- 朝鮮戦争は「終わった戦争」なのか
- 30秒で分かる朝鮮戦争
- なぜ朝鮮半島は南北に分かれたのか
- 1950年6月25日|北朝鮮軍が全面侵攻した
- なぜ国連軍が参戦したのか
- 釜山橋頭堡|韓国側は半島南東部まで追い詰められた
- 仁川上陸作戦|戦況を一気に逆転させる
- 38度線を越える|「韓国防衛」から「北朝鮮打倒」へ
- 中国はなぜ参戦したのか
- 長津湖と興南撤収|勝利目前から総退却へ
- 民間人に何が起きたのか
- 1951年以降|戦線が固まっても戦争は終わらなかった
- 空から見た朝鮮戦争
- 捕虜問題が休戦交渉を長引かせた
- 日本は朝鮮戦争と無関係だったのか
- 板門店での休戦交渉
- 1953年7月27日|戦闘は「休戦」した
- 休戦は終戦ではない
- 写真は何を写し、何を写していないのか
- よくある質問
- まとめ|朝鮮戦争は分断を解消せず、軍事化した
- 参考文献・一次資料
朝鮮戦争は「終わった戦争」なのか
1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国へ全面侵攻し、朝鮮戦争が始まりました。戦闘には韓国と北朝鮮だけでなく、米国を中心とする国連軍、中国人民志願軍、そして北朝鮮を支援したソ連が関わりました。
1953年7月27日に休戦協定が結ばれ、大規模な戦闘は止まりました。現在も平和条約のない休戦状態です。

前線が移動するたびに都市が破壊され、住民が避難し、家族が離散しました。
30秒で分かる朝鮮戦争
| 年月 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1945年8月 | 日本の植民地支配が終わり、米ソが38度線を境に分割占領 | 一時的な占領線が国家分断へつながる |
| 1948年 | 南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が成立 | 朝鮮半島に二つの政府が並立 |
| 1950年6月25日 | 北朝鮮軍が韓国へ全面侵攻 | 朝鮮戦争が始まる |
| 1950年7~8月 | 韓国軍・国連軍が釜山周辺まで後退 | 韓国側は国家存亡の危機 |
| 1950年9月 | 仁川上陸作戦、ソウル奪還 | 戦況が逆転 |
| 1950年10月以降 | 国連軍が38度線を越えて北進 | 戦争目的が韓国防衛から朝鮮統一へ拡大 |
| 1950年10~11月 | 中国人民志願軍が参戦 | 国連軍は南へ大きく後退 |
| 1951年7月 | 休戦交渉開始 | 交渉中も約2年間戦闘が継続 |
| 1953年7月27日 | 朝鮮休戦協定が発効 | 戦闘停止。平和条約ではない |
朝鮮戦争の戦線は、わずか数か月で半島の南端近くから中国国境近くまで往復しました。1951年以降は38度線付近で固まり、塹壕と砲撃の消耗戦へ変わります。
なぜ朝鮮半島は南北に分かれたのか
日本の植民地支配が終わった後、すぐ独立国家になれなかった
朝鮮半島は1910年から1945年まで日本の植民地支配下にありました。1945年8月、日本の敗戦によって植民地支配は終わります。
日本軍の降伏を受け入れる区域を分けるため、北緯38度線より北をソ連軍、南を米軍が占領しました。
38度線は朝鮮人が国境として決めたものではなく、当初は日本軍の武装解除を分担するための軍事的区分でした。米ソ対立が深まると、南北で別々の政治体制と治安機構が作られました。
1948年、二つの国家が成立した
1948年8月、南部に李承晩を大統領とする大韓民国が成立しました。同年9月、北部には金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立します。
両政府は、それぞれ自分こそが朝鮮半島全体を代表する正統政府だと主張しました。38度線周辺では小規模な軍事衝突が続き、南部では済州島四・三事件や麗水・順天事件など、国家形成と反共政策をめぐる大規模な暴力も起きました。
38度線周辺では小規模な軍事衝突が続いていましたが、1950年6月25日に全面戦争を開始したのは、ソ連の承認と軍事支援を得た北朝鮮側でした。
1950年6月25日|北朝鮮軍が全面侵攻した

地図作成:Asta(Wikimedia Commons)/CC BY-SA 3.0。当時撮影の写真ではなく、後年作成された説明用戦況図です。内容は改変せず、表示サイズのみ調整しています。
北朝鮮軍は戦車と砲兵を集中し、複数の進路から韓国へ侵攻しました。戦車や重火器の不足した韓国軍は、組織的な防御を整えられないまま後退しました。
ソウルは6月28日に陥落します。政府と軍は南へ撤退し、北朝鮮軍は短期間で朝鮮半島の大部分を占領しました。
ソウルは何度も戦場になった

朝鮮戦争中、ソウルの支配は複数回入れ替わりました。占領、奪還、再占領、再奪還のたびに市街戦、砲撃、爆撃、政治的報復が繰り返されます。
橋、道路、鉄道、工場、住宅、学校が戦場と兵站の一部になりました。
戦場の外側で生きる

家を失った住民は、食料、燃料、水、衣服、住居を自力で確保しました。占領地域では敵側への協力を疑われ、支配する軍が変わるたびに政治的立場を問われ、報復の対象になることもありました。
なぜ国連軍が参戦したのか
国連安全保障理事会は、北朝鮮軍の攻撃を韓国に対する武力攻撃と認定し、撤退を要求しました。その後、加盟国に韓国への軍事援助を勧告し、米国を中心とする国連軍司令部が組織されます。
当時、ソ連は中国代表権問題を理由に安全保障理事会を欠席しており、拒否権を行使できない状況でした。
国連旗の下で戦った部隊の中心は米軍でしたが、英国、オーストラリア、カナダ、トルコ、フランス、フィリピン、タイなども戦闘部隊を派遣し、医療支援を行った国もありました。
「国連軍」は現在の国連平和維持活動とは異なり、安全保障理事会決議を背景に米国が統一指揮を担った多国籍軍でした。
釜山橋頭堡|韓国側は半島南東部まで追い詰められた
1950年8月までに、韓国軍と国連軍は釜山を中心とする半島南東部へ押し込まれました。ここは一般に「釜山橋頭堡」と呼ばれます。
釜山港は米国や日本から兵員、車両、弾薬、食料を受け入れる生命線でした。国連軍は洛東江周辺で防衛線を維持し、北朝鮮軍の補給力が低下する一方、海外から増援を受け続けました。

無反動砲は戦車や陣地への攻撃に使われました。朝鮮戦争では戦車・砲兵・歩兵に加え、ジェット機やヘリコプターも本格的に投入されました。
防衛線を維持したことで、次の反攻が可能になりました。
仁川上陸作戦|戦況を一気に逆転させる
潮差の大きな港へ上陸した

1950年9月15日、国連軍はソウル西方の仁川へ上陸しました。仁川は潮の干満差が大きく、航路が狭く、防潮堤も高い難所でした。
そのため北朝鮮軍は大規模上陸の可能性を低く見ていました。国連軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、あえて困難な地点へ上陸し、南方へ伸びた北朝鮮軍の補給線を断とうとしました。

海兵隊員は上陸後、梯子を使って防潮堤を登りました。作戦は成功し、仁川港と周辺地域が確保されます。
仁川からソウル奪還へ

北朝鮮軍は南北から圧迫され、釜山橋頭堡からの国連軍反攻も始まりました。補給路を断たれた部隊は崩れ、多数の兵士が捕虜になります。

国連軍と韓国軍はソウルを奪還しました。市街戦で建物が破壊され、北朝鮮占領期の協力者と見なされた人々への追及、南北双方による処刑や報復も起きました。
38度線を越える|「韓国防衛」から「北朝鮮打倒」へ
北朝鮮軍を38度線より北へ押し戻した時点で、韓国を防衛するという当初の目的はほぼ達成されました。
国連軍は38度線を越え、平壌を占領し、中国国境に近い鴨緑江方面へ進みました。朝鮮半島を韓国政府の下で統一できるという期待が高まったためです。
その結果、戦争目的は北朝鮮の侵攻撃退から、北朝鮮の体制を倒して統一を目指す段階へ拡大しました。
中国はなぜ参戦したのか

地図作成:Asta(Wikimedia Commons)/CC BY-SA 3.0。当時撮影の写真ではなく、後年作成された説明用戦況図です。内容は改変せず、表示サイズのみ調整しています。
1949年に成立した中華人民共和国にとって、国連軍が鴨緑江まで進むことは、米軍が中国国境へ迫ることを意味しました。中国は警告を発しましたが、国連軍指導部は大規模介入の可能性を低く見積もりました。
1950年10月以降、中国軍は「中国人民志願軍」の名称で朝鮮半島へ入りました。中国政府は米国との正式な国家間戦争という形を避けつつ、実際には大規模な正規軍を投入しました。

中国人民志願軍は夜間行動、山岳地形の利用、浸透、包囲などを組み合わせ、国連軍へ大きな打撃を与えました。一方、中国側も火力、車両、医療、補給の不足により膨大な損害を受けました。
ソ連は北朝鮮と中国に兵器、訓練、助言を提供し、ソ連人操縦士も秘密裏に航空戦へ参加しました。公式には参戦国の立場を取らず、関与を秘匿しました。
長津湖と興南撤収|勝利目前から総退却へ
中国軍の攻勢により、国連軍は北朝鮮北東部から撤退します。長津湖周辺では厳しい寒さのなかで米海兵隊などが包囲され、多数の死傷者と凍傷者を出しながら興南方面へ退却しました。

興南港からは軍人、装備、物資だけでなく、多数の朝鮮人住民も船で南へ避難しました。北部出身の避難民の多くは、その後故郷へ戻れないまま南北分断を生きることになります。
中国参戦によって、1950年秋に見えた「間もなく統一」という見通しは崩れました。国連軍はソウルを再び失い、1951年初めに再奪還します。戦線はやがて38度線付近へ戻りました。
民間人に何が起きたのか
避難民は前線の移動に翻弄された

戦線が南北へ大きく往復したため、住民は何度も避難を迫られました。道路や橋は兵士、車両、家畜、荷車、徒歩の避難民で埋まりました。
軍は避難民の集団へ敵兵や工作員が紛れ込むことを恐れ、移動を制限したり、危険な存在と見なしたりしました。こうした状況は、老斤里事件のように民間人が米軍の攻撃を受ける惨事にもつながりました。
民間人への虐殺と政治的報復
朝鮮戦争では、北朝鮮軍、韓国軍、警察、左右の政治組織、米軍を含む複数の主体による民間人殺害が起きました。
韓国側では、保導連盟員や左派と見なされた人々が大量に処刑されました。北朝鮮占領地域では、官吏、警察関係者、地主、宗教者などが殺害されました。支配勢力が交代すると、今度は占領側への協力を疑われた住民が報復を受けました。
犠牲者数は調査範囲や定義によって異なります。多くの民間人が戦闘、爆撃、虐殺、飢餓、病気、避難中の事故によって死亡しました。
戦争孤児が残された

両親を失った子ども、家族とはぐれた子ども、国外へ養子に出された子どもが多数生まれました。
家族を失った経緯、施設での生活、国外養子縁組の過程には、記録されにくい経験が多くありました。
民間人の死傷と医療

医療施設が破壊され、医薬品や医師が不足し、避難民が治療を受けられない状況が広がりました。
前線の背後で続いた治安戦

戦線の後方では、ゲリラ活動、捜索、拘束、取り調べ、処刑が続きました。
公式キャプションは拘束者を「共産ゲリラとその家族」としています。写真だけで戦闘員と家族・住民を判別することは困難です。
1951年以降|戦線が固まっても戦争は終わらなかった

1951年半ば以降、戦線は38度線付近で固定しましたが、戦闘は続きました。
両軍は塹壕、地下壕、鉄条網、地雷原を築き、高地をめぐって激しい戦闘を繰り返しました。砲撃と空爆も続き、兵士と住民の被害は積み重なりました。
この時期の戦争は、半島全体を大きく往復する機動戦から、限られた高地や稜線を奪い合う消耗戦へ変わりました。
空から見た朝鮮戦争
空爆とナパーム

米軍を中心とする国連軍は制空権を握り、補給路、鉄道、橋、工場、発電施設、集積地、部隊を攻撃しました。
ナパーム弾は広い範囲を燃焼させる兵器で、陣地や車両への攻撃に使われました。集落や都市の近くで使われれば、民間人にも深刻な被害を与えます。
北朝鮮側の都市やインフラは大規模な空爆を受けました。
沖縄から出撃したB29

B29爆撃機は、当時米軍統治下にあった沖縄の基地からも出撃しました。沖縄は第二次世界大戦の戦場となった直後、今度は朝鮮戦争の航空作戦拠点になります。
日本本土と沖縄は法的な地位が異なりましたが、どちらも米軍の後方基地として朝鮮半島の戦争と結びついていました。
ミグ・アレイのジェット戦闘機戦

朝鮮戦争では、ジェット戦闘機同士の本格的な空中戦が行われました。米空軍のF86セイバーと、ソ連製MiG15が代表的です。
中国東北部に近い北朝鮮北西部では激しい航空戦が起き、「ミグ・アレイ」と呼ばれました。ソ連人操縦士も秘密裏にMiG15を操縦し、米ソ両国は直接戦争へ拡大しないよう関与を隠しました。
陸上戦と航空支援

前線航空管制官は、地上部隊と航空機の間をつなぎ、目標や攻撃位置を調整しました。
朝鮮戦争では、戦車、歩兵、砲兵、航空機が連携する戦いが進みました。山岳地形と悪天候のため、地上からの誘導は重要でした。
捕虜問題が休戦交渉を長引かせた

休戦交渉で最も難しい争点の一つが、捕虜をどこへ送還するかでした。
北朝鮮と中国は、捕虜を原則として全員本国へ戻すことを求めました。国連軍側は、帰国を望まない捕虜を強制送還しないという立場を取りました。
捕虜収容所内部では政治的な組織化、脅迫、暴力、暴動が起き、「自由意思」の確認は困難でした。
捕虜送還問題が解決しなかったため、1951年に始まった休戦交渉は長期化しました。
日本は朝鮮戦争と無関係だったのか
日本は朝鮮戦争の交戦国ではなく、当時は連合国軍の占領下にありました。朝鮮戦争への対応は、占領政策と米軍の作戦に組み込まれました。
日本列島は国連軍、特に米軍の重要な後方基地となりました。兵員は日本の基地から朝鮮半島へ送られ、港湾、鉄道、通信、病院、修理工場、倉庫が戦争を支えました。

日本企業は車両修理、土嚢、衣料、食料、金属製品などを受注し、いわゆる朝鮮特需が戦後経済の回復を後押ししました。危険な任務もありました。
海上保安庁の掃海部隊から編成された特別掃海隊は、米軍の要請で朝鮮半島沿岸の機雷除去に従事しました。日本人乗組員に死者も出ています。
板門店での休戦交渉

休戦交渉は当初開城で始まり、その後板門店へ移りました。交渉中も前線では戦闘が続きました。
争点は軍事境界線、監視体制、外国軍の扱い、捕虜送還などでした。双方は交渉で譲歩を引き出すため、戦場でも有利な地点を確保しようとします。
韓国の李承晩大統領は、分断を固定する休戦に反対しました。1953年6月、韓国側は多数の反共捕虜を一方的に釈放し、交渉を混乱させました。
1953年7月27日|戦闘は「休戦」した

1953年7月27日、国連軍司令部、朝鮮人民軍、中国人民志願軍の代表が休戦協定に署名しました。
韓国政府は協定への署名を拒みました。李承晩政権が朝鮮半島の分断を固定する協定に反対したためです。韓国軍は国連軍司令部との関係を通じ、休戦体制の下で戦闘を停止しました。
協定によって軍事境界線と非武装地帯が設けられ、捕虜交換や休戦監視の仕組みが定められました。

送還を拒否した捕虜の扱いは休戦後も続きました。収容所内では政治的圧力や暴力も起きていました。
休戦は終戦ではない

休戦協定は、敵対行為を停止する軍事協定です。法的・政治的な終戦を定める平和条約とは性格が異なります。
1954年のジュネーブ会議でも統一と和平はまとまらず、朝鮮半島には軍事境界線と非武装地帯が残りました。韓国、北朝鮮、米国、中国の関係は、その後も緊張と対話を繰り返します。
1953年以降、朝鮮半島は平和条約のない休戦状態にあります。
写真は何を写し、何を写していないのか
この記事の写真の多くは、米国国立公文書記録管理局に残る米軍・米政府撮影の記録です。そのため、国連軍の上陸、米兵の戦闘、捕虜、救護、航空機は豊富に写っています。
一方、北朝鮮側や中国側から見た戦場、北朝鮮都市への爆撃被害、韓国軍・警察による民間人殺害、収容所内部の強制、住民一人ひとりの経験を伝える写真は限られています。
また、公式キャプションには「共産軍」「ゲリラ」「自由を選んだ捕虜」など、撮影した側の政治的な言葉が含まれます。
撮影者、所蔵機関、撮影目的、原キャプションによって、写真に残る対象や説明は偏ります。
よくある質問
朝鮮戦争を始めたのはどちらですか
1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を越えて韓国へ全面侵攻し、戦争が始まりました。戦争前にも南北間の衝突はありましたが、全面侵攻の主体は北朝鮮軍です。
国連軍は国連そのものの軍隊ですか
国連安全保障理事会決議を背景に編成された多国籍軍ですが、指揮の中心は米国でした。現在の国連平和維持活動とは仕組みが異なります。
中国は正式に参戦したのですか
中国は「中国人民志願軍」という名称で大規模な軍隊を送りました。「志願軍」という名称でも、実態は中国政府の指揮下にある正規軍の参戦です。
ソ連は参戦していなかったのですか
ソ連は兵器、訓練、助言を提供し、ソ連人操縦士も秘密裏に航空戦へ参加しました。ただし、米ソ直接戦争への拡大を避けるため公式の関与は秘匿されました。
日本は朝鮮戦争に参戦しましたか
日本は交戦国ではなく、米軍基地、港湾、鉄道、修理、物資調達、医療、掃海などを通じて国連軍の後方支援拠点となりました。
朝鮮戦争は1953年に終わったのですか
1953年7月27日に休戦協定が発効し、大規模戦闘は停止しました。平和条約のない休戦状態が続いています。
現在の国境は38度線と同じですか
軍事境界線は1953年の最終戦線を基礎に引かれ、一部では38度線より北、一部では南を通っています。その両側に非武装地帯があります。
まとめ|朝鮮戦争は分断を解消せず、軍事化した
朝鮮戦争は、1945年の分割占領と1948年の二国家成立を背景に、1950年6月25日の北朝鮮による全面侵攻で始まりました。国連軍の参戦と仁川上陸作戦で戦況が逆転し、国連軍が中国国境へ迫ると中国人民志願軍が参戦しました。
1951年以降、戦線は38度線付近で固定しましたが、砲撃、塹壕戦、空爆は続き、休戦交渉は捕虜送還などをめぐって約2年を要しました。
1953年7月27日の休戦協定で大規模な戦闘は止まりました。平和条約は結ばれず、分断と軍事境界線が残りました。
参考文献・一次資料
- United Nations Security Council, Resolution 82 (1950), 25 June 1950.
- United Nations Security Council, Resolution 83 (1950), 27 June 1950.
- United Nations Security Council, Resolution 84 (1950), 7 July 1950.
- United Nations Command, Agreement Concerning a Military Armistice in Korea, 27 July 1953.
- National Archives and Records Administration, “Korean War Records.”
- Harry S. Truman Presidential Library and Museum, “The United Nations in Korea.”
- Roy E. Appleman, South to the Naktong, North to the Yalu, U.S. Army Center of Military History.
- Billy C. Mossman, Ebb and Flow: November 1950–July 1951, U.S. Army Center of Military History.
- Walter G. Hermes, Truce Tent and Fighting Front, U.S. Army Center of Military History.
- Wilson Center Digital Archive, Korean War collections.
- 大韓民国・真実和解のための過去史整理委員会による朝鮮戦争期民間人犠牲事件の調査資料。
- 鈴木英隆「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊―その光と影」『戦史研究年報』第8号、防衛研究所、2005年。

