嘉永5年(1852)の「深川絵図」には、隅田川東岸の深川、門前仲町、木場、清澄、佐賀町周辺が描かれています。江戸初期には湿地や水辺が広がった地域が、埋立と運河開削によって物流・寺社参詣・材木商業の拠点へ変わった姿を一枚で確認できます。
深川絵図の基本情報
「深川絵図」は尾張屋清七が刊行した江戸切絵図の一枚です。国立国会図書館デジタルコレクション所蔵資料のDOIは10.11501/1286680で、CODH「江戸マップ」では1852年の図として整理されています。CODHはこの一枚から586地点を翻刻し、寺社、町村字、屋敷地、施設、川・堀などに分類しています。
現在の江東区西部を中心に、隅田川、小名木川、仙台堀川、大横川などの水路と、その間に形成された町場、寺社、武家地、材木関連施設が描かれます。古地図には縮尺や方位の歪みがあるため、現代の道路や街区と一対一で重ねるより、水路・橋・大きな寺社・町名を手掛かりに位置関係を追うと読みやすくなります。

地図全体をどう読むか――水路・町人地・武家地・寺社
深川絵図では、青く描かれた川と堀が地域の骨格です。江東区の歴史資料でも、深川は江戸時代の埋立と河川・運河の整備によって発展した地域として説明されています。道路だけでなく水路を交通網として読むと、町の配置と施設の立地がつながります。
材木、米、薪炭など大量の物資は船で運ばれ、河岸や堀沿いに商業・倉庫機能が集まりました。地図には「木置場」「御舟蔵」「御籾蔵」「猿江御材木蔵」といった用途の明確な施設名があり、その周囲には町人地や武家屋敷が並びます。深川の水路は江戸の巨大消費都市を支える物流インフラでした。
寺社の大きな境内、細長く続く町地、名前を記した武家屋敷、堀に面した施設を見分けると、土地利用の違いも追えます。深川は一種類の街区が広がる地域ではなく、参詣地、町場、幕府施設、武家地、材木集積地が水路を介して隣り合う都市でした。
富岡八幡宮・永代寺と門前仲町を読む
地図南西部の大きな寺社地には「富ヶ丘 八幡宮」(CODH 14-417)と「大栄山 金剛神院永代寺」(14-413)が並びます。現在の富岡八幡宮は寛永4年(1627)、当時の永代島に創建され、周囲の埋立とともに門前が発展しました。
八幡宮と永代寺の周囲には「永代寺門前町」(14-403、414、415、418)、「永代寺門前山本町」(14-406、407)、「永代寺門前仲町」(14-408)、「永代寺門前東町」(14-419)、「永代寺門前東仲町」(14-420)が連続して記されています。寺社の門前に複数の町名が密集しているため、参詣者を迎える町場が境内の外側へ広がっていたことを地図上で追えます。現在の「門前仲町」という地名も、この門前町の歴史を引き継いでいます。
地図では、八幡宮と永代寺の大きな区画、その周囲を取り巻く門前町、さらに東側へ続く町地を一度に確認できます。境内だけを見るより、門前仲町・山本町・東町・東仲町まで視線を広げると、寺社参詣が周辺の市街地形成と結びついていたことが具体的に分かります。
八幡宮の祭礼は江戸を代表する祭りとなり、文化4年(1807)には祭礼に向かう群衆で永代橋が崩落する大事故が起きました。現在の祭礼と御鎮座400年については、富岡八幡宮400年と2027年の一の宮神輿で詳しく紹介しています。
永代橋・佐賀町――隅田川沿岸の町と物流
隅田川側では「永代橋」(14-483)が対岸との重要な接点です。橋の東側から北へ目を移すと「佐賀町」(14-296、297、300~302など)、「材木町」(14-312、313)などの町名が見えます。さらに内側には堀や町地が続き、川岸で受けた人や物が市街地へ入っていく経路を想像しやすい配置です。
現在の福住周辺にあたる一帯には、江戸時代に網打場、石置場、材木置場などが置かれ、しだいに町場が形成されました。佐賀町という地名も現在まで残ります。深川絵図の隅田川沿岸は、橋で日本橋側と結ばれ、川岸と堀割を介して物資を受け渡す地域として読むことができます。
六間堀・万年橋・新大橋と芭蕉庵古跡
地図北西部では「六間堀」(14-031)と、その沿岸の「六間堀町」(14-020)、「北六間堀町」(14-023、039)、「南六間堀町」(14-040、041、044)が確認できます。堀の名が町名にも使われており、水路が地域の目印と生活圏の骨格になっていたことが分かります。
隅田川には「新大橋」(14-027)、小名木川の河口近くには「万年橋」(14-028~030)が記されます。その近くの松平遠江守屋敷には「芭蕉庵ノ古跡中庭ニ有」(14-026)という注記があります。これは1852年の切絵図が、当時の屋敷配置だけでなく、松尾芭蕉に結びつく旧跡も地図情報として記録していた例です。

現在も江東区には六間堀跡、旧万年橋跡、旧新大橋跡、芭蕉に関する史跡が残ります。切絵図の表記と現在の史跡案内を合わせると、埋め立てられた水路も含めて江戸の水辺の位置関係をたどれます。
御舟蔵・御籾蔵――幕府施設が並ぶ水辺
六間堀周辺の拡大図では「御舟蔵」(14-003、14-181)と「御籾蔵」(14-024)にも注目できます。御舟蔵の近くには「御舟蔵前町」(14-013、018)や「御舟蔵御番人」(14-017、019)が記され、施設とその管理に関わる土地がまとまって配置されています。
御籾蔵は北六間堀町に近く、松平遠江守屋敷や万年橋、新大橋も同じ一帯に描かれます。水路・橋・幕府施設・武家屋敷・町地が短い距離に集まるため、深川の北西部が行政・物流・居住の機能を重ねた地域だったことを読み取れます。現在の新大橋一帯には御船蔵跡、常盤一帯には深川御籾蔵跡が史跡として記録されています。
猿江御材木蔵と木置場――材木を水路で扱う
地図東側には「猿江御材木蔵」(14-136)が大きく記され、その周囲を猿江町、武家屋敷、寺社、水路が取り囲みます。江東区には現在も猿江御材木蔵跡が史跡として登録されており、切絵図に描かれた幕府の材木管理施設の位置を現在の街の中で確認できます。

さらに東・南東側には「木置場」(14-150、152~154)が複数まとまって現れます。地図の別の場所にも木置場表記が連続し、材木の保管用地が広い範囲に分散していたことが分かります。江東区の資料では、江戸市中に近く、水運に便利で、大火の危険を避けやすい土地として深川方面が材木置場に選ばれ、元禄14年(1701)に現在の木場周辺へ移された経緯が紹介されています。

木場は材木の貯木・取引を行う地域として発展しました。火災が多い江戸では再建のたびに大量の材木が必要で、隅田川から運河へ材木を運び込み、市中へ供給する木場は都市の建設と復興を支えました。貯木機能は昭和後期に新木場へ移り、江東区の資料では昭和57年(1982)までに移転が完了したとされています。
小名木川と堀割・橋梁網――舟運でつながる深川
深川絵図には「小名木川」(14-177)が東西方向の大きな水路として描かれ、その周辺に多くの橋と町地が並びます。小名木川は江戸と関東内陸を結ぶ物資輸送上の重要な水路として整備されました。さらに地域内部には六間堀をはじめとする細かな堀が入り、橋を介して陸路と水路が交差します。
この網目状の水路を追うと、木置場や御舟蔵、御籾蔵、町地が水辺に接する配置が繰り返し現れます。大量物資を舟で運び、堀沿いで保管・荷揚げし、町場へ渡すという物流の仕組みが、地図上の施設配置として残っています。
武家屋敷と町人地が隣り合う土地利用
深川絵図では町名だけでなく、藩主や旗本などの名を記した武家屋敷が各所に描かれます。猿江御材木蔵の周辺には松平市正、土井大炊頭、山名靱負、九鬼式部少輔、土岐信濃守などの屋敷表記があり、材木関連施設と武家地が隣接しています。隅田川寄りの佐賀町・材木町周辺にも町人地と屋敷地が入り組みます。

富岡八幡宮の北側には「富岡町」(14-341)と武家屋敷、御賄方、木置場などが近接して記されています。寺社門前、町人地、武家地、幕府関係施設、材木置場が同じ水路網の中で接している点が、深川の土地利用の特徴です。
深川の町は埋立で広がった
深川は江戸初期から海や湿地を埋め立てて市街地を拡張しました。江東区の資料では、明暦3年(1657)の大火後に幕府が江戸の市街地を再編し、埋立開発の進んだ深川へ武家屋敷や社寺を移したことが説明されています。正徳期には市街地に編入され、隅田川東岸の都市化が進みました。
運河の開削と造成が並行して進んだため、地図では直線的な堀と街区が目立ちます。水路を残しながら陸地を増やした開発によって、船で物資を運べる市街地が形成されました。深川絵図に残る堀割と橋の密度は、その都市構造をよく伝えています。
江戸の遊興と食文化
深川は富岡八幡宮や不動堂への参詣、料理屋、芸者などでも知られるようになりました。水辺の景観と船遊びが都市の娯楽に結びつき、物流の町である一方で行楽地としても発展しました。
現在も「深川めし」など地域名を冠した食文化が知られます。江戸湾に近く、漁業や水産物と結びついた土地柄は、埋立が進んだ後にも地域文化として残りました。
幕末の地図から明治以降・現在へ
明治以降は工業化と市街化が進み、江戸時代の堀の多くが埋め立てられました。一方で大横川、仙台堀川、小名木川などは現在も水路や親水空間として残り、旧河川跡が道路や公園になった場所もあります。六間堀跡のように、地表から水面が消えても史跡名として位置を確認できる場所があります。
木場の貯木機能は20世紀後半に新木場へ移転し、旧木場は木場公園などへ姿を変えました。富岡八幡宮は現在も同地にあり、永代寺跡、御船蔵跡、深川御籾蔵跡、猿江御材木蔵跡、旧万年橋跡、六間堀跡などが江東区の史跡一覧に残ります。町名でも佐賀、富岡、木場、深川などが受け継がれています。
明治期との比較は明治五千分一東京図を徹底解説②|日本橋・本所・深川、大正期との比較は大正東京・深川区を古地図で徹底解説|門前仲町・木場・清澄で続けて読めます。
現在の街でたどれる痕跡
古地図を持って現在の深川を歩くなら、富岡八幡宮と門前仲町、永代橋と佐賀町、常盤・新大橋周辺の六間堀跡や芭蕉関連史跡、木場公園、猿江御材木蔵跡を結ぶと、地図上の主要な機能を追えます。橋や寺社のように現在も目印になる場所と、堀や蔵のように跡地だけが残る場所を組み合わせると、1852年の土地利用と現在の街路の違いが分かりやすくなります。
CODHの現代位置合わせ地図は古地図と現在地を比較する補助になります。ただし、CODHも古地図の歪みが大きい場合は重ね合わせが不正確になると説明しています。現地では一点の座標を厳密に合わせるより、川、橋、寺社、町名など複数の手掛かりで範囲を確かめるのが適しています。
関連する古地図:本所絵図では隅田川東岸の北側を、隅田川向島絵図ではさらに北の郊外と行楽地を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。
