1945年から1972年まで、沖縄は米国の施政権下に置かれました。沖縄ではこの時代を、日常語として「アメリカ世(ゆー)」と呼ぶことがあります。
法律、土地、通貨、行政の責任者、米軍関係の事件・事故の裁判や補償など、生活の基本を決める最終的な権限は米国側が握っていました。
沖縄県公文書館が所蔵・公開する写真と公文書27点をもとに、沖縄戦中の軍政開始から1972年の日本復帰までをたどります。
- まず結論|米軍統治下の沖縄とは何だったのか
- 1945年|沖縄戦と同時に米軍統治が始まった
- 沖縄諮詢会|収容所から行政を作り直す
- 米軍政府からUSCARへ|統治機構はどう変わったのか
- 通貨まで別だった|B円とドルの時代
- 1952年|琉球政府は独立政府ではなかった
- 基地建設と土地接収|「銃剣とブルドーザー」
- プライス勧告と島ぐるみ闘争
- 1958年|通貨が米ドルになった
- 米軍事故と裁判権|住民の安全は誰が守るのか
- 自治権はどこまであったのか
- 復帰運動と自治拡大
- ベトナム戦争と沖縄|基地の機能が拡大する
- 1970年|コザ騒動で蓄積した怒りが噴き出す
- 1971年|沖縄から毒ガス兵器が搬出された
- 1971年|返還協定は結ばれたが、要求は十分反映されなかった
- 1972年5月15日|沖縄は日本へ復帰した
- 公文書と写真は何を語り、何を語らないのか
- よくある質問
- まとめ|27年間の中心にあったのは「誰が決めるのか」という問題
- 参考文献・参考サイト
まず結論|米軍統治下の沖縄とは何だったのか
米軍統治下の沖縄とは、沖縄戦が続いていた1945年から、沖縄の施政権が日本へ返還された1972年5月15日までの約27年間です。
1952年に日本の主権が回復した後も、沖縄では米国が行政・立法・司法にわたる広い権限を行使しました。その下に琉球政府や立法院などの住民機構が置かれましたが、最終的な権限は米国民政府、のちには高等弁務官が握っていました。
| 時期 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1945年 | 沖縄戦の最中に米軍政府が日本の行政権停止を宣言 |
| 1945年8月 | 沖縄諮詢会が発足し、住民行政の再建が始まる |
| 1948年 | B型軍票、いわゆるB円が唯一の法定通貨になる |
| 1950年 | 琉球列島米国民政府(USCAR)が発足 |
| 1952年 | サンフランシスコ平和条約発効、琉球政府が設立 |
| 1950年代 | 「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる土地接収が進む |
| 1956年 | プライス勧告に対し島ぐるみ闘争が広がる |
| 1958年 | 法定通貨がB円から米ドルへ切り替わる |
| 1959年 | 宮森小学校に米軍機が墜落 |
| 1963年 | キャラウェイ高等弁務官の「自治は神話」発言 |
| 1968年 | 初の行政主席直接選挙、嘉手納基地でB52が墜落 |
| 1970年 | コザ騒動 |
| 1971年 | 沖縄返還協定調印、毒ガス兵器の移送 |
| 1972年5月15日 | 沖縄の施政権が日本へ返還 |
1945年|沖縄戦と同時に米軍統治が始まった

1945年3月、米軍は慶良間諸島へ上陸し、4月1日には沖縄本島へ上陸しました。戦闘が続くなか、米海軍軍政府は布告第1号を出し、日本政府の行政権を停止して軍政府を設置すると宣言しました。一般に「ニミッツ布告」と呼ばれる文書です。
米軍統治は沖縄戦の終結前から始まり、住民が収容所へ集められていた時点で統治機構の切り替えが進められました。
布告は、米軍が占領地域の政治・行政・司法を掌握する根拠となりました。住民は日本の行政から切り離された状態で生活を再建しました。
「アメリカ世」は正式な国名ではない
「アメリカ世」は、沖縄で米軍統治期を表す日常的な呼び方です。制度上は「米国の施政権下」「米軍統治下」と表現します。
沖縄諮詢会|収容所から行政を作り直す

1945年8月20日、米軍政府の諮問機関として沖縄諮詢会が発足しました。各地の収容所から選ばれた代表者をもとに15人の委員が選ばれ、委員長には志喜屋孝信が就きました。
写真は、沖縄諮詢会の施設として使われた民家の跡を2006年に撮影したものです。
食料、戸籍、教育――行政がなければ復興できない

戦争で役場、学校、病院、住宅、戸籍簿などが失われました。住民は収容所に分散し、家族の安否も土地の境界も分からない状態でした。
沖縄諮詢会では、食料配給、土地所有権、戸籍、住民の移動、教育、公衆衛生、人口調査などが議論されました。食料の配給、子どもの教育、家や畑の確認など、生存に直結する行政の再建でした。
米軍政府と住民組織の関係

沖縄諮詢会は住民の意見を行政へ反映させる出発点でしたが、最終決定権は米軍政府にあり、住民側はその枠内で復興を進めました。
この二重構造は、その後の沖縄民政府、群島政府、琉球政府にも形を変えて続きました。沖縄側の行政組織の上に米国側の統治機関が置かれる仕組みです。
米軍政府からUSCARへ|統治機構はどう変わったのか
終戦直後の沖縄では米海軍軍政府、のちに米陸軍軍政府が統治を担いました。1950年には琉球列島米国民政府、英語名United States Civil Administration of the Ryukyu Islands、略称USCARが設置されます。
最高責任者は米軍人で、米国の軍事戦略と結びついた統治機構でした。1957年以降は高等弁務官が最高責任者となり、琉球政府への命令、法令の公布、拒否など大きな権限を持ちました。
1952年、平和条約が発効しても沖縄は戻らなかった
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本本土では連合国による占領が終わりました。沖縄は日本の施政権から切り離されたままでした。
日本本土の占領開始直後の東京については、米軍写真で歩く占領期の東京でも詳しく紹介しています。
条約第3条は、米国が国連の信託統治制度へ付託する提案を行える地域として南西諸島などを扱い、それまで米国が行政・立法・司法の権力を行使できる枠組みを定めました。実際に信託統治へ移行はせず、沖縄では米国の施政権が継続しました。
1952年は、日本本土との制度上の分離が固定化された年でもありました。
通貨まで別だった|B円とドルの時代
1948年、B円が唯一の法定通貨になる

戦後直後の沖縄では日本円、米軍の軍票、地域ごとの通貨などが混在しました。1948年7月、軍政府特別布告第30号によって、B型軍票、通称B円が琉球列島の唯一の法定通貨とされました。
通貨制度は賃金、物価、貯蓄、商取引、税、輸入品の価格を左右します。B円の導入により、沖縄は日本本土と別の通貨制度で運営されました。
1952年|琉球政府は独立政府ではなかった

1952年4月1日、米国民政府布告第13号によって琉球政府が設立されました。行政、立法、司法の機構を備え、住民生活の広い範囲を担当しました。
琉球政府はUSCARの布告、布令、指令などの統制を受け、行使できる権限はその枠内にありました。
立法院議員は住民が選びましたが、行政主席は長い間米国側が任命しました。住民が行政主席を直接選べるようになるのは1968年です。
最終的な決定権が住民になかったため、自治拡大が繰り返し要求されました。
基地建設と土地接収|「銃剣とブルドーザー」
朝鮮戦争が始まると、沖縄の軍事的重要性はさらに高まりました。米軍は飛行場、弾薬庫、通信施設、兵舎などを拡張し、民有地の接収を進めます。
住民が収容所にいる間に土地が基地へ組み込まれ、帰郷しても自宅や畑へ戻れない例がありました。1950年代には、武装兵を伴って測量や立ち退きを進め、ブルドーザーで家屋や農地を撤去する接収が行われました。沖縄ではこれを「銃剣とブルドーザー」と表現します。
土地は農業、家族、墓、共同体、生活の基盤でした。補償額や契約期間に加え、土地の使い方を誰が決めるのかが争点となりました。
土地を守る四原則

琉球立法院は軍用地問題について、土地を守る四原則を掲げました。適正な補償、損害賠償、地代の一括払い反対、新規接収反対を柱とする要求です。
米軍側が長期使用の地代を一括して支払う方式を進めたため、土地を事実上恒久的に失うことへの不安が広がり、四原則は沖縄社会全体の政治課題となりました。
プライス勧告と島ぐるみ闘争
米国が基地を必要とした論理

1955年、米国下院軍事委員会の調査団が沖縄を訪れ、翌1956年にプライス勧告が公表されました。勧告は沖縄の基地を米国の安全保障に不可欠なものと位置づけ、軍用地政策を支持しました。

米国側にとって沖縄は東アジアへ展開できる戦略拠点でした。住民側は、その戦略のために土地、生活、自治を制限されていました。
米議会調査団が見た沖縄

プライス議員らは基地や軍用地を視察しました。調査団の結論は、沖縄側が求めた四原則を退けるものでした。
米国の国防政策を優先する勧告は沖縄で強い反発を招き、土地問題は住民全体の政治運動へ広がりました。
島ぐるみ闘争へ

1956年6月、プライス勧告への反対運動は全島へ広がりました。「プライス勧告粉砕」「四原則貫徹」などの横断幕が掲げられます。

沖縄県公文書館の資料では、6月20日に56市町村で20万人を超える住民が参加し、6月25日の大会にも15万人規模が集まったとされています。
自治権が制限されるなか、立法院、市町村、地主、労働者、女性団体、青年団などが連携し、政策変更を求めました。
抵抗が政策を動かした

琉球政府はプライス勧告への反論書をまとめました。住民運動は一括払い政策の修正などにつながり、米国側も沖縄側の反発を無視できなくなりました。
基地は残り、土地問題と基地負担はその後も続きました。
1958年|通貨が米ドルになった

1958年9月、沖縄の法定通貨はB円から米ドルへ切り替えられました。

賃金、預金、価格表示、契約、会計を一斉に換算する必要がありました。米軍基地から支払われる賃金や米国からの輸入品と結びつきやすくなる一方、沖縄経済はドルと基地関連収入の影響を強く受けました。
日本本土では円、沖縄ではドルが使われ、通貨と経済制度は分かれていました。
米軍事故と裁判権|住民の安全は誰が守るのか
1959年、宮森小学校に米軍機が墜落した

1959年6月30日、米軍嘉手納基地を離陸したジェット戦闘機が石川市の宮森小学校周辺に墜落・炎上しました。
沖縄県公文書館の資料によると、児童11人を含む17人が死亡し、児童156人を含む210人が負傷しました。住宅17棟、公民館1棟、教室3棟が全焼し、住宅8棟と教室2棟が半焼しました。
学校と住宅地を襲った被害

被害見取図には、墜落地点だけでなく、燃料による火災が学校や周辺住宅へ広がった範囲が示されています。
事故後の補償と責任

高等弁務官は負傷者を見舞いました。一方、米軍人・軍属が関係する事件や事故について、沖縄側の警察・裁判所が十分な権限を行使できないことへの不満が蓄積しました。
見舞い、補償、再発防止に加え、法的責任を誰が追及できるのかが問題となりました。
自治権はどこまであったのか

1963年3月、ポール・キャラウェイ高等弁務官は、琉球政府の自治拡大を批判する文脈で「自治は神話」と受け取られる発言をしました。復帰協議会は公開質問状を提出し、強く反発します。
高等弁務官は布令や命令を出し、琉球政府の政策へ介入できました。住民が選んだ立法院の決定にも、米国側の統治権が優越しました。
日本本土との往来も「国内移動」とは違った
米軍統治下の沖縄と日本本土の往来には、通常の県境を越える移動とは異なる渡航手続きが必要でした。沖縄の住民は日本国籍を持ちながら、日本本土と別の施政区域に暮らしていました。
通貨、郵便、交通制度、車両の通行方法、行政文書などにも違いがあり、旅行、商売、就学、就職にも影響しました。
復帰運動と自治拡大
1965年、佐藤栄作首相が沖縄を訪れた

1965年8月、佐藤栄作首相が戦後の日本の首相として初めて沖縄を訪問しました。佐藤首相は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていない」との趣旨を述べます。
沖縄返還は、日米政府間の外交交渉の課題となりました。
沖縄側の要求には、早期返還、基地撤去、核兵器撤去、平和憲法の適用、経済制度の移行などがありました。
1968年、住民が初めて行政主席を直接選んだ

1968年11月、琉球政府の行政主席を住民が直接選ぶ初めての選挙が行われ、屋良朝苗が当選しました。
琉球政府の発足から、行政の長を住民が直接選べるようになるまで16年を要しました。
屋良主席は復帰を進めながら、基地問題や住民の権利を日本政府と米国政府へ訴えました。
ベトナム戦争と沖縄|基地の機能が拡大する
1960年代、沖縄の米軍基地はベトナム戦争の出撃、補給、兵員移送を支える拠点となりました。
基地から航空機が飛び立ち、兵士や物資が移動しました。沖縄経済は基地収入の恩恵を受ける面がある一方、騒音、事故、犯罪、土地使用、安全への不安を抱えました。
1968年、嘉手納基地でB52が墜落

1968年11月19日、嘉手納基地でB52爆撃機が離陸に失敗して墜落・炎上しました。
B52はベトナム戦争で大規模爆撃に使われた戦略爆撃機です。事故は基地内で起きましたが、爆発は周辺地域にも衝撃を与え、住民は弾薬庫や核兵器の存在を含む基地の危険性を強く意識しました。
琉球立法院は抗議決議を採択し、B52の撤去を求めました。
1970年|コザ騒動で蓄積した怒りが噴き出す

1970年12月20日未明、コザ市で米軍人が運転する車による交通事故が起きました。事故処理をめぐって群衆と米軍憲兵が対立し、米軍関係車両が次々に焼かれる騒動へ発展しました。
背景には、米軍人・軍属による事件や事故、軍事裁判の判決、捜査権と裁判権への不満、基地騒音、ベトナム戦争、長期にわたる米軍統治がありました。
交通事故をきっかけに、長年の不満が一気に表面化しました。
1971年|沖縄から毒ガス兵器が搬出された

1969年、米軍基地内で化学兵器による事故が起き、沖縄に毒ガス兵器が保管されていることが明らかになりました。
1971年、毒ガス兵器を沖縄から撤去する「レッドハット作戦」が実施されました。沿道の住民は、移送中の事故、漏出、避難計画などについて安全対策を求めました。
輸送経路、住民への説明、事故時の責任も争点となりました。
1971年|返還協定は結ばれたが、要求は十分反映されなかった

1971年6月17日、日本政府と米国政府は沖縄返還協定に調印しました。沖縄の施政権を1972年に日本へ返還することが正式に決まります。
琉球政府は、返還協定に沖縄側の要求が十分反映されていないとして、基地の整理縮小、核兵器撤去、県民の権利保障などを求めました。
沖縄側は土地、安全、基地、法制度、経済移行を含む復帰を求めていました。
1972年5月15日|沖縄は日本へ復帰した

1972年5月15日、沖縄返還協定が発効し、沖縄の施政権は米国から日本へ返還されました。琉球政府は沖縄県へ移行し、行政、通貨、法律、教育などの制度が日本の制度へ切り替えられます。
道路交通は右側通行のままで、1978年の「730」で左側通行へ変更されました。制度移行には時間がかかりました。
多くの米軍施設は、復帰後も日米安全保障条約と日米地位協定のもとで使用が続き、基地負担の問題は残りました。
復帰後、基地問題は日本政府の責任としても問われるようになりました。
公文書と写真は何を語り、何を語らないのか
公文書は、制度の成立、要求、政府の対応を記録します。写真は建物、人びと、服装、看板、会場の規模、事故現場の広がりを伝えます。
米軍文書は米軍の政策や行政目的から作られ、琉球政府文書は住民側の行政課題や政治要求を記録します。写真も、撮影者が選んだ対象だけを残しています。
よくある質問
沖縄はアメリカの領土だったのですか
法的な位置づけは、米国が行政・立法・司法の権力を行使する施政権下でした。
琉球政府は独立国の政府ですか
琉球政府は、米国民政府の布告、布令、指令などに従う住民行政機構でした。
「アメリカ世」とは何ですか
米軍統治期を指す沖縄の一般的な呼び方です。
沖縄では日本円を使えなかったのですか
時期によって異なります。1948年にB円が唯一の法定通貨となり、1958年から1972年の復帰までは米ドルが法定通貨でした。
島ぐるみ闘争とは何ですか
1950年代の軍用地問題をめぐり、土地を守る四原則の実現を求めて沖縄全体へ広がった住民運動です。1956年のプライス勧告への反対を契機に大規模化しました。
沖縄の日本復帰で米軍基地はなくなったのですか
施政権は日本へ返還されましたが、多くの米軍施設は日米安全保障条約に基づく施設として残りました。
コザ騒動はなぜ起きたのですか
交通事故が直接のきっかけでしたが、米軍人による事件・事故、裁判権、基地の危険、ベトナム戦争、長期統治などへの不満が背景にありました。
まとめ|27年間の中心にあったのは「誰が決めるのか」という問題
1945年から1972年まで、沖縄側の行政機構は整えられましたが、その上に米軍政府と米国民政府があり、最終的な決定権を握りました。
土地接収、通貨制度、基地事故、裁判権をめぐる問題に対し、住民は四原則、島ぐるみ闘争、自治拡大、復帰運動を通じて意思を示しました。1972年に施政権は日本へ返還されましたが、基地負担は残りました。
参考文献・参考サイト
- 沖縄県公文書館「琉球政府の時代」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「写真が語る沖縄」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「出版物等への公文書資料の掲載について」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「沖縄諮詢会の設立」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「プライス勧告と島ぐるみ闘争」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「宮森小学校米軍機墜落事故」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「琉球政府が設立される」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「琉球列島の法定通貨がB円に統一される」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「B円からドルへ」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「自治は神話発言」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「佐藤栄作首相来沖」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「初の行政主席直接選挙」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「B52墜落事故」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「コザ騒動」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「毒ガス兵器の移送」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「沖縄返還協定への要請」(確認日:2026年7月14日)
- 沖縄県公文書館「1972年5月15日」(確認日:2026年7月14日)

