深川絵図を徹底解説|富岡八幡宮・木場・門前仲町を古地図で読む

嘉永5年(1852)の「深川絵図」には、隅田川東岸の深川、門前仲町、木場、清澄、佐賀町周辺が描かれています。江戸初期には湿地や水辺が広がった地域が、埋立と運河開削によって物流・寺社参詣・材木商業の拠点へ変わった姿を一枚で確認できます。

深川絵図の基本情報

尾張屋清七刊行の江戸切絵図で、国立国会図書館所蔵本は1852年の資料です。現在の江東区西部を中心に、隅田川、仙台堀川、大横川などの水路と、その間に形成された町場、寺社、武家地が描かれます。

尾張屋版江戸切絵図「深川絵図」
『深川絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――運河の網を最初に追う

深川絵図では、青く描かれた川と堀が地域の骨格です。江東区の歴史資料でも、深川は江戸時代の埋立と河川・運河の整備によって発展した地域として説明されています。道路だけでなく水路を交通網として読むと、町の配置が理解しやすくなります。

材木、米、薪炭など大量の物資は船で運ばれ、河岸や堀沿いに商業・倉庫機能が集まりました。深川の水路は景観ではなく、江戸の巨大消費都市を支える物流インフラでした。

富岡八幡宮と門前仲町

富岡八幡宮とみおかはちまんぐうは寛永4年(1627)、当時の永代島に創建されました。周囲の埋立が進むと参詣者が集まり、門前町が発達します。現在の門前仲町という地名と繁華街の起点の一つです。

八幡宮の祭礼は江戸を代表する祭りとなり、文化4年(1807)には祭礼に向かう群衆で永代橋が崩落する大事故も起きました。深川の繁栄は、水辺の寺社参詣と江戸中心部を結ぶ橋・船交通の発達と深く結びついています。現在の祭礼と御鎮座400年については、富岡八幡宮400年と2027年の一の宮神輿で詳しく紹介しています。

木場――江戸の建築を支えた材木集積地

木場きばは材木の貯木・取引を行う地域として発展しました。江東区の資料では、元禄期に市中の材木置場が深川方面へ移され、水運に便利で人口の少ない土地が材木集積に利用されたことが紹介されています。

火災が多い江戸では再建のたびに大量の材木が必要でした。隅田川から運河へ材木を運び込み、市中へ供給する木場は都市復興を支える重要施設です。現在の木場公園周辺にも地名が残り、後に貯木場は新木場へ移りました。

深川の町は埋立で広がった

深川は江戸初期から海や湿地を埋め立てて市街地を拡張しました。運河を掘った土を造成に利用し、水路を残しながら陸地を増やす開発が進みます。そのため、地図では直線的な堀と街区が目立ちます。

本所と深川は明暦の大火後に江戸市街の東方拡張を受け入れる地域となり、武家屋敷、寺社、町人地が増えました。江戸中心部の人口と機能を東岸へ分散する都市政策が、この地域の形成に大きく作用しました。

江戸の遊興と食文化

深川は富岡八幡宮や不動堂への参詣、料理屋、芸者などでも知られるようになります。水辺の景観と船遊びが都市の娯楽に結びつき、物流の町である一方で行楽地としても発展しました。

現在も「深川めし」など地域名を冠した食文化が知られます。江戸湾に近く漁業や水産物と結びついた土地柄は、埋立が進んだ後にも地域文化として残りました。

明治から現在へ――水路が道路と公園へ変わる

近代以降、工業化や市街化が進み、多くの堀が埋め立てられました。一方で大横川、仙台堀川などは水辺や親水空間として残り、旧河川跡が道路や公園になった場所もあります。木場の貯木機能は20世紀後半に新木場へ移転しました。

富岡八幡宮、門前仲町、清澄、木場という地名を古地図で結ぶと、寺社・水運・材木という江戸の機能が現在の街の配置に重なります。

関連する古地図:本所絵図では隅田川東岸の北側を、隅田川向島絵図ではさらに北の郊外と行楽地を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料