明治元年(1868)、庄内藩は戊辰戦争で新政府軍と戦い、最後に降伏しました。敗戦後に待っていたのは、厳しい報復ではなく、比較的穏やかな戦後処理でした。
その方針の背後に西郷隆盛がいたと知った旧庄内藩士たちは、やがて鹿児島へ学びに赴き、西郷本人とも交流します。のちに彼らは『南洲翁遺訓』を刊行し、西郷の言葉を全国へ広めました。
敵として戦った相手を、なぜ庄内の人々は深く敬うようになったのか。その経緯は、戊辰戦争後の処遇と、その後20年以上続いた交流をたどると見えてきます。
庄内藩と西郷隆盛――敵同士から始まった関係
庄内藩は現在の山形県庄内地方を治めた酒井家の藩です。幕末には江戸市中の警備を担い、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦いました。
庄内藩軍は装備、訓練、補給で強さを見せ、秋田方面などで新政府軍と激戦を重ねました。戦いの経過や酒田商人・本間家の資金力との関係は「なぜ庄内藩は戊辰戦争で強かった? 本間家・酒田商人・洋式兵器」で詳しく紹介しています。
その庄内藩が後に西郷を敬慕するようになるため、物語は「敵だったのに仲良くなった」という一言では収まりません。転機は戦場よりも、降伏後に訪れました。
庄内藩は戊辰戦争で最後まで戦った
慶応4年(1868)夏、新政府軍は東北各地で攻勢を強めました。会津藩が孤立する中、庄内藩も戦いを続けます。しかし同盟諸藩が相次いで降伏し、戦争継続は困難になりました。
庄内藩は同年9月に降伏を決めます。戦場では最後まで大きく崩れなかった庄内藩にとって、敗北は軍事的な崩壊というより、東北戦争全体の帰趨によって受け入れたものでした。
そのため藩士たちは、降伏後に重い処分が待っていると考えていました。幕府側として新政府軍と戦い続けた以上、藩主や重臣への厳罰、領地の大幅な削減、武士身分への厳しい措置も想定されました。
鶴ヶ岡城開城――庄内藩への寛大な処遇
降伏後、新政府軍は庄内へ入り、鶴ヶ岡城の開城を進めました。鶴岡市の資料によると、新政府軍は武器を接収したものの、城下で大規模な略奪や暴行は起こらず、藩士には帯刀での行動も認められました。商人や職人の暮らしも大きく乱されませんでした。
藩主酒井忠篤は謹慎となり、藩士も処分を受けましたが、敗者に対する措置として庄内側には予想より穏やかに映りました。
この戦後処理の現場を担った一人が黒田清隆です。黒田ら新政府側の対応が庄内の人々に強い印象を残しました。
菅実秀は「西郷の指示だった」と知る
庄内側が西郷隆盛を強く意識するきっかけは、降伏翌年に東京で聞いた黒田清隆の説明でした。
明治2年(1869)、庄内藩中老だった菅実秀は東京で黒田清隆に会い、戦後の穏便な扱いについて礼を述べました。鶴岡市の資料では、このとき黒田から、その方針が西郷の指示によるものだったと知らされたとされています。
庄内藩士にとって、西郷は戦場の敵将という存在から、敗者への処遇に影響を与えた人物へ変わりました。厳罰を覚悟していた側ほど、その落差は大きく受け止められました。
なぜ庄内藩士は西郷を敬慕したのか
西郷隆盛への敬慕には、戦後処理への感謝に加えて、鹿児島での直接交流が重なりました。旧庄内藩士たちは、その後実際に鹿児島へ赴き、西郷と接触しました。
庄内側が評価したのは、勝者が敗者を辱めず、武士としての面目を残したことでした。戊辰戦争では双方に死傷者が出ています。その直後に報復ではなく、地域社会を大きく壊さない形で占領と武装解除が進んだことは、庄内藩士の記憶に残りました。
さらに鹿児島で西郷の考えに直接触れたことで、その敬意は政治的な恩義から人物への尊敬へ広がっていきました。
酒井忠篤と70人余りの旧藩士が鹿児島へ
明治3年(1870)11月、旧藩主酒井忠篤は70人を超える旧庄内藩士と鹿児島へ向かいました。鶴岡市の資料では、一行は約5か月滞在し、西郷らのもとで兵学などを学んだとされています。
戊辰戦争の終結からわずか2年ほど後のことです。かつて新政府軍と戦った藩の旧藩主と藩士が、薩摩へ大人数で留学する関係へ変わっていました。
この鹿児島留学によって、庄内側は西郷を戦後処理の象徴として遠くから敬う段階を越え、その周囲の人々や思想に直接触れるようになります。
菅実秀と西郷隆盛――「徳の交わり」
菅実秀と西郷が初めて直接会ったのは明治4年(1871)です。戦後処理からすぐに二人が対面したという伝承とは時期が異なります。
菅は旧庄内藩の再建を担う立場にあり、西郷との会談で、旧藩士を組織して新たな産業を興す構想を語りました。二人はその後も交流を続け、庄内側ではこの関係が「徳の交わり」として語られるようになります。
西郷の人格をたたえる話だけを見ると抽象的ですが、両者の交流は旧藩士の就業や産業育成という庄内の現実的な課題とも結びついていました。
西郷が励ました松ヶ岡開墾
明治5年(1872)、旧庄内藩士たちは松ヶ岡の開墾を本格化させました。旧藩士卒約3,000人が組織され、桑畑を開き、養蚕と製糸を新たな産業にしようとしました。
構想と実行の中心にいたのは菅実秀ら庄内側の人々です。菅が開墾計画を西郷に語ると、西郷はこれを励ましたと伝えられています。
松ヶ岡本陣には、西郷から贈られた「気節凌霜天地知」の書が伝わっています。戦争に敗れた武士たちが、武力ではなく開墾と産業へ力を移す時期に、西郷との交流が続いていたことを物語る資料です。
西郷が政府を去った後も続いた交流
明治6年(1873)、西郷隆盛は明治政府を離れて鹿児島へ戻りました。しかし庄内との交流は途切れませんでした。
旧庄内藩士は鹿児島を訪ね、西郷から直接話を聞きました。明治8年(1875)には菅実秀らも鹿児島を訪れています。同年には鶴岡から少年たちが鹿児島の私学校へ留学しました。
西郷が政府を去った後も庄内から人が訪れ、言葉を書き留めました。この蓄積が後の『南洲翁遺訓』につながります。
西郷の死と名誉回復
明治10年(1877)、西南戦争で西郷隆盛は死去しました。庄内との結びつきの中心は、政治的な同盟よりも戦後の恩義と人的交流にありました。
明治22年(1889)、大日本帝国憲法公布に伴う大赦で西郷の名誉が回復されます。これを機に、庄内側では西郷から聞いた言葉をまとめて世に残す動きが進みました。
『南洲翁遺訓』を作った旧庄内藩士たち
明治23年(1890)、『南洲翁遺訓』が刊行されました。「南洲」は西郷隆盛の号です。
中心となった菅実秀は、赤沢経言、三矢藤太郎ら旧庄内藩士に、西郷との交流で聞き取った言葉を集めさせました。鹿児島大学の研究でも、庄内側による聞き書きと編集の過程が確認されています。
西郷の思想を庄内の人々が作ったのではなく、西郷本人から聞いた言葉を記録し、整理して後世へ残しました。政治、教育、人材登用、私欲への戒めなど、西郷の考えを知る代表的な文献が、かつて敵として戦った庄内の人々によって世に出ました。
旧庄内藩士は『南洲翁遺訓』を全国へ配った
『南洲翁遺訓』は刊行されただけで終わりませんでした。酒田市は、旧庄内藩士たちが本を風呂敷に背負い、全国を歩いて配布したと紹介しています。
庄内の人々は、西郷への恩義を私的な思い出のまま残さず、言葉を印刷物にして各地へ届けました。今日、西郷の思想を知る資料として『南洲翁遺訓』が広く読まれている背景には、この普及活動があります。
戊辰戦争で敵だった人々が、20年以上後には西郷の言葉を全国へ伝える役割を担ったことになります。
なぜ酒田に南洲神社があるのか
酒田市には南洲神社があります。昭和51年(1976)に建てられ、西郷隆盛と菅実秀を祀っています。
鹿児島から遠く離れた酒田に西郷を祀る神社がある背景には、戊辰戦争後から続く庄内との関係があります。神社には『南洲翁遺訓』の精神を伝える資料も集められ、庄内と西郷の交流を現在へ伝えています。
庄内藩と西郷隆盛の関係は、1868年の降伏で終わりませんでした。戦後処理への感謝から鹿児島留学、菅実秀との交流、松ヶ岡開墾、そして『南洲翁遺訓』へ続きます。敗者だった庄内の人々が、勝者側にいた西郷の言葉を後世へ残したことが、この関係の最も長い余韻となりました。
主な参考資料
- 鶴岡市『庄内藩酒井家400年歴史ハンドブック』
- 鶴岡市「歴史的風致維持向上計画」
- 酒田市「西郷隆盛と庄内」関連資料
- 酒田市文化資料館 戊辰戦争・庄内藩関連展示資料
- 致道博物館「松ヶ岡開墾場」
- 鹿児島大学「『南洲翁遺訓』の成立・伝播に関する研究」

