内藤新宿千駄ヶ谷絵図を徹底解説|内藤新宿・新宿御苑・千駄ヶ谷を古地図で読む

文久2年(1862)の「内藤新宿千駄ヶ谷絵図」は、現在の新宿御苑、新宿一~四丁目、千駄ヶ谷、四谷方面を描く尾張屋版江戸切絵図です。甲州街道の宿場・内藤新宿と、その周囲の大名屋敷、寺社、農地が一枚に収まり、江戸西郊が巨大繁華街へ変わる前の姿を読み解けます。

内藤新宿千駄ヶ谷絵図の基本情報

国立国会図書館所蔵本は尾張屋清七刊、文久2年(1862)の資料です。尾張屋版江戸切絵図の中では比較的遅い時期に加わった図で、江戸中心部から西へ離れた内藤新宿・千駄ヶ谷を描きます。新宿区によると、内藤新宿は元禄12年(1699)に甲州街道の新しい宿場として営業を始めました。

尾張屋版江戸切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷絵図」
『内藤新宿千駄ヶ谷絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――甲州街道を軸にする

この図では、甲州街道を探すと地域の骨格がつかめます。日本橋から西へ延びる甲州街道は、四谷大木戸を抜けて内藤新宿へ入り、さらに高井戸・府中・甲府方面へ続きました。街道沿いの町人地と、その周囲の武家地・農地を見比べると宿場町の性格がわかります。

現在の新宿通り、新宿御苑、千駄ヶ谷駅周辺を手掛かりにすると、古地図との位置関係を重ねやすくなります。

内藤新宿はなぜ作られたのか

甲州街道では、日本橋から最初の宿場だった高井戸までの距離が長く、旅人に不便でした。新宿区によると、名主高松喜六らが宿場設置を願い出て、内藤氏が返上した屋敷地を利用して新しい宿場が設けられました。「内藤新宿」という名は、内藤氏の土地に置かれた新しい宿に由来します。

元禄11年(1698)に開設が認められ、翌年に営業を開始しました。享保3年(1718)に一度廃止されますが、明和9年(1772)に再開されました。

宿場町のにぎわい

内藤新宿ないとうしんじゅくには旅籠、茶屋、商店が並び、江戸西郊の交通拠点として発展しました。新宿区のまちづくり資料では、内藤新宿の設置後、甲州街道と青梅街道が分かれる追分周辺ににぎわいが生まれたと説明されています。

文久元年(1861)には火災で旅籠の半数以上が焼失しました。切絵図が刊行された1862年は、その翌年です。幕末の宿場町が火災と再建を経験していた時期にあたります。

内藤家屋敷から新宿御苑へ

現在の新宿御苑一帯には、江戸時代に信濃高遠藩内藤家の屋敷地がありました。内藤新宿の地名もこの内藤家と結びつきます。明治以降、土地は農業試験場や皇室庭園として整備され、戦後に国民公園として公開されました。

現在の新宿御苑の広大な緑地は、江戸時代の大規模屋敷地が近代に別用途へ転用された結果でもあります。切絵図で屋敷地の広さを見ると、現在の公園規模との連続性がわかります。

千駄ヶ谷――農地と武家地が広がる郊外

千駄ヶ谷せんだがやは内藤新宿の北東に広がり、江戸時代には農地や大名下屋敷が多い地域でした。渋谷区の史料年表には、弘化2年(1845)に千駄ヶ谷八幡社が再建されたことなどが記されています。

現在の国立競技場、東京体育館、千駄ヶ谷駅周辺は高密度な都市空間ですが、幕末の切絵図では江戸郊外の色が濃く残ります。

四谷大木戸と玉川上水

内藤新宿の東側にある四谷大木戸よつやおおきどは、江戸府内の西側の出入口でした。近くには玉川上水が流れ、江戸市中へ水を供給しました。甲州街道、木戸、上水が重なるこの場所は、都市の境界と交通・生活インフラが集中する地点です。

明治以降――宿場から鉄道都市へ

1885年に新宿駅が開業すると、街の重心は旧宿場から鉄道駅周辺へ移ります。中央線などの鉄道網が整備され、関東大震災後には東京西部への人口移動も加速しました。宿場町だった新宿は、昭和に入ると巨大な交通・商業拠点へ成長します。

一方、新宿御苑、寺社、旧甲州街道の道筋には江戸の地理が残ります。街が大きく変わったからこそ、切絵図と現代地図の比較が際立つ地域です。

現在につながる地名と道

新宿、内藤町、千駄ヶ谷、四谷という地名は現在も使われています。新宿通りの東西軸や新宿御苑の広い敷地も、江戸時代の街道と屋敷地を理解する目印です。

関連する古地図:四ツ谷絵図では四谷大木戸から江戸中心部へ、大久保絵図では北側の百人町・大久保方面を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料