野村治三郎家とは? 野辺地湊と北前船を支えた廻船問屋

青森県野辺地町の常夜燈

江戸時代の野辺地のへじは、陸奥湾から日本海・瀬戸内海・大坂へつながる北前船交易の港として栄えました。その中心にいた商家の一つが、廻船問屋・野村治三郎のむら じさぶろう家です。

野村家は江戸時代から明治中頃まで北前船を5艘前後所有し、自ら商品を売買する船主でもありました。1827年には夜の入港を助ける常夜燈を建て、港の安全にも資金を投じています。船を持つだけでなく、商取引と港のインフラを一体で支えた海運商家でした。

野村治三郎家とは――野辺地を代表する廻船問屋

野村治三郎のむら じさぶろうは、野辺地の豪商・野村家で代々受け継がれた当主名です。幕末から明治期には6代、7代、8代の治三郎が確認でき、商家としての活動は複数世代にまたがります。

野辺地町観光協会は、野村家を廻船問屋であり、江戸時代から明治中頃まで北前船を5艘前後所有し続けた北東北を代表する大船主と紹介しています。

東北各地の豪商を比較した記事は「東北の豪商たち――本間家はどれほど異例だったのか?」で紹介しています。

なぜ野辺地湊は盛岡藩有数の港になったのか

野辺地湊のへじみなとは陸奥湾に面し、南部領の物資を海へ送り出す港として発達しました。野辺地町は、延宝年間から明治初年にかけて地元豪商や北陸の船主の千石船が往来し、大坂、函館、日本海沿岸諸港と交易したと説明しています。

港の背後には、南部領で生産された農産物や海産物がありました。陸奥湾から津軽海峡を抜ければ、北海道方面へも日本海方面へも進めます。野辺地は北日本の商品を集め、遠隔地市場へ送り出す結節点になりました。

廻船問屋であり、北前船主でもあった

廻船問屋かいせんどんやは、港で船と荷物を扱う商人です。入港した船の積荷を預かり、倉庫や売買を手配し、荷主や船主との決済にも関わりました。

野村家の特徴は、その問屋機能に加えて自前の北前船を所有していたことです。他人の船を仲介するだけでなく、自ら船を出し、各港で商品を仕入れて売る商業活動まで行いました。

港の店、倉庫、信用取引と、海上を動く船を一つの商家が結びつけることで、野村家は野辺地の海運を広い範囲で担いました。

北前船5艘前後を持ち続けた大船主

野村治三郎のむら じさぶろう家は、江戸時代から明治中頃まで北前船を5艘前後継続して所有しました。

複数の大型船を運航するには、船体の建造と修理、船頭や水主の雇用、仕入れ資金、航海中の損失への備え、寄港地商人との信用関係が必要で、毎年大きな資本を動かす海運経営でした。

この規模が、野村家を北東北を代表する北前船主と位置づける理由の一つです。

野辺地から大豆と魚肥を積み出す

野村家など野辺地の北前船主は、港から大豆だいず魚肥ぎょひを積んで航海へ出ました。

魚肥は、魚を原料にした肥料です。江戸時代後期には綿や菜種などの商品作物を育てるため需要が高まり、北海道・東北と上方を結ぶ重要商品になりました。

北前船が運んだものは食料や衣料に限られません。農業生産を支える肥料そのものが、長距離交易の利益を生む商品でした。

松前でニシン肥料を買い、上方で売る

北前船きたまえぶねは野辺地を出たあと、寄港地ごとに商品を積み替えながら利益を重ねました。町の資料では、野辺地の船主が青森で米、松前でニシン魚肥を買い、兵庫や大坂などで販売したことが紹介されています。

北海道のニシンから作られた肥料は、上方や瀬戸内の農村で商品作物を育てるため使われました。北の海産物が西日本の農業を支え、その代金が再び北日本の商人へ戻る流れができていました。

帰りには木綿・古着・塩を買う

北前船は上方で積荷を売ったあと、木綿、古着、塩などを買い、北日本へ運びました。

野辺地では地元の商品を外へ出すと同時に、遠隔地の商品を町へ入れる流通も発達します。船の往復が続くほど、港には倉庫、荷役、仲買、金融、宿泊などの仕事が集まりました。

北前船の「買積商売」とは何か

買積商売かいづみしょうばいでは、船主が自分の資金で商品を仕入れ、別の港で値上がりしたところを売ります。運賃だけを受け取る輸送業より、相場を読み違えたときの損失は大きくなりますが、成功すれば価格差が船主の利益になります。

野辺地から大豆や魚肥を積み、途中で米やニシン肥料を買い、上方で売り、帰りに木綿や塩を仕入れる航海は、この買積商売の典型です。

酒田市日和山公園の北前船模型
酒田市・日和山公園の北前船模型(撮影:shikabane taro/Wikimedia Commons/CC BY 3.0)

北前船交易の基盤となった西廻り海運の整備については「河村瑞賢とは? 西廻り航路はなぜ酒田を巨大港に変えたのか」で詳しく紹介しています。

1827年、野村治三郎が常夜燈を建てる

文政10年(1827)、野村治三郎のむら じさぶろうは浜町に常夜燈じょうやとうを建立しました。夜間に航行する船が安全に野辺地湊へ出入りするための目印です。

石造りの常夜燈は現在も残り、町指定史跡となっています。野辺地町は、北前船の寄港地として栄えた歴史を伝える町のシンボルと位置づけています。

商人の投資先が自分の船や倉庫にとどまらず、港を利用する船全体の安全設備へ広がった例です。

野村家文書に残る各地の商人との取引

野村家文書のむらけもんじょには、仕切状や寄港地の商人との取引記録が残っています。

仕切状は、商品の数量、価格、代金、手数料などを精算する商取引文書です。船がどこへ行ったかという航海記録に加え、各地で何を売買し、誰と決済したかを追える点に価値があります。

野村家の北前船経営は、港町の伝承だけでなく、具体的な商取引の記録を伴って残されています。

客船帳から見る野辺地湊の繁栄

野辺地の船宿には、江戸時代から明治初期の入船を記した九星客船帳きゅうせいきゃくせんちょうが残っています。どの地域から船が来たのか、どんな物資が動いたのかを知る手がかりです。

蝦夷地、日本海沿岸、瀬戸内、大坂など広い地域から船が集まり、野辺地湊が北日本の一地方港を越えた商業ネットワークに組み込まれていたことが分かります。

酒田が最上川流域と日本海海運を結んだ仕組みは「なぜ酒田は栄えた? 最上川・北前船・紅花がつないだ山形」で詳しくたどっています。

6代治三郎と明治天皇の行在所

幕末から明治を生きた6代野村治三郎のむら じさぶろうは1828年生まれです。海運で財を築いた野村家の当主として、明治期には地域の公共事業や救済にも関わりました。

1876年の明治天皇巡幸では野村家の別邸が宿泊所となりました。現在残る旧野村家住宅離れは、1890年の野辺地大火で当初の建物が焼失した後、ほぼ同じ設計で再建された建物です。

国登録有形文化財となった建物は、北前船で蓄積した商家の資力が明治の野辺地にも続いていたことを伝えています。

北前船は野辺地へ文化も運んだ

北前船きたまえぶねは商品とともに文化も運びました。野辺地町では、上方から伝わった文化の影響が祭り、食文化、石造物などに残っています。

現在の「のへじ祇園まつり」には京都祇園祭の流れが指摘され、茶粥などにも上方との交流を思わせる文化が残ります。船は商人と商品とともに、習慣や技術も港から港へ運びました。

船主が港町そのものを支えた時代

野村治三郎のむら じさぶろう家の経営は、廻船問屋、北前船主、買積商人という三つの役割が重なっていました。自前の船で各地を巡り、商品の価格差を利益に変え、その資本を再び船と港へ投じます。

野辺地を出た船に大豆や魚肥を積み、松前でニシン肥料を買い、上方で売り、帰りには木綿や塩を運ぶ。航海の終わりには、野村家が建てた常夜燈が夜の港への目印になりました。野辺地湊の繁栄は、こうした商人と船の往復によって支えられていました。

主な参考資料

  • 野辺地町「町の概要」
  • 野辺地町「常夜燈(町指定史跡)公園」
  • 野辺地町観光協会「のへじ北前文化と日本遺産認定の町」
  • 青森県「旧野村家住宅離れ」
  • 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「野村治三郎」
  • 野辺地町 北前船・客船帳・野村家文書関連資料