大正東京15区を古地図で読む|番地界入東京市拾五区区分図 完全ガイド

大正時代の東京は、現在の23区とは異なり、中心市街地を15の区で構成していました。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川です。この15区を一枚ずつ詳細に描いた古地図が「番地界入東京市拾五区区分図」です。

このシリーズでは、15区の地図を一枚ずつ読み、町割り、道路、鉄道、河川・運河、寺社、学校、官庁、軍施設、工場、住宅地などから、大正東京の姿を解説します。各区の記事は単独でも読めますが、15区を横断すると「東京という都市がどのように役割分担していたか」が見えてきます。なお、現在確認できる15枚は同一年に作られた一括セットではなく、大正6年(1917)から大正13年(1924)までの各区図が含まれます。区ごとの版年を確認して読むことが重要です。

大正期の東京15区の位置関係

東京15区は1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行に伴って設置されました。下の図は、その15区の位置関係を示した実在の区分図です。

1878年に設置された東京15区の位置関係を示す地図
1878年(明治11年)に設置された東京15区。出典:Wikimedia Commons「東京15区1878年.png」/作成者 Beagle/CC BY-SA 3.0。

大正東京15区の地図を一覧で見る

下の15枚は、本シリーズで使用している「番地界入東京市拾五区区分図」の各区図です。区ごとの形や水路、街区の密度を並べて見ると、大正期の東京市が地域ごとに異なる性格を持っていたことが分かります。各地図をクリックすると、それぞれの徹底解説記事へ移動できます。

大正期の東京市麹町区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
麹町区
大正期の東京市神田区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
神田区
大正期の東京市日本橋区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
日本橋区
大正期の東京市京橋区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
京橋区
大正期の東京市芝区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
芝区
大正期の東京市麻布区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
麻布区
大正期の東京市赤坂区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
赤坂区
大正期の東京市四谷区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
四谷区
大正期の東京市牛込区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
牛込区
大正期の東京市小石川区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
小石川区
大正期の東京市本郷区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
本郷区
大正期の東京市下谷区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
下谷区
大正期の東京市浅草区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
浅草区
大正期の東京市本所区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
本所区
大正期の東京市深川区を描いた番地界入東京市拾五区区分図
深川区

出典:公益財団法人特別区協議会「番地界入東京市拾五区区分図」各区図(CC BY 4.0)。

大正東京の「15区」とは

1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって、東京府の中心市街地に15区が置かれました。1889年(明治22年)に東京市が成立すると、この15区が東京市を構成します。1932年(昭和7年)には周辺町村の編入によって35区へ拡大し、1947年(昭和22年)に整理統合されて現在の23区の原型が生まれました。

したがって、大正期の15区地図は「現在の東京23区全体」を描くものではありません。当時の都市化された東京の中心部を詳細に記録した地図です。新宿駅の西側、渋谷、池袋など、現在の副都心の多くはまだ東京市15区の外側でした。この違いを理解すると、大正から昭和にかけて東京がどれほど拡大したかが分かります。

「番地界入東京市拾五区区分図」は何が分かる地図か

公益財団法人特別区協議会によれば、この地図は明治時代後期の東京市の町名・番地を反映し、東京市逓信局ていしんきょくが作成したものです。区の全体像と街区・番地の両方を確認でき、道路や鉄道だけでなく、河川・運河、町名、番地、官公署、学校、寺社、軍施設、大規模な邸宅や工場などが描かれています。大正期の「土地が何に使われていたか」を読み取るうえで、文字だけでなく区画の大きさや水路・鉄道との位置関係まで手掛かりになります。

地図を見るときの5つのポイント

  • 大きな空白・大区画:皇居、軍施設、学校、庭園、工場などを探します。
  • 細かな街区:商店、住宅、職人町などが密集した地域です。
  • 川・運河:日本橋、京橋、本所、深川では道路と同じくらい重要な交通網でした。
  • 鉄道と駅:東京駅、上野駅、新橋、両国など、駅の開業が街の中心を変えました。
  • 現在と同じ道路・地名:100年以上前の街の骨格が現在まで残っている場所を探します。

凡例を読めるようになると地図の情報量が一気に増える

番地界入東京市拾五区区分図の凡例と備考
「番地界入東京市拾五区区分図」の凡例と備考。官公署、郵便・電信・電話、警察、寺社、学校、銀行、病院、工場、行政境界、道路、鉄道・軌道、河川・橋、崖・堤、草地・林・田畑・宅地などを読み分けるための共通凡例です。

凡例は15区に共通して使えます。記号では官庁・公署、郵便局、電信局、電話局、公衆電話、警察署・派出所、区役所・町村役場、神社、寺院、墓地、学校、会社、銀行、病院、官営・民営工場などを区別しています。線の種類では市区界・町界・番地界、道路、鉄道、軌道、駅・停留場、河川・渡船場、橋・溝、石垣・崖・堤を示し、色や模様では草地、樹木地、田畑、宅地などの土地利用を読み取れます。

右側の「備考」を現在の言葉に直すと、①地図は北を上にして行政区ごとに分割しており、郵便区域として使う場合は必要に応じて隣接図をつなぐ、②町名・番地は図中だけでなく余白の索引にも示し、縦横のグリッドで位置を探せる、③グリッド番号は別に作られた東京市・近郊の総図と対応させ、相互に照合しやすくしている、という説明です。つまりこの地図は観賞用ではなく、住所・官公署・交通・土地利用を実務的に探すための都市地図として設計されていました。

15区は同じ性格の街ではなかった

15区を並べると、東京の都市機能が地域ごとに分かれていたことが分かります。麹町には皇居、霞が関の官庁、軍中央機関、東京駅、丸の内の業務地区が集まりました。日本橋では兜町の銀行・証券と江戸以来の商業が結び付き、京橋では銀座の商業、築地の宗教・国際交流、湾岸・水運の機能が重なりました。

神田と本郷は、ともに教育・出版の集積地ですが性格が異なります。神田には私学、書店、出版、神保町の古書業が集まり、本郷では東京帝国大学と医学・学術研究が大きな核となりました。下谷の上野には博物館、美術・音楽教育、上野駅が集まり、その東側の浅草では浅草寺と浅草六区を中心に民間の大衆娯楽が発達しました。

本所と深川も一括して「工業地帯」と見るだけでは違いを見落とします。本所では住宅地の中へ工場が入り込み、鉄道と運河が工業化を支えました。深川では小名木川や大横川などの水路、木場の貯木場、河岸・倉庫が工場と結び付き、木材、セメント、製粉、製綱、都市ガスなどの産業を支えました。

軍事機能も一か所には集中していません。麹町の中央官庁・軍中央機関、小石川の東京砲兵工廠ほうへいこうしょう、赤坂・麻布・牛込などの軍用地、本所の軍需施設、深川越中島えっちゅうじま陸軍糧秣廠りくぐんりょうまつしょうなどが市内各地に分散していました。15区を横断すると、行政、兵営、兵器、被服、食糧など、軍を支える機能が都市の中に組み込まれていたことが分かります。

実業家の活動も区境を越えています。渋沢栄一は日本橋・兜町の金融界だけでなく、深川の倉庫・印刷事業とも関係しました。岩崎家は丸の内の業務地区形成に関わる一方、深川には現在の清澄庭園につながる大規模な別邸を持ちました。都心の金融・業務地区と東部の工業・物流地区は、企業や実業家の活動を通じても結ばれていました。

高精細地図で確認できる15区の注目表記

掲載している15区図について、元の高精細画像を拡大して文字と区画を確認すると、現在の地図では見えない都市機能が具体的な施設名として現れます。以下では、一般的な町名や通常の施設は除き、「なぜここにあるのか」「現在の街とどう違うのか」を説明できる表記を中心に紹介します。なお、地図上の名称は刊行日の行政・組織名称と必ずしも一致しません。改称・廃止後の旧称が残る例があるため、地図の文字と施設史を突き合わせて読む必要があります。

麹町区|震災直前の東京外国語学校と、廃止後も残る馬政局

1923年5月1日刊行の麹町こうじまち区図には、東京外国語学校、馬政局ばせいきょく、中央気象台、三菱本社・三菱銀行・三菱鑛業・三菱造船などが確認できます。東京外国語学校は1921年に麹町の新校舎へ移りましたが、この地図の刊行から約4か月後、関東大震災で校舎を失いました。一方、馬政局は馬の改良・繁殖などを扱った機関で、1923年3月に廃止されています。5月刊行図に名称が残ることからも、地図の施設名には更新の時間差があることが分かります。丸の内では三菱系各社が近接して表示され、現在の業務地区へつながる企業集積も読み取れます。

神田区|学校街と近代医学・衛生研究の街

1920年の神田区図では、日本大学をはじめ複数の学校が密集し、東京衛生試験所などの研究・衛生施設も見えます。日本大学はこの年、大学令による大学設置が認可され、三崎町の新校舎も完成しましたが、1923年の震災で全壊しました。学校名が多数並ぶ一方で、秋葉原周辺には鉄道貨物・物流用地も広がり、神田が学生街だけでなく交通・物流・研究機能を併せ持つ地区だったことが分かります。

日本橋区|日本銀行と東京株式取引所が示す金融都市

日本橋区図では、日本銀行と東京株式取引所を中心に金融関係施設が集中します。日本銀行本店の敷地は江戸時代の金座跡で、貨幣を扱った土地が近代の中央銀行へ受け継がれました。兜町かぶとちょうの東京株式取引所は現在の東京証券取引所の前身です。さらに河岸・堀割・倉庫が水路沿いに並び、金融・商業と水運物流が近接していた日本橋の構造を一枚で確認できます。

京橋区|築地の海軍施設と月島の工場地帯

京橋区図には、現在は埋め立てられた三十間堀さんじっけんぼりの水路、築地の水路部、海軍大学校・海軍軍医学校などが記されています。水路部は海図作製や水路測量を担った機関で、1910年に築地海軍用地へ移転しました。月島方面には石井鐵工所、巴組鐵工所、新潟鐵工所などの工場名が並びます。現在の住宅・高層建築が多い湾岸部が、水運を利用する工業地帯だったことがよく分かる区図です。

芝区|大学昇格前の慈恵と、港湾・鉄道へ続く市街地

芝区図は1917年10月20日刊行です。図中の東京慈恵会関係施設は、東京慈恵会医科大学への昇格が認可される1921年より前の姿を示します。愛宕・芝公園周辺の医療・教育施設から、新橋・芝浦方面の鉄道・港湾・工業用地へ土地利用が変化し、同じ芝区内でも性格が大きく異なっていました。

麻布区|移転年の東京天文台と巨大邸宅

1924年9月20日刊行の麻布区図では、東京天文臺とうきょうてんもんだいや三井邸・住友邸などの大規模な邸宅区画が目立ちます。東京天文台は1888年に麻布飯倉町へ設置され、経緯度・暦・時刻の決定などを担いましたが、1924年に三鷹への移転を完了しました。つまりこの区図は、東京天文台が麻布を離れる年の都市像を記録しています。

赤坂区|乃木神社の造営前と青山の軍用地

赤坂区図は1921年9月15日刊行です。乃木神社は1919年に設立許可を受けましたが、鎮座祭は1923年11月1日で、この地図は社殿完成前の段階を記録します。青山には射的場などの軍用地もあり、現在の赤坂・青山の住宅・商業・文化地区とは異なる土地利用が確認できます。宮家・華族・政治家などの大邸宅が大きな区画を占めることも、この地域の特徴です。

四谷区|開院直後の慶應医学部と新宿御苑周辺の大区画

四谷区図は1922年12月20日刊行です。信濃町では慶應義塾大学医学部と大学病院が確認でき、同病院は1920年11月に開院したばかりでした。新宿御苑周辺には大規模な邸宅や軍用地も残り、現在の市街地へ細分化される前の土地利用が見えます。

牛込区|現在のDNPにつながる二つの印刷会社

1922年8月1日刊行の牛込うしごめ区図では、秀英舎分舎と日清印刷会社が別々に記されています。秀英舎は1886年に市谷加賀町へ工場を開設し、日清印刷は1907年に榎町で創業しました。両社は1935年に合併して大日本印刷となるため、この地図では将来一社になる二つの会社を同時に見ることができます。河田町の東京女子医学専門学校も、現在の東京女子医科大学へ続く医学教育の拠点です。

小石川区|旧称が残る東京砲兵工廠

小石川区図は1924年9月20日刊行ですが、図中には東京砲兵工廠ほうへいこうしょうの名称が見えます。砲兵工廠は兵器・弾薬などを製造した陸軍の大工場で、1923年の制度改編で陸軍造兵廠へ改称されました。刊行時点より古い名称が残る例であり、地図の文字をそのまま「その日の正式名称」とみなせないことを示します。現在の東京ドーム周辺に巨大な軍需工場があったこと自体も、現在との大きな違いです。

本郷区|東京帝国大学と創設期の理化学研究所

1922年1月10日刊行の本郷区図では、東京帝国大学に加えて理化学研究所などの学術施設が確認できます。理化学研究所は1917年に駒込で創設され、1922年には主任研究員が研究室を主宰する研究室制度が始まりました。大学・医学・研究機関と大規模邸宅が近接し、本郷・駒込一帯が近代日本の学術拠点として形成されていたことが分かります。

下谷したや区|現在のTOPPAN創業地と上野の文化施設

下谷区図では、凸版会社のほか、東京美術学校・東京音楽学校、帝室博物館などが確認できます。TOPPANの前身である凸版印刷合資会社は1900年、下谷二長町したやにちょうまち1番地で創立されました。一方、上野では現在の東京藝術大学につながる美術・音楽学校や博物館が集まり、工業・出版と国立文化施設が近い距離に共存していました。

浅草区|震災前の「蔵前の東工大」と浅草六区

浅草区図は1917年11月1日刊行です。蔵前には東京高等工業学校があり、これは東京工業大学を経て現在の東京科学大学へ続く学校です。1923年の関東大震災で蔵前校地は焼失し、1924年に大岡山へ移転しました。浅草六区では電気館をはじめ多くの劇場・映画館名が密集し、浅草が近代東京を代表する大衆娯楽地区だったことが文字の密度からも分かります。

本所区|時計・鉄道車両などの工場が集まる工業都市

1921年12月20日改訂第二版の本所区図には、精工舎や汽車製造会社などの工場が見えます。精工舎は1892年に本所区で時計製造を始め、1913年には国産初の腕時計「ローレル」を発売しました。住宅地の近くに機械・時計・鉄道車両などの工場が入り込み、鉄道と運河がその生産を支える本所の工業都市としての性格が表れています。

深川区|運河沿いの製粉・倉庫と陸軍の食糧補給

深川区図では、日本製粉、澁澤倉庫しぶさわそうこ、セメント・製綱・木材関係の工場や倉庫、越中島えっちゅうじま陸軍糧秣廠りくぐんりょうまつしょうなどが確認できます。日本製粉は1896年に設立され、扇橋で近代的なロール式製粉工場を稼働させました。澁澤倉庫も1897年に深川の澁澤邸内で倉庫部として始まっています。陸軍糧秣廠は軍用の食糧や飼料などを調達・貯蔵・補給する機関で、水運と倉庫が発達した深川の立地が軍需物流にも利用されていました。

大正東京15区の記事一覧と地図の版年

15区の地図は同じ年に作られたものではありません。各区の記事と、使用している地図の刊行日・版を、公益財団法人特別区協議会の資料に基づいて整理しました。最も古い芝区・浅草区は1917年、最も新しい麻布区・小石川区は1924年です。

地図の刊行日・版主な地域・記事
麹町区大正12年(1923)5月1日・第三版皇居・丸の内・霞が関・永田町
神田区大正9年(1920)1月15日・第二版神保町・御茶ノ水・秋葉原
日本橋区大正9年(1920)11月25日・第二版日本橋・兜町・人形町
京橋区大正8年(1919)12月15日・第二版銀座・築地・八丁堀
芝区大正6年(1917)10月20日・第二版新橋・芝公園・高輪
麻布区大正13年(1924)9月20日・第三版麻布・六本木・広尾
赤坂区大正10年(1921)9月15日・第二版赤坂・青山・乃木坂
四谷区大正11年(1922)12月20日・第二版四谷見附・内藤新宿・新宿御苑
牛込区大正11年(1922)8月1日・第二版神楽坂・早稲田・市谷
小石川区大正13年(1924)9月20日・第三版小石川・大塚・後楽園
本郷区大正11年(1922)1月10日・第二版東京帝国大学・湯島・本郷
下谷区大正10年(1921)9月15日・第二版上野・下谷・谷中
浅草区大正6年(1917)11月1日・第二版浅草寺・浅草六区・蔵前
本所区大正10年(1921)12月20日・改訂第二版両国・本所・錦糸町
深川区大正10年(1921)5月6日・第二版門前仲町・木場・清澄

関東大震災後に刊行されたのは麻布区と小石川区の2図です。ほかの13図は震災前のため、15区を同一時点の東京として単純に比較せず、刊行年の違いを踏まえて読む必要があります。

15区を現在の23区に置き換えると

大正期の区現在のおもな区
麹町・神田千代田区
日本橋・京橋中央区
芝・麻布・赤坂港区
四谷・牛込新宿区
小石川・本郷文京区
下谷・浅草台東区
本所墨田区
深川江東区

関東大震災の前後を意識して読む

15枚のうち、関東大震災後に刊行されたことを確認できるのは、麻布区と小石川区の大正13年(1924)9月20日第三版です。麹町区は大正12年(1923)5月1日第三版で、震災の約4か月前に刊行されました。さらに古い図として、芝区は大正6年(1917)10月20日、浅草区は同年11月1日、京橋区は大正8年(1919)、神田区・日本橋区は大正9年(1920)の版が使われています。

そのため、震災前13区と震災後2区を同一時点の東京として単純比較することはできません。むしろ刊行年の違いを意識すると、震災前の街路・水路・工場・施設配置と、震災後に改訂された麻布・小石川を分けて読めます。また、馬政局や東京砲兵工廠のように、刊行時点では廃止・改称済みの名称が図中に残る例もあり、版年は「掲載された全情報の調査日」を意味しない点にも注意が必要です。

江戸・明治・大正を重ねると東京の変化が見える

江戸切絵図では大名屋敷・寺社・町人地が見え、明治五千分一東京図では官庁・軍施設・学校・鉄道など近代国家の施設が現れます。そして大正の15区地図では、番地、市街地、交通、工業、教育、娯楽など成熟した近代東京の姿が見えてきます。同じ場所を三つの時代で追うことで、大名屋敷が官庁や学校になり、さらにオフィス街や公園へ変わるような土地の履歴を具体的に理解できます。

参考資料