強制収容所はナチスだけのものだったのか|世界史で見る隔離・収容・強制労働

アウシュビッツやホロコーストを学ぶと、多くの人が「強制収容所とはナチス・ドイツが作ったものなのだろうか」と疑問を持ちます。

結論からいえば、強制収容、隔離、抑留、強制労働、大量収容は、ナチスだけのものではありません。ナチス以前の植民地戦争、全体主義国家、戦時の安全保障政策、革命体制などの中でも、人々を通常の法手続きから切り離し、集団的に閉じ込める制度は現れました。

しかし、ここで注意が必要です。ナチスによるホロコースト、とくにゲットー、移送、強制収容所、絶滅収容所・殺害センター、銃殺部隊が結びついたユダヤ人虐殺は、世界史の中でもきわめて特異な大量虐殺でした。

この記事の目的は、ナチスの罪を薄めることではありません。すべての事例を同一視するためでもありません。比較の目的は、近代国家、植民地支配、戦争、治安政策、人種主義、思想統制、強制労働が、どのように人間を隔離し、権利を奪う制度を生み出したのかを理解することです。

ホロコースト全体の流れについては、先にアウシュビッツだけではないホロコースト|ゲットー・強制収容所・絶滅収容所の全体像を読むと、本記事の位置づけがより分かりやすくなります。

30秒で分かる結論

  • 強制収容所という仕組みは、ナチス以前から存在しました。
  • 植民地戦争、戦時政策、治安対策、思想統制、強制労働の中で、人々を隔離・収容する制度が使われてきました。
  • ただし「強制収容所」「強制労働収容所」「捕虜収容所」「抑留施設」「絶滅収容所・殺害センター」は同じではありません。
  • ナチスの収容所制度は、強制収容所、強制労働、ゲットー、移送、通過収容所、絶滅収容所、銃殺部隊が結びついた点で特異でした。
  • ソ連のグラーグは、政治犯だけでなく一般刑事犯なども含む巨大な強制労働収容所システムでした。
  • アメリカの日系人強制収容は殺害政策ではありませんが、国籍や民族的背景を理由に自由と財産を奪った重大な人権侵害でした。
  • 比較するときは、目的、対象、殺害政策の有無、強制労働、死亡率、規模、記憶のされ方を分けて考える必要があります。

全体像|「隔離・収容」はどのように広がったのか

強制収容の歴史を理解するには、個別の国名だけでなく、時代ごとの文脈を見ることが大切です。下の表は、この記事で扱う主な流れを、単純化して並べたものです。

時期 主な事例 背景 注目点
1890年代 スペインのキューバ再集中政策 植民地戦争、対ゲリラ戦 農村住民を反乱勢力から切り離すための集団移動・隔離
1899〜1902年 第二次ボーア戦争のイギリス収容所 南アフリカ戦争、焦土作戦、民間人管理 ボーア人女性・子ども、黒人住民などが劣悪な環境に置かれた
1933〜1945年 ナチスの強制収容所・絶滅収容所 独裁、人種主義、戦争、占領地行政 隔離、強制労働、移送、殺害センター、銃殺部隊が結びついた
1930年代〜1950年代中心 ソ連のグラーグ 独裁、政治的弾圧、刑罰、労働力利用 収容者を鉱山、森林伐採、建設などの労働に動員した
1942〜1945年 アメリカの日系人強制収容 戦時の安全保障不安、人種偏見 殺害政策ではないが、日系人の自由と財産を奪った
1975〜1979年 カンボジアのクメール・ルージュ 革命体制、社会改造、思想統制、内戦後の暴力 強制移住、強制労働、監視、拷問、処刑が結びついた

この表は「どれが一番ひどいか」を決めるためのものではありません。同じ「収容」という言葉で呼ばれても、目的、対象、制度、殺害政策の有無が大きく違うことを見るための地図です。

第1章|まず「強制収容所」という言葉を整理する

日本語で「強制収容所」と聞くと、すぐにアウシュビッツを思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、言葉の使われ方は時代や国によって異なります。

一般には、強制収容所とは、政治的・民族的・軍事的・治安上の理由などで、人々を通常の法手続きから切り離し、集団的に隔離・収容する施設を指すことが多い言葉です。ただし、この言葉だけで「殺害を目的とした施設だった」と判断してはいけません。

米国ホロコースト記念博物館(USHMM)は、ナチスの収容所を一括して「強制収容所」と呼ぶのではなく、初期収容所、強制収容所、強制労働収容所、捕虜収容所、通過収容所、殺害センターなどに分けて説明しています。つまり、ナチスの事例だけを見ても、収容所には複数の機能があったのです。

用語 主な目的 殺害政策との関係
収容所 人を一定の場所に集めて管理する広い言葉 目的は事例による 捕虜収容所、移民収容施設、戦時収容施設など
強制収容所 隔離、拘禁、処罰、威圧、労働力利用 高死亡率や殺害を伴う場合もあるが、言葉だけでは判断できない ナチス強制収容所、第二次ボーア戦争の収容所など
強制労働収容所 収容者を労働力として利用する 過酷な労働、食糧不足、暴力、病気で多数が死亡する場合がある ソ連のグラーグ、ナチスの強制労働収容所など
絶滅収容所・殺害センター 大量殺害そのもの 殺害が中心目的 ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、アウシュビッツ=ビルケナウなど
捕虜収容所 敵軍捕虜の拘束 国際法上の規定があるが、違反や虐待も起こり得る 各国の捕虜収容所
抑留・隔離施設 安全保障、移民管理、戦時政策、検疫など 殺害政策とは限らない 日系人収容所、移民収容施設など
移送・拘禁・抑留・隔離 人の移動や自由を制限する行為 施設の種類とは別に考える必要がある ゲットーへの移動、戦時抑留、強制移住など
ジェノサイド 国民的・民族的・人種的・宗教的集団を全部または一部破壊する意図をもつ犯罪 殺害だけでなく、集団破壊を意図した複数の行為を含む ホロコースト、カンボジア虐殺などの研究対象
戦争犯罪 武力紛争の中での国際人道法違反 戦争の文脈が必要 民間人攻撃、捕虜虐待、略奪など
人道に対する罪 民間人に対する広範または組織的な攻撃 戦時に限らず成立し得る 殺害、奴隷化、強制移送、迫害など

特に大切なのは、「強制収容所」と「絶滅収容所」を混同しないことです。強制収容所は、隔離や労働、処罰、支配のために使われる場合があります。一方、絶滅収容所・殺害センターは、到着した人々を短時間で殺害する仕組みを中心に作られました。

この違いを詳しく知りたい方は、関連記事の強制収容所と絶滅収容所の違い|アウシュビッツだけでは分からないホロコーストの仕組みも参照してください。

第2章|ナチス以前にもあった「強制収容」

強制収容所は、ナチスが突然ゼロから作った制度ではありません。近代的な強制収容の前史を考えるうえで重要なのが、19世紀末から20世紀初頭の植民地戦争と対ゲリラ戦です。

キューバ再集中政策|住民を反乱勢力から切り離す

1890年代、スペインはキューバの独立運動に対抗する中で、農村住民を要塞化された町へ移動させる「再集中」政策を実施しました。米国議会図書館の解説では、スペイン軍の支配下に置くためにキューバの民間人を中心地へ移動させる政策として説明されています。

この政策の目的は、農村住民を反乱勢力から切り離し、補給や支援を断つことでした。ここでは、民間人が軍事上の都合で生活の場から引き離され、劣悪な環境に置かれるという構造が見られます。

ただし、キューバの再集中政策をナチスの絶滅収容所と同じものとして扱うのは正確ではありません。目的も制度も異なります。重要なのは、植民地戦争の中で「民間人を管理し、法的保護の外に置く」発想が現れていたことです。

第二次ボーア戦争|イギリスの強制収容所

1899年から1902年の第二次ボーア戦争では、イギリス軍が南アフリカで強制収容所を設けました。国立陸軍博物館の資料は、ボーア人ゲリラとその家族を収容し、ボーア軍への物資、情報、支援を断つために白人・黒人の住民が農村から排除されたと説明しています。

南アフリカのWar Museum of the Boer Republicsも、キッチナーが焦土作戦の中で、ボーア側に食料や支援を与え得る家畜、女性、子どもなどを農村から取り除こうとしたと説明しています。収容所では、過密、食糧不足、衛生状態の悪化、病気により、多くの人が死亡しました。

ここでも、ナチスの絶滅収容所のように殺害そのものを目的とした施設だったわけではありません。しかし、民間人を戦争遂行の道具として隔離し、劣悪な環境に置いたという点で、強制収容の歴史を考えるうえで重要な前史です。

第3章|ナチスの強制収容所と絶滅収容所は何が特異だったのか

ナチス以前にも強制収容はありました。しかし、ホロコーストは単なる収容政策ではありません。国家が特定集団の破壊を目指し、占領地行政、警察組織、鉄道、ゲットー、強制労働、絶滅収容所、銃殺部隊を組み合わせた大量虐殺でした。他の収容所政策と同列に扱うことはできません。

政治的敵対者を閉じ込める施設として始まった

ナチスの強制収容所は、1933年の政権獲得直後、まず政治的敵対者や反体制派を拘禁する場として始まりました。USHMMは、ナチスが1933年から1945年までに多数の収容・拘禁施設を設け、実際または想定上の敵の拘禁、強制労働、ユダヤ人の大量殺害など、複数の目的に使ったと説明しています。

初期の収容所は、社会から排除すべきとされた人々を隔離し、恐怖によって政治的支配を固める装置でした。しかし戦争と占領地の拡大に伴い、収容所制度はさらに巨大化し、暴力の目的も対象も広がっていきました。

ゲットー、移送、強制労働、殺害センターが結びついた

ナチスの暴力を理解するには、収容所だけを見ていては足りません。ユダヤ人はまず法制度や社会から排除され、占領地ではゲットーに隔離され、そこから通過収容所や鉄道移送を経て、強制収容所や絶滅収容所へ送られました。

USHMMは、ナチスの収容所には、強制収容所、強制労働収容所、捕虜収容所、通過収容所、殺害センターなど複数の種類があったと整理しています。さらに、占領地ではアインザッツグルッペンなどの移動殺害部隊による集団銃殺も行われました。ホロコーストは、施設の中だけでなく、町、村、森、渓谷、集団墓地となった場所でも進行したのです。

ゲットーについてはゲットーとは何か|ワルシャワ・ウッチから見るホロコーストの隔離政策、収容所外の虐殺についてはアインザッツグルッペンとは何か|収容所の外で行われたホロコーストで詳しく扱っています。

殺害センターは「殺すこと」を中心目的とした

絶滅収容所・殺害センターは、通常の強制収容所とは区別して理解する必要があります。USHMMは、ナチスがユダヤ人を毒ガスで大規模に殺害するため、ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、アウシュビッツ=ビルケナウの5つの殺害センターを設けたと説明しています。

ここでは、多くの被害者が到着後まもなく殺害されました。労働や拘禁が目的の中心ではなく、殺害そのものが制度の中心に置かれていた点が、一般的な収容所との決定的な違いです。

アウシュビッツは特に複雑です。アウシュビッツ第一収容所、ビルケナウ、モノヴィッツなどがあり、強制収容所、強制労働収容所、殺害センターとしての機能が重なっていました。だからこそ「アウシュビッツ=すべての強制収容所」という理解も、「アウシュビッツ=単なる労働施設」という理解も、どちらも不十分です。

第4章|ソ連のグラーグ|強制労働収容所の巨大システム

ナチス以外の重要な事例として、ソ連のグラーグがあります。グラーグは、ソ連の強制労働収容所システムとして知られ、政治犯だけでなく、一般刑事犯や「社会的に危険」とされた人々も含んでいました。

グラーグでは、収容者が鉱山、森林伐採、運河建設、鉄道建設、工業生産などに動員されました。米国議会図書館の「Revelations from the Russian Archives」は、収容所の条件が非常に厳しく、食糧や衣服が不足し、厳しい気候と長時間労働、看守による暴力にさらされ、疲労や病気による死亡率が高かったと説明しています。

グラーグを、ナチスの絶滅収容所と同じものとして扱うのは正確ではありません。ナチスの殺害センターは、到着した人々を短時間で殺害する制度として作られました。一方、グラーグの中心は、国家が人を拘禁し、労働力として利用する仕組みでした。

しかし、目的が違うからといって被害が軽いという意味ではありません。人々を法の保護から切り離し、過酷な環境で消耗させ、多くの死を生んだ点で、グラーグは近代国家による重大な人権侵害でした。

第5章|アメリカの日系人強制収容|殺害政策ではないが重大な人権侵害

第二次世界大戦中のアメリカでは、大統領令9066号に基づき、日系人・日本人移民が西海岸から強制的に立ち退かされ、内陸部の「relocation centers」へ送られました。詳しくは関連記事の日系人強制収容とは?アメリカで日本人・日系人に何が起きたのかでも解説しています。

米国国立公文書館は、大統領令9066号が1942年2月19日にフランクリン・ルーズベルト大統領によって発令され、西海岸から「国家安全保障上の脅威」とされた人々を内陸部の施設へ強制移動させる権限を与えたと説明しています。実際には、約12万2,000人の男性、女性、子どもが「集合センター」へ移され、その後、フェンスと監視のある「relocation centers」へ収容されました。そのうち約7万人はアメリカ市民でした。

日系人強制収容は、ナチスの絶滅収容所のような殺害政策ではありません。ホロコーストと同じものとして扱うべきではありません。

しかし、戦時の恐怖、人種偏見、安全保障上の不安の中で、特定の出自を持つ人々が、裁判で個別に罪を問われることなく自由を奪われ、財産や生活基盤を失いました。この点で、強制収容の歴史を考えるうえで重要な事例です。

アメリカでは戦後、長い運動の末に1988年のCivil Liberties Actが成立し、政府はこの収容を「重大な不正義」と認め、謝罪と補償を行いました。これは、国家が非常時に行った人権侵害を、後にどのように記録し、謝罪し、教育するかという点でも重要です。

第6章|カンボジア|強制労働と虐殺が結びついた事例

1975年から1979年まで、カンボジアではクメール・ルージュが支配しました。この体制は、ナチス型の「収容所システム」と同じではありません。しかし、強制移住、農村での強制労働、思想統制、監視、拷問、処刑が結びついた大量暴力として、強制収容の世界史を考えるうえで避けて通れない事例です。

USHMMは、1975年4月17日から1979年1月7日まで、クメール・ルージュがカンボジアに強制労働、思想統制、大量処刑を課し、約200万人が死亡したと説明しています。都市住民は農村へ強制的に移され、運河掘削や農作業などに従事させられました。宗教、文化、自由な表現は抑圧され、家族も引き離されました。

特に知られるのが、プノンペンのS-21、現在のトゥール・スレン虐殺博物館です。USHMMは、S-21をカンボジアで知られる尋問センターの中でも最も悪名高い場所とし、1万4,000人から1万7,000人が拘禁され、生存者はわずかだったと説明しています。

カンボジアの事例では、ナチスのような鉄道移送と絶滅収容所を中心にした制度ではなく、社会全体を強制的に作り替える革命体制の中で、強制労働、飢餓、病気、粛清、処刑が結びつきました。詳しくは、関連記事のカンボジア虐殺とは何だったのか|クメール・ルージュと強制労働の歴史でも解説しています。

第7章|比較表で見る:何が同じで、何が違うのか

ここまで見てきた事例を、目的と制度に注目して比較します。繰り返しますが、これは「どれが一番ひどいか」を決める表ではありません。似て見える言葉の内側に、どのような違いがあるのかを整理するための表です。

事例 時期 主な対象 主な目的 強制労働 殺害政策 特徴 比較するときの注意点
第二次ボーア戦争の強制収容所 1899〜1902年 ボーア人女性・子ども、黒人住民など ゲリラ戦支援の遮断、住民管理 中心目的ではない 殺害そのものを中心目的にした制度ではない 焦土作戦、過密、食糧不足、病気による大量死 ナチスの絶滅収容所とは目的が違うが、民間人隔離の前史として重要
ナチスの強制収容所・絶滅収容所 1933〜1945年 ユダヤ人、ロマ、政治犯、障害者、ソ連捕虜、同性愛者など 拘禁、恐怖支配、強制労働、移送、大量殺害 広範に存在 絶滅収容所・殺害センターでは中心目的 ゲットー、鉄道移送、収容所、殺害センター、銃殺部隊が結びついた 「収容政策の一つ」として相対化してはいけない。特定集団破壊を目指した大量虐殺だった
ソ連のグラーグ 1930年代〜1950年代中心 政治犯、一般刑事犯、社会的に危険とされた人々など 拘禁、処罰、労働力利用、統制 中心的 ナチスの殺害センター型ではない 鉱山、森林伐採、運河・鉄道建設などに動員 絶滅収容所とは目的が異なるが、国家が人を消耗させた重大な人権侵害
アメリカの日系人強制収容 1942〜1945年 日系人、日本人移民、日系アメリカ市民など 戦時の安全保障政策、強制移動、抑留 中心目的ではない 殺害政策ではない 出自を理由に自由、財産、生活基盤を奪った ホロコーストと同一視しない。ただし重大な人権侵害として扱う
カンボジアのクメール・ルージュ 1975〜1979年 都市住民、旧政権関係者、知識人、宗教者、少数民族、党内の被疑者など 社会改造、思想統制、強制労働、粛清 中心的 処刑、粛清、迫害が広範に行われた 都市から農村への強制移住、農業共同体化、S-21、処刑地 ナチス型の収容所システムとは違うが、強制労働と虐殺が結びついた事例

第8章|比較するときの注意点

強制収容を世界史の中で比較することには意味があります。しかし、比較は慎重に行う必要があります。似ている点だけを取り出すと、違いが見えなくなります。違いだけを強調すると、共通する危険も見えなくなります。

同じ点 違う点 誤解しやすい点 本文での扱い方
国家や軍、政治組織が人々の移動と自由を制限する 対象が民族、政治的敵、捕虜、住民、刑事犯などで異なる 「収容」という言葉だけで同じ制度だと思ってしまう 対象と目的を必ず分ける
非常時や戦争が口実になりやすい 植民地戦争、世界大戦、独裁体制、革命体制など背景が違う 「戦争中だから仕方なかった」と正当化してしまう 当時の口実と実際の被害を分けて見る
法の保護から外された人々が暴力にさらされやすい 裁判の有無、拘禁期間、労働条件、死亡率が異なる 殺害政策がない事例を軽く見てしまう 殺害政策の有無と人権侵害の重大性を両方見る
強制労働、飢餓、病気、暴力が死につながる場合がある 殺害を制度目的にした場合と、劣悪な環境で大量死が生じた場合は違う 死亡者数だけで「被害の順位付け」にしてしまう 数字ではなく制度の目的と構造を見る
記憶、謝罪、裁判、教育の問題が残る 戦後の責任追及や記念のされ方が社会ごとに異なる 「他にもあったからホロコーストは特別ではない」と考える 共通点を見ながら、ホロコーストの特異性を明確にする

大切なのは、比較の目的を間違えないことです。比較は、犠牲者の苦しみを競わせるためではありません。制度化された暴力が、どのような条件で生まれ、拡大し、正当化されるのかを理解するために行うものです。

第9章|なぜ近代国家は人を「隔離・収容」してきたのか

強制収容や隔離政策は、しばしば「非常時の一時的措置」として始まります。戦争、反乱、テロへの不安、治安維持、感染症、移民管理、思想統制など、理由は時代によって違います。

しかし、そこには共通する危険があります。国家や軍事組織が、ある集団を「危険」「非国民」「敵性」「不純」「社会を乱す存在」とみなし、その人々を通常の法手続きや社会の保護から外してしまうことです。

非常時は権利を奪う口実になりやすい

戦争中の国家は、「安全保障」や「軍事上の必要」を理由に、人々の移動や居住を制限しやすくなります。アメリカの日系人強制収容は、まさにこの問題を示しています。実際に個別の罪を問われていない多くの人々が、出自によって疑われ、自由を奪われました。

植民地支配では住民管理と軍事目的が結びつく

キューバや南アフリカの事例では、住民を反乱勢力から切り離すという軍事目的が、民間人の隔離と生活破壊につながりました。住民は保護される存在ではなく、戦争を進めるうえで「管理すべき対象」として扱われました。

独裁体制では思想統制や労働力利用と結びつきやすい

ナチスやソ連、クメール・ルージュの事例では、政治的な敵の排除、思想統制、労働力利用、社会改造が収容や強制労働と結びつきました。人を権利ある個人としてではなく、国家や党の目的のために動かせる資源として扱うとき、収容所は拡大しやすくなります。

「一時的な措置」が恒久化する危険

収容所や隔離施設は、しばしば「一時的」「例外的」「やむを得ない」と説明されます。しかし、法的な監視が弱く、外部から見えにくい場所に人々を閉じ込める制度は、拡大し、恒久化し、暴力を隠す装置になりやすいのです。

第10章|よくある誤解

Q. 強制収容所はすべて殺害施設だったのですか?

いいえ。収容、隔離、処罰、強制労働、移送、治安管理など、目的はさまざまです。ただし、ナチスの絶滅収容所・殺害センターのように、殺害そのものを主目的とした施設もありました。

Q. ナチス以前にも強制収容所はあったのですか?

はい。植民地戦争や対ゲリラ戦の文脈で、ナチス以前にも民間人を隔離・収容する政策がありました。キューバ再集中政策や第二次ボーア戦争の収容所は、その代表的な前史としてよく取り上げられます。

Q. 日系人強制収容はホロコーストと同じですか?

同じではありません。日系人強制収容は、ナチスの絶滅収容所のような殺害政策ではありません。しかし、民族的出自を理由に、個別の罪を問われない人々の自由と財産を奪った重大な人権侵害です。

Q. グラーグは絶滅収容所ですか?

基本的には強制労働収容所システムとして理解されます。ナチスの絶滅収容所・殺害センターとは目的が異なります。ただし、過酷な労働、飢餓、病気、暴力によって多数が死亡した重大な国家犯罪であることは変わりません。

Q. こうした比較はホロコーストを軽視することになりませんか?

比較の目的を間違えなければ、軽視にはなりません。重要なのは、同じ点と違う点を分けて見ることです。強制収容や隔離政策がナチスだけのものではなかったことを知る一方で、ホロコーストが、国家制度、占領地行政、鉄道移送、ゲットー、絶滅収容所、殺害センター、銃殺部隊を結びつけた特異な大量虐殺だったことも明確にする必要があります。

Q. 「ジェノサイド」「戦争犯罪」「人道に対する罪」はどう違いますか?

国連の解説では、ジェノサイドは国民的・民族的・人種的・宗教的集団を全部または一部破壊する意図を伴う犯罪とされます。戦争犯罪は武力紛争の中での国際人道法違反です。人道に対する罪は、民間人に対する広範または組織的な攻撃で、戦時だけでなく平時にも成立し得ます。似た言葉ですが、法的な要件は異なります。

まとめ|「ナチスだけではない」から見えてくること

強制収容、隔離、強制労働、大量収容は、ナチスだけのものではありませんでした。スペインのキューバ再集中政策、第二次ボーア戦争の収容所、ソ連のグラーグ、アメリカの日系人強制収容、カンボジアのクメール・ルージュなど、世界史の中にはさまざまな収容・隔離・強制労働の事例があります。

しかし、ナチスのホロコーストは、他の事例と単純に同列に置けるものではありません。ゲットー、移送、強制収容所、強制労働、絶滅収容所・殺害センター、銃殺部隊が結びつき、国家が特定集団の破壊を目指した、きわめて特異な大量虐殺でした。

「ナチスだけではない」と知ることは、ナチスの罪を薄めることではありません。むしろ、近代国家や政治組織が、非常時、戦争、植民地支配、治安対策、人種主義、思想統制を理由に、人を法の外へ置く危険を理解するための視点です。

大切なのは、「どれが一番ひどいか」を競うことではありません。同じ「収容」という言葉の中に、どのような目的、対象、制度、殺害政策の有無、記憶の違いがあるのかを見ることです。その視点を持つと、収容所の歴史は、過去の特殊な残酷さではなく、制度と人権の問題として見えてきます。

関連記事

参考文献・参考サイト

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