嘉永7年(1854)の「東都小石川繪圖」は、現在の小石川、後楽、春日、白山周辺を描く尾張屋版江戸切絵図です。水戸徳川家の屋敷、傳通院、寺町、武家地、町人地が入り組み、江戸城北西部の都市構造を一枚で追えます。現在の東京ドーム、小石川後楽園、文京区役所周辺が、幕末にはどのような土地だったのかを読み解けます。
東都小石川繪圖の基本情報
国立国会図書館所蔵本は戸松昌訓著、金鱗堂尾張屋清七刊、嘉永7年(1854)の資料です。国立国会図書館の「江戸切絵図」28舗一括資料には小石川図が含まれていないため、本シリーズでは別資料として公開されているこの一舗を加えています。

地図の見方――谷と台地、屋敷地を分ける
小石川は台地と谷が入り組む地域です。切絵図では高低差が現代の地形図ほど明示されませんが、川筋、坂、寺社、道の曲がりを追うと地形が見えてきます。白い武家地、灰色の町人地、赤い寺社を見分けると、谷沿いの町場と台地上の屋敷地の違いもつかみやすくなります。
文京区によると、明暦3年(1657)の大火後、小石川・本郷には大名や旗本の屋敷が多く移され、江戸の拡大に伴って市街化が進みました。地図に見える大区画の武家地は、その都市再編の結果です。
水戸徳川家上屋敷と小石川後楽園
小石川を代表する大名屋敷が、水戸徳川家の上屋敷です。その庭園が現在の小石川後楽園として残っています。水戸藩初代藩主徳川頼房が造園を始め、2代光圀の時代に整えられました。
大名屋敷の建物や役割は明治維新で失われましたが、庭園の主要部分は残りました。東京ドームや高層建築に囲まれた現在の後楽園で、江戸の大名庭園が同じ位置に残っていることは、この地域を古地図で読む大きな手掛かりです。
傳通院――徳川家康の母を祀る寺
傳通院は小石川を代表する寺院です。文京区によると、慶長8年(1603)、徳川家康が母・於大の方を葬ったことを契機に大伽藍が整えられました。江戸時代には関東十八檀林の一つとなり、多くの学僧が学びました。
寺院の周囲には寺町が形成され、武家屋敷や町人地とは異なる大きな区画が並びます。小石川の都市景観を理解するには、武家地だけでなく大寺院と門前の存在を見ることが重要です。
礫川――小石川という地名につながる土地
礫川は小石川地域の古い呼称として使われてきました。小石川の地名については、川に小石が多かったことに由来する説などが伝わります。現在も礫川公園や礫川地域活動センターなどに名が残ります。
春日・後楽園周辺の低地から小石川台地へ向かうと坂が連続します。現在の道路に残る高低差は、江戸時代の街区や寺社配置を理解する手掛かりです。
武家地と町人地が入り組む小石川
小石川は大名屋敷だけの町ではなく、旗本屋敷、寺院、町人地が混在していました。街道や寺社門前には商いが生まれ、谷沿いには細かな町割も形成されます。大区画の屋敷地と細長い町人地を見比べると、身分と用途によって土地の形が大きく異なることがわかります。
明治維新後――屋敷地が学校・軍・公共施設へ
明治維新後、武家屋敷地は官有地、学校、軍用地、住宅地などへ転用されました。水戸徳川家上屋敷跡の一部は近代の施設用地となり、後楽園だけが庭園として残ります。小石川・本郷一帯には学校や研究施設も増え、文京区の文教地区としての性格が形成されました。
現在の東京ドームシティ、文京シビックセンター、小石川後楽園は用途が大きく異なりますが、江戸時代の大区画と地形の上に成立しています。近代化で建物が一新されても、土地の骨格は完全には消えていません。
現在に残る江戸の痕跡
小石川後楽園、傳通院、寺院群、坂道、礫川の地名は現在も確認できます。春日・後楽園から小石川へ歩くと、低地から台地へ急に上る地形があり、切絵図に描かれた街区の違いを現地でも感じられます。
関連する古地図:本郷湯島絵図では本郷・湯島を、小日向絵図では小石川西側の神田上水・小日向台を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

