本間宗久とは? 「相場の神様」と酒田の米相場――史実と伝説をたどる

堂島米会所を描いた錦絵

江戸時代の酒田には、米の値動きを読み、後世に「相場の神様」と呼ばれた商人がいました。本間宗久ほんま むねひさです。

宗久は本間家初代・本間原光の五男として1717年に生まれ、酒田の米相場で名を上げました。のちに江戸や大坂の米市場とも関わり、その名は「酒田五法」「ローソク足」と結びついて語られるようになります。ただし、現在知られるローソク足を宗久本人が発明したという説明は、近代の資料をたどるとそのまま採用できません。

宗久の実像に近づくには、伝説を切り分けながら、なぜ酒田に米相場が生まれ、彼が何を見て売買したのかを追う必要があります。

本間宗久とは何者か

本間宗久ほんま むねひさは1717年、酒田の本間家初代・本間原光の五男として生まれました。酒田市の資料では、兄・光寿が病弱だったため家業を助け、甥の本間光丘の後見役も務めたとされています。

本間家は米取引、海運、金融などを手がけながら成長した商家です。宗久はその一族の中でも、米相場で名を残した人物でした。家全体の歩みは「酒田本間家とは? 北前船・米沢藩・戊辰戦争から見る豪商の260年」で詳しく紹介しています。

宗久は1803年に没しました。生涯の細部には後世の伝承が重なっていますが、酒田市立資料館は現在も彼を「相場の神様」として紹介しています。

米と商人の町・酒田で育った

酒田さかたは最上川河口に発達した港町です。山形内陸で生産された米や紅花などが最上川を下って酒田へ集まり、そこから海路で各地へ運ばれました。

酒田市日和山公園の北前船模型
酒田市・日和山公園の北前船模型(撮影:shikabane taro/Wikimedia Commons/CC BY 3.0)

庄内藩では家臣の禄米を米札で扱い、酒田や鶴岡の蔵にある米と結びつける仕組みが発達しました。17世紀半ばには酒田に米相場所が設けられ、米価を決める市場機能が整っていきます。

宗久が生まれたころの酒田には、米そのものだけでなく、米の価格、保管、輸送、信用を扱う商業の仕組みがすでにありました。最上川と日本海航路が酒田を全国市場へ結びつけた背景は「なぜ酒田は栄えた? 最上川・北前船・紅花がつないだ山形」でたどれます。

本間家の経営を担い、甥の光丘と対立した

本間宗久ほんま むねひさは兄を助けて家業に入り、甥の本間光丘ほんま みつおかの後見役も務めました。しかし、やがて両者は資本の使い方をめぐって対立します。

光丘は家督を継ぐと土地や金融へ経営基盤を広げ、投機性の高い事業を抑える方針を取りました。米相場を重視する宗久とは方向が合わず、宗久は一時、本間家から離れます。

この対立は、本間家の中に異なる経営戦略があったことを伝えます。宗久は価格変動から利益を得る相場取引を重視し、光丘は土地や貸付など長期的な資産形成へ比重を移しました。のちに両者は和解し、宗久も一族を支える立場へ戻ったと伝えられています。

酒田の米相場とはどんな市場だったのか

江戸時代の米は食料であると同時に、武士の給与、年貢、藩財政、商人金融をつなぐ商品でした。米価が動けば、藩の収入も商人の利益も大きく変わります。

酒田では庄内米が集まり、米札や米相場が発達しました。市場では、目の前の米の量に加えて、豊作か凶作か、どの地域からどれだけ米が入るか、船が順調に動くか、江戸や大坂で需要が強いかという情報が価格へ反映されました。

宗久の相場観は、こうした情報の集積する都市で形成されました。値段だけを眺めるより、天候、作柄、入荷量、市場参加者の心理まで合わせて読む発想が中心にあります。

堂島・江戸へ広がった米相場の世界

堂島米会所どうじまこめかいしょは1730年に幕府から公認され、大坂の米取引の中心となりました。現物の米を扱う取引と、将来の値段を見込んで売買する帳合米取引が併存し、その価格は各地の米市場へ大きな影響を与えました。

酒田の独自の米市場も全国の価格形成と結びつき、酒田、江戸、大坂の価格や米の動きが商人の判断材料になりました。

米が年貢から商品へ変わり、さらに信用や金融と結びつく仕組みは、「江戸時代、大名は誰から金を借りた? 大名貸と豪商のしくみ」ともつながります。

「相場の神様」は何を見て売買したのか

本間宗久ほんま むねひさの名で伝わる相場訓には、価格の高低だけで飛びつかず、市場参加者の強気と弱気を読む姿勢が繰り返し現れます。

相場が上がり続け、多くの人がさらに上がると考えているときには売り場を意識する。反対に下落が続き、弱気が広がったときには買い場を探す。売買を休み、流れが変わるまで待つことも重視されました。

宗久の相場思想を現代の言葉に置き換えると、需給と群集心理を一緒に読む考え方に近づきます。米の供給量、季節、天候、輸送、市場の空気を重ねて判断する点に特徴があります。

『宗久翁秘録』に残る相場観

宗久の相場観は、後世にまとめられた『荘内本間宗久翁遺書』や『宗久翁秘録』を通じて広まりました。酒田市文化資料館光丘文庫には、明治33年(1900)に早坂豊蔵らがまとめた『荘内本間宗久翁遺書』が残っています。

現在読まれている相場訓は、宗久の生前に本人が一冊へまとめた原本がそのまま伝わったものではなく、宗久の名で伝承された言葉や相場法を後世に整理したものです。

それでも内容には一貫した特徴があります。相場の高下を追いかけすぎず、皆が同じ方向を向いたときに反転を考え、売買しない時間も判断の一部とする姿勢です。

三位の法と、宗久をめぐる伝説

三位の法さんみのほうは、本間宗久の名と結びついて伝わる相場法です。酒田市の資料には、江戸で相場に失敗した宗久が酒田へ戻り、寺で座禅をしたのちに三位の法を編み出したという伝承が紹介されています。

こうした逸話は宗久の人物像を大きくしました。後世には「百戦百勝」の相場師として語られ、酒田、堂島、江戸の相場を自在に読み切った人物として伝説化します。

一方、具体的な取引記録や勝敗の回数まで史実として追える話は限られます。人物記事では、酒田市などが確認している経歴と、後世に形成された成功譚を分けて読む方が宗久の実像に近づきます。

酒田五法は本当に宗久が作ったのか

現在の相場解説では、三山さんざん、三川、三空、三兵、三法をまとめた「酒田五法」が本間宗久の手法として広く紹介されています。株式や為替のテクニカル分析でも使われる言葉です。

近代初期の罫線資料では、宗久系の手法は現在の酒田五法・ローソク足とは別の形で記録されています。現在の「酒田五法」は、宗久の相場思想や酒田系の罫線法に、近代以降のチャート分析が重なって整理された体系として扱うのが適切です。

宗久と「酒田五法」の結びつき自体は強く定着しています。しかし、現在使われる図形や名称まで江戸時代の宗久が完成させたとすると、後世の発展部分まで一人の業績に含めることになります。

ローソク足の発明者だったのか

ローソク足は、一定期間の始値、高値、安値、終値を一本の形で示す価格表示です。本間宗久がその発明者として紹介される例は現在も多くあります。

しかし、日本テクニカルアナリスト協会が近代の罫線資料を調査した結果、宗久系の手法として確認できるのは、現在のローソク足とは異なる「陰陽切替足」と呼ばれる方法でした。同協会は、現在のローソク足へつながる「蠟燭引」と宗久を直接結びつける資料関係を否定的に評価しています。

そのため、宗久を「ローソク足を発明した人物」と史実として扱うより、宗久の相場思想が後世の日本的なテクニカル分析の歴史と強く結びつけられてきた人物と見る方が資料に合います。

『三猿金泉秘録』との混同

江戸時代の相場書として知られる『三猿金泉秘録さんえんきんせんひろく』も、本間宗久と混同されることがあります。

この書の著者は牛田権三郎うしだ ごんざぶろうです。国立国会図書館やCiNiiの書誌でも、牛田権三郎の著作として整理されています。

宗久と牛田権三郎はいずれも米相場の歴史を語るうえで重要ですが、著者と伝承を分けることで、江戸時代の相場思想が一人の天才から生まれたという単純な物語を避けられます。

本間宗久が現代まで語られる理由

本間宗久ほんま むねひさの名が残った理由は、巨大な利益を得たという伝説だけにありません。酒田という米の集散地で、価格を動かす情報と人間心理を結びつけて考えた相場師として記憶されたことにあります。

宗久が生きた18世紀、米は年貢であり、給与であり、商品であり、信用の土台でもありました。酒田、江戸、大坂を結ぶ市場の中で、米価を読むことは経済全体の動きを読むことでもありました。

後世のローソク足や酒田五法には近代以降の発展が加わっています。その層を取り除いても、需給、情報、群集心理を見ながら売買した本間宗久の存在は、近世日本の市場経済がどこまで発達していたかを伝えています。

主な参考資料

  • 酒田市立資料館「酒田と米の歴史」関連資料
  • 酒田商工会議所「本間家と酒田の歴史」
  • 酒田市文化資料館光丘文庫『荘内本間宗久翁遺書』
  • 日本テクニカルアナリスト協会「ローソク足の成立過程を探る」
  • 日本テクニカルアナリスト協会『テクニカル分析ハンドブック』関連資料
  • 東京証券取引所・日本取引所グループ 米市場・先物取引史関連資料
  • 国立国会図書館・CiNii『三猿金泉秘録』書誌