては、南政府への革命と民族統一をめざす戦争でした。

都市住民、農民、少数民族、宗教者、徴兵された若者、避難民にとっては、国家の理念よりも、今日の安全、食料、家族、土地、仕事が切実な問題でした。

この複数の経験を並べてこそ、「ベトナム戦争」と「アメリカ戦争」という二つの呼び名の間にある歴史が見えてきます。

まとめ

1954年から1973年までの戦争は、米軍対北ベトナムという二者間戦争ではありませんでした。

暫定軍事境界線から生まれた南北二つの国家、南部の反政府運動、米国と同盟国、中国とソ連、ラオスとカンボジア、そして戦場で暮らす住民が重なった複合的な戦争でした。

米国の圧倒的な火力は北側の補給と政治的意思を止められませんでした。一方、北側も大きな犠牲を払い、南ベトナム社会を短期間で崩壊させることはできませんでした。

1973年のパリ和平協定で米軍は撤退しましたが、ベトナム人同士の戦争は続きました。次の205では、1973年から1975年まで、なぜ協定後も戦争が終わらず、南ベトナムが崩壊したのかを扱います。

よくある質問

ベトナムは1954年に正式に二つの国へ分割されたのですか

ジュネーブ協定の軍事境界線は、停戦と軍の集結のための暫定線でした。恒久的な国境とすることは想定されていませんでした。しかし統一選挙が実施されず、南北に別々の政府が定着しました。

南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍は同じですか

同じではありません。解放民族戦線は南部で組織された政治・軍事運動で、北ベトナムから支援を受けました。北ベトナム正規軍も南部で戦いましたが、組織上は区別が必要です。

テト攻勢はどちらの勝利ですか

攻撃側は軍事的に大きな損害を受けましたが、米国の世論と政策へ強い政治的衝撃を与えました。軍事的結果と政治的効果で評価が異なります。

パリ和平協定で戦争は終わったのですか

米軍の大規模な直接介入と撤退への道は定まりましたが、南ベトナム国内の戦闘は終わりませんでした。戦争は1975年まで続きました。

参考文献・資料

  1. U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, 1952–1954, The Geneva Conference.
  2. U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, Vietnam, 1961–1968各巻.
  3. U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, Vietnam, 1969–1976各巻.
  4. National Archives and Records Administration, Records Relating to the Vietnam War.
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  6. Richard Nixon Presidential Library, Vietnam War and Paris Peace Accords資料.
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  8. Trung tâm Lưu trữ quốc gia II・III(ベトナム国家文書センターII・III)所蔵資料.
  9. Bảo tàng Lịch sử Quốc gia(ベトナム国立歴史博物館)公開資料.
  10. Bảo tàng Lịch sử Quân sự Việt Nam(ベトナム軍事歴史博物館)公開資料.
  11. Vietnam Center and Sam Johnson Vietnam Archive, Texas Tech University.
  12. United States Institute of Peace, Vietnam War関連資料.