ホロコーストと聞くと、多くの人がまず思い浮かべるのはアウシュビッツです。アウシュビッツは、ナチス・ドイツが作った最大級の強制収容所・絶滅センターであり、現在もホロコーストの記憶と教育を考えるうえで非常に重要な場所です。
しかし、ホロコーストはアウシュビッツだけで起きた出来事ではありません。ヨーロッパ各地には、ゲットー、強制収容所、強制労働の現場、通過収容所、絶滅収容所、銃殺現場、移送列車、死の行進など、複数の制度と場所がありました。
この記事では、アウシュビッツを入口にしながら、「ホロコーストはどのような仕組みで進んだのか」を初心者向けに整理します。恐怖を消費するためではなく、記憶と教育のために、全体像を落ち着いて見ていきます。
30秒でわかる結論
- ホロコーストとは、ナチス・ドイツとその同盟国・協力者による、ヨーロッパ・ユダヤ人への組織的な迫害・虐殺を中心とする歴史です。
- アウシュビッツは重要な象徴ですが、ホロコースト全体はゲットー、収容所、絶滅収容所、銃殺現場、移送、死の行進など広範囲に及びました。
- ゲットーは都市内や地域内の隔離区域、強制収容所は収容・懲罰・強制労働の場、絶滅収容所・殺害センターは大量殺害を主目的とした場所です。
- 収容所に送られず、占領地で集団銃殺された犠牲者も多くいました。
- 全体像を理解するには、「どの場所で起きたか」だけでなく、「差別・排除→隔離→移送→労働→殺害→証拠隠滅・死の行進」という流れを見る必要があります。
ホロコーストの流れを一枚で見る
ホロコーストは、ある日突然一つの施設で始まり、そこで完結した出来事ではありません。ナチス政権の成立後、差別と排除が法や行政の仕組みに組み込まれ、戦争と占領の拡大によって隔離、移送、強制労働、殺害へとつながっていきました。
| 段階 | 内容 | 具体例 | 初心者向け説明 |
|---|---|---|---|
| 差別と排除 | 法制度、職業排除、財産剥奪、社会的孤立 | 反ユダヤ政策、商店の排除、権利の制限 | 「一部の人々を社会の外へ押し出す」段階です。 |
| 隔離 | 特定区域への強制移住、移動制限、過密化 | ワルシャワ・ゲットー、ウッチ・ゲットー | 都市や町の一部に押し込め、生活条件を悪化させました。 |
| 収容・強制労働 | 強制収容所、工場、建設現場、鉱山などでの労働 | ダッハウ、ブーヘンヴァルト、アウシュビッツIII=モノヴィッツ | 労働は保護ではなく、暴力と飢餓を伴う搾取でした。 |
| 移送 | 鉄道などによるゲットー・通過収容所から東方への移送 | ドランシー、ヴェステルボルク、メヘレン | 西欧などから絶滅収容所へ送る中継の仕組みがありました。 |
| 大量殺害 | ガス室、ガス車、銃殺、飢餓、病気、暴力による死亡 | ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、アウシュビッツ=ビルケナウ、バビ・ヤール | 収容所だけでなく、占領地の谷や森などでも殺害が行われました。 |
| 証拠隠滅と死の行進 | 戦争末期の収容所撤退、強制移動、殺害の継続 | 1944〜45年の収容所避難、アウシュビッツからの行進 | 解放が近づいても犠牲は終わらず、移動の途中で多くの人が亡くなりました。 |
第1章|ホロコーストとは何か
米国ホロコースト記念博物館(USHMM)は、ホロコーストを「ナチス・ドイツ政権とその同盟国および協力者による、ヨーロッパのユダヤ人約600万人に対する国ぐるみの組織的な迫害および虐殺」と説明しています。期間は、ナチ党がドイツで政権を握った1933年から、ナチス・ドイツが敗北する1945年までと整理されます。USHMM「ホロコーストについて」
ここで大切なのは、ホロコーストを単に「戦争中の虐殺」とだけ見ないことです。反ユダヤ主義、法律、行政、警察、鉄道、企業、占領地統治、現地協力者などが重なり、人々の生活を少しずつ奪い、移動の自由を奪い、最終的には生命を奪う制度へと発展していきました。
ホロコーストという語の中心にあるのは、ヨーロッパ・ユダヤ人への組織的虐殺です。一方で、ナチスはユダヤ人以外にも、ロマ、障害者、ポーランド人、ソ連捕虜、政治犯、同性愛者、エホバの証人などを迫害し、多くの人々が殺害されました。この記事では、ホロコーストの中心をヨーロッパ・ユダヤ人への迫害と虐殺に置きながら、ナチスの暴力が他の人々にも及んだことをあわせて見ていきます。
つまり、ホロコーストを理解するには「アウシュビッツという場所」だけではなく、「社会全体がどのように人々を排除し、移送し、殺害に至ったのか」を見る必要があります。
第2章|ホロコーストはどのような段階で進んだのか
差別と排除|人を社会の外へ追いやる
ナチス政権は、ユダヤ人を「共同体の外」に置く政策を進めました。職業や財産、教育、公共生活からの排除は、単なる偏見ではなく、国家の制度として実行されました。ここで作られたのは、「ある人々は権利を持たなくてもよい」という危険な前提です。
隔離|ゲットーに押し込める
ドイツの占領地域では、ユダヤ人が都市や町の一部に強制的に集められました。これがゲットーです。ゲットーは「昔ながらのユダヤ人街」ではありません。ナチスとその協力者が、ユダヤ人を非ユダヤ人社会から切り離し、劣悪な条件のもとに閉じ込めた隔離区域でした。USHMMは、ゲットーの創設を、ヨーロッパのユダヤ人を分離し、迫害し、最終的に破壊する過程の重要な一段階と説明しています。USHMM “Ghettos”
収容と強制労働|戦争経済と迫害が結びつく
強制収容所は、政治犯や反体制派を閉じ込める場として始まりましたが、戦争が進むにつれて、収容所制度は拡大し、強制労働と深く結びついていきました。工場、建設現場、鉱山、軍需産業などで、収容者は過酷な条件のもとで働かされました。
ここで注意したいのは、「働かされたから助かった」という単純な話ではないことです。強制労働は、飢餓、暴力、病気、過労と結びつき、多くの人にとって生命を奪う仕組みでした。戦争経済と迫害は、別々ではなく一体化していました。
移送|鉄道と通過収容所が殺害の仕組みを支えた
ホロコーストでは、移送そのものが大きな役割を果たしました。西ヨーロッパや中欧のユダヤ人は、通過収容所や集合地点を経て、東方の絶滅収容所や強制収容所へ送られました。フランスのドランシー、オランダのヴェステルボルク、ベルギーのメヘレン(ドシン兵舎)などは、移送の中継地点として知られています。
大量殺害|収容所の内外で起きた
絶滅収容所・殺害センターでは、到着直後に殺害される人も多くいました。USHMMは、ナチスがユダヤ人を大量に殺害するために、ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、アウシュビッツ=ビルケナウの5つの殺害センターを設置したと説明しています。USHMM “Nazi Killing Centers: An Overview”
同時に、すべての犠牲者が収容所に送られたわけではありません。独ソ戦後、アインザッツグルッペンなどの部隊が占領地で集団銃殺を行いました。バビ・ヤールのような場所は、収容所の外で行われた大量殺害を理解するうえで欠かせません。
死の行進|解放直前まで続いた犠牲
1944年から1945年にかけて連合軍が迫ると、SSは収容所の囚人を別の地域へ強制的に移動させました。これらは後に「死の行進」と呼ばれました。長距離を歩かされ、食料や防寒具も不十分なまま、多くの人が途中で命を落としました。USHMM “Death Marches”
第3章|施設や場所の種類を整理する
「強制収容所」「絶滅収容所」「ゲットー」は、しばしば混同されます。しかし、それぞれの目的や機能は同じではありません。違いを知ると、ホロコーストが一つの場所ではなく、複数の制度の連結で進んだことが見えてきます。
| 種類 | 目的 | 代表例 | 注意点 |
|---|---|---|---|
| ゲットー | ユダヤ人を都市や町の一部に隔離する | ワルシャワ、ウッチ、テレージエンシュタット | 「普通の居住区」ではなく、過密・飢餓・病気・移送と結びついた隔離区域です。 |
| 強制収容所 | 収容、懲罰、隔離、強制労働 | ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、ラーフェンスブリュック | すべてが大量殺害を主目的とした施設ではありませんが、暴力と死亡の場でした。 |
| 強制労働収容所・労働現場 | 戦争経済のための労働力搾取 | 軍需工場、建設現場、鉱山、アウシュビッツIII=モノヴィッツ | 労働は保護ではなく、殺人的条件のもとでの搾取でした。 |
| 通過収容所 | 移送前の一時収容・中継 | ドランシー、ヴェステルボルク、メヘレン | 西ヨーロッパから東方の収容所・殺害センターへ送る仕組みの一部でした。 |
| 絶滅収容所・殺害センター | 大量殺害を主目的とする | ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、アウシュビッツ=ビルケナウ | 「強制収容所」と同じ意味ではありません。マイダネクは殺害機能も持ちましたが、資料によって分類の仕方が分かれます。 |
| 銃殺現場 | 占領地での集団銃殺 | バビ・ヤール、ルンブラなど | 収容所に送られず、その場で殺害された犠牲者も多くいました。 |
| 死の行進 | 戦争末期の強制移動と収容所撤退 | アウシュビッツなどから西方への避難行進 | 解放が近づいても、犠牲は続きました。 |
ゲットー|隔離と移送の前段階
ゲットーは、ナチスとその協力者がユダヤ人を強制的に住まわせた隔離区域です。ワルシャワ・ゲットーやウッチ・ゲットーはよく知られています。人々は過密、食料不足、病気、暴力の中で生活させられました。
ゲットーは「収容所」そのものではありません。しかし、ゲットーでの隔離は、その後の移送や殺害と結びついていました。多くのゲットーは最終的に解体され、住民は絶滅収容所へ送られたり、現地で殺害されたりしました。
強制収容所|最初からすべてが絶滅収容所だったわけではない
ダッハウは1933年に開設され、ナチスの強制収容所制度を理解するうえで重要な場所です。ダッハウ記念館は、1933年3月22日に最初の囚人輸送が到着したことを紹介しています。Dachau Concentration Camp Memorial Site
強制収容所には政治犯、反体制派、ユダヤ人、ロマ、同性愛者、エホバの証人などが収容されました。強制収容所は、恐怖によって社会を支配し、労働力を搾取する場でもありました。
通過収容所|移送の中継地点
通過収容所は、移送の前に人々を一時的に集める場所でした。ドランシーはフランスからのユダヤ人移送で重要な役割を持ち、ヴェステルボルクはオランダ、メヘレンはベルギーからの移送の中継地点となりました。
ベルギーのドシン兵舎を継承するカゼルネ・ドシンは、1942〜1944年に25,490人のユダヤ人と353人のロマが主にアウシュビッツ=ビルケナウへ移送されたと説明しています。Kazerne Dossin
絶滅収容所・殺害センター|大量殺害を主目的とした場所
絶滅収容所・殺害センターは、ユダヤ人を大量に殺害するために作られた場所です。ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、アウシュビッツ=ビルケナウが代表例です。
特にベウジェツ、ソビボル、トレブリンカは「ラインハルト作戦」と深く関わります。USHMMは、ラインハルト作戦を、ドイツ占領下ポーランドの総督府領に住むユダヤ人を殺害するための計画として説明しています。USHMM “Operation Reinhard”
マイダネクは、しばしば絶滅収容所の一覧に含めて説明されることがあります。ただし、USHMMの「殺害センター」の分類では上の5か所が中心で、マイダネクは強制収容所・強制労働・殺害場所の機能が重なった施設として扱うのがより慎重です。この記事でも、マイダネクを「殺害機能を持った強制収容所」として位置づけます。
銃殺現場とアインザッツグルッペン|収容所の外で起きた大量殺害
アインザッツグルッペンは、ドイツ軍の進軍に続いて占領地で活動した保安警察・SDの部隊です。USHMMは、彼らがソ連領内でのユダヤ人集団銃殺でよく知られる「移動殺害部隊」だったと説明しています。USHMM “Einsatzgruppen”
バビ・ヤールでは、1941年9月29〜30日にキーウ近郊の谷で大規模な虐殺が行われました。こうした現場を知ると、ホロコーストが「収容所の中だけで起きた」とは言えないことが分かります。
死の行進|最後の段階まで続いた暴力
死の行進は、戦争末期に収容所の囚人を徒歩や鉄道で別の場所へ移動させた強制避難です。目的には、囚人を連合軍に解放させないこと、労働力を維持すること、犯罪の証拠を隠すことなどがありました。
この段階は、ホロコーストの終わりが「収容所の解放」と単純に同じではなかったことを示しています。解放の直前まで、多くの人が命を奪われ続けました。
第4章|アウシュビッツはなぜ象徴になったのか
アウシュビッツは、ドイツ占領下ポーランドのオシフィエンチム周辺に置かれた収容所複合体です。アウシュビッツ博物館は、アウシュビッツの歴史は非常に複雑であり、強制収容所と絶滅センターという二つの機能を併せ持っていたと説明しています。Auschwitz-Birkenau Memorial and Museum “History”
アウシュビッツが象徴になった理由は、一つではありません。規模が大きく、多くの国から人々が送られ、収容・強制労働・絶滅の機能が同じ複合体の中に存在し、戦後に記憶と教育の中心的な場所となったからです。
| 場所 | 主な機能 | 特徴 | なぜ重要か |
|---|---|---|---|
| アウシュビッツI | 強制収容所、管理中心 | 最初に設けられた中心部分 | 収容所制度、懲罰、管理の仕組みを理解する入口です。 |
| アウシュビッツII=ビルケナウ | 絶滅センター、巨大収容区域 | 大量殺害の設備が集中し、多くの犠牲者がここで殺害されました。 | アウシュビッツがホロコーストの象徴となった最大の理由の一つです。 |
| アウシュビッツIII=モノヴィッツ | 強制労働、工業生産との結びつき | IGファルベンの工場建設・労働と関係しました。 | 迫害と戦争経済・企業活動の関係を考えるうえで重要です。 |
| 周辺の副収容所 | 強制労働 | 工場や農場などに広がりました。 | アウシュビッツが一つの建物ではなく、広域の収容所ネットワークだったことを示します。 |
アウシュビッツでは、ユダヤ人だけでなく、ポーランド人、ロマ、ソ連捕虜なども犠牲になりました。アウシュビッツ博物館は、ここで110万人以上の男性・女性・子どもが命を失ったと説明しています。Auschwitz-Birkenau Memorial and Museum
ただし、アウシュビッツが重要だからといって、「アウシュビッツだけを知ればホロコースト全体が分かる」とは言えません。アウシュビッツは、ホロコーストの象徴であると同時に、より広い迫害と虐殺の仕組みの一部でもあります。
第5章|アウシュビッツ以外の代表的な場所
ここでは、場所名を覚えること自体を目的にするのではなく、「その場所を知ると、ホロコーストのどの側面が見えるのか」を整理します。
| 場所 | 種類 | 全体像の中での意味 |
|---|---|---|
| ワルシャワ・ゲットー | ゲットー | 大都市の中での隔離、飢餓、抵抗、ゲットー解体を考える入口です。 |
| ウッチ・ゲットー | ゲットー・強制労働 | 隔離と労働が結びついた例として重要です。 |
| テレージエンシュタット | ゲットー・通過収容所 | 隔離、移送、宣伝が重なった複雑な場所です。 |
| ダッハウ | 強制収容所 | ナチス強制収容所制度の初期からの展開を知る場所です。 |
| ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、ラーフェンスブリュック | 強制収容所 | 政治的支配、強制労働、性別や囚人分類の違いを考える手がかりになります。 |
| ヘウムノ | 殺害センター | ガス車による殺害が行われた初期の殺害センターです。 |
| ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ | ラインハルト作戦の殺害センター | ゲットー解体と絶滅政策が結びついた最も致命的な段階を理解する場所です。 |
| マイダネク | 強制収容所・殺害場所 | 強制収容所、労働、殺害機能が重なった例として注意深く扱う必要があります。 |
| ドランシー、ヴェステルボルク、メヘレン | 通過収容所 | 西ヨーロッパから東方への移送を支えた中継地点です。 |
| バビ・ヤール | 銃殺現場 | 収容所の外で行われた大量殺害を理解するうえで欠かせません。 |
このように見ると、ホロコーストは「一つの巨大収容所の物語」ではなく、都市、鉄道、工場、行政、警察、軍、占領地社会がつながった暴力の体系だったことが分かります。
第6章|よくある誤解と正しい理解
| 誤解 | 実際には | 補足 |
|---|---|---|
| ホロコーストはアウシュビッツだけで起きた | アウシュビッツは象徴ですが、ゲットー、他の収容所、殺害センター、銃殺現場、死の行進など各地で起きました。 | アウシュビッツを入口に、全体像を見ることが大切です。 |
| 強制収容所はすべて絶滅収容所だった | 強制収容所は収容・懲罰・労働の場であり、絶滅収容所は大量殺害を主目的としました。 | ただし、強制収容所でも暴力、飢餓、病気、殺害で多くの人が亡くなりました。 |
| ガス室だけが殺害方法だった | ガス室だけでなく、銃殺、ガス車、飢餓、病気、過労、暴力などでも人々は命を奪われました。 | 収容所外の集団銃殺も重要です。 |
| 収容所に送られた人だけが犠牲者だった | 占領地でその場で殺害された人、ゲットーで亡くなった人、移送中や死の行進で亡くなった人もいました。 | 場所ではなく、迫害の流れ全体で見る必要があります。 |
| ユダヤ人以外は関係なかった | ホロコーストの中心はヨーロッパ・ユダヤ人への虐殺ですが、ロマ、障害者、ポーランド人、ソ連捕虜、政治犯、同性愛者、エホバの証人なども迫害されました。 | 中心を曖昧にせず、同時に他の被害も無視しないことが重要です。 |
| ドイツ国内だけで起きた | ドイツ占領下ポーランド、バルト地域、ウクライナ、ベラルーシ、西ヨーロッパなど、ヨーロッパ各地で起きました。 | 戦争と占領の拡大が、迫害の範囲を広げました。 |
| 戦争末期だけに起きた | 1933年から排除が進み、戦争とともに隔離・移送・殺害が拡大しました。 | 段階的に制度化されたことを理解する必要があります。 |
| ナチスだけが単独で実行し、周囲は関係なかった | 中心はナチス・ドイツですが、同盟国、協力者、占領地の行政・警察・鉄道など多くの仕組みが関わりました。 | 責任を曖昧にするのではなく、実行を可能にした制度の広がりを見ることが大切です。 |
第7章|なぜ全体像を知る必要があるのか
アウシュビッツを知ることは重要です。しかし、アウシュビッツだけに記憶を集約すると、ホロコーストがどのように始まり、どのように社会全体を巻き込み、どのように各地へ広がったのかが見えにくくなります。
ホロコーストは、突然の「狂気」だけで説明できるものではありません。差別が法制度になり、行政が人を分類し、警察が拘束し、鉄道が移送し、企業や工場が強制労働を利用し、占領地の制度や協力者がそれを支えました。
この構造を理解することは、過去を知るだけでなく、社会がどのようにして一部の人々を排除しうるのかを学ぶことでもあります。記憶と教育の目的は、恐怖を眺めることではなく、人間の尊厳を制度的に壊していく仕組みを見抜く力を持つことです。
第8章|現在も学べる記念館・資料館・公式資料
ここで紹介する施設や資料は、観光地として消費するためではなく、記憶と教育の場として向き合うための入口です。訪問する場合は、開館日、予約、見学ルール、撮影可否などを必ず公式サイトで確認してください。
- アウシュビッツ=ビルケナウ博物館:旧収容所跡を保存し、研究・教育・記憶の中心的な役割を担っています。公式サイト
- 米国ホロコースト記念博物館(USHMM):日本語を含むホロコースト百科事典があり、初心者が学び始めるのに有用です。ホロコースト百科事典 日本語版
- ヤド・ヴァシェム:イスラエルの世界ホロコースト記念センターで、資料、証言、教育コンテンツを公開しています。公式サイト
- ダッハウ強制収容所記念館:強制収容所制度の初期から戦後の記憶化までを学べます。公式サイト
- カゼルネ・ドシン:ベルギーのメヘレンにある記念館・博物館で、通過収容所と移送の歴史を学べます。公式サイト
- ホロコースト記念館(広島県福山市):日本でホロコーストを学べる施設の一つです。公式サイト
- NPO法人ホロコースト教育資料センターKokoro:学校向け授業や教育活動を行う日本の団体です。公式サイト
このテーマを初めて学ぶ場合は、まずUSHMMの日本語版「ホロコーストについて」を読み、次にゲットー、殺害センター、アウシュビッツ、アインザッツグルッペン、死の行進のページへ進むと、全体像を段階的につかみやすくなります。
FAQ|ホロコーストの基本をもう一度整理する
Q. ホロコーストとアウシュビッツは同じ意味ですか?
同じ意味ではありません。アウシュビッツはホロコーストの象徴的な場所ですが、ホロコースト全体はゲットー、強制収容所、絶滅収容所、通過収容所、銃殺現場、死の行進などを含む広い歴史です。
Q. 強制収容所と絶滅収容所は何が違いますか?
強制収容所は収容、懲罰、隔離、強制労働の場です。絶滅収容所・殺害センターは、大量殺害を主目的として作られた場所です。ただし、強制収容所でも暴力、飢餓、病気、過労、殺害により多くの人が亡くなりました。
Q. ゲットーとは何ですか?
ゲットーは、ユダヤ人を都市や町の一部に強制的に住まわせ、非ユダヤ人社会から隔離した区域です。過密、飢餓、病気、強制労働、移送と結びつき、虐殺体制の重要な一部でした。
Q. アウシュビッツ以外にも大量殺害の場所はありましたか?
ありました。ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカなどの殺害センター、バビ・ヤールなどの銃殺現場、各地のゲットー解体や移送の途中でも多くの人が命を奪われました。
Q. すべての犠牲者は収容所で殺害されたのですか?
いいえ。収容所に送られず、占領地で集団銃殺された人々、ゲットーで飢餓や病気により亡くなった人々、移送中や死の行進で亡くなった人々もいました。
Q. ユダヤ人以外にも迫害された人々はいましたか?
いました。ロマ、障害者、ポーランド人、ソ連捕虜、政治犯、同性愛者、エホバの証人など、多くの人々がナチスによって迫害されました。ただし、ホロコーストという語の中心は、ヨーロッパ・ユダヤ人への組織的迫害と虐殺です。
Q. なぜアウシュビッツが特に有名なのですか?
アウシュビッツは規模が大きく、強制収容所と絶滅センターの機能を併せ持ち、多くの国から人々が送られました。戦後も博物館・記念館として保存され、教育と記憶の象徴になったためです。
Q. 初心者が学ぶなら、どの資料から読むのがよいですか?
まずUSHMMの日本語版「ホロコーストについて」を読み、次に「ゲットー」「アウシュビッツ」「殺害センター」「アインザッツグルッペン」「死の行進」へ進むと、全体像を段階的に理解しやすいです。
まとめ|アウシュビッツを入口に、全体像を見る
アウシュビッツは、ホロコーストの象徴であり、非常に重要な場所です。アウシュビッツを軽く扱うことはできません。
しかし、ホロコースト全体はアウシュビッツだけでは理解できません。ゲットー、強制収容所、強制労働、通過収容所、絶滅収容所、銃殺部隊、死の行進が組み合わさり、ヨーロッパ各地で迫害と虐殺が進みました。
大切なのは、「どの場所で起きたか」だけでなく、「どのように段階的に進んだか」を見ることです。差別が制度になり、隔離が移送につながり、労働と殺害が戦争経済や占領統治と結びついた。その構造を知ることが、ホロコーストを歴史教育として学ぶ第一歩です。
この歴史は、恐怖や興味本位で扱うべきものではありません。犠牲者一人ひとりの尊厳を忘れず、記憶と教育のために、正確に学び続ける必要があります。
関連記事
- 日本も原爆の研究をしていた?陸軍「ニ号研究」と海軍「F研究」:第二次世界大戦と科学技術の関係を考える関連記事です。
参考文献・参考サイト
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia「ホロコーストについて」
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia “Ghettos”
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia “Jewish Life in Ghettos During the Holocaust”
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia “Nazi Killing Centers: An Overview”
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia “Operation Reinhard”
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia “Einsatzgruppen”
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia “Mass Shootings of Jews during the Holocaust”
- United States Holocaust Memorial Museum / Holocaust Encyclopedia “Death Marches”
- Auschwitz-Birkenau Memorial and Museum “History”
- Auschwitz-Birkenau Memorial and Museum 公式サイト
- Dachau Concentration Camp Memorial Site “Dachau Concentration Camp 1933–1945”
- Yad Vashem: The World Holocaust Remembrance Center
- Kazerne Dossin: Memorial, Museum and Research Centre on Holocaust and Human Rights
- Camp Westerbork Memorial Centre
- ホロコースト記念館(広島県福山市)
- NPO法人ホロコースト教育資料センターKokoro
